Prologue
「――――――私は、おまえたちを羨んでいる。
求めても得られなかったもの。手に入れたというのに手に入らなかったもの。
どのような戒律をもってしても、指の隙間から零れ落ちた無数の澱。
その鬱積を、ここで帳消しにするのみだ」
何処までも、何もかも、壊れていた。
嫌悪すべきものを愛し、愛すべきものを愛すことが出来なかった。
それは、言峰綺礼という男が人間として破綻している故に起こる、誰からも理解される事のない哀れな彼自身の本性であった。
嗤い、嘲笑い、哂う。
一度として、言峰綺礼は"笑う"事をしなかった……否、笑う事が出来なかった。万人にとっての"笑う事"が、彼には理解できぬが故の空虚のみを残した。
それが運命、神を崇めた彼に与えられた、神からの理由なき宣告。
破綻者としての苦悩は、言わば己の存在に対しての苦悩。答えを見出した今となっても、己の本質には失笑を漏らさずにはいられない。
――火に焼かれ、嘆きながら死に絶えた人々を
――ただただ怨嗟を吐き続ける、生きる屍を
そんな者たちを、言峰綺礼は嗤う。
否定できぬ性、生まれながらに持った己の『悪』。
どれだけ追い求めようとも見つからなかったのは当然か、自身の存在自体が悪を愛する悪なのだから。
――故、濁りの無い純粋な悪に『善』を肯定できる道理はない。
常人の幸福は全て善に属するもの。悪が入り込む余地は何処にも存在しない。
誰からも理解されることなく、そして言峰綺礼を理解できる人間がこの先現れることは有り得ない。
――そして、その本質は言峰綺礼という存在を産んだ神にすらも変えることはできない。
永久に、彼に救いの手が差し伸べられる事はない。
或いは、彼と同じ破綻者ならば気休め程度にはなるやもしれないが。
後にも先にも、やはりそんな気休めすら彼には許されないのかもしれない。
気が付けば、己の体は地面に突っ伏していた。
どうやら、流石に酷使にも程があったようだ。霞む視界には荒んだ虚空しか映らず、それ以外は何も視認する事ができない。
刃で出来た体を拳で殴るなどと中々出来る経験ではないが、それも此処で終わりらしい。
息を呑む音が聞こえる。それは己の物か、己の敵の物か。否、何方もそのような事に意識を割く余力もない。
単純に時間の差だ。意地汚く生きる死に損ないとなったのが、此方が僅かに早かっただけのこと。
――口惜しい、とは言うまい。たった一つ残された"正しい"生き方の果てに死があると言うならば、その結末が間違った物である筈が無い。
己の存在、生き方を己が正しいと思うならば、それは等しく善である。今でもその考えが揺らぐ事は無いが、やはりそれは『天使より優れた者』にとっては容認できぬ悪なのだろう。
生まれながらに善しか知らぬ天使と違い、人間は生まれながらに善と悪の両極を兼ね備えている。
悪を知り、善の隣にそれを抱えながらも、善として振る舞い、生きる事ができる。
それが、尊き人間のあるべき姿なのだろう。
「―――っ、」
声すら出す事を許さない体を使い、僅かに吐き出された息で苦い笑みを表す。
なんと滑稽なことか。それでは、生まれながらに悪を抱え、それを容認してきた己は天使から嫌悪されるべき……否、必然的に嫌悪される存在ではないか。
そんな、幾度となく己の中で導き出してきた救いの無い結論を、この愚かな生の最後に刻みつけようと再び導き出す。
――ならば、己は――
ならば私は、悪を幸福とする醜き人間となろう。
そんな独りよがりの開き直りは、私自身の本質を知った時に形を成した物だ。
それも、今、此処で、終わる。
何も見えなくなる。感じなくなる。痛みも、光も、渦巻く悪意も、何も。
あれだけ職務放棄をしたというのに、最後の最後で監督者らしい事を言ったのが死期を早まらせる仇となったか。
――それにしても、
「――散々いためつけてくれたお礼だ。
容赦なく、あんたの願いを壊してくる」
「――恒久的、世界平和」
嗚呼、本当に、気に入らない親子だ。
そんな感傷を最後に、やがて意識すらも闇に墜ち――――
「―――君に興味がある。
狂おしい程にね」
狂いは、其処から始まった。
◆◇◆◇◆◇
―――死とは、自身に全く見覚えのない光景を見せられる事を指すのだろうか。
憎らしい程に澄み渡る晴天には、終焉の名残は欠片もない。
加えて言えば其処はどこぞの世界遺産の様な建築物が立ち並んでおり、歩く人々も獣の頭を持った者がいたりと到底信じられる光景ではない。
普段驚きを顕にしない綺礼ではあるが、この時ばかりは無様に口を開けていただろう。
―――有り得ない。
そう、有り得る話ではない。
確かに、綺礼は死んだのだ。仮にあの場で一命を取り留めたとしても、誰が己を助けたというのだ。
その上、助けられたと言うならば意識が覚醒するのは何処か屋内の筈。この様な人が蔓延る道のど真ん中であるはずがない。
転移?馬鹿な、それこそ魔法の域。それを行える者があの場の何処にいたと言うのだ。
何故、何故、何故?
渦巻く思考の波、額には嫌な汗が浮かぶ。
超常的な現象に己が直面した事、本来ならば新たに生を得た事に喜ぶべきなのだろうが――
そこまで考えて咄嗟に己の胸に手を当てる。
動く屍として生きてきた自身にはやはり心臓の鼓動など―――
「―――、」
己の存在を誇示するように、綺礼を嘲笑う様に、その鼓動は力強く響いていた。