コツコツ。コツコツ。
一定のリズムに従って二つの足音が、石壁に響く。
一つは清廉かつ剛実な足音。削っただけの石段を歩いているはず。それなのにまるで水面を歩くかのような音の中にもう一つ、コンクリートで固められた道を踏みしめるかのような音が聞こえるようだ。
もう一つの足音の主、ナツキ・スバルはクルシュ・カルステンの足音一つまでもが自分のものとは異質であることを理解した。スバルは、同じだけの長さを生きていながらのその差に、何もしてこなかった自分を嫌厭していた。
クルシュの身のこなしはもはや達人の域にあるが、それはこれまでの人生のほとんどを武術に注ぎ込んできたことを示している。上級貴族の嫡女であることを考えれば、やれることは何でもあっただろう。年頃の女子であれば花を嗜んだり、恋をしたりと忙しいはずだ。だが、クルシュにはそんな時間は少しもなかった。ひたすらに剣を振った。才能も時間も十分にあったのだろう。しかし、たとえ才能や時間があったとしても、何か一つのことを続けることは思いの外難しい。スバルには不可能と諦めたことだ。そんなクルシュが、スバルには眩しく見えてしまう。
ダメだな、とため息をつく。
今降りている石段は、スバルが二度も訪れた場所へと続いている。今回は手錠をされていないことが違う点か。向かう場所は王城からは離れた牢獄である。過去二回、同じ道を歩いているはずだが、どちらもぼーっとしていたせいで道を覚えていなかった。クルシュに聞いてみると、王城近くの牢獄はここしかないとのことだ。
「今度こそ、抜け出してやる」
不条理の中続く死のループ。
スバルはこの死のループに、終止符を打つつもりで来た。
クルシュに借りた黒いローブの中には、黒い装丁を施した本を隠している。
中身はただの本だが、カバーだけ取り外して新しいものを付け替えた。カバーはスバルのお手製だ。少しの時間さえあれば、この程度の手芸だったら造作もない。
幾度も続くだろう死のループ。
これを乗り越えるためには、当然スバルの生存が条件となってくるだろう。
自身の生存、であればスバルは難なくクリアできるはずだ。
賢人会の会合への介入、投獄という流れはすでに断ち切った。魔女教が牢獄を襲う以上、投獄されなければ死ぬ心配はない。
ならばこのままクルシュに匿われるなり、城下町で現代知識無双するなり、いくらでも道はある。
「でも、」
逃げようとは考えた。
このまま何も見なかったことにして、クルシュの庇護下で安定した生活を送ることが最善手であることはわかっていた。
「あんなもん見せられちまったら、どうにかしてえって思うことは」
――おかしくないはずだ。
人が死んでいた。
五十人にも満たない人数だ。
地球では、一日に十万人以上が死んでいると聞いたことがある。それに比べれば、五十人なんて微々たる数字だ。
それだけの人数が死ぬと聞いただけなら、スバルはもちろん逃げ去っていただろう。五十人の人間が死ぬ場所に、スバルがいたとして出来ることは無い。
だが、スバルは見てしまった。
数えられるような数だが、損壊したいくつもの死体。
頭が欠けている者もいれば、四肢が潰されている者もいた。あまりに凄惨な光景だったとしか言えない。
『死』を経験したスバルだからこそ言える。
死とは、極限まで増幅させた痛みと消失感、そして恐怖を刻み込む。
あの場で死んだ全員が、スバルと同じだけのものを感じていたのなら、それだけでスバルが逃げ去らない理由になる。
逃げ出したいスバルをこの場所に留めるほどのものが、死にはあったのだ。
「馬鹿なことやってるってのは承知の上だ。でも、勝算があるなら馬鹿やったって許されるもんだろ……」
繰り返される死のループ。
二度の死の原因は、元を辿れば全て魔女教だ。
全ての責任と二度も殺されたスバルの私怨は、奴らに叩き返さねばならない。
魔女教とは、嫉妬の魔女の復活を目論む狂信者の集まりだと聞いている。
神出鬼没でその動向を正確に把握することは至難であり、魔女教の企みを事前に防げたことはほぼ皆無。
だが、何度も『繰り返している』スバルにとって、それは不利にはならない。
いつ、どこに魔女教が現れるかは、すでに二度の襲撃を経て知っている。
気掛かりなのは犯行人数だが、これは問題にはならない。
「あの野郎、まさか魔女教徒だったなんて……」
思い出すのは、前回の死だ。
同じ牢獄のおっさんと田舎野郎のカルロスに嵌められ、脱獄犯に仕立て上げられたスバルは気を失ってしまった。
目が覚めた頃にはすでに魔女教の襲撃は起こっており、クルシュと魔女教徒が剣と魔法をぶつけ合っていた。それをなす術なく見守っていたスバルだったが、件の魔女教徒はスバルを担いで逃走を開始した。突然のことに身体が動かなかったスバルはされるがままに攫われそうになったが、クルシュのもとに一人の老人が駆けつけた。
老人が剣を抜き、一歩を踏み抜いたと思った時には、すでにこちらとの距離を詰め目前へと迫っていた。
初太刀は、魔女教徒の口の端から耳までを顔を覆い隠していたローブごと切り取った。即座に返した刃で魔女教徒の首は宙に浮き、続く刃で今度はスバルの首が飛んだ。
自分の首が飛ぶ直前、スバルは魔女教徒の隠された素顔を見た。
シワシワに伸びてだるんと下がった頬に、やたらと低い鼻。頭にはちょこんと乗っかった二つの耳に、尻からは可愛らしい尻尾が覗いていた。ブルドッグと人間を合わせたような顔つきだ。
見間違いようもない。
なにせ、初めて会った時あれほどの衝撃を覚えたのだから、間違えようがない。
ブルドッグの顔をした人間に、スバルは一度会っていた。
「ここの看守長だ。あいつが、魔女教徒だったんだ」
この監獄を取り締まるブルドッグの獣人こそが、今回の監獄襲撃騒ぎの魔女教、その主犯だったのだ。
正直な話、看守長が獣人だったことも初見時では驚いたがそれ以上の驚愕だ。
王都のそれなりの地位に関わる人物が、魔女教の手に染まっていたとなれば由々しき事態であると言わざるを得ない。
スバルを王城に侵入させてしまった以上の責任を、何処かの誰かが追及されてしまいそうだ。
「だが、誰が首謀者かわかっちまえばこっちのもんだ。先手さえ取れれば、難しいことじゃない」
首謀者さえ押さえてしまえば、王都に潜む残りの魔女教徒達も芋づる式で発覚するだろう。
そして、
「本当なのだろうな? 監獄の看守長が魔女教徒だ、などと……。嘘は言っていないようだが、真であるかはこの目で確かめさせてもらうぞ。虚偽であったならば、貴様の身柄は拘束させてもらう」
「はいよっ。とぉ、ちゃんと約束の方は守ってくれんだろ?」
「当たり前だ。貴様の報告が真であったならば、当家へ食客として迎え入れよう」
「心配ご無用! そんかし三食お風呂付きで頼むぜ?」
「ふっ。随分と強欲だな。最高のもてなしを約束しよう」
クルシュとの交渉は予想以上にトントン拍子で進んだ。
これもクルシュの持つ『風見の加護』が有用に働いたためだろう。スバルの報告に一切の虚偽はない。
看守長は魔女教徒で、王都には数人の魔女教徒が潜んでいる。
これらは死を繰り返したことによって得た情報で、どんなことがあっても覆らない事実である。
スバル謹製の魔女教徒の福音っぽい本が、唯一の切り札だ。
魔女教徒は恐らくみんな、あのローブを着ているのだろうがそんなものは短時間で用意できない。
だが、魔女教徒ならば持っているという福音。これさえあれば、少しの間スバルを魔女教徒だと勘違いさせることは不可能ではないはず。
その間に看守長が魔女教徒だという証拠を引きずり出し、成敗してしまえばいい。
これが作戦SMOの詳細だ。
全てが終わった後は、クルシュの豪邸で豪遊だ。
俺の異世界生活はここからだ、とここに宣言しよう。