王道と邪道   作:ふぁるねる

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魔女教襲来

 建物が倒壊する際に発生する音というものは、日常ではまず聞くことのないものだ。現代日本に暮らしていたスバルにとってそれは縁遠いものであり、大きな台風や地震に遭遇しない限り聞くことはなかった。

 それを比喩する言葉を探すのならば、大怪獣の咆哮だろうか。テレビあるいは劇場のスクリーンを通して鼓膜を叩くそれは作り物であるがゆえに恐怖心が煽られることは少なかったが、実際に聞いてしまうと、それがどれだけ怖いものか、ということを強制的に実感させられる。

 

 そんな大怪獣の咆哮がスバルの鼓膜にぶち破る勢いで届いたと共に、スバルの意識は無理矢理に叩き起こされる。視界が弾けるような、目くらましにあったような感覚だ。

 

 どうやらスバルは気絶していたらしい。

 暗闇の中を漂っていた意識は、破裂するような轟音で無理やり覚醒させられた。

 

「……!?」

 

 何が起きたのだ、と横になっていた身体を起こす。

 すぐに目に入ったのは小さな部屋だ。

 スバルが寝かされているのは、スバルの足が飛び出てしまうような小さなベッド。

 周りを見ると、スバルの閉じ込められていた牢屋よりも幾分か明るい印象を受ける。照明の数も多いし、調度品も新しいものがある。

 

「そういえば、俺は……」

 

 なぜかこんな場所にいるのか、それを思い出すために最新の記憶を掘り返す。

 

 そうだ、スバルは裏切られたのだ。

 おっさんに脱獄を持ちかけ、おっさんの作戦に乗った結果、おっさんに嵌められた。

 おそらく周りの看守や目の前の牢屋の少年カルロスもグルだったのだろう。

 おっさん以外の奴らにどんなメリットがあるのかわからないが、囚人たちは連携してスバルを脱獄犯に仕立て上げることに成功し、スバルはまんまと捕まってしまったのだ。

 あの時石壁に囲まれるところまでは覚えてるのだが、それ以降の記憶が無い。そこから途切れてしまっているのだ。

 ああ、思い出すだけでも腹立たしい。

 あのおっさんは俺と同じように脱獄しようと考えている風を装っていたし、訛りのきつい少年カルロスの様子も演技だったわけだ。

 沸々と怒りが沸き起こってくる。

 どうしてスバルばかり、こうも不幸な目にあうのだろうか。異郷の地に飛ばされ、ここ数年で最も他者との関わり、特に優しさを求めた数日間であったが、現実はこれでもかというほどにスバルに厳しい。理不尽への怒りも勝手に沸騰してしまう。

 

「うおっ!?」

 

 スバルは自分の体を見下ろして、ぎょっと目を剥いた。

 着ていたはずの囚人服が消えており、まさかの下着姿である。

 やけに寒いなとは思っていたが、半裸状態だったらしい。これでは露出趣味があると疑われてしまう。

 懐かしのジャージはどこに、と思って部屋の中をさらに見渡すが、地球からの持ち込み物は何一つ見つからなかった。

 

 その代わり、怪しげなローブのようなものだけが部屋の壁にぶら下がっているのを見つけた。

 黒を基調にしたもので、とんがったフードが特徴的だ。袖のあたりに少しだけ赤のラインが入っているのがかっちょいい。

 よく見てみるとフード、ズボン、コート、肩掛けと分離していた。

 

「ちょっと怪しいけど、下着姿の露出男よりはマシか……」

 

 スバルは渋々と言った感じで、その服に袖を通す。視界が悪くなるのでフードは被らなかった。

 全て着終わると、不思議なことにサイズ感がぴったりであることに気づく。

 誰かがスバル用に用意してくれたのだろうか。ありがたい。

 

「さて、ここはどこかな、っと」

 

 あの後、石壁に閉じ込められてからの記憶がない。

 果たして今はどこにいて、どのくらい眠っていたのかがわからない。

 現状確認が最優先だ。

 

 唯一ある扉へと足を運び、ドアノブに手をかけた瞬間、ドゴォン! と轟音が鳴り響いた。

 この音には聞き覚えがある。

 先ほどスバルを無理矢理起こした音だ。

 そして、瓦礫の雪崩に巻き込まれる前に聞こえてきた音だ。

 

 このままでは、まずい。

 

 そう確信したスバルはすぐに部屋を飛び出す。

 そして、開かれた扉の先に待っていたものを見て、スバルは驚愕で目を見開いた。

 

「なん、だ。これ……」

 

 喉からようやく絞り出た言葉は震えている。

 スバルのいたはずの監獄が目の前にあった。

 いや、監獄だったものが目の前にあった。それはすでに半壊し、いくつもの瓦礫の山と化していた。

 そしてその中では何人もの囚人たちが助けを乞い、次の瞬間には瓦礫に潰されて死んでいく姿が見える。

 

 

 人が、死んでいる。

 

 

 異世界への召喚。

 見慣れない騎士の甲冑。

 RPG風の監獄。

 どれも現代の日本では見ること、体験するはずのないものだった。

 

 だが、人は死ぬものだ。

 日本でも、この世界でもそれは変わらない。

 

『異世界に召喚された』という現実は容易に受け入れた。いくらでも妄想を積んできたスバルだ。認識から受容までにそう時間はかからなかった。

 だというのに『人は死ぬもの』という、どこに行こうとも絶対不変のルールが目の前に現れた時、スバルはそれを受け入れることができなかった。

 

 頭蓋が割れてドロドロと頭の中身が流れ出ている者もいれば、腹の真ん中に大きな穴が穿たれて向こうの景色が丸見えの者もいる。四肢を無造作に捥ぎ取られ、達磨となった身体で這いずってでも懸命に逃げようとする者もいれば、身体が砕け散りもはや救いの余地もない者もいる。

 

 地獄だ。

 まさに地獄だった。

 

 外気に晒された生肉と大量の血液の臭い。

 胃、腸、頭蓋、あらゆるものの中身がごちゃ混ぜになった臭いは、吐き気を催すための役割を持って発生したかのようにさえ思えてくる。

 見目麗しい美女も、醜怪な不男も死んでしまえば同じようなものだった。

 

 人の死体、というものを初めて見たスバルは、その光景を予期していなかったこともあり、胃からせり上がってくる酸っぱいものを吐き出すことを我慢できなかった。

 立つことを諦めた膝が地に着き、すぐに両手で支えて四つん這いになる。

 

「オッ、ゲェッ……」

 

 本来ならば食物を胃に届ける食道を、一度送ったはずの物が逆流してくることは、大変な不快感を伴うことになる。

 幸いと言っていいかわからないが、監獄では大したものを食べていなかったおかげで胃液と水の混ざったものがバシャバシャと滝のように流れるだけだ。

 

「………ェ、ゴホッ」

 

 出せるものを出せるだけ出せども、嘔吐感はとどまる所を知らない。やがて

 胃液すら出なくなってしまったが、スバルは嘔吐感を強引に飲み込む。

 

 いつまでも情けなく吐き続けているわけにはいかないのだ。

 

「何が、起きてる……?」

 

 一体、この光景はどういうことなのだろうか。

 スバルの意識が無いうちに何が起きたのか。

 何かが起きたとして、誰が起こしたのか。

 王都の中枢でこれだけの惨事をどのように引き起こしたのか。

 

 スバルは数ある死体から目を背けながら、次々と沸き立つ疑問を数えていった。

 

「いや、でも……」

 

 目の前の惨状に受けた衝撃がそう簡単に減ることはないが、死体には目をそらしながら被害の規模をよく見てみる。

 監獄は全壊を免れ、半壊程度の損壊だ。全てが崩れているわけではない。死体も横目で数えても、とても多いとは言えないくらいの数だ。

 この監獄を落とす為の襲撃だとすると、規模が小さいと感じてしまう。

 と、なると、

 

「襲撃者は少数で監獄を落とすことが目的じゃない……?」

 

 あるいはここ以外にも襲撃の可能性はあるが、他の場所の様子が窺えない以上、スバルにできる推測はここまでだ。

 

「監獄を襲撃する目的なら、囚人の解放が妥当な所か? 魔女教……ダメだ。知らないことが多すぎる」

 

 この襲撃が魔女教によるものであるという推測は、ほぼ確定と考えても良いだろう。

 魔女教徒が捕まっていて、その解放のために襲撃しに来たという可能性も考えられる。

 だが、その魔女教に関する知識があまりに少ない。

 魔女教はそれなりの規模があるものだと、スバルは考えている。

 看守のおっさんが教えてくれたことが真実ならば、この世界で最も恐ろしいものを信仰している集団だ。小さい規模だとは思えない。

 そんな集団が、たった一人の教徒のためだけに国のど真ん中で騒動を起こすだろうか。

 もしその捕まっている教徒が末端レベルなら、ありえないと考えるのが普通だ。

 

「だとすると、幹部レベルか……?」

 

 魔女教の幹部クラスの重要人物をルグニカ王国が監獄で保護しており、その人物の奪取のために魔女教が動いた、とは考えられないだろうか。

 魔女教の構成がどういうものか、幹部クラスの者がいたとしてどれだけの力のある者なのか、ほとんど何もわからない。

 

「無い、だろうな」

 

 思考を回すも、ほんの数回転でその考えを却下する。

 

「魔女教の幹部クラスが、コソ泥とかと同じ監獄に閉じ込められてるとは思えない……よな?」

 

 魔女教はとにかくやばい。という認識は看守のおっさんから受けている。だが、その危険性については言葉で教えてもらっただけだ。おっさんとスバルの間に認識の違いはあるだろう。そういう場合は、想定の一段階上、もしくは下を考えるべきである。この場合は魔女教はスバルが考えるよりも危険度が高く、考えていることもわからず、とにかくヤバイ集団、とする。

 そんな頭のおかしい奴らの代表格が、例えばあの田舎っぺ少年のカルロスと同じような牢屋に閉じ込められているとは考えにくい。

 よって魔女教の襲撃の目的から『魔女教徒の奪還』は自然と消えた。

 

「もっと何か、違う目的があるはずだ」

 

 今度は注意深く観察しよう、と見渡したところで、半壊した監獄の向こう側、少し遠くの場所から大きな土煙が立つ様子が見えた。

 スバルはひとまず、その土煙の方へと向かうことに決める。

 

 

 

 ーーーー

 

 

 飛び散った大小様々な破片の間を縫って歩くこと数分。なるべく死体の近くを通らないようにしていると、変に遠回りになってしまった。

 今も何度か土埃の立つ場所は、もう目と鼻の先だ。

 

 近付くにつれ、何か土砂が流れるような音と、鋭く高い音が重なって聞こえるようになってきていた。それが何を意味するのかはわからないが、スバルの身を脅かすものでないことを願うばかりである。

 

 目を凝らすと土埃の中には、二人の人物の影が見える。いかんせん視界が極端に悪いため、それがスバルの知る人物であるかはわからない。

 

「……ァ!」

 

 片方の人影が両手を前に突き出して何かを叫ぶと、その人物の目の前の地面がグネグネと蠢きだす。見覚えがある。あれは、土魔法と呼ばれる類の魔法が発動する際の前兆だ。その魔法で騙された身としてはあまり関わりたくない魔法だったりする。

 魔法はすぐに発動し、広範囲の地面がベリベリと剥がされていき、もう片方の人影に向けて動き出す。その勢いはどんどんと増していき、周りの瓦礫や地表を巻き込んで人影に到達しようかという頃には、五メートルほどの土砂の波となっていた。

 

「ハァ……ァァアッ!」

 

 もう一つの人影が土砂に飲まれてしまう直前、身じろぎひとつせずに立っていた人影は気迫の込もった叫び声を上げた。

 それと同時に右手に握っている何かを真横に一閃、斬り払う。

 スバルにはその人影が何をしたのかわからない。

 そんなことをしたとしても土砂の流れる勢いが止まったり、威力が減衰したりすることはなく……。

 

「なっ!?」

 

 次の瞬間、スバルは自らの目を疑った。

 流れ寄せていた土砂が、先ほどの一閃の軌道をなぞるように霧散したのだ。

 

 台風や地震による土砂崩れをテレビでなら見たことのあるスバルは、人間に向いた自然の牙はどうしようもないことを知っている。

 一度巻き込まれてしまえば、その進路にある家は全壊して押し流され、車などは土に揉まれて使い物にならなくなる。およそ人間が一人で立ち向かってどうにかなるものではないのだ。

 

 だが片方の人影が生み出したと思われる、圧倒的なエネルギーを持つ土砂の流れを、もう片方の人影は何かを一薙ぎしただけで打ち消したのだ。神にも似た力だとスバルは驚愕する。

 

 土埃はさらに濃く立ち込める。

 二つの人影を見失ってしまうとスバルは焦るが、それは杞憂に変わる。

 先ほど土砂を吹き飛ばした方の人影がもう三度、手に持っているものを軽く薙いだ。すぐにスバルの頬を鋭い風が撫でるのを感じ、それと同時に土埃が吹き飛ばされて視界が格段に良くなった。視界が確保できたことによって、スバルは人影の姿をようやく認めることができた。

 

「クルシュ!」

 

 その深緑の髪と琥珀の目は、見間違うことはない。

 つい先日話したばかりの女性が、この前と同じような男装の軍服に身を包んでいた。手に握っているのは輝く剣である。その剣で土砂を切り開き、土埃を吹き飛ばしたようだ。刀身は通常の剣ほどしかないが、どのようにして大量の土砂の波をたったの一撃で崩したのかはわからない。

 

「……ナツキ・スバル。生きていたか。……その格好はどうした?」

「あ、ああ。なんか起きたら半裸だったから、その辺にあったの借りてる」

 

 クルシュは横目でちらとスバルを見る。

 短く言葉を交わすが、クルシュは目の前に立つ人物に注意を払い続ける。それにしてもこの格好は少し変なのだろうか。ローブの裾を少しだけ引っ張ってみる。クルシュはこの服を見て、少しだけぎょっとしていた。

 

 しかしそんなことは、後回しにすべき些事だ。

 土埃が晴れたことにより、クルシュと対峙していた者の姿も明らかになる。

 しかし見ただけでわかるのは、スバルよりもひとまわり大きい背丈などの体格くらいだということ、男だということだけだった。

 

「あれ、あいつ、俺と同じ服着てねえ?」

 

 少しだけ妙なことに気がつく。

 彼は、スバルと同じようなデザインの服を着て、律儀にフードまですっぽりと被っているのだ。そのおかげで彼が一体誰なのかはわからない。

 

「貴様と奴の着ている服は魔女教徒の着る服だ。……それにしても貴様の言う通りになったな」

 

 男の顔は見えない。

 スバルが着ている怪しげなローブと同じ物を着ていて、フードをすっぽりと被っているせいでその素顔が見えない。

 そうか、あれが魔女教徒の制服なのか……。

 

「え! あ じゃあ俺魔女教徒の格好してるってこと!? 不味くない!?」

「うむ。魔女教徒の攻めてきている現状、その服を着ていて斬られたのでは文句は言えまい。近衛騎士団も直に到着するはずだ」

「やばい、脱ぐ!」

 

 スバルはすぐにもぞもぞとし始めるが、替えの服がないことに気づく。

 もう一度半裸状態になることと、犯罪者に間違われること。どちらが良いということはないが、どちらかを選ばなければならない。ちなみにどちらも選びたくないのがスバルの要望だ。

 

「貴様、魔女教徒だったか」

「クルシュ・カルステン……。あなたはここで死ぬ定めです。『福音』にはそう記述されている」

 

 そんなことをしている間に、クルシュは向かい合う男に言葉を投げる。男はそれに返すが、フードのせいで声がくぐもっていて声色で判別はできない。どうやらクルシュは知っている人物らしい。

 

 そして飛び出した『福音』というワード。

 男は懐から真っ黒な本を取り出すと、パラパラとめくり始めた。あれが……魔女教徒が持つという『福音』か。スバルのことを連れ出そうとした看守もどきが持っていたものと同じような本に見える。

 

「自分の未来は自分で決める。魔女に踊らされる人形になど負けるものか」

「さて、どうでしょうな」

 

 クルシュが剣を構えると同時に、男も先ほどのように両手を前に突き出した。

 

「ウルドーナ!」

 

 男が叫ぶと同時に、今度は背後の瓦礫の山たちがうねりながら持ち上がる。

 それらはまるで意思を持ったかのようにゆっくりと動き始め、寄り集まると大きな波となってクルシュへと向かっていく。その高さは先ほどの倍、ゆうに十メートルを超え、ただの人が飲み込まれたらひとたまりもないことなど、明らかだった。

 そしてスバルは確信する。これがかつての自分の死因なのだと。

 

「って、やばいやばいやばいやばい!!」

 

 このままでは巻き込まれて死んでしまう、という結果は火を見るより明らかだ。

 

 スバルは大急ぎで戦場になりそうなエリアから尻尾を巻いて逃げる。

 

 十分に距離を取ったところで後方を振り返ると、またしても土砂の波がクルシュに襲いかかる。それをクルシュは今度は二度の斬撃を浴びせる。

 一度目の斬撃で土砂の勢いはほぼ半減し、二度目で完全に相殺することに成功する。

 クルシュの斬撃にどのような細工がされているのかはわからないが、剣一本で自然災害レベルの魔法と互角に渡り合えるのは凄いことなのだろう。

 

「すっげえな」

 

 スバルは素直に感嘆するのみだ。

 ほえーっと口を開きながら、今まで想像してきたタイマンでの勝負の規模の違いにただただ驚く。地球でのタイマンなんて相撲や柔道、ボクシングなどの規模が最大だろう。超常の力を操るクルシュとあの男とは規模が違いすぎる。

 

 そして、そんな風にもともとの惚けた面をさらに間抜けにさせていたスバルは、自らの身に迫る危機に気づかない。

 

「本命はこっちなんです」

 

 耳元で誰かが囁いた。

 一番の驚愕と共に、いつの間にか背後に誰かが立っていることに気づく。

 そいつは今、クルシュと戦っているはずの男だ。フードをすっぽりと被っているが、先ほどの男で間違いない。

 

 声を出そうとするが、出ない。

 喉の途中で何かにつっかえたように、声が口から出てこようとしない。

 なぜだ、どうしてだ。

 どうしてこの男はスバルを狙った。

 

 クルシュは敵影が消えたことに驚き、周囲をキョロキョロと見渡しているが、未だにこちらの様子には気づかない。

 

「……!」

 

 スバルが身動きすら取れないことを良いことに、男はスバルの横腹をガツンと一発殴った。

 それだけで体中から力が抜け、ぐったりとしてしまう。

 そのままスバルはその男に、軽々と小脇に抱えられてしまう。

 

 するとそれからの男の動きは素早かった。

 

「ドーナ! ドーナ! ドーナ!」

 

 クルシュの立っている方向とは正反対へと走り始めるが、クルシュはついに男の動きに気づく。

 小脇に抱えられたスバルに驚くが、その剣を大きく払う。

 クルシュの剣技は、『百人一太刀』と呼ばれる超長距離の斬撃だ。それは彼我の射程を無視する。『風見の加護』を持つクルシュだからこそできる絶技だ。

 クルシュの不可視の斬撃はすぐに男の元へと到達しうるが、それは男が事前に張っていた石の壁によって阻まれる。

 クルシュは一度の斬撃で五枚以上の壁を切り壊すことができたが、男の魔法は次々に壁を作っていく。壁は視界を遮る役目も持ち、どんどんと魔女教徒の男とクルシュの距離は開くばかりだ。

 

「クルシュ様!」

 

 焦燥を顔に表した時に、クルシュの元に一人の男がたどり着いた。

 クルシュは、出がけに行き先を伝えておいて良かったとニヤリと笑う。

 

 白髪とシワの刻まれた顔は、その重ねた年を物語っている。

 最早隠居していてもおかしくないような年齢の老人だが、彼はクルシュの従者である。

 彼の名は、ヴィルヘルム・ヴァン・アストレア。

 かつて『剣鬼』として恐れられた人物である。

 剣の腕、戦闘経験、こと戦闘に関しては何においてもクルシュの上をいく者だ。クルシュは短い猶予の中ですぐさま判断を下した。

 

「ヴィルヘルム! 前の魔女教徒を追え! 殺しても構わん!」

「御意!」

 

 ヴィルヘルムは主の命令を遂行するため、腰の剣を抜きながら疾走を開始する。

 時折邪魔をしてくる石の壁を砕きながら、一直線に魔女教徒へと迫る。

 

 相手は、かつて『剣聖』をどんな加護も宿さぬ体に努力を重ねて、その修練の結果斬り伏せた男だ。

 一介の魔女教徒ごときが逃げおおせることなど不可能だった。

 

 ものの数秒で肉薄された魔女教徒は苦し紛れに「ドーナ」と叫ぼうとするが、その口の端から耳にかけてまでをフード越しに剣で切り裂かれてしまう。

 切り開かれたフードの奥に光る瞳には、『剣鬼』に対する憎悪の炎が見て取れた。

 しかしそれもほんの一瞬の出来事だ。

 憎悪に光る瞳も次の瞬間には、その光はすでに消え失せている。

『剣鬼』の躊躇ない一撃によって、宙に浮かんだ彼の頭部はコロコロと地面に転がった。

 

 

 

 スバルのその一連の流れをただ見ていることしかできない。

 眼球だけをゴロゴロと動かして、見れるものをすべて見ようとする。

 突然現れた初老の剣士が、ほとんど視認できないようなスピードで魔女教徒に追いつくと、フードの上からその口を切り裂いた。

 

 その際、大きく切り開かれたフードの隙間から、男の素顔が露わになった。

 

「ブル……ドッグ……」

 

 男の顔の特徴は、無意識の内にスバルの口からぽつりと出た言葉が端的に表していた。

 シワシワに伸びてだるんと下がった頬に、やたらと低い鼻。人間ベースではあるが、その顔はブルドッグの血が混ざっているのがわかる。

 

 

「あっ……」

 

 

 繋がる。

 

 スバルを連れ去ろうとした魔女教徒と、以前会ったことのある人物が、繋がる。

 

 

「あっ……」

 

 

 二度目の発声は、魔女教徒の男の首が刎ねられたことに対する驚愕にも満たない感情の発露だ。

 それはあまりに一瞬で、これまで見てきた死の中でもあまりに呆気ないものであった。

 

「……」

 

 そして三度目の言葉を発しようとした瞬間には、スバルの体はもはやそれが許されるような状況になかった。

 

 スバルの胴体と頭部は先ほどの魔女教徒の男のように離され、宙に舞う視界はぐるぐると回り続けていた。

 あ、胴体が倒れた。

 

 ああ、そうか、と残った視界と脳みそが、地面に倒れるスバルの胴体が着ている服を見て納得する。

 

 

 次の瞬間、ナツキ・スバルは死亡した。




クルシュ「あの魔女教徒(一人)殺せ!」
ヴィル爺「御意!(あの二人やな)」

クルシュ様痛恨の指示ミス。


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