クルシュにとってその少年は、路傍の石にしか過ぎない。
特別大きいわけでもなく、手に取るほどの物珍しさもない。
ただ、クルシュの目の前にポツンと置かれたその小さな石を見たとき、気がつけば拾っていたのだ。
案の定、特別なものは何もなかった。それは分かっていたから、落胆することはない。
しかし、この少年には何かを起こすという確信にも似た何かを感じた。『風見の加護』によるものかは分からない。感覚的な部分で、何かを得たのは確かなのだろう。でなければ手を差し伸べることも、こうして夜が明けてからわざわざ訪問することもない。
「見ろ。この部屋は王都を一望できるのだ」
カーテンを開けると、大量の朝日が差し込んだ。
観測所によると今日も快晴が続くという。
あまり部屋に篭りきりだと、気分も沈んでしまうだろうから窓を開け放つ。
「どうだ。心地良いだろう?」
爽やかな朝の風が舞い込む。
シーツの端がパタパタと揺れた。
朝風は少年の前髪も揺らすが、瞳の中の色が揺れることはない。
窓の外にはルグニカ王国王都の街並みが広がっている。
ルグニカ城にほど近く、高い土地に建っているこのカルステン別邸からは、周辺に上級貴族の邸宅、少し下がったところに下級貴族の邸宅が見えている。堅牢な門と高い塀で囲まれたこちら側を皆は、上層区と呼んでいる。
塀の外には、家屋が豆粒ほどの大きさにしか見えないが、王都の民が住まう平民街や商業区が広がり、そのさらに外周部には貧民街が広がっているはずだ。これらを纏めて下層区と呼んでいる。
上層区と下層区は明確に区分けがされており、定期的に送られる物資の荷竜車が唯一のパイプだ。
朝日が昇って約一時間ほどか。
王都の街並みも少しずつ騒がしくなってきた。
これが昼頃になると大きな喧騒になり、それをこの場所から眺めるのがクルシュは存外好きだった。
王族が続々とお隠れになる前後で、下層区の様子に大きな変化はなかった。陛下が亡くなった時もその死を悼む声はあっても、混乱に陥ることはなかった。
一方、上層区の様相はなかなかに困難を極めた。
もはや思い出すだけで、疲労を感じてしまうほどだ。
賢人会が中心となって混乱を鎮めようとしている中、クルシュはいっそ傲慢とも取れる責任感を抱えていた。自身が関わる以上、改善できなければその全ての責任は自身の不手際にあると自責していたのだ。フェリスからは休めと何度諭されたかわからない。だが親友であり尊敬するフーリエ殿下も病床に臥している以上、手を抜くことはクルシュの矜持が許さなかった。
ただ、この混乱に乗じて奸計を企てる貴族がいたのが特に厄介だった。
事後処理に忙殺される賢人会を出し抜き、王都の裏で特別指定保護種の希少な薬草を密売していた、中流貴族当主の弟を捕まえたのがクルシュだ。
黒い噂の絶えない輩だったが、現行犯で捕まえてしまえば噂は現実に変わる。
貴族社会の癌を排除できたことは単純に喜ばしいことだが、中には上手いこと尻尾をつかませず、成り上がった商人なんかも居るらしい。
長閑に見える王都の街並みにも、裏の顔があるというわけだ。
ベッドに横たわる少年は首だけ動かして、開け放たれた窓から見える街並みを見下ろす。
一瞬だけ瞳の奥で何かが光ったように見えたが、すぐに興味を失った目が映すのは黒色の王都だ。
「ここは見晴らしが良い。市場も見えるし、王都の外まで見渡せる」
気晴らしにはちょうど良いはずだ。
少年の心の闇を取り払うこと、その一助になってくれればとは思う。
(……あと二日か)
心中でつぶやく。
昨夜、王城からの使者がカルステン別邸に送られてきた。
送り元は賢人会。
内容は見るまでもなく明らかだった。
クルシュの保護したこの少年の身柄についてだ。
賢人会はこの少年を、『王城に不法侵入した身元不明の危険人物』という扱いをするらしい。
判断としては妥当だろう。
しかし、犯罪者として法的に裁かれることは決まったが、その前に公爵家当主かつ次期国王候補者に保護、もとい確保されてしまった。
王国に有益な人物であるという判断はできない。むしろ損害を与える人物となり得る可能性の方が高い。ならば早々に処理してしまった方が良いのだが、賢人会にも手が出しづらい
もちろん犯罪者隠匿の罪状で摘発することはできるが、カルステン公爵家を敵に回すリスクは計り知れない。
しかし、カルステン家には『青』がいるという事実、罪人を悪用しないだろうという信頼があった。
故に、賢人会は三日の猶予を設けた。
少年の身元が王国貴族の身内の可能性がある。または、帝国や聖王国など他の大国の密使の可能性も微小ながらある。もし少年が王国に送り込まれた刺客だとしても、何らかの原因によって自失している現状、脅威にはなりえない。
あらゆる可能性を模索した結果、賢人会は『この三日で少年の身元が確認されれば良し。不明のままならば処罰する。三日の間、身柄はカルステン公爵家に引き渡す』とした。
昨夜その旨が書かれた文書を受け取ったのだから、受け渡しはおそらく二日後の日没以降。
それまでに少年が心を開くことは、率直に言って難しいだろう。
だが、少年が自身を取り戻さなかったとしても、クルシュからしてみれば損失はない。
クルシュの感じた『何か』が気のせいだった可能性も存分にあるし、実は少年が
考え出せばキリがないが、少年が処刑されることになっても、クルシュは構わないと思っていた。むしろその段階までいって庇っていたら、罪に問われかねない。
あくまで、フェリスに診せるという現状維持が最善であると認識しているだけだった。
「朝食は後で持ってこよう。この部屋の中だけになってしまうが、自由に過ごしてくれ」
寒い時期が過ぎたとはいえ、王都の朝晩はまだ冷える。
窓を閉めて、いまだ無言を貫く少年の横を通り過ぎ、クルシュは部屋を退出した。
ここならば、冷たい牢獄より幾分かマシな生活を送れるだろう。
今は、自然に少年の心が回復するのを待つのみだ。
「馬鹿馬鹿しいな」
口の端に笑みを浮かべながら呟く。
少年が再び口を開くとき、クルシュにどんな変化をもたらすのか、少しばかり期待していた。
そのことが少しばかりおかしく、また、懐かしく感じてしまっていたのだ。
なぜなら、日常の変化はいつだって、予想外の出会いから始まるものだから。
「フーリエ殿下……」
今は亡き殿下との出会いを想起しながら、クルシュは執務室へと続く廊下を歩き出した。
ーーーーー
クルシュの豪邸での暮らしぶりは悪くなかった。
温かい食事が勝手に出てくる。
日がな布団にくるまっていても怒られない。
自由の身だ。
実家以上の自由を得られたと言っても過言ではない。
それも三日で失われると思うと惜しいものがあるが、どうせ数え切れないほど、もしくはループに上限があるのならばそれまで、幾度となく経験することになる。
そう思えば悪いことではない。
食事は三食。
クルシュ自身が運んできた。
忙しい身だろうに何故なのだろうか。
スバルがもぐもぐと黙って食べている間にもクルシュは部屋に居続け、色んな話をしてきた。
今日の天気がどうだとか、今はリンガ(地球でのリンゴによく似ていた)が美味いから持ってきただとか、フェリスだとかヴィルヘルムだとか言う名前も時折出てきた。
素性に関して聞かれることは一切無かった。
何故なのだろうか。
出生不明の大犯罪者など置いておくだけでも問題だろう。
そんな疑問は浮かぶものの、シャボン玉のようにすぐに消えた。
そんなことはどうでも良い。
どうせ明日には死ぬのだ。
死に戻りをしてから二日後。
それがスバルに残された時間。
どうせスバルは死ぬ。
ならばその運命を受け入れよう。
スバルの下した決断はそんな諦観だった。
一度目も二度目も、死んだのは恐らくスバルのみであろう。
土石流に流れた時、あの時はクルシュと看守長が交戦していたと推測できるが、二度目の死の際にあの老剣士に看守長は一刀両断されていた。死ぬことはなかっただろう。
二度目も同じである。
三度目に関しては看守長とスバルのみが死んだ。
つまり、この死のループにおいて死ぬべきなのはスバルのみ。または近くにいた看守長のみであり、クルシュなど他の人物が巻き込まれることはない。それならば安心して死ぬことができると言うものだ。
もしもスバルの死に、何の関係もない人物まで巻き込んでしまうことがあるのならば、スバルの決心は揺らいでしまっていたかもしれない。記憶のないまま幾度となく殺される様を目にするのは、スバルには耐えられない。誰の記憶にも残らないその人物の死さえも背負って、スバルは次のループを繰り返さなければならないのだから。
「今日は本当に天気が良いな」
そう言いつつ、夕食を運んできたクルシュがカーテンを開ける。
全面ガラス張りになっている部屋の南側からは、王都の全貌が見て取れる。
西日が差し込み、眩しさを感じて目を細める。
「王都はかつての活気を取り戻し、都市機構としての働きを取り戻しつつあるが、それでも日陰の部分にはまだ陽が当たっていないな」
クルシュは窓枠に手を添え、憂うように王都の外縁部を見る。
そこは陽が落ちようとしている王都の中でもより一層濃い陰に覆われ、鬱屈としていた。
「あそこはいわゆるスラムだ。犯罪者や盗品、病原菌などの温床となっている。今すぐに是正すべしと言う者もいるが、手を出すのも難しい」
スラム。
現代日本に暮らしている以上、あまり聞かない言葉だ。
あいりん地区だとか、名前だけは聞いたことがあるが身近な言葉ではない。
「王国の福祉制度は未だ途上。それに全ての民を平等になど、貴族制度がある以上叶わぬ夢だ。受け皿として、そういった場所が無ければ生きていけぬ者もいる。スラムの密輸ルートなどを利用している上級貴族もいるようだ」
カルステン家はどうなのだろうか。
公爵家というだけはあって、そういうことともズブズブなのだろうか。
クルシュの性格上あり得ないとは思うが、そういった裏の仕事は参謀役のような有能キャラが内密に取り仕切っていそうだ。
しかし、スラム街か……。
一度でも良いので少しぐらいは見てみたいかもしれない。
これもファンタジー要素の一つとして色濃く浮かび上がるものだろう。
この身が自由に歩き回れることはないだろうが、方角と大体の場所は覚えておこう。
クルシュの話は本当にどうでも良いが、為にならないわけではない。
聞いていて飽きるということはないし、邪魔する理由もないので適当に聞き流している。
「おお、そうだ。今日はこの二人を改めて紹介しようと思っていたのだ」
いつも通り淡々と話が終わるのだと思っていたが、おもむろにクルシュは踵を返し、扉に向かってすたすたと歩き出す。
扉を開けると二人の人物が部屋に入ってきた。
一人はフェリス
診療という名目で何度か顔を見ているので名前も覚えた。
やたらと線の細い男で、こいつは女だと言われても信じてしまうほどだ。良い匂いがする。治療系の魔法が使えるらしく、その腕をクルシュは信頼しているようだった。
もう一人は……。
その顔を見た瞬間、咄嗟に首元を押さえてしまった。熱い感覚が蘇ってくる。
今でも鮮明に思い出せる。
身体は老いていたとしても、その剣筋を忘れることはない。
二度目のループにおいて、看守長とスバルの首を容易く刎ねた老剣士だ。
「むっ。何か気に障ることがありましたかな?」
あからさまに怯えた様子を示すスバルに、老剣士は困ったような表情を見せる。
それもそのはずだ。
死に戻りによって、老剣士がスバルを殺した事実は消え失せ、老剣士にその記憶は無い。
彼からしてみれば初対面の人物にこれほど恐れられる道理はないはずだ。
「…………」
胸に手を当て、気持ちを落ち着ける。
あまり思い出したくはないが、老剣士の顔を見るとあの死の瞬間が思い浮かぶ。
あの状況。クルシュの声。
考え得るに、彼はクルシュの従者なのだろう。
「怖がらせてしまいましたら申し訳ありません。私はヴィルヘルム・トリアス。クルシュ様に仕える、しがない用心棒でございます」
ヴィルヘルムと名乗った男は洗練された動きで一礼する。
その所作一つ一つに熟練のものを感じる。
しかし、はて、この名はどこかで聞いた覚えがあるぞと首をかしげる。
「この二人は私が特に信頼を置く者たちだ。私の不在時、何かあったら相談すると良い」
「……ふん」
「……」
不満気に鼻を鳴らすフェリスと、小さく顎を引いたヴィルヘルム。
あからさまに不本意な態度を取るフェリスは分かりやすい。どう見てもスバルのことなど認めておらず、さっさと出て行って欲しいといった様子が見て取れる。
一方、態度には出さないがヴィルヘルムもスバルのことを快く思っていないのだろう。
いようがいまいがどちらでも良い、といった様子か。
「行こうか」
クルシュが先頭に立ち、部屋を出て行く。
フェリスとヴィルヘルムは一瞥もせずクルシュの後について行った。
扉がパタンと小さな音を立てて閉じられた後に残るのは、何もない静寂だ。
本日の予定は白紙。
明日の日没後に死の予定が待っているだけで、他には何もない。
日本で暮らしていた時のように、惰眠を貪るとしよう。
今日の日記を自堕落の文字で塗り潰し、スバルは今一度柔らかな布団を頭まで被った。
最後の日がやってきた。
食っては寝ての生活を二日間繰り返しただけで、少し肥え太った感じがある。
まあそれはいい。どうせ死に戻りをすれば、スバルの肉体も元に戻る。死に戻りの利点一つだ。暴飲暴食の限りを尽くしても構わない。
今日も特にやることはない。
夕方までグダグダしていれば、日が完全に落ちた頃には死の家庭訪問が待っている。
時間的には夕飯を食べている時間と同じになるか。
文字通り、最後の晩餐だ。
そういえば、死ぬ日の昼空を見るのは初めてかと思い、窓の外に目を向ける。
燦々と降り注ぐ陽の雨は、そんなスバルの気も知らずに相も変わらず王都を照らしている。
王都は塀によって上層区と下層区がドーナツ状に分けられていると、クルシュが説明していた。
遠くを見ると豆粒ほどの市民たちが忙しなく動き回っている。
彼らの中にも、今日死んでしまう者はいるのだろうか。
いたとしても、それを自身で知っている人はスバル以外に居ないだろう。
未だ、死には慣れない。
目を瞑れば今にも三度の死を思い出すことができる。
土石流に巻き込まれて死ぬのは、できれば御免被りたい。
あれは単純に痛い。絶えず迫りくる瓦礫に身体中を叩きつけられる上に、息ができなかった。激しい苦痛の後に死ぬパターンはダメだ。
首をスッパリ斬られるのは悪くなかった。
ヴィルヘルムの剣の腕が良かったのか、首と胴体の切断という致命傷から死に至るまでの時間が短かった。あまり苦痛を伴うものでは無かった。ただ、死に戻った時に首のあたりに気持ちの悪い違和感が生じるくらいか。
謎のメイドの少女に腹を切られるのは、あまり好ましくなかった。
見たことのないくらいの血が溢れ出るし、腹の裂け目から臓物が飛び出たりしそうだ。多分、あのときは飛び出ていた。
眠りに落ちるような感覚を伴って死に至るパターンだったが、端から見たら醜悪な姿であったはず。避けたい死に方だ。
やはり首を刎ねられて、一瞬のうちに死ぬ死に方が最も苦痛が少ない。剣の腕も必要であるなら、ヴィルヘルムにお願いしたいところである。
「ーーーー」
あほらしい、と声にならないため息を吐く。
どこに自分の死に方、それも他殺の希望を出す奴がいるんだ。おかしくて笑ってしまう。どうせこれから先、途方も無い回数の死を迎えることになるのだ。すぐに、死に方なんてどうでも良くなる。その果てにループの終わりがあるとしても、その頃には死に対する心構えも整っているだろう。
受け入れろ。可能な限り。早く。
死とは怖いものではなく、辛いものではなく、苦しいものでは無い。
死と隣り合わせ、ではダメだ。
死と寄り添え。
死と同化しろ。
ナツキ・スバルとは死そのものである。
その覚悟はすでにできている。
ならばあとは、実感だけだ。
繰り返し体験することで、体に刻み込め。死という概念が当然のようにスバルの体を包む。スバルはその中で揺蕩うのみだ。抵抗することなく、身を任せる。それが最も効率的で冴えたやり方だ。
そんなことを思いながら、死刑執行台の階段を一つ一つ上る気分で1日をだらだらを過ごすことを決めた。
ーーーーーーーー
日没を迎えたのは、思ったよりすぐだった。
落ちかけた夕陽が王都をオレンジに染め上げていた。
コンコン、というノックの音が聞こえ、僅かに間をおいて扉が開く。
お盆を手に持ったクルシュだ。
「今日は趣向を変えてみようか」
お盆の上には一本のボトル。そして肉やチーズといったつまみが盛り付けられていた。
部屋の棚からワイングラスを取り出すと、窓際の小さなテーブルにつき、トクトクトクと真っ赤なワインを注ぎ始めた。
用意が出来ると、トントンと机の端を叩いてこちらを見る。
今日はただの食事ではなかったようだ。
酒の相手をしろということだろう。
あまり乗り気ではないのだが、どちらにせよ数時間後には死ぬのだ。付き合ってやるのも悪くない。
「……」
小さくうなずいて、ベッドから這い出る。
気怠さを感じながらクルシュの正面に座った。ここからだと王都の様子がよく見える。
「乾杯」
スバルが手に持ってないにも関わらず、クルシュはグラスを合わせてチンと鳴らす。
クルシュは優雅な動作でグラスを口元に運ぶが、スバルは手を付けずにぼーっとそれを眺めるだけだ。
「水を舐めるだけでも良い。ほら」
その様子を見たクルシュが別のグラスに水差しから水を入れる。
酒など飲んだことがない上、未成年だ。大人しく水をいただこう。
互いに口を開くことはなく、黙々とクルシュは酒とつまみを消化していっている。
いつもならグダグダとよく分からない話を続けるはずなのに、今日はどうしたというのだろうか。
「私は、弱い」
三杯目だろうか、グラスの中身が空になったところでクルシュがぽつりと呟いた。
外はすでにほぼ陽が落ちていて、暗闇が訪れようとしていた。
「…………どこがだよ」
久しぶりに言葉を発した気がする。
誰とも喋らず、このまま死んでしまおうと思っていた。誰かと話して、未練が残ってしまったら嫌だったから。死にたくないという理由を作ってしまうのが嫌だだから。
しかし、クルシュの言葉はそんなスバルの意思を覆すほどの怒りを感じさせるものだった。
「あんたは強いだろ。ふざけんじゃねえよ」
「ふざけてなどいない。今なお、貴様を前にして怖気付いているのだからな」
「ああ……?」
こいつは何を言っている?
権力も武力もあって、一国を左右できるだけの力を持つかもしれないほどの人物がなぜスバルなどを恐れる。
「私は……っ!?」
語気の弱くなっていたクルシュが、おもむろに顔を上げる。
先ほどまで柔らかな表情が険しいものになり、さっと窓の外を見た。
「……どうした?」
纏う雰囲気が危険なものになったことを感じ取り、スバルも何か緊急事態が起きたのだと認識する。
「これは……なんてマナだ……」
そう、クルシュがポツリとつぶやいた瞬間。
王都の端、目も届かないような暗い場所に、巨大な獣が立っていた。
「なっ!? あれは!?」
驚愕で目を見開くクルシュ。
それもそうだ。
そいつは突然現れた。
何もないはずの空間にワープしてきたかのように出現した。
姿は闇に飲まれて見えない。
しかしそれが超巨大であることはわかる。
そして、その周囲。
晴天だった昼間が嘘だったかのような吹雪が吹き荒れていた。
大量の雪と台風のような暴風。
獣を中心にして吹き荒れるそれは、次々に王都の端を壊し始めていた。
「なん、なんだ、あれは……」
クルシュは身動きすら取れないでいた。
もしあれが、王都に対して敵意を持って破壊行動を開始すれば?
こちらに向かってくるとしたら?
下層との間にある塀などなんの意味も持たないだろう。
一瞬にしてこの都は滅ぼされるだろう。
『契約に従い、僕はこの世界を破壊する』
そんな声が、ふと聞こえた。
それが聞こえた時には、すでに遅かった。
獣のいる場所から王都の街並みが急速に凍り始め、氷が屋根を包んで行く。
氷の彫像と化した街を見ながら、無駄な抵抗だと思いながらも後退りしようとして尻餅をつく。
迫る氷の波は徐々にスピードを増していき、すでに手前の下層区全てを覆った。
こちらにくるまで後数秒もない。
まさか、四度目の死は、これなのだろうか。
王都全てを覆う、死の氷。
誰も逃れることはできない大量虐殺。
絶対零度の死だ。
ふと、横を見ると、茫然と立ち尽くしたクルシュの顔があった。
「なんで……」
その顔は絶望に歪み、歯を食いしばって、目からはポタポタと涙を流していた。
「まだ何もしてない! まだ何にもしてないのに!!」
迫り来る氷が命を破壊するものだと理解し、死を悟ったのだろう。
その叫びには、クルシュの全てが詰め込まれているように感じた。
もう一度獣の方に目を向けると、小さな赤い何かが家屋の上を飛び跳ねて獣に向かって行ったが、こちらを覆おうとする氷を止めることはできない。
緑髪の美しい氷像を目の前に、スバルは四度目の死を迎えた。