されど殺人者は魔法少女と踊る   作:お茶請け

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咒力=魔力
咒式=魔法
魔杖剣(魔杖風琴)=デバイス
攻性咒式士=魔導師
後衛咒式士=シャマル、なのはタイプ
前衛咒式士=シグナムやスバル、フェイトよりのタイプ

と考えていただければ想像がつく……かも?


1話 リリカルでマジカルな世界に来ちゃったよ♪

 夢を見ていた。

 

 ヒルダがこれを夢だと断じたのには理由がある。

 真っ暗で先が何も見えない異常な世界。にもかかわらず自分の手足がハッキリと両目で見て取れた。

 両足で空間に佇む自分は、確認するかのように手を何度も開いては握り込む。

 失った両足と、ボロボロになって目もあてられない状態になっていた手が完全に元通りになっている。

 加えてヒルダが好むゴシック式の服には傷一つ無い。体だけではなく衣類までもが再生されていた。

 

 桃色の髪をゆっくりと、確かめるように指先でとかす。

 突然手足が元に戻るなどありえない。かといって誰かが自分を治療するとは思えない。それもご丁寧に服まで直すわけがない。

 ついでにあれだけ鬱陶しくとんちんかんなヒルデの姿も消えていた。このくらい世界には私一人だけ。

 

 これは夢だ。

 頭のどこかで「ヒルダは死んだのではないか?」という、実にくだらない発想が一瞬だけ生まれた。だがすぐにそれは綺麗さっぱり忘れ去った。

 私がヒルデ如きに殺されるわけがない、あんなくだらない死に方を迎えるわけがない。

 

 私は血を失いすぎて意識がなくなったのだろう。

 強靱な精神にも限界が訪れたのだ。そもそも意識を保っていることが難しい状態であった。今の今まで懸命に意識を繋いでいたことが驚きだ。

 

 だがそうなると、私は一刻も早く目覚めなくてはならない。

 このままでは私の体は死んでしまう。悔しいが、今の私は咒式士以外でも簡単に殺せてしまうだろう。それだけ弱り切っているのだ。

 

 しかしどうやって目を覚ませばいいのか。

 試しに頬をつねってみたり、必死に起きろ起きろと心の中で念じてみるも解決する気配すらない。

 

 「あぁ、もう。どうしろっていうのよ」

 

 不毛なことを何度も試すなど自分らしかぬ行いだ。あまりにも馬鹿げている。

 ヒルダが途方に暮れながら光一つ無い上空を眺めた。

 

 ヒルダの体が一瞬、大きく震えた。

 

 何かに自分のドレスの裾を掴まれた。さらにそれは此方の気を引くように、スカートをしきりに引っ張っている。

 今のヒルダは武器であり咒式を発動するための魔杖風琴を所持していない。ザッハドの使徒の切り札であるエミレオの書もまた同じこと。

 つまり危機に抗う対抗手段を何も持ち合わせていないのだ。

 

 しばらく躊躇っていたが、慎重に目線をゆっくりと下に動かしていく。

 最初は緊張に揺らいでいたヒルダの瞳が、徐々に落ち着きを取り戻していく。気がついたからだ、これが脅威にならないことが。

 

 「何、あんた?」

 

 ヒルダは機嫌が悪いことを隠そうともしない。足下に縋るそれを睨みつけた。

 

 乱れた白髪頭から見える目元はくぼんでおり、妖しい光を放つ眼は弱々さを感じる。

 鶴のように細い首。顔から飛び出た鷲鼻。皺だらけの顔面。

 それは小さな老人であった。服を着ておらず、汚らしい老いきった体を晒しながら、ヒルダの服を引っ張っている。

 

 いつのまに現れたのだろうか。ただこいつの存在は不愉快だ。

 老人の目からつーっと赤いものが伝い落ちていく。それは血の涙であった。

 よく見れば老人の体は幻影のように絶え間なく揺らぎ、霧のように薄く消えかけていた。

 ヒルダは一目でこの老人が弱り切っていることを見抜いた。

 必死に助けを求めるように自分の体に纏わり付く老人。ヒルダは彼を一瞥すると、遠慮なく蹴り飛ばした。

 

 肉体を強化された咒式士の一撃をまともに受けた老人は、まるで羽のように舞い上がって落下。それに伴う骨や肉がひしゃげる音を聞いたヒルダは微笑む。

 苦悶の声を口内で漏らす老人へ一歩、また一歩と近づいていく。

 荒い呼吸を繰り返す老人が足音に気がつき、顔を上げるとそこにはヒルダの笑顔があった。

 

 足を振り上げ、今にも自分の頭を踏みつぶそうとしているヒルダの笑顔が。

 

 「べっつに、お前を殺せば目が覚めるとかそんなのは全然関係がないけれど」

 

 止めてくれと無言の叫びを上げながら、手で必死にヒルダの足から身を守ろうとする老人をヒルダは嘲笑った。

 

 「よわっちくて、汚いから死んで♪」

 

 ヒルダの足は老人の手を鳥の骨のように打ち砕き、白髪頭の頭部へと到達。

 そのまま頭蓋骨を粉砕し、脳まで達した一撃は老人の命を刈り取った。

 

 

 

 

 ■ ■ ■

 

 

 

 ヒルダはゆっくりと瞼を開けていく。

 混濁した意識が明朗になっていく。激しい頭痛に苛まれながらも目を開けて状況を確認。

 だが視界は未だはっきりしておらず、現状を把握することができない。

 

 未だ夢の中にいるのかと愚考するも、酷い激痛と吐き気にこれがいやでも現実であると理解させられた。

 足は動かないどころか消失中。残った片腕も使い物にならないレベルの重傷。起き上がる気力すら残っていない。

 

 激痛に身をよじらせながらも、最後の記憶を必死に思考の奥から手繰り寄せる。

 

 あの時、ヒルデが今にも両腕を振り下そうとした瞬間。全身を覆わんばかりの激しい光がヒルダを襲ったのだ。

 本能的に両腕を動かして顔を庇おうとしたが、片腕はチョコレートの砲弾により粉砕。もう片腕はヒルデの魔杖錫によって蹂躙されている。

 とっさに目蓋を閉じるも間に合わず、光はヒルダの眼球へ直撃。目の光量調整の限界を超えた光は、ヒルダを一時的な失明に陥らせた。

 

 未だ見えぬ世界の中で、ヒルダは必死に現状を理解すべく脳を回転させる。

 今、自分ができることは考えることだけだ。生き残るために薄れゆく意識を繋ぎ止めなければならない。

 

 恐らくあの光はヒルデ以外の何者かによる咒式の発動だろう。

 少なくとも目の前で私を殺そうと、腕を振り上げて天高く掲げていたヒルデではないはずだ。

 このような無駄とも言える手間をかけずとも、ヒルデはすぐに私を殺す事は十二分に可能であったからだ。

 

 ヒルデも私も、街の攻性咒式士や他のザッハドの使徒に追われる身である。このたび行われた祝祭は完全なバトルロワイヤル形式。最後の一人しか生き残れないからだ。味方になるような存在など私たちにはいない。

 

 ヒルデは私を殺せば一人であり、今では赤毛糞眼鏡一人にすら苦戦する有様だ。ましてやパンハイマなどという化け物との殺し合いはもっての他だろう。今のヒルデはできうる限り、他の咒式士達との戦闘を避けたいはずだ。

 咒式士達に自分の発見を促す強い光を発生させる咒式を使うわけがない。ザッハドの使徒はそんな馬鹿ではない、自殺志願者とはわけが違うのだ。

 

 では同じザッハドの使徒が仕掛けたのだろうか?

 ザッハドの使徒であればこんなわずらわしい手段は使わない。使う必要がない。

 私を殺せると踏んで油断しきったヒルデごとエミレオの書で皆殺しだ。

 

 残るは必然的にエリダナにいるどこぞの攻性咒式士の仕業。これが一番納得がいく。

 ……いや、おかしいだろ。考えろ、短絡的な思考は吐き捨てろ。考えを止めさせるな。ここで手を打ち間違えたら私は死ぬかもしれないんだ。

 

 ヒルデの隙はあまりにも大きすぎた。

 長年私達を追い詰め、苦しめていた呪縛。そこから解放されるという喜びに打ち拉がれていたからだろう。

 その喜びに浸かりきって隙だらけのヒルデ。今にも死にそうな私相手にこんな牽制咒式を放つわけがない。それこそ逆にヒルデに殺されかねない。

 

 恐らく、発動されたのは化学錬成系。

 私の下半身を焼き切った糞眼鏡が得意としていた系統の咒式のはず。

 化学錬成系が得意であれば、他にもっと状況に合った咒式などいくらでもあったはずだ。爆発、酸、ナパーム弾、液体窒素。これらの攻撃方法で奇襲すれば、間違いなく私とヒルデを同時に仕留められたに違いない。

 

 実戦経験の少ない新米攻性咒式士の単独行動?

 

 熟練の攻性咒式士が殺しに来ているのであれば、こんな絶好の好機を潰すような馬鹿なことをやらかしたりはしない。

 私達についた賞金欲しさに、身の程の弁え方を知らない馬鹿共が勝手に暴走したのだろうか。金の魔力は正常な思考を犯す麻薬だ。欲望に滾ったが故に実力を見間違って死んだ連中の話など、腐るほど世界には転がっている。

 

 だが仮にそうであったとしても、私はどうすればいいというのか。

 瀕死の重傷で逃げることもできない。ただ自分の命を握られるだけに甘んじたこの身は、この好機においても対応できるだけの能力を発揮できない。

 恐らく状況判断も碌にできない馬鹿で愚かな攻性咒式士達はヒルデに殺される。私もまたヒルデに同じように殺されるだろう。

 

 一つの答えに辿り着こうとしたヒルダ。

 だがその時、彼女の脳裏に雷が落ちる。

 

 いや、待て。もしかしたら、もしかしたらヒルデも現在の状況を把握していないのではないか?

 私は動けない分こうして全ての力を思考することに費やすことができる。しかしヒルデは私を殺そうとした一瞬でこの事態が起こってしまった。

 心理的衝撃は私よりも大きい。両腕を振り上げていたために、私と同じく光をまともに顔へ受けてしまったはずだ。

 

 長年姉妹としての関係を築いてきたのだ。今のヒルデの行動パターンは容易に推測できる。

 私たちが現在いる場所は細い裏通りの通路。恐らく事態が把握できないヒルデはとっさに物陰に隠れたに違いない。

 

 例え未熟な攻性咒式士でもいい。この状況ではヒルデが全てに始末をつけるのには、若干時間を要するに違いあるまい。その隙に私が魔杖風琴に張って辿り着き、エミレオの書を起動できれば……。

 

 あのヒルデを殺す事が出来るかもしれないッ!

 

 その答えに辿り着いたヒルダは、血と涙によって彩られた土気色の顔を歪めた。

 体は激痛が襲い、もはや死を待つばかりであった。だが殺意に飲まれたヒルダの体から急速に痛みが遠のいていく。

 強烈な殺意と怒りに満ちて興奮状態だったヒルダの脳からは、痛みを和らげる多量のアドレナリンが分泌される。この脳内麻薬はヒルダの痛みを消し去った。

 痛みを消したヒルダは、魔杖風琴の鍵盤へと腕を伸ばそうともがく。穴が空き、骨がむき出しになった手で得物をたぐり寄せようとした。

 

 だが次第に回復していく視力。そして歴戦の切り抜けてきた狩人の勘はヒルダに警報を打ち鳴らす。喜色に塗れた目は細まる。

 

 回復した視力により、視界の光景が脳に焼き付く。ヒルダは戸惑いのうめき声を上げた。 

 周辺にヒルデの姿は存在しない。先ほどの化学錬成系の咒式を発動と思わしき功性咒式士姿もない。

 ヒルデが戦闘、または逃走のために発動したと思われる咒式の痕跡もない。ましてやヒルデの死体がそこにあるわけでもなかった。

 訳がわからない、いったいヒルデはどこに消えたというのか。私を殺さずに逃げ去ったとでもいうのだろうか。

 

 ふと、ヒルデに蹂躙された手へと視線を動かす。

 

 神経等が発する激痛以外の違和感をヒルダは手の中に感じたからだ。

 残った右目で白い骨と、桜色の筋肉が空気中にされされた自身の手を確認。驚きに瞳が染まる。穴の開いた私の手の平の中には、魔杖風琴が確かに収められていた。

 

 異常はこれに止まらない。さらにヒルダを大地に磔にした、四百八十キログラムルもの重量があるチョコレートの墓標。その全てが消失していた。あれだけの質量の塊が、一瞬で消失するなどまずありえない。何者かの干渉があったことは明白だ。

 

 いったい何が起きたのか。

 強烈な光。手に握られた魔杖風琴。消失したチョコレートの塊。

 恐らく咒式の発動により何かが起こったことは間違いない。だが自分には、それがまったく解らない。理解不能だ。

 

 よってその無駄な考えの過程をすべてヒルダは破棄した。

 理解が及ばない事象にいつまでも思考を割く必要など無い。それよりも問題なのは自分の惨状だ。残された時間は少ない。

 

 下半身は焼き切れ、ヒルデのモコポコにより背中の関節は粉砕。各重要器官であった臓器はほとんど破裂している。

 左目は衝撃により破裂、顔の中心にあった鼻は鼻骨が破壊されて陥没。そして逃走の際に流れた膨大な血と、モコポコの咒式による重要な臓器の破損。それによるショック症状。

 徐々に視界は狭まり、体は凍るように冷たくなってきている。死が私を飲み込もうとしているのだ。

 

 だが立ち上がることも、論外な方法ではあるが助けを呼ぶ声もだせない。

 例え第三者が私をエリダナの闇医者が営む診療所へ運ぼうとも、既に到着した頃には息絶えているだろう有様だ。

 

 体は既に生命活動を停止しつつある。状況は絶望的だ。

 だがヒルダの目は死んではいなかった。砂漠の中にある一粒の砂金。それを掴み上げたかのような幸運を彼女は得ている。

 ならば彼女は諦めることはない。諦めるという言葉を知らない。

 

 自らのエミレオの書を起動すべく、咒力を指に込めて魔杖風琴を握りしめる。

 最大の壁であったヒルデの姿も無く、他の攻性咒式士がいない今。何としてでも、この場から離れなくてはいけない。

 そして絶対に再起する。あのヒルデを自分以上にメチャクチャに壊し尽くしてやらなければ、この殺意は到底収まるものではない。

 

 そう思い立ったヒルダであったが、ふと目にした光景に目を大きく見開いた。。

 血を流しすぎたことで視界がぶれているのか。それとも血を逃し続けた事による幻覚を、今の自分は見ているのかとも考えた。

 

 しかしそれは確かにそこにあったのだ。空中に浮かぶ複数のエミレオの書が。

 

 ザッハド王が使徒達に贈るエミレオの書は、原則として一人一冊。

 アンヘリオは何故か複数所有していたが、通常は一冊しか与えられない。だがその一冊が恐るべき力を秘めている事を、使徒であるヒルダは知っている。

 

 しかしヒルダの目の前には、確かにエミレオの書が複数存在していた。

 訳が解らない。僅かばかりの咒力で操作を試みれば、全ての書に自分の咒力が浸透していく。これらの書は全て私のものだ。

 信じられない。何度目の奇跡を起こしたのだろうか。やっぱり私は本物なのだろう。

 

 「ひ、ひひひ」

 

 ヒルダの唇は三日月のような弧を描いた。

 

 すぐさま空中に浮遊している複数のエミレオの書から、膨大な情報を読み取り始める。

 既に限界を迎えつつあったヒルダの脳は膨大な情報量に悲鳴をあげ、視界が徐々に歪んでいく。

 猛烈な吐き気に一際大きな血痰を嘔吐し、さらにヒルダの目からは血の涙が零れ落ち続ける。

 それでもヒルダはエミレオの書の操作を止めない。鬼気迫る表情で咒力を操り、エミレオの書を解読していく。

 

 意識が一瞬飛ぶ。ヒルダ意識を明白にするべく自らの唇を食い破った。真っ赤な血が唇から流れ落ちていくが、今の自分の惨状からすればこの程度は軽いものだ。

 精神力が失いつつある。脳の回路は焼き切れ、未だに生きていることが自分でも信じられない。

 いっそ楽に死なせてほしい。そんな考えが頭をよぎるが、強靭な殺人者としての精神がそれを許さない。

 

 ここで動きを止めて諦めれば、私は死ぬ。私という存在が消える。

 生きるべきチャンスを掴んだ。最大ともいうべき幸運を掴んだ。今の私が死ぬはずがない。ここまで愛されている私が死ぬはずがない。

 

 ヒルダが元々所有しているエミレオの書は、この状況でまったく役に立たない。

 だがこの複数あるエミレオの書の中には、治療を行える異貌のものどもが封印されている可能性が高い。実際に多くのザッハドの使徒が、エミレオの書により治療を行って来たのを私は見た。

 

 普通の咒式士なら匙を投げるような状態であることは解っている。しかし彼らは人の理の外に生きる化け物どもだ。必ず咒式の常識を覆すような何かを行使できるはず。

 

 「しんてたまるひゃ」

 

 もはや『何故なのか』やら『どうして』などという疑問の答えを考えている時間は無い。一秒一秒、自分の命は体から抜け落ちていく。

 残る僅かな咒力を総動員させ、エミレオの書の解析に努めた。

 

 『大喰らい○○○』

 

 ……違う。

 

 『寂寥の○○○○○』

 

 ……これも違うッ!

 

 『毒針の○○○○』、『耳食い狐○○○○』、『菓子屋敷のモコポコ 』

 

 どれも違うって言っているだろうがッ!

 

 僅かだった咒力も尽きかけ始める。これ以上はエミレオの書の制御はおろか、起動すらできなくなるだろう。

 死の足音が聞こえ始めた。体温が失われ、徐々にあらゆる感覚が鈍っていく。いやだ、私は本物なんだ。こんなところで死ぬはずがない。なのに、なのにどうして……。

 絶望を感じ始めるヒルダの両目から、生命の光が失われつつあった。だが突如ヒルダの目に消えかけ手いたはずの生命の炎が、再び激しく燃え上がった。

 声にならない歓喜の叫びを上げる。

 

 見つけた。見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけた見つけたぁぁぁぁぁッ!

 

 ヒルダは興奮を抑えきれず、崩れた顔は破顔した。

 

 『天秤のキヒーア』

 

 エミレオの書の中でも珍しい治癒咒式を得意とする異貌のものどもだ。

 

 生体生成系の第四階位である『胚胎律動癒(モラツクス)』は未分化細胞による肉体の修復を行える。加えて化学錬成系第一階位の『殖血』は糖蛋白質骨髄中の赤芽球系前駆細胞に作用し、赤血球への分化・増殖を促進する造血咒式。

 

 それらの治療咒式を一定の代償を支払う形で同時に発動。または人知を超えた未知の咒式を発動する事で、欠けた四肢や臓器すら生成できる。

 つまり代償さえ払えばどんなに重傷だろうと瀕死だろうと、それ以前の状態にまで瞬く間に回復することができるのだ。

 

 そう、代償を支払うことができればの話だ。

 

 エミレオの書の異貌のものどもは、全て最高にぶっ壊れている。それは性能だけではなく、精神面でも同様だ。彼らに人に対する配慮など欠片も存在しない。何せ同族すら躊躇わずに惨殺する連中だ、人間など言わずもがな。良心などあろうはずがない。

 エミレオの書に封印され、使役されているからこそ言う事を聞くのだ。万が一にでも、こいつらが人間に従順になる事は無い。

 もし書から解放されれば、一秒も待たずに使用者を殺しにかかるだろう。

 

 このままでは例え起動させても意味がない。なんせ代償が払えないからだ。

 例え召喚に成功しようとも、召還した異貌のものどもに笑われながら私は失意の中で死ぬことになる。

 

 手は、何か手はないのか?

 

 無理な咒力の使い方をしたせいで、もう数分も体が持たないだろう。既に脳が悲鳴を上げている。血が大量に流れ出たせいで意識をつなぐ事すら困難だ。

 代償だ。代償を用意できなければ、例えキヒーアを呼び出したところで意味は無いのだ。 

 ここまで足掻いて見つけ出した活路であるというのに。なにもできずに私は死ぬというのか。

 歯を砕かんばかりに噛みしめた。そうしたところでまったく現実の問題は解決しないが、それでも悔しさを押しのけて冷静さを取り戻すほかに道は無い。

 

 それでも涙が込み上げ、彼女の頬を流れ出た涙が伝った。その時であった。

 

 遠くから何者かが走る音。これが複数近づいてくることにヒルダは気がつく。

 足音は複数、それらがこちらに向けて一直線に駆け寄ってくる。

 ヒルダの閉じつつあった目が見開かれた。地面から反響する足音は、彼女を覚醒させるのに十分なものであった。

 魔杖風琴を微々たる力で握り込む。ああ、やっぱり私はついているとヒルダは嗤った。

 

 「おい、ここだっ!ここで膨大な魔力エネルギーが……っ!」

 

 「大変だ……誰かが巻き込まれているぞ!酷い出血だっ!おい、しっかりしろッ!」

 

 駆け付けたのは数人の男達であった。

 全員同じ背広で身を固めており、恐らく何かの組織に勤めていることが解る。皆一様にヒルダの無残な姿を見て驚愕し、顔を青くしながらも側へ駆け寄った。

 ヒルダを取り囲む男達から外れて、一人が何やら端末機材に向けて叫ぶ。切迫した様子で通信機器の向こうへ叫ぶ男の顔からは、余裕というものがすっぱりと抜け落ちていた。

 

 「ええ、重傷者が一人!下半身が消失、臓器が外部に露出しており、片腕は完全に潰されちまっているっ!残る手の甲もぐちゃぐちゃだっ!……ああくそったれっ!生きているのが不思議なぐらいだ!早く医療班を……」

 

 そうだ。私には一刻も早い治療が必要だ。

 だがその医療班とやらをまってやる必要は無い。

 

 「もう大丈夫だ、だから死ぬなっ!死ぬんじゃないっ!すぐに……」

 

 私へ向けて何かを行う男達。

 全員が私を心配していた。助けようと必死になっていた。馬鹿だ、最高に馬鹿な連中が飛び込んできた。

 

 エリダナを騒がし、賞金を賭けられた大量殺人者を救おうと必死になっている。

 大量にゴミ虫共を殺してきた私を、ゴミ虫が不細工な顔して助けようとしている。駄目、笑いが止まらない。

 

 ああ、やっぱり可愛い私は最高に『ついている』。

 

 ヒルダは自らに男達を笑顔で迎えた。

 その笑みを救助に来た隊員たちは安心からくるものだと思ったが、彼らはあまりにも優しすぎた。故に、その笑みに隠された真の意味に気が付くことができなかった。

 

 そこで無残な姿で血と体液をまき散らして横たわる彼女こそが、連続大量殺人集団の中心的な存在であることに。

 三百三十三人もの人間を殺害。今この瞬間、瀕死である理由も殺人を喜び勇んで実行しようとした末路であるということに。

 

 ヒルダの手には革表紙の書物。

 

 その錠前の鎖が解き放たれ、0と1の数列が絡まった二重螺旋の青白い咒印組成式が微かに空中に湧きあがった。

 管理局の心優しく誇り高い彼らは、瀕死のヒルダを必死に生かそうとするが故。そのことに気が付くことが出来なかった。

 


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