夜天に輝く二つの光Relight   作:栢人

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第三話 黒き雲

 

 日が西に傾き、気温が徐々に下がって肌寒くなってきた。時折そよ風が吹き、夕日に照らされた街路樹の桜の枝を揺らしていく。茜色に染まった八分咲きの花が、幻想的な風景を作り出していた。

けれども、伸びる影をぼんやりと見つめているはやてはそれを気にも留めない。周囲の喧騒を聞き流しながら、ゆっくりと車椅子を前に進めていた。

 

「――そうしたらね、なのはったら何て言ったと思う?」

「にゃにゃっ、その話はしちゃダメーっ!」

 

 響くのは、アリサにからかわれて赤面するなのはの悲鳴。その隣、すずかとフェイトがはしゃぐ二人を微笑ましく見守っていた。

 だが、その音も光景も、はやての耳と目を通り過ぎていくだけだった。

 学校で授業を受けて、皆でご飯を食べて、友達とおしゃべりをしながら下校する。それは、はやてが望んでいたことの一つだったはずだ。

 口に出すこともなかった、今まで真面に学校に通えなかった分の憧れ。

 静かな生活の中、ほんの少しだけ夢見る程度だった小さな願い。

 それがようやく叶ったのだ。嬉しくないはずがない。

 しかし、今のはやてにはそれを楽しむ余裕がなかった。

 思考を埋め尽くすのは、『闇の欠片』というキーワード。

 ナハトヴァールと同一の魔力波長を持った、リインフォースと同じく融合騎(ユニゾンデバイス)の少女。

 漆黒の魔力粒子で躯体を構成していた、再生能力を持つ巨大な赤竜(魔法生命体)

 ナハトヴァールと闇の書の動力部と共に消滅してしまった、はやての兄(八神颯輔)

 闇の書の、無限転生機能。

 

「――やて、はやてってば!」

「ひゃあっ!?」

 

 はやてがあげた悲鳴は、けたたましいクラクションによって掻き消された。すぐ目の前を、銀色の壁が高速で過ぎ去っていく。トラックが通り過ぎた先、歩行者用の信号は赤色に染まっていた。

 どうも思考の海に沈みすぎてしまっていたらしい。赤信号にすら気づかず車椅子を進めるはやてを、すずかがハンドルを握って止めていた。両脇の肘置きは、なのはとフェイトによって支えられている。正面には、腰に手を当て険しい目つきで顔を覗き込んでくるアリサがいた。

 

「はやて。あんた、もうちょっと周り見なさい。……考え事をしたっていい。私達の話を聞き流してたっていい。だけど、せめて赤信号くらいは気づきなさい」

「ごめんなさい……」

「よし、許す。それじゃあ次は?」

「……助けてくれてありがとう?」

「あたしに言ってどうすんのよ。あんたを助けたのは誰?」

「……すずかちゃん、フェイトちゃん、なのはちゃん、それに、アリサちゃんも。助けてくれてありがとう」

「うん、どういたしまして」

「気にしないでもいいよ」

「それよりはやてちゃん、怪我はなかった?」

「ん、おかげさまで大丈夫や。ほんま、おおきに」

 

 はやてがもう一度礼を言うと、四人は優しく笑ってくれた。

 いったい何をしているのか。

 四人は朝からぼんやりとしているはやてを気遣い、色々と話題を振ってくれたり、時にはそっとしておいてくれたのに。

 それに比べて自分はどうだ。

 話を振られても曖昧に頷くだけ。一人で集中してみるも考えはまとまらない。挙句の果てには車に轢かれそうになってしまっている。

 皆に救ってもらったこの命は、人一倍大切にしなければならないというのに。

 

「でも、珍しいね。はやてちゃん、いつもこういうことには気を付けてるのに」

「それくらい深い悩みってことでしょ。……私とすずかはなのはとフェイトみたいにあんたの力になってはあげられないけど、それでも話くらいは聞いてあげられるんだから、話せるようになったら話しなさいよね。一応、私達も現地協力者なわけだし」

「うん……」

 

 いいわね、と念を押してくるアリサに、はやては小さく頷いた。

 今のはやてを取り巻く現状()()は、なのはとフェイトの二人に話してあった。友人を厄介事に巻き込むことは気が引けたが、話さずにいて何かが起こってからでは遅い。それに、二人がリンディの部隊に所属している以上、遅かれ早かれ耳に入っていただろう。

 もっとも、二人はまるで自分のことのように協力を申し出てくれたのだが。

 だが、局員としても優秀な能力を持つなのはとフェイトとは違い、すずかとアリサはあくまでも一般人だ。現地協力者であるとはいえ、進展中の事件についてはおいそれと相談できない。すずか達もその辺りを弁えているらしく、深く追求してこようとはしなかった。

 

「ふふっ」

「……ちょっとすずか、何で笑ってんのよ」

「だってアリサちゃん、去年のなのはちゃんのときはツンツン怒ってたのに、はやてちゃんには優しいんだなーって」

「あ、あれは、その、なんていうか……。わ、私だって成長くらいするわよ!」

「そんなことあったの?」

「うん。……あー、ほら、フェイトちゃんとジュエルシードを集めてたとき」

「あ、ああ、そんなこともあったね……」

「なんや、私とフェイトちゃんがおらんときに色々と面白いことあったみたやなぁ。すずかちゃん、なのはちゃん、アリサちゃんについて、他の話も詳しく聞かせてもらってもええ?」

「もちろ――」

「――ああっ、もうおしまいっ! おーしーまいっ! ほらっ、フェイトだって困ってるじゃないっ!」

「え、えーと、私はまったく全然これっぽっちも気にしてないから、大丈夫だよ? うん、他の話なら」

「それじゃあ、去年の夏に私となのはちゃんでアリサちゃんのお家に遊びに行ったときのことなんだけど――」

「――やめなさいって言ってるでしょ!?」

 

 赤面するアリサをからかいながら、青になった信号を渡る。皆の計らいで、空気が変わったのがわかった。

 こんなときくらいは、考えるのをやめて頭を空にしよう。

 八神はやては元闇の書の主で、守護騎士を束ねる夜天の王。その肩書きは重く、数え切れないほどの悪意を呼び寄せてしまう。もう何も知らない子供ではいられないのだ。

 だから、夜天の書の記憶も受け入れた。忍び寄ってくる悪意から、家族を守るために。

 局員の中には、確かにはやて達のことを理解してくれる者もいる。過去に確執があったとはいえ、聖王教会の騎士やシスターにも好意的な者はいた。

 けれども、そんな人間はほんの一握り。その一握りの人達でさえ、はやて達に向ける最初の目は厳しいことが多かったのだ。表向きは良くしてくれていても、粘着く笑顔の裏に、醜悪な悪意を隠している者さえいた。

 そんな状況に現れた少女と、そして、一つの可能性。家族のためと前を向き続けていたが、そこに逃げ道を示されたことで、はやては後ろを向いてしまいそうになっていた。

 だが、今だけは。

 学校の制服に身を包み、何でもない話で笑い合える今だけは。

 友人に囲まれている今だけは、はやてが子供でいてもいい時間だ。

 だから、今だけは不安も期待も忘れてしまおう。

 ――そう、()()()は。

 

『――はやて』

 

 大気中の魔力素が震え、はやての頭に直接声が届く。アースラで眠る少女の監視をしているはずの、ザフィーラからの思念通話だった。

 条件反射で周囲を警戒するが、特に異常は見られない。強いて言えば、笑い合っていたなのはとフェイトの二人が真剣な顔つきになった程度。どうやら、向こうも念話を受けているようだった。

 

『ザフィーラ、どないした?』

『件の少女が目を覚ましました。シャマルが健康状態の再チェックを終え、もう話ができる状態にあります』

『ほんまっ!?』

『ええ。ですが、どうも記憶が混濁しているらしく……』

『そう……』

『ハラオウン提督の許可は取ってあります。リインフォース達もアースラに乗り込んでいますが、はやてもこちらに来てみますか?』

『……ん、学校も終わったとこやから、そっち行ってみるよ。おおきにな、ザフィーラ』

『いえ。では、お待ちしております』

 

 ザフィーラとの思念通話が切れた。一度深呼吸をし、スイッチを切り替える。顔を上げれば、立ち止まった四人がはやての方を向いていた。

 

「はやてちゃん、もしかして、これからお仕事?」

「ん、そうみたいや」

「それじゃあ、遊ぶのはまた今度ね」

「ごめんな、アリサちゃん……」

「いいわよ、明日だって明後日だって、その次の日だってあるんだし。あ、お花見までには終わらせるのよ?」

「それは大丈夫やと思うけど……うん、もし長引いても、お花見は絶対行くから心配あらへんよ」

「ならいいんだけど。なのはとフェイトも気を付けてね」

「にゃはは、ごめんね」

「もし早く終わったら連絡するから」

「うん、待ってるね。それじゃあ、また明日」

 

 また明日、と手を振り、すずかにアリサと別れる。二人の背中が遠ざかるのを、三人は静かに見送っていた。

 普通の小学生として過ごす、子供でいてもいい時間はもうお終い。今からは、非日常を生きる管理局員としての時間だ。

 雲が切れて夕日が強く差し込み、はやて達の姿が茜色の光に包まれる。そして、その光に融けていくかのように、三人の姿が忽然と消え去った。

 

 

 

 

 アースラの転移ゲート。そこに描かれたミッドチルダ式の転移魔法陣が作動して輝きを放ち、三つの光を作り出す。桜色、金色、そして、白銀。光の塊は人型を形どり、三人の少女となった。

 

「お、来たねー。三人共、学校お疲れ様!」

 

 アースラへと転移してきたはやて達を迎えたのは、明朗快活に話す、癖毛の目立つ少女。アースラの通信主任を務める、エイミィ・リミエッタだった。

 切羽詰まった状況というわけではないが、エイミィの態度は些か今の状況には相応しくない。しかし、それこそが彼女の持つ美点の一つだ。どんな状況でも、彼女がいれば気持ちが楽になる。事実、身構えていたはやては、肩の力がすっと抜けるのを感じた。

 

「エイミィさんも、お疲れ様です」

「はやて達が保護したっていう子、起きたんだよね?」

「うん、ちょっと前にね。それで、健康状態をチェックして、今は、クロノ君が事情聴取してるとこ……なんだけど、その子、何だか怖がってるみたいで、ほとんど話は聞けてないんだよね……。とにかく、はやてちゃんは当事者だし、それから、なのはちゃんとフェイトちゃんにも状況知っといてもらおうと思って呼んだっちゅーわけ」

「あの、私も会うて話してみてもええですか?」

「話してくれるかどうかはともかく、それは大丈夫だと思うよ。んー、それじゃあまっ、とりあえず、医務室に行ってみよっか。リインフォース達もそこにいるからさ」

 

 こっちこっち、と歩き出すエイミィの後について、はやて達も医務室へと向かう。その途中、時折すれ違うアースラの乗組員は、はやてが挨拶をすると明るく返してくれるが、その大抵が目を合わせてはくれなかった。

 上司からそう言われたから、という気持ちが手に取るように分かる。それに気が付いているのは、はやてとエイミィだけ。まだまだ子供であるなのはとフェイトは、その悪意とまでは言えない小さな嫌悪を違和感程度にしか認識できていないようだ。

 無視されないだけマシか、と割り切る。

 はやての魔力量は、Sランクオーバー。そして、『管理局――特に、アースラの乗組員には怨みを抱いている』とまことしやかに囁かれているのだ。思う所があるのは事実だが、だからどうこうしようなどと、考えてもいないのに。

 そのようなことをしてしまえば、皆と一緒にいられなくなってしまうから。

 大切な約束を、破ることになってしまうから。

 アースラの乗組員の中ではやてが心を許すことをできるのは、誰とでも分け隔てなく接することのできるエイミィくらいだ。特務四課時代は何かと世話になることの多かったメンテナンススタッフのマリエル・アテンザもいたが、彼女はもう本局の技術部に戻ってしまっている。はやてにとって、なのはとフェイトが一緒にいようとも、アースラは居心地のいい空間とは言えなかった。

 少々気まずい思いをしながら、黙って廊下を進む。医務室の前には、シグナム達が控えていた。

 

「ただいま、皆」

「はやてっ、おかえり!」

 

 シグナム達が揃っている場所こそが、はやての居場所。傍に集まってくる四人を見て、はやての強張っていた表情から力が抜けた。

 

「先ほどは下校中にお呼び立てしてしまい、申し訳ありませんでした」

「気にしてへんから謝らんでええよ、ザフィーラ。それより、リインフォースは?」

「リインフォースなら、医務室の中にいますよ」

「中? でも、今はクロノ君がお話してるんとちゃうの?」

「それが、実は……」

「あのちびっ子、起きたはいいんだけどさ……リインフォースが一緒にいねーと、泣いちまうんだよ」

「は……?」

 

 言い難そうに切り出したヴィータの言葉に、はやては目を丸くした。ちびっ子というワードになのはが吹き出し、食って掛かるヴィータをフェイトが宥めていたりするが、今はそちらの微笑ましい光景にも構う気になれない。

 リインフォースがいないと泣いてしまうとは、いったいどういうことなのか。それではまるで、見た目相応の子供だ。

 突然はやて達の前に現れた、闇の書に関係があると思しき融合騎の少女。記憶に混濁が見られるという話だったが、実際に直接話をしてみれば、何かしらの情報が得られると思っていた。だが、それでは真面に話を聞くことができるかも怪しい。

 眉根を寄せるはやての前で、医務室の扉が開く。中から出てきたのは、事情聴取を終えたらしきクロノだった。

 

「ああ、君達も来たのか」

「お邪魔してます。……クロノ君、中、あの子とリインフォースの二人っきりにしたん?」

「いや、アルフも一緒だ。君の懸念も分からないでもないが、そう心配することはない。あの少女一人だけでは何もできないさ」

「ならええけど……」

 

 肩を竦めるクロノを見て、はやてはざわついた心を静めるように深く息を吐き出した。

 今現在のリインフォースは、戦う力を持たない儚い存在だ。リミッターを掛けているとはいえ、魔法を使うことのできる素性のわからない相手と二人きりにするのは激しく抵抗があった。

 だが、クロノが言うにはフェイトの使い魔であるアルフも一緒にいるらしい。守護騎士クラスの力はないが、それでも腕の立つアルフならば、いくらか安心できた。気さくで面倒見のいいアルフにはいくらか心を許せることも、任せられる理由の一つだ。

 

「というか君達、今までずっと廊下にいたのか? エイミィも、どこか休めるところに案内するようにと言っておいただろう」

「お気遣いありがとうございます。しかし、何かがあったときはすぐに動かなければなりませんので」

「というわけでさ、あはは……」

「事の重大さは重々承知しているつもりだ。だからこそ、少しでも休んでおいて貰いたかったんだが……」

「朝になってからヴィータちゃんとザフィーラに代わって貰えましたから、私もシグナムも、十分休めましたよ」

「昼にはリインフォースとアルフが来てくれました。我らも休息はとってあります」

「……それに、もし欠片が出てきたら、あたしらがやらねーといけねーですから」

「それは……」

 

 ヴィータの言葉に、クロノが口を閉ざす。実際そのとおりで、そしてそれは、はやて達でなくては難しいことだった。

 アースラの乗組員には、数名だが武装局員もいる。その平均魔導師ランクはAランクと高めだが、その人数では大きな事件――例えば今回のような、闇の欠片への対処は難しい。なのはとフェイトが学校に行っている間、主戦力はAAA+ランクのクロノだけなのだ。部隊再編の時期が重なっていることもあり、本局からの早期の増援も望めそうにないとのことだった。

 もしもはやての予想が当たっているのならば、事態はこれだけでは済まない。だからこそ、余計にシグナム達の力が必要だった。クロノもそれを分かっているため、言葉を返せなかったのだろう。

 けれども、それで無茶をしてしまえば、それこそ本末転倒だ。

 

「でも、皆ちょう疲れたやろ? ここはお言葉に甘えて、少し休ませてもらおか」

「ですが……」

「私も来たから大丈夫や。クロノ君、そんなわけで、お願いしてええかな?」

「ああ、もちろんだ。この人数なら……そうだな、今の時間なら、食堂の談話スペースが使えるだろう。休憩を挟んだら、詳しい話をしたい。それまでは、そこで待っていて貰えるだろうか?」

「……わかりました」

「じゃあ、シグナム達は先に行っといてな。クロノ君、私、ちょうあの子とお話してみてもええ?」

「それは構わないが……。その前に一応聞いておくが、はやて、それからシグナム達も、シュテルという人物に心当たりはあるか?」

「シュテル?」

 

 聞き慣れない名前に、はやては首を傾げた。シグナム達に目をやってみるも、首を横に振るばかりだ。

 だが、聞いてきたクロノ本人も、望む答えは返って来ないとわかっていたらしい。むしろ、知らないであろうことを確認したかったようだった。

 

「いや、心当たりがないならいいんだ」

「シュテルって、もしかして、あの子の名前?」

「残念だが、あの少女は自分の名前も覚えていないらしい。覚えているのは、目を覚ました時に一緒にいたらしいシュテルという少女の名前だけだったんだ。リインフォースにも確認してみたが、やはり、シュテルという人物には心当たりがないらしい。念のため局の資料を洗って、聖王教会にも問い合わせてみるつもりだ」

 

 とある事情から、シグナム達の記憶は一部が欠落してしまっている。夜天の書の旅路を覚えているのは、夜天の書の管制人格であるリインフォースと、その記憶を受け取ったはやてだけ。二人が知らないのならば、件のシュテルは夜天の書とは関係のない人物ということになる。

 

「とにかく、僕も情報を整理する時間が欲しい。エイミィには僕の手伝いを頼みたい。なのははシグナム達を食堂まで案内して、それから、フェイトははやてに付いておくように」

「……おおきに、クロノ君」

「……話を終えたら君も休んでおくように」

「ん、了解です」

 

 エイミィを連れ立ち、背を向けたクロノの姿が離れていく。シグナム達も、なのはと共に食堂へと向かって行った。

 厳しい言葉を使うことはあっても、クロノは優しい。二人一組いることの多いなのはとフェイトを分けたのも、はやて達のことを考えてのことだろう。アースラでの信頼を勝ち得ているなのはかフェイトがいれば、いくらか風当たりは弱まるから。

 

「はやて?」

「ん、ああ、ほな、行ってみよか」

 

 シグナム達の背中を見つめていたところを、フェイトに呼び止められる。意識を戻したはやては、車椅子のハンドルを操作した。

 医務室の扉がスライドする。嗅ぎ慣れた病院の匂いはせず、今更ながらに地球との文化の違いを実感した。

 そのまま車椅子を進め、医務室の奥へ。真っ白なベッドの上には、困り顔でベッドに腰掛けるリインフォースと、リインフォースの膝の上に収まった金髪の少女と、少女の腕に抱かれた子犬フォームのアルフがいた。

 嫉妬からか、はやての胸がざわめく。

 その場所は、はやての場所のはずなのに。

 

「なんや、そうしてると親子みたいやなぁ」

「いえ、これは、その……」

 

 少しだけ、棘を含んだ声が出た。理不尽な怒り。けれど、慌てて取り繕おうとしているリインフォースの姿に、心が鎮まっていく。やりすぎはよくないが、狼狽するリインフォースは見ていて和む。

 一方の少女は、新たな闖入者に身を小さくしていた。波打つ長い髪が身体を覆うその様は、頭から毛布を被っているかのようだ。アルフを抱く腕にきゅっと力が入り、上目使いにこちらの様子を窺ってくる。その金色の瞳にだけは、見覚えがある気がした。

 

「アルフ、お気に入りにされちゃった?」

「みたいだねぇ。おっきいのはリインフォースで間に合ってるっぽいからさ、あたしはご覧の有様だよ」

「アルフを抱っこしてると落ち着くもんね。……はじめまして、私はフェイトだよ。この子、アルフのお友達」

「……お友達?」

「うん、そう。はやてもお友達なんだよ」

「はじめまして、はやていいます」

「はやて……はやて……はやて……」

 

 反芻する幼い声。金色の瞳は、はやてをじっと見据えたままだ。

 正直に言って、はやては幼い子供の相手が得意ではない。これまでずっと甘える側で、年下の子供と付き合う機会などほとんどなかったのである。ヴィータなどははやてよりも小さいが、家族は別だ。それに、ヴィータの場合は親友か妹のような感覚で、気を遣うような関係ではなかった。

 その点、フェイトの対応には慣れたものがあった。おそらく、過去の経験が活きているのだろう。今でこそ人間形態のアルフは大人の体つきをしているが、使い魔の契約をした当時は、その頃のフェイトよりも幼かったという。フェイトにとってのアルフは、姉妹というよりも娘のような感覚らしい。

 

「もしかしたら、さっきむすっとしたお兄ちゃんに訊かれたかもしれへんけど、お名前、言える?」

 

 ふるふると首が横に振られる。リインフォースに目を向けても、同じ反応が返って来た。

 

「ほんなら、どうやってうちに来たん? 私の部屋、転移してきたよね?」

「……シュテルに『逃げてください』って言われて、それで、逃げてきたんです」

「シュテルっちゅう子は、どんな子?」

「闇色のドレスを着て、かっこいいんですよ、シュテルは」

「かっこええ子なんか、私も会うてみたいなぁ。……じゃあ、あなたは何から逃げてきたん?」

「……怖い、暗闇からです。たくさん闇が集まって、わたしを連れ戻そうとするんです」

「連れ戻す? それは、どこへ?」

「深い、深い、闇の中です。……わたしはもう、あそこには戻りたくない。……ずっとずっと、一人ぼっちで……それから、それから……」

『ちょっ、はやて、フェイト! この子、さっきより記憶戻ってるよ! クロノんときはここまで話せなかったんだ!』

 

 途切れ途切れで話す少女の声に、切迫したアルフの念話が割り込んできた。リインフォースも、驚いたように少女を覗き込んでいる。

 徐々に記憶が戻りつつあるのか、それとも何かのきっかけがあったのか。後者なら、それは間違いなくはやてとの邂逅だろう。

 ――もし、私と接触して記憶が戻ったっちゅうんなら。

 

『フェイトちゃん、録音お願いしてもええ?』

『うん、大丈夫。最初からバルディッシュに録ってもらってるよ』

『さっすがフェイトちゃん、おおきにな』

 

 フェイトへと念話を送って短く要件を告げ、はやては車椅子の背もたれに預けていた身を起こした。少女の顔がぐっと近くなる。少女は瞬くように目を瞑り、何かを思い出そうと必死になっていた。

 幼子の声音ながらも、少女の語彙は見た目通りのものではない。例えばそれは、夜天の守護騎士であるヴィータのように。

 鼓動が、うるさくなる。

 

「ごめんな、もう一回訊くよ。あなたの名前は?」

「わたしは……わたしは……」

「あなたはどこから来たん? シュテルはどこ?」

「わたしは……どこ……?」

「ちょっとはやて、そんなにいっぺんに訊いたら――」

「――どうして突然家に来たん? 夜天の書との関係はっ?」

「……私は……夜天の……?」

「はやてっ、それ以上は――」

「――お兄は……八神颯輔はどこにおるんっ!? お願いやから思い出してっ!」

 

 フェイトの制止を、リインフォースの忠告さえも振り切った。意図せず大きくなったはやての声が、医務室に響く。痛々しい残響が消えると、室内は静寂に包まれた。

 知らず肩を掴んでしまった少女の目は、大きく見開かれている。その小さな唇が、ゆっくりと開きかけて――

 室内が赤く明滅し、耳に痛い警報(アラート)が鳴り響いた。

 

『取込み中ごめんなさい――……はやてさん?』

「……何でもありません。どうかしましたか?」

 

 中空に現れたディスプレイには、リンディの困惑した顔が映し出されている。それを見とめたはやては少女の小さな肩から手を離し、深呼吸をしながら車椅子に背を預けた。

 リンディの視線が医務室を見渡すようにちらりと動き、そして、何事もなかったかのように言葉が続けられる。

 

『実は、周辺世界に例の魔力反応があったの。それで、フェイトとはやてさんにもブリッジまで来てほしかったのだけれど……お邪魔だったかしら?』

「いえ、そんなことないです。すぐそちらに向かいます」

「はやてと一緒にいきますから、大丈夫です」

『それじゃあ、お願いね。それから、アルフはもうちょっとその子に抱かれていてね。リインフォースさんも、お願いできる?』

「りょーかーい」

「はい、任されました」

 

 お願いね、と朗らかな声があり、ディスプレイが消える。見咎められた気がして、はやてはリンディの顔を直視することができなかった。

 視線を戻せば、少女がリインフォースに縋るようにして身を寄せている。腕の中のアルフが、少しだけ苦しそうにしていた。

 怖がる少女の姿が、いつかの自分と重なった。

 もう一度、深呼吸。手をグーパーと握り、体の力を抜く。

 

「さっきはごめんな、怖い思いさせてしもうて……」

「…………」

「無理はせんでええから、何か思い出したら教えてくれる?」

「……はい」

「ほんなら、また後で。リインフォースも」

「ええ、お気をつけて」

「アルフも、二人をよろしくね」

「おっけー、いってらっしゃい」

 

 よしよしと、緊張を解させるように少女の頭を撫でてみる。さして抵抗もなく受け入れた少女は、顔色を窺うようにしてはやてを盗み見ていた。

 こうしていれば、見た目通りの少女なのに。

 やるせない思いを儚い笑顔の裏に押し隠し、はやてはフェイトと共に医務室を後にするのだった。

 

 

 

 

 はやてとフェイトがブリッジへ入ると、先に着いていたらしいシグナム達やクロノ達の視線が飛んできた。それぞれがいた場所からの距離はそこまで変わらないはずだが、今のはやては車椅子を使っていることを考えれば、最後になってしまったことも頷ける。だが、はやてはそれを言い訳にはしたくなかった。

 遅れてすみません、と周囲に告げ、車椅子を走らせてシグナムの横に並ぶ。ブリッジのメインモニターには周辺世界の位置関係を示すマップが示されており、三つの世界が赤く点滅していた。

 

「全員揃ったようね。それじゃあエイミィ、状況の説明をお願いできるかしら?」

「了解です」

 

 一瞬だけ合ったリンディの目はそのまま通り過ぎていき、メインモニターに向けられた。すでに状況を把握しているらしいエイミィが、口を開くと同時に慣れた手つきで端末を操作し始めた。

 

「えっと、アースラの巡航区域にある三つの世界にて、現地の定置観測班が要警戒対象である闇の欠片と思われる魔力を感知しました。昨日のはやてちゃん達のケースと同じで、何の前触れもなくいきなり現れた感じだね。反応はそれぞれの世界に一つずつで、計三カ所。ただ、魔力反応はちょっと大きいかもです」

 

 モニターの映像が忙しなく切り替わり、魔力反応の位置と現地の航空写真、そして、測定された魔力素の濃度が表示される。索魔法の端末(サーチャー)が上手く機能できていないのか、航空写真にはぼんやりとした霧のような黒い影が映り込んでいるだけだった。

 三つの世界はいずれも無人世界か観測指定世界で、人的被害が出ることはないだろう。しかし、周囲と比べて突出した魔力素の濃度から考えて、出現するであろう闇の欠片の脅威度は、はやて達が相手にした赤竜よりも上であることは確実だ。多少の危険は伴うが、放置しておくわけにはいかなかった。

 一つ不可解なことがあるとすれば、再生のために一カ所に集まるはずの闇の欠片が、世界を跨ぐほどにばらけてしまっていることか。夜天の書が存在している現状、闇の欠片の出現自体がイレギュラーであるため、これまでの規則性はそれほど当てにできないが。

 

「そこで、なのはちゃん、フェイトちゃん、シグナム、ヴィータちゃん、シャマル、ザフィーラの六人に、現地の調査をお願いします。何もないってことはないだろうから、具体的には、闇の欠片の排除だね」

「ちょ、ちょう待ってください。闇の欠片は私らの問題やから、私だけ待機っちゅうわけには……」

 

 エイミィの言葉が切れるのを待って、はやては口を挿んだ。

 未だ九歳の小娘に過ぎないとはいえ、はやては夜天の王。闇の書が起こした問題の責任を取るのは、はやての役目だ。家族であるシグナム達、そして、友人であるなのはとフェイトが動いておいて、はやてだけが胡坐をかいて待っているなどという真似はできない。

 そんなはやての訴えを却下したのは、艦長席に座るリンディだった。

 

「八神はやてはクロノ・ハラオウンと共に待機、これは艦長命令です」

「なっ――っ、どうしてですか……?」

「今のアースラには、リインフォースさんとあなた達が保護した子も乗っています。彼女達を守るための戦力も、必要ではないのかしら?」

「っ、それは、シャマルかザフィーラを残して……」

「闇の欠片は、はやてさんも狙っているのかもしれないのでしょう? 艦長として、むざむざ危険を冒させるような命令はできません」

「そんなのっ、シグナム達やって――」

「――はやてちゃん、そんなに心配しなくても大丈夫ですよ」

 

 真っ直ぐにリンディを見据えていた視界が遮られ、体がふわりと包み込まれる。抗議するはやてを止めたのは、正面から抱きしめてきたシャマルだった。

 

「今の私達は前よりも強くなってますし、それに、リミッターも外してもらっていますから、闇の欠片なんてちょちょいのちょいです。なのはちゃんとフェイトちゃんだって、私達と同じくらい強いじゃないですか」

 

 はやてが夜天の王として覚醒したことで、確かにシャマル達の基礎能力は覚醒前よりも強化されている。施設を出るまでは課せられていた魔力の制限も解かれ、その力を十全に振るうこともできる。なのはとフェイトの二人が闇の欠片に負けることなどあり得ないほどに強いことだって、はやては知っていた。

 だが、問題はそんなことではないのだ。

 

「今回は迷惑をかけちゃいますから、その分、今度のお花見ではおいしいものを作って行って、お詫びにしましょう? それに、なのはちゃんとフェイトちゃんが困った時には、私達が率先して協力すれば――」

『――ちゃうっ、シャマルだって分かってるやろっ!? リンディさんの考えはっ!』

 

 周囲の視線が集中しているのを感じる。誰にも聞かれないように、念話に切り替えてシャマルの言葉を遮った。

 夜天の王と守護騎士(ヴォルケンリッター)は、人材不足に悩む管理局にとっては魅力的な戦力だ。今回、はやて達はアースラチームに協力してもらっている立場だが、もしも、リンディがはやてを盾にしてシャマル達を利用しようとしているのならば。

 

『あの人は、そこまできる人間ではありませんよ。……だって、颯輔君と同じくらい優しい人ですから。はやてちゃんだって、そんなことくらい分かっているはずです』

「シャマル、なんで……」

 

 困ったように笑ったシャマルが、念話を返してきた。

 分かっている。

 リンディが本心からそのようなことをできる人物ではないことくらい、家族を守ろうとするあまりに疑心暗鬼となってしまっていることくらい、自分が一番よく分かっている。

 けれど、分からない。

 どうしてそこで兄の名前が出てくるのか。

 もしかしたら、心の汚い部分をシャマルに見透かされてしまったのか。

 

『はやてちゃんのお仕事は、リインフォース達を守ることですよ。……もしかしたら、これだけでは済まないかもしれません。なるべく早く戻ってきますけど、それまでは、ここの守りをお願いしますね』

 

 シャマルの細く柔らかい指が、はやての頭をそっと撫でていく。シグナム達が、「大丈夫ですから」と一声かけ、横を通り過ぎて行った。

 こういうとき、精神リンクというものは卑怯だ。こちらが思い悩んでいることは伝わってしまい、そして、相手の心は手に取るように分かってしまう。

 叱るでもなく、咎めるでもなく、諌めるでもない、純粋な心配からくる言葉。

 はやてには、転移ゲートに向かう六人の背中を見送ることしかできなかった。

 

 

 

 

 暗く、暗く、暗い、一切の光の届かない世界。

 深く、深く、深い、奈落の闇に覆われた世界。

 そんな世界に、彼女達はいた。

 一方は、不遜な態度の少女。その視線は鋭く、中空に展開した二つの投影型ディスプレイを腕組みをしつつ見下している。時折羽ばたく漆黒の翼が、黒銀の髪と暗色のガードスカートを揺らしていた。

 一方は、幼さを見せる少女。薄紅の瞳を不満気に細め、小さな口をツンと尖らせている。右へ左へと交互に首を傾げながら、水色のツインテールを気の向くままに振り乱していた。

 

「ねー、ねー」

「くくくっ。阿呆共め、まんまと釣られおったわ」

「ねー、ねー」

 

 ディスプレイにアースラからの転移反応を捉え、ニヤリと頬を釣り上げる黒銀の少女。その周囲を、水色の少女がくるくると忙しなく飛びまわっていた。

 

「ねーってばー」

「あの女狐が夜天の王を匿うのも計算の上よ。ふははははっ、我が策に狂いはないっ!」

「ねーってばっ!!」

「ええいっ、耳元で喧しいっ! そう声を張り上げずとも聞こえておるわっ!」

「……反応しなかったのはディアーチェじゃんかー」

「今度はボソボソと……。レヴィよ、言いたいことがあるのならばはっきりと申してみよ」

「えぇー……」

 

 ギロリと鋭い視線を飛ばす黒銀の少女――ディアーチェの反応に、がっくりと肩を落とす水色の少女――レヴィ。今や主従の関係ではなくなってしまった二人だが、ディアーチェの態度は相変わらずのようだった。

 もっとも、二人はつい昨晩まで話はおろか対面すらしたことがなかったのだが。

 理不尽に叱られてしまったレヴィは、不満顔のままにディアーチェへと告げた。

 

「ボク、そろそろ我慢できなくなってきたんだけど、まだ行かないのー?」

「そう急くでない。貴様の見せ場はまだ先だ」

「えー……」

「何だ、単騎駆けに興味はないのか?」

「たっ、単騎駆けっ!?」

「応ともよ。この策の成否は貴様の仕事振りにかかっていると言っても過言ではない」

「たんっきーがけっ、たんっきーがけっ、たんっきーがけぇ~」

「……なんとまあ扱いやすい奴よ」

 

 鼻歌を歌いながら武骨な戦斧(バルニフィカス)をバトンのように振り回し、器用にも中空でスキップをしてみせるレヴィ。呆れ顔になっていたディアーチェは、表情を引き締めてディスプレイに視線を戻した。

 現在のアースラの主戦力は、ディアーチェが発生させた闇の欠片によって分散させることに成功している。あの忌々しい巡航艦が対艦反応消滅砲(アルカンシェル)を取り外した今、厄介なのは夜天の王(八神はやて)のみだ。

 だが、はやての存在は、同時に策略の肝でもあった。

 つまり、攻め込むのならば今。

 ぼうと光る暗闇から、ディアーチェは剣十字の騎士杖(エルシニアクロイツ)を出現させた。

 

「さて……」

「たんっきーがけっ、たんっきーがけっ、たんっきーがけぇ~」

 

 ディアーチェが見据えるは、もう一方のディスプレイ。

 二つの反応を追うそちらは、未だ沈黙を保ったままだった。

 

 

 

 

 その異常は、立て続けに起きた。

 周辺世界の調査に向かったなのはとフェイト、シグナムとザフィーラ、ヴィータとシャマルの三組との通信が唐突に途絶した。分かっているのは、目標地点への転移は成功したこと。その周辺では、漆黒の魔力素が霧状になって渦巻いていたこと。そして、六人は封鎖結界に囚われてしまったらしいこと。

 続いての異常は、アースラへの攻撃。

 第97管理外世界(地球)の軌道上に待機していたアースラは、突如発生した海鳴市を中心とする広域封鎖結界へ、強制的に転移させられた。ベルカ式と思われる結界内の景色は、漆黒の闇。見渡す限りに広がる闇の欠片の大群が、沈みかけた夕日の光さえも遮断して待ち構えていた。

 

「うそ、でしょ……?」

 

 誰もが言葉を失い静寂に包まれたブリッジ。顔色を真っ青にしたエイミィの呟きが、やけにはっきりと聞こえた。

 管理局の巡航艦であるアースラの全長は、100メートルを超える。それほどの大質量を単独で強制転移させることのできる魔導師など、次元世界中を捜しても、片手で数える程度しかいないだろう。それも、アースラ側の抵抗を許さない展開速度。それを成した者の実力は、もはや計り知れない。

 さらには、メインモニターを埋め尽くすほどの魔力反応だ。個々の大きさは一般局員程度のBランクとはいえ、装備も人員も整っていない一巡航艦が相手にできる戦力ではない。戦闘要員が十人にも満たないともなれば、尚更だ。

 しかし、今現在のアースラに乗り込んでいるのは、なにも管理世界にありふれた凡夫ばかりというわけではない。

 

「――っ!」

「はやてっ!?」

 

 ブリッジが白銀の光に包まれ、意識を引き戻したクロノが光の中心に向かって叫ぶ。そこには、騎士甲冑とデバイスを展開したはやてがいた。

 車椅子を投げ捨てる勢いで飛び立ち、純白の翼で狭苦しい空を切り裂く。真っ直ぐに転移ゲートを目指すはやてを遮ったのは、険しい表情をしたリンディだった。

 

「待ちなさいっ!」

「……どいてください」

「待ちなさいと言ってるでしょうっ!!」

 

 横を通り抜けようとしたはやては、伸びてきた細い腕によって引き戻された。魔法で身体強化もしていない、脆弱な力。だが、どこかで見たことがあるその目が、はやてを引き留めた。

 なんてことはないはずなのに、肩に食い込む指がやけに痛い。

 

「闇の欠片の狙いはあなたなのでしょうっ!? あなた一人が行ってどうするつもりですかっ!?」

「――っ、私が行かんで誰が行くんですかっ!? 他人の心配してる暇があったらっ、さっさと障壁張ってくださいっ!!」

 

 上から降ってくる金切声に、はやては俯いたままで怒鳴り返した。

 夜天の王であるはやての魔法は、広域攻撃に優れている。目標地点に敵しか存在しないのならば、その殲滅力は局内でも飛び抜けているだろう。強大な魔力を持つはやてにも殲滅は難しいかもしれないが、それならそれで、他にやりようはあった。

 この状況ではやてを温存するのは、正しく愚の骨頂だ。はやてが時間を稼いでいる間、結界を破り返すなりなのは達が戻るのを待つなり好きにすればいい。それが分からないほど、リンディは無能な指揮官ではないはずだった。

 しかし、リンディが選んだ答えは。

 

「このっ――」

「母さんっ!!」

「――…………っ!」

 

 大きく振り上げられた平手が、クロノの叫びによってそのまま停止し震えている。上がったままだった腕が力なく下に落ち、はやての肩を掴んでいた手がゆっくりと離された。

 

「……クロノ、武装隊員を連れてはやてさんの援護を。エイミィは、最大出力での魔力障壁の展開を急いで。私は結界の解析に入ります。……はやてさん、私が結界を破るまで、時間を稼いでもらえますか?」

「……はい」

 

 機械的に言葉を返し、今度こそはやてはリンディの横を通り過ぎた。

 唇を噛み締めているリンディは、硬く握り拳を作って震えている。いつも笑顔を作っているリンディがここまで感情を露わにしているところを見るのは、初めてのことだった。

 だが、それに気遣っている余裕などない。

 今は、はやてが授かった命と力の意義を示す時だ。

 そして、もしも叶うのならば――。

 その心に浅ましい願いを秘め、はやてはクロノ達と共に転移ゲートを潜った。

 

 


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