孤高の王と巫女への讃歌   作:grotaka

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みなさんおはこんばんちわ、grotakaです。満身創痍です。

今回の話も文字数やたら多いです。こりゃマズイ。
ちなみに今回のお話より、原作二巻の内容へ本格ダイブです!

ではでは、どうぞー


第九話 「狼王の来訪」

 

 ――あら。これはこれは、少々意外ですわね。

 

 無意識下に掛けようとした夢見の術を、逆にそちらの方から視ているのですか。如何に優れた魔術師とはいえ、魔女でない貴方が、この私を“視る”とは……ああなるほど、その眼ですか。確かインドの太陽神から奪い取った物でしたね。

 

 ふふ、太陽の瞳にて夜の娘たる私を視るとは、相変わらず変わった真似をなさる御方。とはいえ、まだ掌握出来ていない力のようですが……まあこの時間帯は私も力が増しますから、呪力を手繰って私を視るというのも不可能ではないですか。

 

 

 御無沙汰しております、若き賢王よ。こうして貴方のお目にかかるのは何年ぶりでしょうか?御健在で何より――とはいかぬようですが、まだまだ壮健でいらっしゃるようで何よりです。

 

 さて、こうしてお目にかかるというのに何の献上もしないのは礼に反しますね。何か御助言でも差し上げるとしましょうか。

 

 ――王よ、どうかお気づきになって下さい。

 

 貴方が捕らわれる鎖は、煉獄へ繋がっている事を。このまま進めば、破滅を免れる事は出来ない。

 

 かつて貴方は、己の激情のままに地上に災厄をもたらした。それは人間達からすれば信じ難く、恐怖するに値するもの。憎悪するに値するもの。

 

 ですが、永きこの星の歴史を見れば、それは何度でも起きてきた事。強大な力を誇る神々にとっては再現も可能な事。貴方は超越者として、自分の持てる力を行使したまでの事なのです。

 

 ――ああ、しかしそんな事は、貴方には関係ないのでしょう。貴方を苦しめるのは、貴方の内に宿るあの者達(・・・・)の記憶なのだから。人に憧れ、人を愛し、人を護ろうとした貴方には、いかなる責苦よりも苦しいものでしょう。

 

 だからこそ、私は苦しい。

 

 今の貴方は、憤怒と憎悪という自分の欲に忠実なようで、その実誰よりも自分の欲に向き合っていない。

 

 どうか、後悔と憎悪の鎖から、自らを解き放って。貴方は善き暴君となられる方。何かに捕らわれるのを良しとしてはいけない。己を覆い隠してはいけない。

 

 どうか気づいて。

 

 今の貴方の進む先に、彼ら(・・)の幸せはないのだから……。

 

 

 ――あら、もう頃合いのようですね。夜が明ける。かつての私が治めていた時間が、終わろうとしている。

 

 では最後に、王よ、私から警告を。

 

 もうじき、貴方の前に最強の狼が現れる。昏き底より生まれ出でた日輪を喰らいし、老練なる魔狼が。

 

 そして時を待たずして、白き冷酷と紅き激情の女王も、貴方を求めてこの国を訪れるでしょう。

 

 彼らとどう向き合うかは、貴方次第。ですが、誰より勝利を求める貴方ならば、この苦境を切り抜ける事は可能なはず。

 

 それではまたお目にかかりましょう、私の可愛い羅刹の君よ……。

 

 

 

  ○  ○  ○

 

 

 

【軍谷伊織】

 

 

 寝室の布団の中。妙な胸騒ぎを感じて伊織は目を覚ました。

 

「………」

 

 周囲を軽く流し見てから、いぶかしむように目を細める。

 

 今の自分には、周囲の全てを肌で感じるような、やたらと自身の五感が鋭く研ぎ澄まされている感覚がある。明らかに日常では感じようのないものだ。

 

 同時に、両目が妙なくらい冴えている事にも気づく。夜でも問題なく行動出来るほど視力が良いカンピオーネではあるが、今の伊織の眼は、肉眼では確認出来ないものを見ているような感覚がある。

 

 自分が正常ではないと明確に判断出来る感覚。とはいえ、前者に限ってはそれを伊織はよく知っていた。幾度となく味わい、向き合っていた。

 

「……戦闘の予感、か」

 

 来たるべき戦いに備え、身体が万全の態勢を整える。いかなる不意打ち・策謀にも即時対応出来るように、視覚聴覚などの五感が研ぎ澄まされる。強敵に挑む度、その前夜や直前に味わってきた状態だ。

 

 しかも今回は、いつになく嫌な予感がする。一人あるいは一柱の敵との戦いを迎える前より、身体の調子が違うのだ。

 

 何か争いの火種を作ったような、そんな記憶はない。一昨日の草薙護堂との会合も、波風を立てる事なく終わったのだ。向こうがどう感じたかは知らないが、少なくとも戦いにはならないはずである。

 

 なら何故だ?日本でまつろわぬ神が顕現したというのか?……いや、あれ(・・)は神力がかなり広範囲に撒き散らされたから出来た真似だ。離れたところでの顕現なら最低二日は経たないとそこまで影響力を広げられないし、そういった報告はない。同様に、まつろわぬ神が東京付近に顕現したという報告はまだ来ていないし、たった今顕現したとなれば、媛巫女の誰かが感づきそうなものである。

 

 ――そこまで考えて、伊織はピクリと眉を動かした。

 

 誰かに何かを聞いたような、警告されたような――そんな感覚がある。

 

 何を記憶を探っても、最近それらしい会話をした記憶などない。強いて言えば草薙護堂だが、これは言わずもがなだ。

 

 自分に自覚がない。しかし無意識下では覚えている感覚がある――そんな、自分でも上手く説明出来ないような状態になる原因に、伊織は心当たりがない――

 

「……ああ、いや、そういえば、あった」

 

 その“原因”に出くわす確率が異常に低いからすぐには思い出せなかったが……二つ、原因として挙げられるパターンがある。

 

 一つは、伊織達カンピオーネの義母、パンドラに幽世に呼び出されるパターンだ。この場合、パンドラ側が正しい手順を踏んでこちらの意識を自分の下に呼び出す為、魂は記憶していても意識下では覚えていないという状態である。

 

 パンドラ曰く魂の浄化が進めばそこであった事も記憶していられるらしいが、神殺しをする人間にはどだい縁のない話なので、伊織には興味がなかった。

 

 ちなみに、関係があるのかは解らないが、彼女に呼び出されるのは大抵こちらが死にかけの状態で意識を失っている時だ。自分の意識が薄れている状態だからなのか、呪力が大幅に減少しているからなのか、はたまたどちらもなのか――まだハッキリとは判断出来ていない。

 

 そしてもう一つが、何者かが"夢見の術"と呼ばれる魔術を使って睡眠中の自分の意識にメッセージを送ってくるパターンだ。

 

 こちらは自分の思念を相手に送り込む術なので、わざわざ意識を呼び出すという面倒な手間が要らない。その代わり、こちら側の意識状態が薄い為に幽世にいる時と同じような状態になるのだ。

 

 心当たりがないと言えば、嘘になる。だが、

 

「――あの女が、まさか、な」

 

 候補が絞られるだけで、どうしても浮かぶ名が、顔が、声がある。

 

 伊織の"終わりと始まり"に関わる女。伊織の世界を変革せしめた女。伊織を魔王にした女(・・・・・・・・)

 

 “あの時”以来一度も遭遇出来ず、六年もの間その片鱗しか掴む事の出来なかった彼女が、今になってコネクトを取ってきたというのか――?

 

「……いや、今はそこは重要じゃないな」

 

 伊織は、巡りそうになる思考を強引に打ち切った。

 

 事の異常さは重々理解出来ている。しかし、今は重要ではない。今重要とすべきは、

 

「……一体、何が起きるのか」

 

 どこまで警戒していいものか、自分でも図りかねる。だが、今の自分の状態に従うならば、あらゆる警戒を怠る事も出来ない。一つのミスでどこまで災厄が広がるか――それが予測出来ないからこそ、絶対に気を抜けない。

 

 根拠などない。だが伊織は自分の勘に従う事を選んだ。

 

 布団から抜け出て、服を着替える。それが終わるが早いか、部屋を飛び出すと電話機を取る。

 

 数秒電子音が鳴った後に、向こうからの応答があった。

 

『もしもし、沙耶宮馨です。――緊急事態、ですか?』

 

「察しが良くて助かるよ。とはいえ緊急って程でもないが――今から俺の指示通りに動いてくれるか。事情は後で話す。草薙にも俺から事情を説明しておくから」

 

『承りました』

 

 ……即座に了解してくれる辺りありがたいが、信用されているのか、何か裏があるのか、はたまたどんな命令でも従わなければならないと諦められているのか――。正直三番目だろうなとは思うしそうなる理由も重々承知だが、やはり憮然とせずにはいられなかった。

 

 それはさておいて、伊織が手短に指示を出すと、息を呑む音に続いて畏まりましたと強張った返答があった。

 

『ですが……一体何故そんな指示を?何か厄介な情報でも入ったのですか?』

 

「いや、一切。だが、何かが起きる、そんな気がするんだ……意味の解らない、納得のいくはずもない理由で済まないが、従ってくれ。事前に構えておかなければ、最悪とんでもない被害が出る」

 

 こんな時ばかりは、己の悪名とて利用する。自分の勘のみでここまで突っ走るなど最早狂人の類だろうが――今更そんな悪評など気にも留まらない。

 

「もう一度伝えるぞ。――軍谷伊織が沙耶宮馨、ひいては正史編纂委員会に命令する。直ちに都内全域に避難勧告を出せるよう態勢を整えろ。いかなる事態になろうと、迅速かつ確実に一般人の安全を確保出来るようにするんだ」

 

『御意に』

 

 

 

   ○  ○  ○

 

 

 

【万里谷祐理】

 

 

「――はあ!?どういう事だよ、いきなり訳が解らない事言うなよ!」

 

 いきなり大声を上げた護堂に、祐理はビクッと肩を跳ねさせて振り向いた。

 

 昼休みの昼食時。祐理はここ最近、護堂やその妹の静香、そしてエリカと一緒に弁当を食べている。今日も同様に四人で昼食を楽しんでいたのだが、つい先程、いきなり護堂の携帯に電話が掛かってきた。しかもその相手が、あの軍谷伊織だったのである。

 

「……これは、何かあったかしらね」

 

 顔を引き締めたエリカが、そっと立ち上がって護堂の方へ歩み寄る。その様子を祐理は不安げに眺めていた。

 

「……二人ともどうしたんですかね、万里谷先輩?」

 

 事情が分からないとはいえ空気から察したのか、緊迫した表情で静香が問いかけてくる。説明のしようがない祐理は、小さく首を振って分からないと意思表示するに留めた。

 

「――――」

 

「――――」

 

 向こうで、護堂とエリカが何か口論をしている。小声なのでどちらも何を言っているのかは分からないが、恐らく軍谷伊織から伝えられた『訳が解らない事』についての話だろう。

 

 ――一昨日の会合の結果、護堂と軍谷伊織は同盟の形を取り、軍谷伊織が護堂に一歩譲る形で“厄介事”に対応していくという方針を取ったらしい。

 

 自分でも重々理解してはいるらしいが、護堂には魔術・呪術的な知識がほとんどない。そういった面では、それらに精通した軍谷伊織が主立って指揮を執る――ということのようだ。

 

 恐らく今の電話もそれ絡みだったのだろうと予想はつくが、護堂のあの反応を聞く限り彼には納得出来ないような内容だったらしい。今も、エリカに対し険しい表情で何かを主張している。

 

 何となく、嫌な予感がした。

 

 この所、軍谷伊織の名前が出る度にこの胸騒ぎを感じている。彼に対する無意識下での怖れが抜け切っていないのかとも思ったが、そうだと結論付けるにはあまりに明確な感覚なのだ。どうしても、得体のしれない何かが迫っているような気がしてならなかった。

 

 ――と、何らかの決着がついたのか、護堂とエリカが口論を止めた。渋々といった表情の護堂が、携帯――の無効にいる軍谷伊織と会話を再開する。

 

 程なくして通話を切り、護堂とエリカがこちらに戻ってくる。静香がいる事を考えてか平静を装った様子だが、目に見えて分かる程に顔が引きつっていた。

 

「どしたの、お兄ちゃん?なんかエリカさんとすごい口論してたけど……」

 

「いや、何でもない。それより万里谷、後で話があるんだけど、いいか?」

 

 静香を軽くあしらいながら、護堂がこちらに視線を向ける。祐理は少し体を強張らせながらも、

 

「……はい。構いませんよ」

 

 小さな会釈と一緒に、了承した。

 

 

 /◯/

 

 

「……それは、本当なんですか?」

 

 護堂が返答としてしてみせた首肯に、祐理は小さく息を呑んだ。

 

 放課後の屋上。人気がほとんどなく、グラウンドの喧騒で程よく音が掻き消されるこの場所を三人は話し合いの場に選んだ。

 

 今朝方、唐突に軍谷伊織が指示を出したという指令。「都内全域に避難勧告が出せるよう態勢を整える」というその内容は、さすがの祐理でも異常と捉えざるを得ないものだった。

 

「何故、軍谷様はそのような指令を下されたのでしょうか……」

 

「『何か危険な事が起きそうな気がする』っていう勘が働いたんだってさ。何だそりゃって話だよな、全く……」

 

 苛ついた様子で護堂が頭を掻く。

 

「護堂、言ったでしょう。あの方の戦闘に関する勘は信じるべきだって」

 

「分かってるよ、分かってる……ああでも、やっぱ納得出来ない!」

 

 エリカの言葉に従いはしつつも、護堂の態度は変わらない。エリカもどうやら本心では彼に同意らしく、深いため息をついた。

 

「あの……何故エリカさんは軍谷様の勘が正しいと思ったんですか?」

 

「私の身近に、それを目の当たりにした人物がいたからね」

 

「エリカさんの身近……?」

 

「パオロ・ブランデッリ。私の叔父様で《赤銅黒十字》の総帥よ」

 

「なるほど……」

 

 甘粕から、エリカとその叔父のプロフィールについても色々と聞かされていたので、名前を出されるだけで納得出来た。

 

「叔父様は、賢人議会の姫君プリンセス・アリスやかの黒王子アレクにまつわるエピソードが有名だけど、軍谷様とも関わりがあったのよ。まあ私は面識がないけれど……色々と酷い目に合わされたらしいわ」

 

 どこか哀愁感漂う調子で語るエリカに、祐理と護堂は揃って目を瞬かせる。どうやら、話を聞いただけの彼女をそんな表情にさせる程悲惨な内容らしい……。

 

「そ、それで、パオロさんはどういう状況で軍谷の勘が当たるっていうのを見たんだよ?」

 

「……三年前、シチリア東部のシラクサにエジプトの神、まつろわぬトトが上陸した時の話よ。あの時は運悪くサルバトーレ卿がイタリアに不在で、叔父様は神獣に対抗し得る聖騎士として急遽向かわれたのだけど……そこで、偶然居合わせた軍谷様の下で戦う事になったの」

 

 

 ――エリカがパオロから聞いた話はこうだ。

 

 なんでも、その時軍谷伊織はまつろわぬ神が襲来しているなどと知らず、チュニス発の船でパレルモに入った所、いきなりパオロに出くわしたらしい。当時はまだ五人だけだった配下達を引き連れ、半ば観光目的での地中海沿岸周遊をしている最中だったとか。

 

 港から少し離れた市街で遭遇した時、パオロの方は、賢人議会から回ってきた資料で軍谷伊織の事を知っていた。だが軍谷伊織の方は名前なら聞き覚えがあるものの、顔は知らなかった。おまけにその時彼は配下達を港に置いていて、パオロと面識がある者もそばにいなかった。

 

 そんな状態で、パオロが彼を軍谷伊織だと認識しコンタクトを取ろうとしたのに対し、軍谷伊織の反応は実に驚くべきものだった。

 

 いきなり魔術を発動させ、パオロを拘束したのだ。それも、かの名高き権能『魔術統べる神馬の女王(アイリッシュ・トライアッド)』による魔術強化込みで。

 

 そして、パオロを無力化した後で、軍谷伊織が彼に告げた一言もまた驚愕すべきものだった。

 

『君、聖騎士だろう?この辺で、何かまつろわぬ神か神殺し絡みの厄介事が起きてないか?どうもこの島に入ってからきな臭い感じばかりしてるんだ、観光を楽しめやしないから手早く片付けてやろうと思うんだが』

 

 この時は、一瞬で聖騎士と見抜かれた事に驚きつつも、パオロは軍谷伊織も噂を聞きつけたのだと考え、詳細な説明をして協力を要請した。軍谷伊織の方も、少し驚いた様子で、しかし快く応じた。

 

 パオロが驚愕させられたのは、その直後に軍谷伊織の配下の一人が大慌てで、聞きつけたらしいまつろわぬトトの噂を通達に来た時だった。

 

 軍谷伊織は「それは今さっき聞いたぞ、この聖騎士から」と笑っていたが、パオロは自分の耳を疑った。

 

 軍谷伊織とその一行にとって、その情報が全くの初耳である事は、やって来た配下の様子から察せられた。軍谷伊織が少し驚いた様子を見せていたのも、自分の勘がピンポイントで的中していたからだった。

 

 つまりこの少年は、この国におけるまつろわぬ神やらカンピオーネに関する情報を一切知らないまま、ただ自分の勘だけで宿敵の存在を感じ取ったのだ。――まつろわぬトトが現在腰を落ち着けているシラクサから遠く離れた、このパレルモで。

 

 その後、軍谷伊織は即座にシラクサまで移動し、まつろわぬトトと交戦。魔術を操る両者の戦闘により、マリアーチェ城が半壊しシラクサ近海の波が大荒れするなど様々な被害が発生したが、無事トトは軍谷伊織によって倒されたという――。

 

 

「――まあ、私が知っているのはほんの一部分の話で、軍谷様にはもっと危険な逸話がいくらでもあるのでしょうけど。とにかく、軍谷様がこんな判断を下されたのは、この東京が戦場になる可能性を踏まえての事でしょうね。護堂、気に食わないのは本当に良く分かるけど、ここは堪えなさい。やっぱりどうしたって貴方は私達のやり方(・・・・・)に不慣れなのだし、何よりあの方を侮るのは命取りよ」

 

「……ああ、分かったよ」

 

「「………?」」

 

 妙に据わった声で応答した護堂に、祐理とエリカは首を傾げ、彼の表情を見て口をつぐんだ。

 

 護堂は、何かに戦慄したような、そして武者震いを抑えるかのような凄味のある顔をしていた。

 

「……どうしたの、護堂?」

 

「……いや、なんかさ。その話を聞いて思ったんだよ。軍谷の奴って武術とか魔術とか権能とか、その辺をやたら危険視されてるみたいだけどさ。俺には、その勘の方がよっぽど恐ろしいような――そんな気がしたんだ」

 

「「…………」」

 

 護堂の言葉に、異論を唱える事は出来なかった。

 

 恐らく彼は、カンピオーネ特有の勘でそう判断したのだろう。武術や魔術のような解りやすい脅威ではなく、自分とは違う形の"獣の勘"をこそ軍谷伊織の脅威の本質だと、そう感じ取ったのだろう。

 

 でも、と祐理は内心で疑問を持った。何故、彼は先の実感を、初めに軍谷伊織から事情説明を受けた時に感じなかったのだろうか、と……。

 

 そう考えて、しかし祐理は思考を打ち切った。カンピオーネの感覚は余人に図り得ないからこそ脅威なのだ、それを推し量ろうとしても無意なのは確かな事。その辺りの差配は彼に任せるしかない。

 

「……まあ、しょうがない。とりあえずはあいつの言う通りにしてみるか……」

 

 諦念を込めてそう呟いてから、護堂は祐理に顔を向け、「どう思う?」と問いかけてきた。

 

「私は、あまり口を出せる立場ではないですから……。……でも、私情を語らせてもらうなら、軍谷様の言う通り、確かに嫌な予感がします」

 

「……マジか」

 

「はい……。近い内に何かが起きるような、そんな予感があるんです。……妙な事を言ってすみません」

 

「いや、言ってくれて助かったよ万里谷。ありがとう」

 

 どうやら祐理の一言で決心が付いたらしく、護堂は表情を引き締めた。エリカに目配せすると、もたれかかっていた欄干から身を離す。

 

「今から軍谷の所に行こうかと思うんだけど……良かったら万里谷もついて来てくれないか?来てくれたら助かるんだけど」

 

「……いえ、申し訳ありません。私、今日は編纂委員会にお仕事を依頼されているので……」

 

 一瞬逡巡してしまったが、断った。

 

 軍谷伊織の下に向かうという事は恵那に会えるという事で、しかも軍谷伊織がそばにいる状態が見られるという、なかなかに興味の湧く状況だが、今回の案件はさすがに外す訳にはいかなかった。

 

 護堂が軍谷伊織から連絡をもらったので先程甘粕に確認も取ったのだが、特に予定に変更はないそうだ。それでいいのだろうかとは思うが、内容を考えればそれも当然な気がした。

 

 つい一週間前、『民』の呪術師が入手した中世ヨーロッパの魔導書、『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』の霊視とあれば。

 

 

 /◯/

 

 

 ――『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』。それは、中世欧州の魔女達が扱ってきた魔術に詳しい者なら、その名を必ず知っていると断言出来るほど知名度の高い魔術書である。

 

 著者は不明、著されたのは魔女狩りの盛んだった15世紀半ば。ラテン語読みを直訳すれば、『人狼の女王の書』となる。古代欧州にて霊的存在として崇拝され、中世にキリスト教によって悪霊へと歪められた存在――人狼の、その女王について記した魔導書。以上が世間で知られているこの書の詳細だ。

 

 

「――そして、その本物かもしれない本がこの国に流れ着いた……と、そういう訳です」

 

 青葉台の閑静な住宅街の一角にある、正史編纂委員会管轄の公立図書館。そこに収められている書物は、その全てが魔導書や呪文書の類ばかり。自国の呪術体系の維持と国内の魔術師達の統括の過程で収集された、欧州由来のものがその大半だ。

 

 特にこの図書館は、前述したような魔導書の中でも特に慎重に管理する必要がある物――ある種の意思を有し、魔力を蓄えて単独で呪詛を発生させる『特別品(スペシャルワン)』と呼ばれる類の魔導書を、数多く保管する唯一の場所である。

 

 そんな特異な空間の中でも、さらに特異といえる小さな小部屋。そこにある机を間に挟んで、祐理と甘粕は向き合っていた。

 

 机には、黒い革で製本された一冊の本が置いてある。製本してあるとはいえ製本技術が発達した初期の時代の物なのか、現代のものと比べるとやや粗雑という印象がある、そんな本だ。

 

 それだけなら、ヨーロッパの歴史的文献くらいの言い訳はつく。だが、祐理の霊感はこの書物に濃密かつ膨大な呪力が溜め込まれているのを感じていた。

 

「祐理さんももう聞き及んでると思いますが、今うちは軍谷さんの指示で慌ただしく動き回ってましてね。本当ならこんな事してる場合じゃないんですが、上からの命令で直ちにこいつを祐理さんに視てもらえと、そういう命令がありまして」

 

「……何故、そんな指示を?」

 

「これだけ正体不明でかつ危険な代物を、放置しておく訳にはいかないからでしょうねぇ……。いや、実際その判断は正解だと思いますよ。軍谷さんの言う“嫌な予感”の正体が判明していない以上、内部に不安要素を飼っていたくないのは当然です」

 

「では軍谷様に見てもらうべきでは?あの方なら、私が視るよりも正確な情報が得られるはずですよ」

 

「それはそうなんですが、残念ながら却下ですね。リスクが高過ぎます」

 

 「リスク?」と眉を潜める祐理。……だが、甘粕の表情を見てすぐに顔を引きつらせた。彼女の心中を見抜いたらしく、甘粕は深々と頷く。

 

 そう、リスクが高過ぎるのだ。この本が本当に、『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』だったなら。

 

 この書の表向きの特徴は前述した通り。だが、それ以外にも――いや、そういった特徴よりも重視すべき点が二つある。

 

 その一方が、この書の『特別品(スペシャルワン)』としての力。読む者に資格があるか否かを選定し、認めた者にはその秘めたる知識を教授する。――そして、資格無き者はその魂を喰らって己が糧とする力だ。

 

 しかしながら、『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』がその名を轟かせる理由はそこにはない。

 

「こう言っちゃ不謹慎ですが、ただ魂を喰うだけっていうならここにある大半の本――例えば元々祐理さんに視てもらう予定だった『Homo Homini Lupus』なんかと大して変わらないです。いや、『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』の場合はさすがに年季が違いますから、呪詛の強制力が段違いですけど」

 

 ちなみに、甘粕が言っていた『Homo Homini Lupus』は、この図書館に所蔵されていた中でも五番以内に入る厄介な魔導書だったが、軍谷伊織が依頼の一環として鑑定・閲覧し、内容をざっとまとめて委員会に提出している。カンピオーネの前には『特別品(スペシャルワン)』の呪詛など関係無く、またその知識を理解する事も容易かったらしい。

 

 ――そう。知識だ。『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』が魔導書として、その内に秘める神秘の知識こそが最も厄介な問題なのだ。

 

 

「祐理さんはこの魔導書に書かれた内容、ご存知ですかね?」

 

 甘粕の問いに、祐理は自信なさげではあるが頷いた。うろ覚えではあるが、聞いた事がある。

 

「確か、書いた魔法陣に狼の精を降ろし、用意しておいた生贄の魂の数に応じて階級の高い精を召喚する――だったでしょうか」

 

「ええ、合ってますよ。生贄の魂の回収、あと手綱の役割は書自体がやってくれる、とかいう触れ込みもあります。こいつを使った召喚例で解りやすいのとしては、18世紀のフランスで出現した『ジェヴォーダンの獣』なんかがそうじゃないかって言われてますけどね」

 

 言うなればこの書は、周囲の人間の魂を喰らって蓄え、それをエネルギー源として大地の霊たる狼の精を召喚する、一連の儀式の説明書兼サポートアイテムなのだ。自我を持つ『特別品(スペシャルワン)』の中では、意外に数の少ない類の魔導書である。

 

 ちなみにジェヴォーダンの獣とは、ヨーロッパの表世界でもUMAの類としてその名が知られる魔獣である。18世紀にフランスなどで出没し、人を襲った大狼であり、時に狼とは思えない奇怪な姿をしていると記された資料もある事から、神獣かそれに準ずる存在ではないかと魔術師達の間では推測されているらしかった。

 

「この書の厄介なところは、その儀式が閲覧を許された資格者なら誰でも手軽に、しかも蓄えた力のおかげで好きなだけ怪物を呼び出せるってところですからね。――それこそ、百人生贄に捧げれば神獣だって召喚出来るくらいにヤバイです」

 

「神獣を召喚した場合も、その書が制御を?」

 

「さすがにそれはない……と、言いたいところですがねぇ。そればっかりは確かめないと解りませんよ。そいつには、それ以外――いや、それ以上に嫌ーな仮説もありますし」

 

「い、嫌な、仮説……ですか?」

 

 さすがに祐理の表情が引きつる。先程から充分頭の痛い問題ばかり聞いているのに、まだ嫌な要素があるのか、と。しかし語る側の甘粕も表情は固い。言う側からしても気持ちのいいものではないのだろう。

 

「『旧き森の女王の書(リベルム・レージーナ・リュカントロプス)』は中世以降、魔女達の間で特に重要にして神秘的な魔導書の一つとしてある意味の信仰を得てきました。それがこの書が一級品の『特別品(スペシャルワン)』にまで成った理由でもある。……そして、そこまで神聖視されてしまったが故に、この書はある種の“触媒”になる可能性が出てきたんですよ。この書のタイトルにもある"旧き森の女王"――人狼の女神を召喚する儀式の、ね」

 

「人狼の、女神……」

 

 あまり聞いた事のない名前だ。自分が欧州の神話についてさほど詳しくないというのも問題だろうが、それを差し引いても耳慣れない。書が中世の著作だというから、相当に古い神格なのだろうか?

 

「人狼伝説は様々な種類がありますが、その多くは“月夜に体を狼に変じる”というものです。古来より月、そして夜は女性の象徴。月光を浴びて力を活性化させる人狼も、雌こそが最高位に在る。それ故に人狼の頂点は女王、女神なんですよ」

 

 祐理が人狼の女神とやらの情報を知らないと察したのか、甘粕がどこか楽しそうにうんちくを語る。

 

 まあそれが解ったところで、状況が深刻化したのは変わらない。甘粕もすぐに表情を沈ませた。

 

「……まあ、そういう事なんで、祐理さんにはこいつの鑑定をお願いしたいんです。出来なければ仕方ないですが、こいつを放置しておくわけにもいかない。時間の許せる限りでいいので、こいつの正体を暴いて頂きたい」

 

「……はい、解りました。私の実力が及ぶ範囲でしか出来ませんが、ご協力させていただきます」

 

 自分程度の人間が、と謙遜しているような状況ではない。今自分しか出来る者がいないのだから、自分にはやる義務があるはずだ。

 

 改めてテーブルに近づき、書に視線を集中させる。触れてしまっては呪力に飲み込まれてしまうだろうが、こうしていれば呪詛に直接触れる事なく霊視を得る事が――

 

「―――ッッ!!」

 

 ほんの少し、視線が本から逸れた瞬間、視界が一瞬で塗り変わった。明るく狭い個室が、暗く静かな夜の密林へと。

 

 四方を巨木に囲まれた空間。葉の隙間から月光が差し込んでいる。それが暗闇に銀色の筋を描く様が、何と神秘的な事か。その美しさたるや、光の差した場所を囲む木々の幹を、神殿の柱と錯覚してしまう程だ。

 

 そんな場所に、祐理は一人ポツンと立っている。甘粕も見当たらず、何か人影が見つかるわけでもない。

 

 ここは一体どこなのだろう。まさか、自分はかの魔導書に魂を喰われてしまったのだろうか?ではここは死後の世界だとでもいうのか?

 

 ……そこまで考えて、祐理はそれらを否定した。

 

 今全身が感じている感覚には覚えがある。霊視の際、通常より強く呪力を視過ぎて意識が朦朧としてしまう時があるのだが、祐理の現状はそれに近い。

 

 では、ここは霊視で視ている映像のようなものなのか。それにしては随分とリアリティなものだが……。

 

 

 ――不意に。背後に何かの気配を感じた。それも、今まで気づかなかったのが不思議なくらい莫大量の呪力を有した何か、である。

 

 反射的に振り返る。祐理の視界に入ってきたのは、月明かりに照らし出された一人の女性の姿だった。

 

 引き締まった細身の身体、伸ばしっぱなしらしい腰までの銀髪、整った顔立ち。横から見ている構図なので、ハッキリとは分からないが、顔に奇妙なペインティングを施している。そして、簡素な衣服を纏っていても感じる覇気がその女性に女王の威風を与えている。

 

「……太古の森の支配者……夜の森への恐怖の具現……月光によって本性を現す、魔獣の女王……」

 

 無意識に口をついて出た言葉――自分は今神気に触れ、それを読んでいる。間違いない、あの書は本物だ。そして甘粕の語った仮説――「人狼の女神を招来する儀式の触媒となる」という話は真実だったのだ!

 

 霊視は成功した。しかし予想していた内で最悪の展開と言わざるを得ないだろう。こんな危険な代物を、一体どうしておけばいいのか……。

 

 祐理はそんな憂慮を抱えつつ、前方の女神を見つめ続ける。

 

 やはり霊視で見ているだけの想像の世界だからか、彼女は祐理の視線に気づくことはない。ただただ月光を浴び、力を蓄えている。

 

 

 しかし。そんな幻想的な光景は、上空から降り注いだ閃光(・・・・・・・・・・・)によって塗り潰された。

 

 

「………ッッ!!?」

 

 視界が純白に染め上げられ、次いで次第に色を取り戻して行く。――しかし、そこには夜の森も月も無かった。それらの代わりというように、周囲にはただまっさらな大地と燦然と輝く太陽が在った。

 

 先程とは異なった状況、異なった世界。自分が感じていた全てが唐突に変貌する。

 

「こ、これは……」

 

 声こそ震えているものの、祐理は祐理なりにこの現象を理解していた。イメージの世界でいきなり光景が変わったという事は、今まで霊視していたものをきっかけにさらに別のものを霊視した結果である。

 

 つまり、ここから見るのは先程とは別の予兆。己の身に降りかかるか、あるいは世界のどこかで繰り広げられる災厄の光景だ――!

 

 

 ただ広がるだけの大地。そこにポツンと立ち尽くす祐理。だが、先程同様、突如として強烈なプレッシャーを放つ何か(・・・・・・・・・・・・・・)が背後に出現した。

 

 

 それは、一匹の狼だった。

 

 

 普通のそれよりだいぶ大きめの、灰色の狼だ。狼という動物の嗅覚から考えて祐理の存在には気づいていようが、彼女の方には目もくれず、ただ空を――太陽を見上げている。その瞳は、明らかに知性ある生命のそれだった。

 

 またこれも、神か神獣の類なのだろうか?祐理は警戒と興味の入り混じった瞳で狼を見つめる。

 

 ……ふと、祐理が瞬きをした瞬間、それ(・・)は起きた。

 

「――――ッッ!!?」

 

 何の前触れも無く。前方の狼が一瞬で巨大化し、後脚で立ち上がった(・・・・・・・・・・・・・・・・)のだ。

 

 体長30メートル強はあろうかという巨体。前傾態勢ながら立ち方は人間のそれに近く、眼光はより獰猛にギラついている。

 

 正に巨大な人狼(・・)。祐理は唖然としつつも、先程の女神が変化した姿かと予想を立てていたのだが、

 

「……いいえ、もしそうなら、こんなに太陽が照っている状況で狼に変ずる事は――」

 

 出来ない、と結論づけるのが早いか、巨狼がさらなる動きを見せた。――青天に輝く太陽に手を伸ばし、掴み取ったのだ。

 

 しかもそれに留まらず、大きく顎を開けてかぶりつき、呑み込んでしまう。最早声を発する事も出来ない、信じ難い光景だった。

 

 狼は闇と大地の聖獣。神か神獣であるなら、太陽はむしろ苦手とする存在のはずだ。一体、あの狼の正体は何なのか……!?

 

 驚愕の連続で、祐理の精神にも揺らぎが生じ始める。心臓が激しく鼓動を打ち、息が荒れる。タラリ、と一滴の汗が頬を伝った。

 

 

 ――そして不運な事に、彼女にとっては最悪と言える止め(・・)が彼女を襲う。

 

 

 祐理の視線の先。巨狼は太陽を喪ってもなお明るい空の下、腹に収めた太陽のエネルギーを堪能するように喉を鳴らした後、今度は唐突に収縮を始めた。前傾態勢で立ったままその巨体が小さくなっていき、同時に人の姿へと(・・・・・)身を変じる。

 

 その人影が、振り向いた。

 

「………そ、そんな、何故、貴方が……!?」

 

 瞬間全身に奔った恐怖に、心臓が凍りつく。

 

 長身痩躯、知性的な風貌。そして虎の如き翠玉(エメラルド)の双眸。

 

 

 ――東欧に君臨せし最古参の魔王。"東欧の狼王"サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン侯爵の姿が、そこにはあった。

 

 揺らいでいた精神に強烈な打撃を受け、祐理の意識が薄れていく。ぼやけていく視界の中、祐理は侯爵の手に何かが掴まれているのを見た。

 

 何か、一冊の本のような……どこかで見たような、あれは、一体……

 

 

 それが何なのか理解する事無く、祐理の意識は断絶した。

 

 

 

   ○  ○  ○

 

 

 

【リリアナ・クラニチャール】

 

 

 東京の都心からやや離れた場所に、とあるホテルがある。

 

 貴族の別邸であったという広大な庭園付きの屋敷を改装し宿泊施設にしたという老舗ホテル。国内でも密かに人気のあるそこに今、リリアナはある貴人(・・・・)の付き添いとして滞在している。

 

 彼女が宿泊しているのは、庭園内に作られた別棟のスイート。その一室のテーブルには今、刺身や天ぷらなどの典型的な和食が並んでいる。

 

「――ところでクラニチャールよ。例の巫女の消息は掴めたかね?」

 

 リリアナが部屋の窓から見える庭園を眺めていると、唐突に連れ(・・)が声を掛けてきた。慌てて彼の横に駆け寄り、頭を垂れて返答する。

 

「いえ。申し訳ありませんが、まだで御座います。お許し下さい」

 

 返答すると、相手は特に興味も無さげに肩をすくめるのみだった。

 

 広い額と落ち窪んだ眼窩、青白い顔。理知的で落ち着いた雰囲気の老人である。しかし、その翠玉色(エメラルド)の瞳は、明らかに彼が直人でない事を知らしめる強烈な輝きを秘めている。

 

 ――サーシャ・デヤンスタール・ヴォバン。それが彼の名前である。そう、彼こそが魔術の世界にその名を知らしめ、最古参の大魔王として崇められる神殺し、ヴォバン侯爵その人である。

 

 普段は東欧に拠点を置く彼が、今この東京にいる理由は実に明白だ。日本にいる巫女。万里谷祐理という、優れた資質を持つ巫女の身柄を得る為である。

 

 何故、カンピオーネである彼が、稀有な資質を持つとはいえたかが少女の為にこの国を訪れたのだろうか?

 

 それは、彼がこれより執り行おうとしている儀式――『神の招来』の儀式の為に、万里谷祐理の資質が必要とされるからだ。

 

 四年前の記憶。かつて執り行い、破綻した儀式において彼女が見せた巫力を、侯爵は記憶していた。そしてそれを頼りに、この極東の島国にまで脚を運んだのである。リリアナはその共を命じられ、こうして付き従っていた。

 

 とはいえ、リリアナは何もかも侯爵の言いなりになっている訳ではない。先程の報告とて、虚偽のものである。万里谷祐理の詳細と居場所程度なら、彼女の所属する《青銅黒十字》は簡単に割り出していた。

 

 それを伝えなかった理由は、もちろん万里谷祐理をみすみす侯爵の手に渡らせる事で発生する、少女と周囲への被害を極力抑え込む為であるが、しかしそれ以上に大きな理由がある。

 

 

 今、この国には二人の神殺しがいるのだ。

 

 

 一人は草薙護堂。つい二ヶ月程前にカンピオーネへと成り上がったばかりの“新人”だが、既にまつろわぬメルカルトやアテナなどを撃退するなど充分な実力を備えている。彼の傍らにはリリアナのライバル的存在エリカ・ブランデッリが愛人として侍っており、それもリリアナが彼に注目を向けている理由である。

 

 そしてもう一人が、軍谷伊織。欧州の魔術師にとって畏れ無くして呼ぶ事の出来ぬ"災厄"の王。かつては最強の戦士達を率い、世界各地を流浪した青年王である。リリアナにとっては、彼の存在こそが最大の危惧であった。

 

 彼の権能の数々やその偉業もさることながら、この場合最も恐れるべきは彼と侯爵の因縁(・・・・・・・)なのだ。

 

 両者の間で、たった一度だけ起きた抗争の被害の規模たるや、軍谷伊織の戦績の中では"災厄"に次ぐとさえ言われる。

 

 この二人が仮に争ったなら、この東京は壊滅を免れられまい。そんな運命を、このリリアナ・クラニチャールが看過できようものか。

 

 だからこそ、彼女は日本に来てからというもの必死に暗躍した。万里谷祐理の情報を結社から得、その後は侯爵の目を欺く事に徹した。彼が自分で探し出すと言い出さないよう、明かしても問題ないレベルの話を報告したりもした。

 

 

 ――だが、その懸命な努力も、脆く崩れ去る事になる。

 

 

「……ふむ、見つからんか。まあ構わんよ、どうやらちょうど良く小鳥の方から籠の方へ飛び込んできたところでな。少し糸をたぐり寄せれば、どうとでも居場所を突き止められそうだ」

 

 不意に侯爵が発した不穏な言葉に、リリアナは思わず顔を上げて彼を注視した。

 

「つい先程の話だがね。何者かがこのヴォバンを幻視していたのだよ。何がきっかけとなったかは知らぬが、この私を霊感によって探り当て、常ならぬものを見出す眼力によって霊視したという訳だ。――大した巫力だと思わんかね?」

 

 ――戦慄した。

 

 リリアナは、これまでに何度かカンピオーネという存在の常識外の性質について聞いた事がある。

 

 神々が有するべき超常の権能を有している事や、人間が使うような魔術が効かない事。そしてそういった中で、並外れた直感力により、危機を察知したり宿敵たるまつろわぬ神の気配を感じ取る、というものがある。

 

 実はこの性質に関する話なら、軍谷伊織こそが有名な逸話をいくつも持っている。かなり離れた場所にいるまつろわぬ神との戦いを予期したり、超常の神秘を秘めた秘境の場所を勘で特定する、学び方次第で一流の魔術師に化ける者を見出すなど魔術師からしても信じ難いものばかりだ。

 

 しかし、今の侯爵のそれはそんなレベルの話ではない。自分に対して行使された霊視術を見破るなど、どのカンピオーネの逸話においても聞いた事がない。この老人の能力は、一体どこまで規格外なのか――!?

 

「そやつが探していた巫女かは知らぬがね。捕らえれば充分役に立ってくれるだろう。――さて、君は探し物が苦手なようだから、誰に探索を任せるか……ここはやはり魔女が適任か。――マリア・テレサよ。来るがいい」

 

 侯爵の呼び声に応じて、虚空より人影が出現する。黒いつば広帽をかぶり、漆黒のドレスを纏った――女性の、死体だ。

 

 侯爵の有する権能の一つ『死せる従僕の檻』。侯爵が手ずから殺めた者をアンデッドとして召喚し、死してもなお侯爵の従僕として使役する悪しき力である。

 

「かつて魔女なりし死者よ。この私を霊視してみせる程の霊視術者だ。居場所を探るのは難しくもあるまい。生前の技を駆使して、見つけ出して見せろ」

 

 侯爵の命令に頷き、死せる魔女は再び姿を消した。

 

 いずれ万里谷祐理は囚われの身となる。リリアナはそう確信した。

 

 そしてさらに確信する事がもう一つ。恐らく、この国は侯爵と軍谷伊織の戦場となる。

 

 侯爵が派手に動きを見せれば、かの王は間違いなく侯爵の行く先を阻みに現れるだろう。あの二人には、そういう因縁がある。

 

 これから先起こるだろう運命を想像して、リリアナは深くため息をついた。




というわけで、第九話でした。

改めてみなさんおはこんばんちわ、いろんな意味で満身創痍のgrotakaです。
リアルの過酷さに打ちひしがれつつ、何とか戻って参りました……!

さてさて前書きでも言いました通り、今回のお話から原作二巻へ本格ダイブとなります。護堂さんの学園ライフは、主に主人公の事情により割愛させて頂きました(白目

ついに侯爵サマ登場です。超強キャラ登場に私もいろんな意味で汗を掻いております。主人公とどのような掛け合いを見せるのか、乞うご期待!

ではでは、また次回!

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