真剣で恋について語りなさい   作:コモド

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三人称視点となります。


番外編:せんのなつやすみ

 三河千は里帰りの身支度をしていた。中学最後の夏休み。お盆休みの帰省を前にして、彼の姉を自称する川神百代のスキンシップは以前にも増して激しくなった。

 

「川神流・姉絡みぃ」

 

 衣類をボストンバッグに詰めている千の背後から四肢を絡みつかせ、百代が密着する。夏である。薄着である。百代である。巨乳である。薄布二枚だけの隔たりを介して、千の背中に豊満な胸が押し当てられていた。

 まだ朝の日が昇ったばかりだというのに、その日は素晴らしく熱かった。真夏の熱気と湿気で茹だるような室内で二人の熱が触れ合う。じわりと汗ばんだ千の左腕を同じく汗がにじんだ百代の手がとらえた。百代の右手は千の胸を這い、探し当てた乳首をもてあそんでいた。

……障子の向こう側では、蝉の一団が、短い成虫の命を燃やして大合唱を奏でていた。

蝉が鳴くのはオスだけである。鳴く理由は、メスに見つけやすいようにするため。それだけである。蝉の成虫は生殖をおこなうためだけに存在する。つまり彼らは発情しているのだ。

総じて、蝉の鳴き声は思春期の少年が、『彼女欲しいなー!』と全力で叫んでいるのと同義なのである。恥ずかしくないのだろうか。

蝉が鳴く。百代に絡みつかれた千の股間も泣く。絡みついた百代の股間も泣いていた。登場人物全員が発情していた。

 

「姉さん、あとでかまってあげるから少し離れて……」

「えー。やだよ。おまえ今から帰っちゃうじゃないか」

 

 百代は拗ねて唇を尖らせた。密着して熱がこもる千の背中が汗をかいた。

 千が焦っているのには理由があった。なぜなら、今日、進学するために上京した実姉の帰郷に伴って実家に帰ることを忘れていたからだ。

 忘れた原因は、姉にその旨を告げられてから今日までに、風間ファミリーと旅行に行ったり、夏休みの宿題を全くやっていなかったワン子が泣きついてきたり、百代の暇つぶしに付き合ったり、キャップと一緒にバイトしたり、ガクトのナンパに付き合ったり、百代に一日中付き纏われたり、大和とモロと買い物に行ったり、京と書店荒らしに行ったり、百代の遊びに付き合ったりして遊び倒していたからである。紛うことなき自業自得だった。

 里帰りを完全に忘却の彼方に追いやっていた千であるが、当日の早朝に姉から電話がきて、ようやく思い出した。手当たり次第バッグに荷物を詰め込んでいた千。そこに暇をもてあました百代がやってきた。

 百代は千に甘えたかった。だが千は相手にしない。あろうことか実家に帰ってしまう。

 窮地に陥った単純一途な百代は、一石二鳥の手段をひらめいた。全身を委ねて千に密着すれば、千に甘えることも身支度の妨害もできる。これで千が新幹線に乗り遅れれば千はいなくならない、千が欲情して百代を襲えばなおよし。百代はそう考えた。百代はアホだった。

 

「千……このまま、お姉ちゃんとだらだら怠惰な夏休みを過ごさないか?」

 

 熱っぽい吐息を耳に吹きかけ、淫靡にささやいた。千は胸が熱くなり、背筋がぞくぞくし、もっと乳首を思いっきりつねって欲しかったが、それらを寸でのところで飲み込んで嘆息した。

 上半身にまとわりつく百代の腕をほどくと、手首を掴み、縄跳びの要領で百代を大道芸のように自分の前に移動させた。

 

「お?」

 

 ストンと尻から着地して千に背後をとられた百代は、虚をつかれたが、千がかまってくれることを期待して口角をつり上げた。が、千が後ろから抱き着くという予想外の行動をとってきたために全身が硬直して何も考えられなくなった。

 

「……!?」

「ねえ、姉さん。これで作業ができると思う?」

 

 百代の長い黒髪に頬を埋めながら、先ほど百代がしたように妖艶に耳元でささやいた。

 百代は耳まで赤く染めながら、

 

「で、できない……」

「うん。ならいい子の姉さんはおとなしくできるよね?」

「うん……」

 

 千の誘導に反射的に答えて、ご褒美とばかりに頭をなでられると言われた通り動かなくなった。千は百代を放置して身支度を済ませると部屋を出た。

 普段、攻めるばかりで攻められたことのない百代は一転攻勢に弱かった。思わぬ不意打ちにぽーっとしていた百代だが、千に置いて行かれたことを悟るとすぐに部屋を飛び出した。

 

 

 

 

 

 

「で、誰が本命なの?」

 

 緩慢に流れてゆく新幹線からの遠景を瞳に映しているだけの千に駅弁を食べながら姉が言った。

 姉の顔は好奇心にあふれてにやけていた。千は細く美しい眉を寄せて、窓側に座る姉から離れるように通路側のひじ掛けに頬杖をついた。

 

「親戚って連中は久方ぶりに会えば、人の詮索ばかりしたがる」

「久しぶりだからこそ弟の成長が知りたいのよ。あんた自分のこと全然話さないでしょ」

「便りがないのは元気な証拠っておれには何の連絡もよこさないのに、自分たちだけは知りたがるってのはねえ」

「あんただって電話も手紙もよこさないじゃないの」

 

 痛いところを突かれた千はむくれて固く口を閉ざした。千は里帰りそのものは嫌いではなかったが、何をしているのか、変わったことはなかったか、好きなコはできたか等、根掘り葉掘り質問攻めされることにうんざりしていた。

 姉が言う本命の内訳が風間ファミリーの武士娘三人なこともそれに拍車をかけた。

 姉が川神院を訪れた際、千の見送りに鉄心とルー、百代とワン子、そして夏休みのあいだ滞在費節約のために川神院に逗留していた京が出てきた。

 女の影を全く見せなかった千に、こんなに可愛くて親しげな女の子の知り合いがいたのかと姉は驚いた。しかも皆、友人以上の親愛を感じさせ、百代に至っては千に恋をしているのが初対面の姉の眼にも明らかだった。

 おまけに、姉が挨拶を済ませ、千の姉ですと自己紹介すると百代は、

 

『千の“姉”の川神百代です。こちらこそよろしくお願いします』

 

 と、姉を強調して実姉に対し謎の対抗心を燃やす始末。姉は頬を引き攣らせた。百代は鉄心にゲンコツを落とされた。ワン子と京とルーは普通に挨拶をした。千は垢抜けた姉に驚いていた。

 芋臭さのなかに素材のよさが光っていた田舎で健康的に育った実姉はもういないのだ。都会と大学という環境によって田舎のくびきから解き放たれた女は、こうも変貌するのだと千にショックを与えていた。

 化粧品の匂いがする姉が言う。

 

「ちょっとは男らしくなったかと思ったのに……あんたなら女の子よりどりみどりでしょう。あのお寺はそんなにストイックなの?」

「別に。女人禁制でもないし、むしろ推奨してたような」

「だったら食べちゃいなさいよ」

 

 長生きの秘訣はエロと豪語する鉄心に同性愛の気がある美少女を侍らせている百代が脳裏を過ったが、その直後に放り込まれたど真ん中直球に千は難色を示した。

 千にとって百代は、実の姉よりも近しい、家族とも友人とも恋人とも言えない、言葉では言い表せない存在だった。たとえ百代が『来いよ、カモン!』とバッチ来いな状態であっても、肉体関係をもって以後どう接すればいいのか、考えれば考えるほど不安になった。

 千は肉親の男女関係、それも姉弟のそれなど想像するのも憚れるのに、姉がぐいぐい口を挟むのが不思議だった。

 

 姉からすれば、千が未だに手を出さないのか不思議で仕方なかった。どう見ても百代は千に手を出して欲しそうだったのに、抱かれない百代が不憫で女として同情していた。

 実姉の欲目抜きにしても千は艶美な少年である。物憂げな横顔を一瞥してから、姉は帰省ラッシュを回避してきてもなお混雑していた駅ですれ違った人々を思い浮かべて、少し誇らしくなった。

 幼少の千は少女然とした美少年だった。母と姉はこの見目麗しい弟を溺愛し、父と祖父母は年端も行かぬ頃から頭角を現していた才能を愛した。

 歳を経つにつれ中性的な容貌が徐々に男らしくなる様に、姉は成長を喜ぶ気持ちと、あのかわいらしかった弟がいなくなる喪失感をいっぺんに味わったものだ。

 

 姉が知る限り、千は人生で危うい時期が二度ほどあった。一度目は故郷で鬱屈としていた幼少期だ。

川神院に修行に出される前の弟は、今のようにずっと気難しい顔をしていた。それが川神に移ってからは生まれ変わったように笑うものだから、手元を離れて寂しいながらも新天地に送り出したことを喜んだ。

 二度目は十歳前後のころ。この時期は里帰りしてもイライラしていた。話しかけられても、それ自体が鬱陶しそうな態度をとった。年長者がその態度を咎めると、論点をずらした正論を理路整然と淀みなくまくし立てるのが厄介で、千は感情をぶつけられると喜ぶが、それに持論を曲げる内容が混じっていると怒るという面倒な性質の持ち主であった。

 次に会った時は友達ができたことを報告し落ち着いていたが、むしろ小学校も半ばを過ぎてまだ友達がいなかったことを悲しんだ。

 

 姉は千にはもっと人生を謳歌して欲しかった。

せっかく恵まれた容姿と能力をもって生まれたのだから、それ相応の優れた友人と美しい女性との出会いを楽しんでもらいたかった。

 せっかく田舎を飛び出したのだから都会の洗練された娘と開放的に遊べばいいのに、千は自分のなかに埋没して閉塞するのが好きだった。

 今も姉の追求にうんざりして、バッグの中から小説を取り出して黙々と熟読している。

 

 姉は心配だった。猫かわいがりしてきた弟の鞠育をよそに任せる。それで弟が誤った道に進んだりしないのか、悩ましかった。

 具体的には千が小説を取り出す際に、バッグ口の隙間から、SMもののAVパッケージを見つけて、この弟がいったいどんな道に進もうとしているのか、考えると夜も眠れなかった。

 

 

 

 

 

 

「よーし、全員そろったな」

 

 風間ファミリー、秘密基地にて。太陽が中天にかかり、猛暑を物ともせずに集まった変わらぬ顔ぶれを見渡して百代は満足げに頷いた。

 

「例年通り、千が帰省した。というわけで!」

 

 昼前の秘密基地内では、テーブルにピザやオードブル、コーラなどが雑然と並び、ちょっと奮発したパーティの様相を呈していた。

 各々グラスを持ち、乾杯の音頭をとっていた主催者の百代が言った。

 

「あいつの悪口言うぞ」

「え!? これそんな集まりなの!?」

 

 突然告げられた陰険な目的にモロがすかさずツッコんだ。他のみんなは特になにも触れずに乾杯して飲み食いを始めた。

 

「ちょっと! ボク、千の悪口とか言いたくないんだけど!?」

「まぁまぁ。どーせモモ先輩の愚痴がメインだろうし、気楽に楽しもうぜ」

「そだね。女子会で席を立ったコの陰口を一斉に言い始めるようなものだと思って」

「全然よくないでしょ!」

 

 良識あるモロが叫んだ。キャップは騒げるならどうでもよい風で、京は全部わかった上で冗談を言っていた。

 

「ちなみにこの宴の資金源は、だいぶ前に千が商店街の福引で当てた商品券だ。期限が切れるからと詫び代わりに渡された。気兼ねなく飲み食いしていいぞ」

「朝になったら突然、『実家帰る』だもんね。びっくりしてビンタしそうになっちゃったわ」

「おい、誰だワン子にビンタ教えたの」

 

 ワン子のセリフにトップブリーダー大和が過敏に反応した。京はしれっとタバスコまみれのピザに手を伸ばしていた。

 百代が不満そうに言う。

 

「ほんといきなりだったからな。朝の稽古終わったら急に帰り支度始めて、『実家に帰らせていただきます』だぞ? 信じられるか? 普通前もって言っとくだろ、常識的に考えて」

「モモ先輩がまともなこと言ってる」

「今の言い方、嫁に逃げられた亭主みたいだね」

「ははは、大和と京は面白いなあ!」

 

 いつも傍若無人で無茶ぶりしてばかりの百代の口から出た愚痴が、今回は筋が通っていたので二人の口から本音がぽろりと零れ落ちた。

 百代は襲い掛かった。大和はすかさず京を盾にした。

 

「ああ、そんな……!」

「お、生贄か。頂いておこうかにゃーん」

 

 百代がガバっと京のマウントを取る。押し倒される京は、なぜかうれしそうだった。

 横で乱痴気騒ぎが始まっているのに、ほかの面子は平常運転で食を貪っていた。

 

「ぐまぐま! まぐまぐ! ぐまぐま!」

「おー! けっこうイケるな」

「うわ、早すぎて攻撃が目で追えないや。こういうときはいつも千が止めてくれてたんだけどなぁ」

「いないと武力でモモ先輩が無双するし、抑止力の重要さが身に染みるぜ」

 

 エネルギーが足りないのか、ワン子が見境なくジャンクフードを詰め込む。育ち盛りのキャップも並んで次々と口に放り込む。

 モロが遠い目をし、京を生贄に捧げ、無事逃げおおせた大和がさりげなく安全地帯に入り浸る。

 その視線の先では、京のけしからん胸を揉もうとマウントポジションで手を伸ばす百代と、その魔手を、両手を縦横無尽に奮って払いのける京の乱闘が繰り広げられていた。

 見世物気分でそれを眺めていたキャップが言う。

 

「なんか京、強くなってね? モモ先輩が手加減してるのもあるけど、けっこう持ってるじゃん」

「ぐまぐま! ……ごっくん。そりゃ、京は夏休み中、川神院で稽古してたもん。男子が三日なら、女子は毎日括目して見なきゃダメよ! アタシたちは日々成長してるんだから!」

「難しい故事成語だがよく覚えてたな」

「えっへん」

 

 口元に食べかすをつけたワン子が、大和に褒められ誇らしげに胸を張った。京は逗留のあいだ、基礎鍛錬のみであるがワン子、百代、千と朝夕の稽古に付き合っていた。泊めてくれるよう頼む際に鉄心から勧められたのがきっかけであるが、京はこれを快く承諾した。

 その成果が如実に表れ、もともと優れている眼も相まって百代の早すぎて残像が見える手捌きもなんとか凌げていた。が、如何せん実力差が開き過ぎている。百代が緩急をつけると、防いでいた両手を難なく掴まれ、完全に無防備な肢体を晒すことになり、京はあわくって助けを求めた。

 

「助けて大和、食べられる」

「お友達で」

 

 フライドチキンを齧りながら、大和はパブロフの犬よろしく条件反射で119番通報を拒否した。

 百代が悪魔めいた微笑で右手をワキワキさせ、胸に手を伸ばそうとする。ガクトが鼻の下を伸ばしてガン見する。モロが顔を赤らめて視線をそらして、やっぱりチラ見する。

 興味のなかったキャップが何気なく言った。

 

「そういやガクト。こないだ千とナンパ行ったらしいけど、首尾はどうだったん?」

「うわ、バッ!」

「ぬわぁにぃ~!? ガクト、話せ。今すぐ話せ」

 

 耳聡く反応した百代は、あとは料理するだけの京を解放してガクトに詰め寄った。

 

「お前~、私が千に女を近づかせないために、どれだけ苦労してると思ってるんだ。

揚羽さんにだって、会うたびに千に会わせろってせがむから、揚羽さんと予定がある日は千をよそに預けてるんだぞ」

「九鬼関連ならスカウトだろうし、会わせるくらい良くない?」

「ダメだ。揚羽さんは姉属性持ちで私とかぶる」

「さすが、千のお姉さんにまで嫉妬する女……思考回路が常人とちがう」

 

 自由になった京が嫌味を言った。千を見送る時のやりとりを横で見ていた京は、思わず百代の頭を叩きそうになった。

 百代はしゅんとした。

 

「最近、後輩が私に冷たい。みんな反抗期なのかな」

「モモ先輩は千で中和しなきゃ危なっかしくて、つい」

「私は薬品かなにかか。まあいい。ガクト、ほら話せ。内容次第では許してやる」

「だー、もう! キャップ! あれほど言うなって言ったろーが!」

「そうだっけ?」

 

 キャップは素知らぬ顔でコーラの入ったグラスを揺らした。大粒の氷がカランと鳴った。それがガクトの年貢の納め時を告げるゴングとなった。

 追い詰められたガクトは顛末を苦々しく語った。

 

 

 

夏休みが始まってしばらく経った頃、偶然、男だけが基地に集まった日があった。皆、思い思いに過ごす中、ガクトがふと呟いた。

 

『あー、彼女ほしいな』

 

 中古で大人買いした小説を十数冊テーブルに山積みし、冒頭だけをパラパラと流し読みしていた千が、本を閉じて言った。

 

『ちがうだろ、ガクト。おれたちは恋をしたいんじゃない。セックスをしたいんだ』

 

 千はオナニー事件以降、性を隠し立てすることをやめていた。性癖――マゾヒスト――こそ打ち明けていないが、ガクトの粗野なエロトークに進んで混ざるほどであった。

 図星をつかれてはしごを外されたガクトは意図せず声を荒げた。

 

『もうちょっとオブラートに包めよ、お前は!』

『事実だろ。おれたちは精神的な結びつきなんて求めていないんだ。おれは特定の女の人を思い浮かべて、胸が張り裂けそうなほど苦しくなったり、目を閉じればまぶたの裏にその顔が浮かんだり、会いたくて会いたくてバイブレーションしたりしない。

ただ、海綿体が膨張して、無意味にティッシュを消費するだけ……その虚しさからいち早く脱したいだけなんだ。ちがうか?』

『だな、いい加減童貞とはおさらばしたいぜ』

 

 ガクトは千の話が理解できなかったが、最後のティッシュのニュアンスだけで言いたいことを汲み取っていた。日本語の妙である。

 

『おれもこの非生産的な日常から早くおさらばしたい。けど、風俗で初体験なんてしたくない』

『気が合うな。俺様の夏の目標は女子大生のお姉様とひと夏のあやまちだぜ』

『千、もしかしてガクトとナンパしに行くんじゃないよね?』

 

 オナニー事件から、唐突に人が変わったように下心を隠さなくなった千に困惑しているモロが口を挟んだ。彼は千が女遊びする軽い男になってほしくなかった。

 だが千は涼しい顔で言った。

 

『試しにやってみるのもいいかな。もう少し外の世界を知るのもいいかもしれないから』

『お、いいねえ。最初はキャップを誘おうかと思ってたけど、女に興味ないキャップよりやる気ある千の方が頼りになるぜ』

『モモ先輩はどうするんだ?』

 

 大和が口にした。名指ししてはいないが、千は自分に尋ねているのだと思い、間をあけて返した。

 

『モモ? ワタシ、ソンナ人シラナイアル』

『おい』

『コトバ、ワカラナイ』

 

 素っ頓狂な発音で明後日の方向を見つめた千は、大和に怪訝な眼差しを向けられた。その目は、どうしてお前はモモ先輩に不満があるんだ、と言っていた。

 あんな美人に好意を寄せられて何の不満があるのだ。一方で、千も、大和が京に好意を寄せられてなぜ受け止めないのか分からないという同様の思いがあった。

 彼らはお互いに、お互いの置かれた状況が不可解であった。ガクトもまた二人の状況が気に食わなかったが、ただの嫉妬であったので相手にされていなかった。

 

『冗談はおいといて、ガクトがかわいそうじゃないか』

 

 千が短く嘆息した。

 

『女の子は過度な筋肉を求めていないのに、相手を威圧するほどのマッチョになって、おまけに普遍的なボディビルダーらしくナルシストで自分大好き。

 素材は悪くないのに、自分から世の女の子の好みから外れていこうとする。それでモテないと嘆くのに自分が大好きだから受けが良い風貌には決してスタイルチェンジしない。追加で、需要がありそうな年下には一切興味がないし、マッチョがモテるアメリカに生まれない悲劇まである』

『このやろう、自分がモテるからって』

 

 ガクトが恨みがましい眼差しを向けた。ほかの面々は言い過ぎだと思っても、言っていること自体は事実なので同意していた。

 

『みんなも中学生なってから毎日のように、彼女欲しいって聞くの辟易してたろ?

 本当は女と遊ぶより、男と遊ぶ方が楽しいくせに、あわよくばファミリーに女を紹介してもらおうって魂胆が見え見えで鬱陶しかったろ?』

『俺様も若かったからなあ』

『ガクト、辛いのは分かるが逃避するな』

 

 思いのほか千がボロクソに罵倒するのでガクトが遠い目をして現実から目をそらした。大和は何度も女を紹介してくれと言われていい加減鬱陶しかったので、ガクトに辛く当たった。

 口が弾む千は調子に乗っていた。

 

『それに、ここもそろそろ牛乳拭いた童貞の臭いがするようになってきたからな。衛生的に誰か卒業しなきゃダメだろ』

『あ、今のはイラっときた』

『うん、千は変わっちゃったね』

 

 同意していた大和とモロの目が据わり、殺意のこもった視線を向けた。千がタチが悪いのは、それが言ってはいけないと分かっていても、人が感情を発する瞬間が見たくて口にして反応を楽しむくせがあるからである。

 尤も男に怒られても嬉しくないので千はすぐに殊勝な態度をとった。

 

『ま、ガクトには世話になってるしね。あいにく紹介できる女はいないし、ナンパに協力しようと思ったんだ』

 

 千に近づく女は百代が原因でいないため、彼の電話帳には風間ファミリー以外の異性が登録されていなかった。

 夏になり、物思いに耽った千は、風間ファミリー以外の女子と接触したことがない現実に気づいてしまったのかもしれない。

 

『腹が立つところはあるが、今回ばかりは目を瞑って感謝するぜ。俺様に千が加われば鬼に金棒だ』

『ガクト要らないよね』

 

 力こぶを作って白い歯をきらりと輝かせたガクトに、ボソッとモロがツッコんだ。

 

『どいつもこいつも女、女……わっかんねー。男同士で遊ぶ方が楽しいじゃん』

 

 蚊帳の外のキャップは寂寥感をにじませて天を仰いだ。

 

 

 

 

 

「で? 結果は?」

 

 百代がどうでもよい他人の苦労話を聞かされたような顔で続きを促した。ガクトは半ばキレながら言った。

 

「見りゃ分かんだろ! 何もねーよ!」

 

 ナンパ自体はすこぶる上手く行った。街に繰り出せば、千をみんな振り返り、向こうから誘ってくる者がいた。

 その中からガクト好みの者を選んで実行したが、その都度、千がやらかした。

 

「あのやろう、成功したお姉様に、ビッチとか尻軽だの罵りやがったんだよ。そのせいで逃げられるわビンタされるわ、最悪だったぜ」

「それでこそ千だね!」

「やっぱり千は、はしたない女が嫌いなんだな!」

 

 なぜか京と百代は歓喜した。大和は、『マゾヒストの欲望を満たしたかっただけなんだろうな』と得心した。

 実際に千は刹那的な欲望を満たすためだけに、気の強そうな女を見つけてビンタするよう誘導していた。ガクトよりも千の方が、性欲が強いのではないだろうか。

 

「千はなにがしたかったんだろう……」

「ほんとだぜ。俺様は殴られただけじゃねーか」

 

 事情を知る大和や京はともかく、何も知らない人が傍から見れば、千の行動は支離滅裂なのでモロが懐疑的な声をあげた。

 ついで被害者のガクトが同意して険悪なムードになりかけたので、百代が思い出したように言った。

 

「そういえばワン子、千のお姉さん美人だったな。いま女子大生だったか」

「そうね。あまり千と似てなかったけど、キレイで上品な人だったわ」

「うおぉぉぉ! 千! カムバァァァァックッ!!!!!」

 

 ガクトは叫んだ。

 

「ガクト、そっちは西だよ」

 

 モロがツッコんだ。

 

「見てください、これが性欲に踊らされた男の浅ましさですよ」

 

 京が呆れた。この場に千が居たならこう言っただろう。「女には男の浅ましさを受け止める包容力があってほしい」、と。

 

 

 

「最近の千って変じゃない?」

 

 モロが憂いをにじませて言った。

 

「元から変だろ」

 

 ガクトは言い返した。

 

「たしかに千はちょっと変わり者だったけど、ガクトみたいなオープンスケベじゃなかったでしょ!」

「ンだとこのムッツリスケベ!」

「千が絡むと荒れるわねえ」

「千は風間ファミリーの火薬庫だからな」

 

 たくさん食べて眠くなったワン子が遠巻きに眺めながらしみじみと呟き、大和が揶揄した。

 千には、たとえばキャップなら奔放なリーダー、大和なら軍師、ワン子ならペット枠のような明確なイメージがない。ファミリー内では、頭脳担当が大和、荒事担当が百代とガクトとされていたが、千は有事の際に誰かが欠けていても、とりあえず千がいれば何とかなる、と万能キャラ扱いが常であり、現在のファミリー発足時にはたいてい眠っていたために隠しキャラのような存在だった。

 千は一見掴みどころがなく、何を考えているか分からないと言われる。外での対応は京のそれに近く、ミステリアスな雰囲気があった。それがモロには憧れに似た感情を懐かせ、ガクトは気に食わなかった。

 実像を知るのは大和と京のみ(キャップも見たことはあるが理解はしていなかった)だが、京は幼少時の先入観が強く、今の千を見るにもフィルターがかかっている。よって大和の対応と評価が最も実像に近いと言えた。

 すなわち、美少年に天がデバッグを間違えたとしか思えない二物を与えたついでに度し難い性欲と性的嗜好を追加したのが千である、と。

 

「千が最近変な理由は見当がつくけどね」

 

 それにしても、この夏の千は、モロの言う通り、性欲に忠実過ぎると大和が疑問視していると、京が言った。

 

「たぶん、この夏休みのあいだずっとオナ禁させてるからおかしくなってきてるんだと思う」

「なにやってんだよお前は!」

「千をおもちゃにし過ぎでしょ!」

 

 言い争っていたガクトとモロが口を揃えて批難した。奇行に走った原因が、抜けなくてムラムラしていた。ありがちかと思わせて、幼馴染にオナ禁させられていたという二段構えは開いた口が塞がらない。

 百代が言った。

 

「いや、溜まった状態なら私の誘惑にかかるかと思ったんだが」

「千が抜く気配をモモ先輩が察したら三人のうち誰かが千の部屋に遊びにいって邪魔してました」

「千のプライベートなしかよ」

「そういうことばかりしてるから千が反抗期になるんだよ」

 

 実際は百代が性に目覚めて優しくなったのが物足りない千が、変態よろしく性格を変化させたのだが、二人は知る由もない。

 百代は少ししおらしくなって肩を落とした。

 

「そういうがな、千の好きなタイプが分からないから迷走してるのが現状なんだよ。ほら、お前ら。千に変なことするのやめてほしいなら情報よこせ」

「今度は脅迫だぜ」

「しかも好きな人を人質に取るエキセントリックぶりだ」

 

 相変わらずの斜め上な言動にあっけにとられるが、いつものことなので平常運転だった。

 

「あ、そういえば千はツンデレが好きみたいだよ。ジャソプのラブコメ読んで、『いいなあ』って呟いてた」

「え?」

 

 モロの情報に声をあげたのは京である。先日、千自身からツンデレは好きじゃないと否定されていた為だ。しかし、モロが「ほら、ここ」と探したその漫画のキャラとコマを見て「ああ……」と、納得した。

 主人公がヒロインの裸を見て殴り飛ばされるシーンだったからだ。

 これじゃ参考にならないなぁ。京は悩んだが、説明するのが面倒だったのでやめた。

 

「もう押し倒せばいいだろ」

「千ははしたない女が嫌いだから悪手だろ」

 

 その後もこのようなやりとりが続き、答えを知っている大和と京が黙っていたために明瞭な意見が出ないまま時間が過ぎた。

 そろそろお開きの時間に差し掛かって、大和が言った。

 

「もういいんじゃない? モモ先輩より千の好感度高い人いないでしょ」

「んー。そういうがな、あいつは他の女に目が向き始めてるし……」

 

 つまるところ百代は不安なのである。片思いの辛さ、千が自分をどう思っているのか、千が誰を好きなのか。考え始めると胸が張り裂けそうになり、目を閉じると千の顔が浮かんで、触れてほしくてたまらなくなるのだった。

 そんな百代に、ふと京が言った。

 

「ねえねえ、ずっと謎だったんだけど、なんで千の故郷に仲いい女の人がいるって思いつかないの?」

 

 盲点だったとばかりに百代がハッと目を見開いた。その発想がなかったのか、他の風間ファミリーも驚いていた。

 

「千の故郷は田舎といっても数万人の人口がある市……近所の幼馴染だっているだろうし、同じく帰省した従姉妹とも……千はモテるからね。一夏の思い出をこの機に作ろうと企んでいる女の子が故郷にいないと、なぜ言い切れるのか」

「京……お前、まさか」

 

 百代が震える声で言った。千のオナ禁を提案したのは京だった。百代も面白がって賛成したが、それは――

 

「そう……千にオナ禁させたのは、溜まりに溜まった性欲を、故郷の安心感のなかで解放させるためだったんだッ!」

「なんてことを……!」

「くくく……信じて送り出した弟が、実家ののんのんとした田舎娘で一皮むけるNTR感をモモ先輩は味わうんだッ!」

「こいつ、味方だと信じてたのに! きついお仕置きが必要だな」

「あれ?」

 

 一瞬で百代にお姫様だっこされた京は、身動きがとれない状態で嬲られようとしていた。

 

「大和、オオカミが! オオカミがでた」

「お友達で」

「くだらねえこと考えてっからだよ」

 

 京はただの思い付きでこれを実行したが、当の本人も他のメンバーも千が大人になって帰って来るとは誰も思っていなかった。

 彼らが知る中で一番美人の百代でも落とせない千が、他の女になびくとは露ほども思わなかった。

 

 京は百代に(ねぶ)られた。

 

 

 

 

 

 

 

 千が実家に帰ると、千は“おじさん”になっていた。

 玄関を開けると赤ちゃんの泣き声がした。首をかしげて居間に足を運ぶと、昨年、兄と結婚した義姉が赤ちゃんに母乳を与えていた。

 目を丸くした千に義姉は、先月生まれた姪だと語って名前を告げた。千は初耳だったので拗ねた。

 

「みんな帰ってきた千を驚かせようと思って内緒にしといたのよ」

 

 と、事情を知っていた姉がにんまりと笑って言った。千はますます拗ねた。

 昨年、突然帰って来るよう催促された先で結婚式があり、その場で兄が結婚するのを知らされたのと状況が全く同じだったからである。

七つ歳の離れた兄と千は確執があった。といっても、優秀で可愛がられる弟を兄が一方的に妬んだものであるが、千は兄が嫌いではなかった。

結婚してからは兄が丸くなり、千を嫌う素振りを見せなくなったそうだが、幼いころから悪ガキで有名だった兄は、年の離れた弟と比較されるのが嫌で、だがその反骨心から努力することもなく、ろくに勉強もしなかった。

千がまだ小学生のときに、帰ってきた千に喧嘩をふっかけ、逆にボコボコに返り討ちにされてからは表立って唾棄することもなくなったが、やはりろくでなしと見られていた。

兄は地元の農業高校に進学して、祖父の農業を継いだが、制服を着崩し、髪を染めて不良ごっこをする兄のようになりたくなくて、姉は真面目に勉強して進学校から都会の大学に進んだ。

姉からして、兄は反面教師となった馬鹿なのだが、その兄が妻をもって人の親となっているのがどうしてか感慨深かった。嫌いな兄の子でも赤ちゃん、姪は可愛いものである。

姉は義姉にお願いして抱かせてもらったりして心底楽しそうだったが、千はおっかなびっくり頬をつついたり、戦々恐々としていたのが印象的だった。

 

 

 

 盆休み前に帰省したので、実家には姪の面倒を見ている義姉しかいなかった。ほかは仕事に出ていた。

 父は農業を継がずに大学を出て中学教師をしていた。今日は部活の引率でいないらしい。曾祖母、祖父母、母に兄は畑に出ており、暇だった姉は取り立ての免許を千に見せびらかして、車に乗ると買い物に出かけた。

 実家には軽トラも含めて車が七台もあり、それらを収納する敷地面積と農地面積を含めて、三河家が如何に裕福か物語っていた。

 義姉は千と二人きりになると、千の容姿と家族から聞かされた活躍を手放しで褒めた。千は褒められるのが苦手なので微妙な反応をしたが、兄とは中学からの恋愛結婚だという義姉は気をよくして色々と語りだした。

 赤ちゃんの夜泣きがひどくて寝不足なことや、おむつの交換といった世話が大変なこと。曾祖母、祖母、母は手伝ってくれて助かるが、夫である兄は手伝ってくれないことなどの愚痴。中学時代の友人はキャンパスライフを満喫しているのが羨ましいなど、同年代への羨望を矢継ぎ早に口にした。染色した明るい茶髪に、まだ遊びたりない未練が残っている気がした。

 千は新しい家族といっても、血の繋がりのない義姉との距離感が分からずドギマギしていたが、義姉は千を一目で気に入って離そうとしなかった。

 やがてスーパーで買い物をしてきた姉が、一人暮らしで鍛えた料理の腕前を見せると豪語してやっと解放されたが、千は突然二人も増えた家族に困惑しきりだった。余談だが、ネズミ対策に飼っていた猫も子供を産んでいて、千は浦島太郎の気分だった。

 

 

 

 

 

 夜に家族が勢ぞろいしての夕食会では豪勢な振る舞いで歓迎された。が、その会合で最も盛り上がったのは姪や義姉の話ではなく、姉が面白がって口にした千のガールフレンドの話題だった。

 酒精も相まって気を良くした祖父や父、兄の酒臭い詮索がいやになった千は自室に引きこもって追求から逃れた。

 盆の親戚一同が集う酒の席では、これがさらにひどくなるのかと思うと、億劫になる。

 千は畳の上に寝っ転がって和室天井版の木目を数えた。

 

 酔っぱらった祖父は、いつか千がビッグになるのだと口癖のように言った。ビッグの意味が分からなかったが、大出世して人様に自慢できるような人物になれと発破をかけているのだと認識していた。

 千はプロ野球選手のような存在になればいいのだと思った。思うに、この家は金に一切不自由しておらず、大富豪のような生活は敵わなくても何不自由ない生活はできる。だから金ではなく名誉欲が欲しいのだと考えた。

 だが、千は名誉が欲しいわけでもなく、金に不自由したこともないために物欲も薄かった。残ったのは性欲だが、こんなものを公開できるわけがない。

 家族は千が立派に成長して、一家の誇りになることを望んでいる。その重圧が年頃の千には煩わしかった。

 そう考えながらパンツを下ろそうとして――

 

『こんばんはー。あの、千くんが帰ってきてるってお母さんから』

『あら、いらっしゃい。千なら――』

 

 玄関にほど近い千の部屋に、快活な少女の声が届いた。出迎える母の声がして、どたばたと近づいてくる足音がする。千はすぐパンツを履いて身支度を整えた。

 ノックがして、返事が終わる前に引き戸が開いた。

 

「あ、千くん。久しぶりー!」

 

 ショートカットの黒髪の、まだ全体的にあどけなさの残る少女がとてとてと仰向けに寝ている千のもとに歩いてきて、女の子座りで千を覗き込んだ。

 彼女は千の家の向かいに住む、二つ年下の女の子で名前は信子といった。小さいころは近所なのでよく一緒に遊び、千が川神市に移り住んでからも帰省するたびに遊びに来た。

 千は起き上がって歓迎した。信子は破顔して、中学生になったことを報告した。

 

 信子は口を開くと、急かしてもいないのに早口で色んなことを話した。

 学区の中学が統合によって廃校になり、新設された中学校に通っていること。制服がかわいくないこと。部活はバスケットボール部を選んだこと。今日もその練習に励んできたこと。隣町に住んでいる千の一つ年上の信美が妊娠して高校を中退したこと。

 千にはもう関係のない世界の話だったが、信子は自分のことを千に知ってほしくて、あのね、それでね、と間に挟みながら語った。

 話を聞きながら、千は小さかった信子が、成長期を迎えて少し女性らしくなったことに驚いていた。

 なだらかだった胸も膨らみ、腰も丸みを帯びているのが、キャミソールとショーパンという薄着ではっきりと分かった。

 部活を終えて、シャワーを浴びてからきたのだろう。髪はさらさらで華やかな匂いがした。

 

 千は誘っているとしか思えなかった。

 

(これ絶対誘ってるよな、ノーブラだし)

 

 半月に渡って、武士娘の周到な妨害によりオナ禁していた千は、非常にムラムラしていた。

 無邪気な笑顔で話している信子の顔から、視線が胸元に落ちてしまう。視線に気づいた信子は顔を赤らめて、腕で胸を隠した。

 

「千くん、どこ見てるのー?」

「あー、悪い」

「もー」

 

 と、嫌がる素振りを見せながらも、悪い気はしなかった。信子は千に憧れていたからだ。

 そして、もしかしたら、と淡い期待もしていた。

 信子にとって、千は幼い自分に良くしてくれた、程度の記憶しかない。だが、物心がつくにつれ、正月と盆に帰省する千が憧れのお兄さんとして、彼女の心に根付いていった。

 それが恋心だと知るのは時間の問題で、そうなると帰省の短い期間にしか会えないもどかしさが彼女を積極的にさせた。

 もう自分も中学生となり、制服を着て大人になった気分でいた。だから、千が自分をいやらしい目で見てくれたことが嬉しかった。

 ずっと子ども扱いされてきたが、今年こそ先に進める気がしていた。

 

「……」

 

 話題が尽きると無言になり、千と信子は見つめあった。信子は期待と気恥ずかしさが綯い交ぜになった表情で、すすっと千の隣に寄り添った。

 そのまま肩を触れ合わせて、上目遣いに見つめてみた。信子には千はいつも通りに見えた。

 だが、千は勃起していた。

 

(もうよくね? 中学生なら大丈夫じゃないかな。ダメ? 愛はコンビニで売ってるし大丈夫だろ)

 

 千は支離滅裂な思考で自分を正当化させようと必死だった。

 女の子がここまでしているのなら問題ないと思う。百代がアウトで信子がセーフな千の基準がいまいちはかりかねるが、過ごした時間の差なのだろう。

 

「あ……」

 

 千が信子の肩を抱き寄せた。信子は心の中でガッツポーズした。心臓ががなり立てる。鼓動が千に伝わっていないだろうか。心構えはしてきたが、いざ鎌倉となれば緊張してきた。

 千はオブラートに包めないほど勃起していた。先ほどまで難しいことを考えながら、溜めに溜めた性欲を発散させようとパンツを下ろしたときに信子がきたのだ。

 千にとっては最悪で、信子にとっては最高のタイミングだった。千の整った顔が近づいてくる。性欲に支配された千は、艶やかな唇を動かして、

 

 

 

「信子は……ムチってどう思う?」

「……え?」

 

 信子は、きっと愛の言葉をささやかれるのだと思った。そしてキスされて、体に触れられるのだと思っていた。

 だが、千の口から出てきたのは、一般的に人を痛めつける道具についての感想だった。

 

「ど、どうって言われても」

「じゃあロウソクは? 縄でもいいけども」

 

 そこまで言われて、信子はやっとSMプレイを要求されているのだと勘付いた。

 信子は絶望した。初体験は年上の千に優しくしてもらえるのだと、乙女心に夢見ていたからだ。

 ムチで叩かれ、ロウソクを垂らされ、縄で縛られながら痛い思いをして初体験をする度胸はなかった。

 

「あ、あたしには、まだ早いと思う……」

「……そうか」

 

 信子は力なく答え、千はがっかりして肩を落とした。

 信子は、都会は進んでいると感じた。多くの刺激に触発される都会で育った千は、二つしかちがわないのにSMプレイを嗜むまでに成長しているのだと。

 まだまだ幼い信子には、それを受け止める自信がなかった。

 そして、まさか信子も、自分が千をムチで叩いて、ロウソクを垂らして、縄で縛ることを要求されているなどとは夢にも思わなかった。

 

 その後、信子は気落ちして岐路につき、やがて千はおもむろにバッグからSMのAVを取り出した。

 中学最後の夏は、こんな感じで終わりを告げた。

 




信子ちゃんの名前の由来はモブ子をもじったものです。
もう出ません。

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