ふたりがどこにいるのかは特に重要ではありませんけれど、具体的な地名、分かる方はわかるかもしれませんね。
何年か前に行ったことあるんですけど、綺麗なところでした。
音もなく、そろり、と船が動き出しました。
潮騒が少しずつ遠くなり、軌跡を示す白い泡が、後ろに続きます。
「いい風だね」
弟の声。他に聞こえるのは、船が海を割る音と、ゆっくりと流れる空気の音。
となりで手すりを握っている弟の髪をさらりと風が撫でていきました。
周りに満ち、けれど不快ではない、海のにおい。
港は遠くへ、あたりは一面の紺碧に。
上を見れば、もくもくと白い雲が立っています。すこし目をずらすと、さんさんと輝く大きなおひさま。
そしてその周りに広がる、澄んだ青。
「ふむう」
何度も見た景色。けれど、最後に見たのはいつだったのでしょう。
嫌いだ嫌いだと言っていたけれど。
こうやって実際に見てみると、その、案外悪くないもの、なんですね。
「去年は結局帰らなかったから、まるっと一年半ぶりかな」
ぽつりと弟がつぶやきました。
「そーねえ。なんか、久々ね」
ほう、と、姉弟揃ってセンチメンタリズムに浸っていると、ほどなくして船は島へたどり着きました。
船での移動はおよそ十分程度。大した距離ではないので、アッサリ着いてしまいます。
「橋でも架ければいいのに」
「それじゃ風情がないよ、ねーちゃん」
「ま、それもそっか」
船は停泊し、桟橋にどっとヒトがなだれ込みました。
「うわ、人多いね」
弟が呆れたような声を上げています。
「そりゃそうでしょ。夏休みだもん」
かつかつと鉄の階段を降りてみると、もう殆どの人が下船していました。屋根のある桟橋は人混みでごった返しています。
「帰ってきたんだねえ」
「そうねえ」
今日一日だけですが、私達姉弟は実家に帰省しにきたのでした。
理由は単純で、誕生日くらい帰って来い、と言われたからです。
けれど。
「わざわざ誕生日ってだけで呼ぶかしらん」
「そうだね、ちょっと怪しいね」
訝しげな顔をした弟。考えることは同じようです。
「まっ、帰りゃ分かるでしょ。取って食われるわけでもなし」
「……うん、そうだね。そうだといいね」
「む?」
弟は眉を寄せたままです。
はてさて、何が起きるのやら。
人混みを抜け、桟橋から脱出しました。
木々の立ち並ぶ石畳の広場は、ツアー客とシカでいっぱいです。右には欧米人、左には老人会。その他モロモロの観光客が、シカに餌をやったり、座り込んで休憩したりしています。
私達はまっすぐ家に帰ろうか、と思ったら、
『せっかくだから観光してきなさい。昼過ぎくらいまで』
などといういかにも怪しいメールが、父から届きました。
「これ、は」
「ゼッタイ、何かあるわね」
確定です。どんな厄ネタだか知りませんが、ともかく後ろめたいことがあるのは間違いありません。
「観光って言っても……、水族館でも行く?」
「なーにが悲しくて弟と水族館デートしなきゃなんないのよ」
「そう言われても」
「どっちみちこの辺はあんまり来たことないんだし、神社行って、おみやげでも買いましょ」
「……うん、そうだね」
ふと。
目の前には、かき氷の出店があります。
「……」
「……」
交差する視線。
どちらからともなく、そのかき氷屋に近づいていきました。
フェリー乗り場から神社までは、一本の街道で繋がっています。
「うーん、風が涼しくていいわねえ」
「そうだねえ」
海沿いのその街道は、人通りは多いものの海風のおかげでとても爽快な気分にさせてくれます。
木々のざわめきと、打ち寄せる波の音。土を踏む足音。
それに紛れてかき氷をシャクシャク食べていると、なんだかとても夏をエンジョイしているよう。
と。
「む?」
ひらり。
視界の隅を、なにか、見知った影が通った、ような。
「ねーちゃん、どうかした?」
急に立ち止まった私に、弟が声をかけてきました。
「あ、ううん、なんでもないよ。行こう」
きっと見間違いでしょう。
もう一度そこに目をやると、ぼけっとしたシカが歩いていました。
お
あたりは参拝料を支払う人でごった返しています。今は特に、ツアー御一行様が我先にと進んで行こうとしているので、他の参拝客は待っているしかありません。
「こんなにたくさん来るもんなのねえ」
石段に座って呆れていると、弟も同じ意見のようでした。
「うん、今まで、こっちからは来なかったもんね。すごいや」
海風のおかげで暑さはしのげるものの、こんなに人が居ると疲れてしまいます。
ツアー客の一団は通りすぎたようで、一般の参拝客が支払いを始めました。
「さ、行こっか」
「うん」
「へええ、綺麗なもんねえ」
お社の中はまるで新築……という言い方が正しいのかわかりませんけれど、とにかく真新しいです。手すりや柱はつやつやの朱色で、床や天井は綺麗な木目が並んでいます。海の上に建っているので、ざあ、と打ち寄せる波の音が聞こえるのもまた風情があります。
「台風のたびに吹き飛ばされてるからね、新築みたいなもんだよ」
弟は風情が無いです。
「宮大工さんも大変ねえ」
「でもさ、そのおかげで技術は鈍らないんじゃないかな」
「あ、なるほど」
ただでさえ宮大工というお仕事は、その技術の使いみちが減ってきていると聞きます。頻繁に修復作業をすることで、腕が錆びないようになっているのでしょうか。
「やっぱ、人多いね」
お社を進んでいくと、ひときわ人が多いところがありました。
お守りやおみくじ、お賽銭。人々がこぞってそれらに食いついています。
「おみくじとお賽銭くらいはやっとくか」
「うん」
「げ」
「うん?」
おみくじは、末吉でした。
「これ、生殺しよね」
「なにが?」
「だってさ、いっそ凶なら諦めつくし、吉ならまだ希望があるじゃない。何よ、末吉って」
私の言葉に納得したように頷く功介。
「確かにそうかもね」
「コースケはどうだったの」
「ん、大吉」
「…………」
ひらひらとおみくじを見せてくる弟。それをじいっと見てみると。
「お」
「え、何?」
「ほらここ、恋愛運」
――――新たな出会いあり。好機を逃さぬよう。
「やったじゃん、ねえねえ、何のことかなあ、これ?」
「ぐう、見せるんじゃなかった」
「神様のお墨付きまでもらっちゃったんじゃあ、頑張らないとねえ?」
「ええい、そういうねーちゃんのはどうなのさ」
「ん? えーっとねえ……、悪しき出会いあり、災いに注意……?」
「ぶ」
「ひ、ひどっ……。なによ、これえ」
「ねーちゃん、おみくじはさ、引き直してもいいらしいよ」
「知らないわよ、そんなことっ。えーい、こんなもん、こーしてやるう」
両手でくしゃくしゃとこよりのように細くねじり、壁に結んでおきました。
「よし。うわ、すごい数ね、ここ」
おみくじを結べるよう、棒の掛けられた壁には一面におみくじが括りつけてありました。
「あ、ねーちゃん、お賽銭箱空いたよ」
「よしきた」
ちょうどお賽銭箱の前から人が消えていました。
「えーと、にれい、にはくしゅ、にれい、だったわね」
「違うよ、最後は一礼だけだよ」
「あ、そうなんだ。オッケー」
ポケットから五円を取り出し、賽銭箱にぽいっと投げます。
ぱん、ぱん、と、二人分の柏手の音。
(……ご縁がありますように)
それだけをお願いして、最後に礼をしました。
お社を抜けて。
鳥居の傍。
写真屋さんの裏。
路樹の影。
シカの群れの中。
おみやげ屋さんの置物の奥。
お蕎麦屋さんの、のぼりの向こう。
「むうう」
ずるずる。
「……?」
ずぞー。
「……もぐもぐ」
ことん。
「ねーちゃん、どうしたの。さっきからキョロキョロしっぱなしだよ」
「…………」
ざるの上を平らげ、蕎麦湯をすすりながら尋ねてくる功介。
「………‥その、ね。見間違いだとは、思うんだけどね」
「うん」
ふう、と一息つき、言葉をつなぎます。
「さっきから、いろんなところで、白いシャツに青いジーンズで、でっかいカバン持ってる黒髪ロングの人を見るんだ」
「…………、なるほど」
合点がいったように湯のみを持ったまま頷く、次代の当主。
「はぁぁー……もー、ぜーったいあの人だよねえ」
「だろうね。それなら、父さんのメールとか、いろいろ納得がいくもん」
「そう? とっとと帰って来い、っていうんならわかるけど、なんであたしらをフラフラさせんの?」
「町でばったり遭わせて、なんか面白いことでもしてこいってことじゃないの」
達観したように言う弟。もう既に、当主の貫禄を漂わせています。
「なら入れ知恵したのは母さんね。もう、ヘンなことが好きなんだから」
「そうだね」
母はおっとりしているようでその実しっかりしており、そしていたずらが大好きです。
決して悪質ではく、むしろ善意に依るいたずらばかりをするのですが、度を過ぎた善意は悪意をも勝るもの。母はその手のいたずらの達人であり、隙あらばその手腕を発揮しようとしています。
今日の一件もそう。きっと、
『まちなかであのひとと出会っちゃったらきっと楽しいワ』
なんていう魂胆でしょう。
「コースケは気づいてなかったの」
私のざるの上にはまだ蕎麦が残っています。こういう観光地のお店はなかなか美味しいお店が多く、ここのお蕎麦屋さんも大当たりでした。
「魔術師っぽい人がいるなあ、とは思ってたけど、ここじゃいつものことだから」
「そうねえ」
私のざるにはまだお蕎麦が残っています。
こういう観光地で食べるものはなんであれ、美味しさが増しているように感じます。
このお蕎麦もまさにそう。なんでもない普通のざるそばのはずなのですけれど、冷たくてとっても美味しいです。
「向こうは気づいてるのかな」
蕎麦をずるずるしていると、弟が言葉をかけてきました。
「気づいてるんなら話しかけてくるでしょ。そのうちバッタリ会っちゃうんじゃない」
「……今年は、橙子さんが帰ったんだね」
「そうでしょうね。まったく、あの姉妹は仲が良いんだか悪いんだか」
「え、良いでしょ」
なんでもないことのように言う弟。
「ばっか、仲が良いってんなら殺し合いなんてするもんですか」
「あのふたりが本気で殺し合ってるんなら、とっくにどっちか死んでるでしょ。意識的であれ無意識的であれ、最後の最後には手を抜いてるんだと思うな」
「ははあ、そういうことか」
ずるり、と最後の一束を口に入れ、もぐもぐしていると。
「あらあ、久しぶりね、貴方たち」
涼しげな声が、りん、と響きました。