【挿話】時津風、海に出る。
あれは鎮守府に来てまだ1月も経っていない頃の話だ。
不馴れな仕事にようやく慣れてきたある日の夜、寝る前に天津風から提案があった。あなたも艦娘なんだから、海に出たいはず。今度の休みにでも許可をとって海に出させてもらわないか、というものだ。
「海の上は良いわよ、風も気持ちいいし、のびのびできるし。戦闘がなければあんなに良いところはないわ」
「いや、でも艤装が必要なんでしょ? そんな理由で貸し出してくれるかな…?」
天津風は本当に楽しそうに言うが、こちらとしてはどうにも不安が多い。初めて海に出るときはなにかと手こずると話に聞いていたのだ。
陸地とは違うバランス感覚に移動方法。人間ではなし得ない動きだ。
そんなわけで、天津風には悪いが断ろうと思っていたのだが――――
「――――いいぞ。ちょうどその日は特に出撃予定もないから艤装も空いている。勿論襲撃があったときには速やかに中止、作戦行動に移ってもらうことになるが。まあ、大丈夫だろう。ここ数ヶ月は全く起きていないからな」
次の日の朝、まあ無理ですよねと前置きしてから司令に聞くと、意外にも許可を出したどころかむしろ薦めるような反応をもらった。
司令としては内心良いことをしたと思っているのかもしれないが、此方としてはとんだお節介だ。
しかし、天津風たちと一緒に聞いたものだから誤魔化しようもない。気は進まないが、やるしかないようだ。
「なんだ、難しい顔をして。最近この辺りは割りと安全な海域なのをお前も知っているだろう? 大丈夫だよ」
ほら、今もまた俺が深海棲艦を気にしていると勘違いしてる。気にしているのは、あくまで元一般人で艦娘自体は何も知らない俺が果たして海に出たらどうなるか、ということなのだ。天津風たちは俺の事情を知っているから多分配慮はしてくれると思うが…。
「良かったね時津風! あ、安心して。なんでも教えてあげるから!」
雪風は珍しくやる気を見せている。
他の面々も程度の差はあれ、おおよそそんなところだ。
仕事が終わって部屋に戻った後も話題は海に出ることで持ちきりだった。自分の進水時はどうだったとか、艦娘となった今はどんなに自由に動けるか、果てには砲撃の腕前がどうとかにまで発展した。
勿論そんな話についていけるわけもないので、俺は専ら聞き役だ。時折話の内容なんかを説明してくれるので飽きはしないが、疎外感は少なからず感じる。
はてさて、どうなることやら。
時は過ぎいよいよ当日。今日は朝から皆(主に天津風と雪風)が浮き足立っている。天津風は朝食も抜いて行こうと言わんばかりの意気だったので初風が嗜めたが、それでもまだ落ち着かない。
どうしてそこまで楽しみなのだろうか。
海に出るだけなのに。
食堂でご飯を食べている間も天津風はその楽しさを語ってくる。
「海に出るのはね、本当に気持ちが良いのよ! 広い海の上でのびのびとできて――――」
「わかったよ。その話を昨日から何度聞いたと思ってるのさ」
昨日の夜からずっとこの調子なのだ。そろそろ疲れてきた。そっけない対応も許してほしい。
雪風に助けを求める視線を送るが、雪風は苦笑いで返してくるのみ。諦めるしかないのか。
食事を終えた俺たちはその足で艤装を受け取りにいく。
今回は海の上を動くだけなので私は弾薬を持たないが、他の面子は念のため、安全確保のためにフル装備している。
手に何もつけていないものの、体の重心が若干後ろ寄りになるので少し動きづらい。艤装は金属でできているが、如何にも重そうな見た目に反して着けた感じがそこまで気にならない程度なのは助かった。まあ、そうでないとアクロバティックな動きはできないだろうから、当然と言えば当然だが。
馴れない格好で港に着くと、天津風がまず最初に海に出る。水面に出した足は沈まず、海面に立っている。それから、体を前に少し倒したかと思うとそのまま海面を滑っていき、少し進んで此方に振り向く。
「ほら、時津風も来なさいよー!」
手招きをして呼ぶ天津風。いや、そんな初めてなのに直ぐに行けないって。
天津風のとる態度を予想していたのか、雪風が特に困った様子も見せず海への出方を教えてくれる。
「大丈夫だよ、時津風も絶対できるから。ね?」
心配を和らげようと笑いかけてくれる雪風。
始めてのことで緊張しているのが表情に出ていたようだ。雪風のお陰で少しリラックスできた。
意を決して、ゆっくりと水面に足を着ける。
水面の少し下で足が沈み込まなくなるのを感じる。
馴れない感覚だ。地面のように固いわけではないが、沈めようと思ってもびくともしない。
ゆっくりと水面に着けた足に体重をかけていく。少し前屈みになると、浅瀬とはいえ人間としての記憶のせいか水に対する恐怖が襲ってくるが、艤装を信じて体を預ける。海はしっかりと受け止めてくれる。
そして、足を着けてから数分経ってからだろうか、ようやく両足を水面に浸けることができた。
足は伸ばしきれず、腰も引けて何とも不格好だが、自分の足で水面に立つ。
艦娘としてはごくごく当たり前のことだが、海の上に立てるのはなかなか嬉しい。
思わず頬の上がるのがわかる。
「それじゃあ、動いてみよっか」
雪風も海に降りてきて、隣に立つ。
「どうやって?」
「こう、『グーン』みたいな」
「……『グーン』?」
感覚的な説明をする雪風。艦娘にとっては地面を歩くのと大差ないのか、意識してどうするというのは無いらしい。
説明になってないよ、雪風…。
グーンって言われてもなぁ…。
少し悩んでから、物は試しと天津風がやっていたように重心を前にかけて前に進むイメージをつくる。
すると、動いているのがやっとわかる程度に進んだ。
「おー! 進んだ進んだ!」
嬉しくて雪風の方を見ると、彼女もまた笑っていた。
「やったね! それをもっとやれば大丈夫だよ」
自分のことで喜んでもらえるのは嬉しい。
今度は先程よりもずっと重心を傾けて、さらに速く進むイメージ。
途端、足元から水しぶきを上げて体が前に進む。
体全体で風を切り、自分で海の上を進む。
足が先行するから、上半身が置いていかれないようにするのが大変だ。
なんとか体勢を整え天津風のところまで行くと、後ろからぴったりついてきていた雪風と初風が追い付いてきた。
天津風の近くまで来て、止まりかたを習っていないことに気づく。天津風は速度を落とさない俺を危なく思って進路から退いた。
「コレどうやって止まるの!?」
「体を反転させて! 倒れても沈みはしないから大丈夫!」
雪風の言った通りになんとか反転させると、急に速度が落ちる。体制が前のめりになっていて一瞬倒れそうになったが、なんとか足を前に出して踏みとどまれた。滑りそうになって本当に冷々したのは内緒だ。
天津風のところを大分通りすぎてしまったので、今度は直ぐ止まれる程度にゆっくりと近づく。
天津風の横に並ぶと、皆俺のを褒めてくれる。
「初めてにしてはなかなか良いじゃない! あんた才能あるわよ!」
「才能もなにも元々出来るから艦娘になったんじゃないかしら?」
抱きつかんばかりに近づいて喜ぶ天津風を初風が抑える。しかし、そんな初風も顔はとても嬉しそうだ。雪風も横で満足そうにしている。
なんだか、天津風があれだけ言っていたことがわかる気がした。
最初は怖かったけど、いざ出てみると執務室と違った妙な安心感があり、風を切るのも気分が良い。俺も艦娘の端くれなだけはあるということか。皆との差が埋ったきがして、嬉しい。
「ねえ天津風」
「ん、なに?」
「海に出るのってさ、本当に気持ちが良いんだね」
そう言うと、初風の腕を振り切って天津風が抱きついてくる。嬉しくて思わず、と言ったところか。
天津風を受け止めると、そのまま少し後ろにふらつく。
ただでさえ馴れない海の上。足元も悪く、踏ん張ることができない。
天津風の焦った表情越しに初風が見える。手を伸ばしているが、届きそうにもない。
このまま倒れたら艤装壊れちゃうかななんて考えながらバランスを崩したその時、後ろから誰かに支えられた。
振り向くと雪風が必死な顔で私の背中を支えてくれている。
「天津風、早く…!」
「ご、ごめん!」
固まっていた天津風も初風の言葉で離れ、雪風の助けでなんとか体勢を整えられた。
あとに残ったのは呆れ顔の初風とほっとした雪風、そして気まずそうな天津風だ。
どことなく空気が重い。
せっかくの休日だ。此方としてはそんなに気にしていないから、調子を取り戻したいがどうしようか。
少し考えた結果、自分から明るく話しはじめることにした。
「ねえねえ! どこまで行っていいの?」
急に大きな声で話すものだから一体どうしたのかと目を丸くする皆だが、初風と雪風は直ぐに意図を組んだようだ。
「私たちがついていれば、特に何処というものはないけど…」
天津風はまだ気が引けるのかどこか控えめだ。
「それならさ、ちょっとおもいっきり動いてみたいんだけど、良いかな?」
「いいわよ?」
「それじゃ、あそこの島まで競争ね! 負けた方が間宮さんのデザートをおごるってことで! じゃ、いくよ?」
突然の事に今一対応できていない天津風だが、雪風はすっかり乗り気のようだ。初風もしょうがないから付き合うという体で参加しようとしているが、口許が緩んでいる。
「時津風、私たちも参加するよ!」
「しょうがないわね。負けたら三人分ちゃんとおごるのよ?」
私の横に並ぶ二人。天津風は少し戸惑ったようだが、吹っ切れて一緒に並ぶ。ようやく意図を組んだようだ。表情も明るくなっている。
「あーもう、やれば良いんでしょ! やってやろうじゃないの!」
「そう来なくっちゃ。それじゃあ、いくよ!」
三つ数えて、四人一斉にスタートする。
ほぼ同時に島に向かって全速力で進む。
本当はスピードを出すのが少し怖かったけど、皆が一緒に居てくれるから安心できた。
それに、判ったんだ。
やっぱり、艦娘にとって海の上はとっても楽しいんだって。
「もう、何でこうなるのかなー!」
結局、負けてしまった。
当たり前だ。こっちは今日始めて海に出たのだ。分が悪いなんてものじゃない。
最初の内は俺に合わせてくれていた三人だが、ゴールが見えてくると本気を出して突き放されたのだ。
甘いものを賭けると、女の人は豹変するのはあながち間違いじゃないのかもしれない。
「今日始めて海に出た娘に負けるわけにはいかないでしょ? 正直始めてであの速さは驚いたけどね」
天津風はすっかり調子を取り戻して、間宮特製あんみつに舌鼓を打っている。勝ったのと美味しいので満面の笑みだ。
何はともあれ、無事いつも通りに戻って良かった。
…その代償はなかなか大きかったが。
間宮特製スペシャルあんみつは一つ90銭。自分も食べたいから四つ頼むと3円60銭。コーヒーは一杯が15銭らしいので、俺が前居たところ(前世と言って良いのか分からない)の価格でいうとおおよそ全部で3600円ほど。着任時に司令から貰ったお小遣いが5円だったので、その大半を今回で使ってしまった。
お陰で財布はかなり軽くなった。
まあ、それでも皆笑顔になれたから今回はよしとしようかな。
そういえば鎮守府に来てからというものの、甘いものに目がなくなった気がする。天津風に貰ったプリンも、この餡蜜も、食べるとなんというか…美味しいのに加えて幸福感があるのだ。
女の人が甘いものを食べて幸せと言っていた気持ちが理解できた気がする。
元男としてはとても複雑な気持ちだ。
「どうしたの時津風、なんか笑いながら困ってる見たいな感じだけど」
雪風が不思議に思って聞いてくる。
「いや、大したことじゃないから大丈夫。どう、おいしい?」
自分が元男だと知らない人も(艦娘も)回りにいるので、話をそらす。
腑に落ちない様子だが、どこか悟ったようでまた餡蜜を食べ始める。やっぱり、雪風は良い娘だ。こういうときは本当に助かる。
良い娘に囲まれて幸せだな。
ここでの暮らしも上手く行きそうだ。