猿夜叉丸の死はすぐに広まり、尾張までその情報が届くのにさほど時間はかからなかった。
近江兵は久政による長政の死の報告に動揺し、嘆き悲しんだが、それよりも一番動揺したのは長政を投獄している尾張にいる信奈達だった。
「七花のヤツ、何か失敗したんじゃ? というか、このままだと長政を私達が殺したみたいじゃない」
信奈が頭を掻き毟る。
十中八九、他の大名達からは信奈が壮絶な拷問のすえ長政を獄中死させたと思われているだろう。
「それも問題ですが、七花殿が敵に捕まっているかもしれません、零点です」
「兄者が小谷城で捕まったっていうのか!?」
「にぃに、今助けにいく」
長秀の言葉に勝家と犬千代が小谷城で久政に捕まったかもしれない七花を助けに行こうとして他の者たちに止められ、他の家臣達はどうすればいいのかわからず、てんやわんやするしかなく、そんな中、否定姫は色々な行動をした後戻ってきていた。
否定姫は未だ混乱していた場を治めて、次にどうするかを信奈達と話し合った。
「私としては七花君のことはひとまず措いておいて美濃を攻略することをお勧めするわ」
「な!? 兄者のことは放っておくのかよ」
否定姫の言葉に頭に血が上りやすい勝家が噛み付く。
「あら勝家ちゃんは七花君がまんまと浅井久政に捕らえられたと言いたい訳ね」
「な!?」
否定姫の冷ややかな言葉に勝家は肯定も否定もできずに呻き声をあげてしまう。肯定してしまえば自分が七花のことを信じていないという意味に捉えられ、否定すればさっきまでの自分の行いが見当違いのことに怒っていることになる。
「まずは落ち着きなさいな。最悪な事態に備えるのはいいけれど、何も考えず突っ込んでいくのは間違っているわ。それに近江に行くには美濃を通らないといけない。まずは目の前の美濃を攻略するのが得策よ」
否定姫はそこでみんなの様子を見て、血の気の多い連中が落ち着いてきたことを見計らってから、美濃攻略についての話を始めた。
最初は誰もが美濃攻略について順調に進むかと思いきや、斉藤道三、否定姫の中ではとある一人の軍師が最大の壁になるだろうと予想していた。
軍師、竹中半兵衛。
蝮と呼ばれていた道三が義龍風情に無様に長良川で負け戦をしたのは竹中半兵衛の仕業であると断言できる。そんな半兵衛はただの軍師ではなく陰陽師であり、道三や信奈の相性最悪の天敵とも言える。
何故なら、竹中半兵衛は異能の力を使うからだ。
信奈はそんな平安時代の京で流行った古めかしい占い師については敵ではないと言ってはいるが、否定姫にとっては四季崎記紀のような未来を知る力を持った占い師が刀鍛治になり時代を作ったということを知っているため、一笑にふす事もできない。
否定姫は道三に信奈がおおかた負けると見越して川並衆を信奈に内緒で五十名ほど貸してほしいと言われて、素直に従った。
その後、準備はちゃくちゃくと進み、信奈率いる総勢千の尾張勢は夜影に乗じ、木曽川を浅瀬から粛々と渡り、一路美濃領に侵入した。
目指すは斉藤義龍が籠もる稲葉城。
「義父・道三が奪われた美濃を奪回する」
という名目もあり、尾張兵の誰もが珍しく戦意に漲り、ばらばらと迎撃してくる美濃兵たちを撃退し、進撃していった。
そんな中、否定姫は【尾張最弱】とささやかれる津田勘十郎信澄率いる後詰めに加わっていた。
理由は父、浅井久政に死んだことにされて、情緒不安定となっている長政に対しての話し相手兼見張りである。
普通なら長政を軟禁した方が得策かもしれないが、長政は六角家で女性を垂らし込んで独立した経歴を持っている。信奈が留守のさい、長政が行動を起こして尾張を乗っ取ったら信奈達は帰る場所を失ってしまう。それならば、後詰の中で長政を監視した方がマシかもしれないという考えの下、長政はここにいる。
長政は父から存在を消されたことに対し、艶のある黒髪は奇声を上げて掻き毟ったことによりボロボロになり、女性を誑かした顔はストレスによって肌が荒れ、妖しげな輝きを放っていた瞳は虚ろになり、時々思いつめた表情となり、一日のほとんどは力なく項垂れ、まるで呪われた一松人形のような怖さがあった。
その呪われたような長政の所為かはわからないが、深い霧が出てきた。
「……きり?」
「こんな夜更けに、妙ね……」
虚ろな瞳で霧を眺め呟く長政に、否定姫はどうも嫌な予感を覚える。例えるならまるで誰かの筋書き通りに自分たちが動かされたような……。
「まさか!?」
否定姫が何かに感づいたときには、一斉に四方八方から鬨の声が上がっていた。
「【十面埋服の計】よ! 信澄、私は急いで信奈ちゃんに知らせてくるから、あなたは後詰めとしての務めを果たし、尾張への敗走路を確保しなさい!」
「!? 流れが緩い河田の浅瀬へ姉上を誘導するのですね、わかりました!」
否定姫は信澄に指示を出して、信奈のもとへと向かう。
「どうなってるのよ! 何なのよこの霧は、邪魔くさいわね!」
「【十面埋服の計】よ、信奈ちゃん。このままだと私たちはここで終わってしまうわ」
「この程度の伏兵なんか、打ち払ってやればいいのよ!」
「いえ、この計略は敵勢を取り囲むように四方八方に伏兵を置いて、小数の兵で死地へと誘い込むものよ。まだまだ伏兵は出てくるわ」
「何ですって!?」
「この霧がなければ信奈ちゃんは伏兵の存在に気付いていたはず、今回は……不運だったわね」
本当なら、霧を発生させ伏兵に気付かせない敵の方が一枚上手だと否定姫は言いたかった。しかし、ここでそんな言葉を発せば、信奈はむきになってしまうし、美濃への攻略に時間がかかる。
ここはいったん引いて体制を立て直し、作戦を練らなければいけない。
「ともかく、清州へ生きて引き上げるのよ!」
否定姫の悔しそうに唇をかむ仕草に信奈は冷静になり撤退の宣言をする。否定姫が十面埋服の計に感づいて、すぐに行動していたため、信奈の回りはまだ敵の兵はなくすぐに撤退することができた。
そして信奈達が撤退するとき、稲葉山に連なる瑞龍寺山の山麓に、織田方の手勢が灯す松明がどっと繰り出された。
それを目撃した美濃兵たちは織田の奇襲部隊がきたと勘違いを起こし、慌てて信奈勢の追撃をやめる。
しかし、この瑞龍寺山の松明は道三が川並衆を使って起こした陽動部隊であり、信奈はそのことについていぶかしんだが、千載一遇のチャンスを自分で棒に振るわけにはいかないために清州城へと逃げに逃げた。
清洲に帰陣した後、信奈達は次第に何が起こったのか理解した。
本来であれば複雑精妙な用兵を竹中半兵衛はいとも簡単に十面埋服の計を実行してのけ、もしも道三が川並衆を陽動しなかったらと思うと無事に清州城へとたどり着けたかどうか怪しくなってくる。
「これじゃ合戦というよりまるでお遊びじゃない。もてあそばれたんだわ!」
と信奈は憤るが、すぐに兵は動かせないだろう。命がけの戦で半兵衛への恐怖を、身をもって知った尾張兵には一週間の休息は必要だ。
否定姫はその一週間の間に様々な文献を読み、霧に関する情報や文献を読み込んだり、道三と話したりと解決策を探そうとするが、否定姫の今使えるものでは半兵衛に対する攻略方を見出すことができなかった。
信奈にとっての臥薪嘗胆の一週間が過ぎ、再び稲葉山へと攻める時が訪れた。
今回の作戦は行軍する道を変更して平原を行き、先鋒を出し、伏兵に気を付けて進むというものであり、隠れていそうな平原にも火を放つという徹底ぶり、猪突猛進する信奈にしては珍しい作戦ではあるが、最大の武器である速度を潰されていることに信奈は気付いていない。そのことについて諫言することができる否定姫も一週間の寝不足によるものと未だ突破口の見えない竹中半兵衛の対策に集中しており気付いていない。
またしても霧が立ち込めたときには、色んな意味で手遅れだった。
「これは……まさか、【石兵八陣】!?」
否定姫の視界の先には大小さまざまな石で積み上げられた石塔がずらりと建ち並んだ湿地へと誘いこまれていた。
「最悪ね。ここは死の迷路ってことかしら」
信奈達がいる出口のないこの場所でどこからともかく水が溢れてきた。
「一! この状況を何とかできないの!?」
「残念ながら信奈ちゃん、私には無理なの」
「そんな!? こんな理屈に合わないやられ方、あたしは納得できない!!」
すでに人馬の腰まで水が浸かっている。
「それにまだ、あいつと話したいことがいっぱいあるのに……」
信奈の言うアイツが誰の事なのか、否定姫にはわかる。だからこそ、否定姫は優しく信奈に語りかける。
「ごめんなさい、信奈ちゃん。私にはこの状況を打破することはできないの」
獣の唸り声のような音が聞こえる、水音だろうか、しかしそんな音に気にすることもなく優しく信奈の頭を撫でて、更に言葉を否定姫は紡ぐ。
「だって、ここを攻略するのは……」
『ちぇりおーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!』
ドッガラガラガーーーーン!!!!
「私じゃないもの」
石塔が崩壊する音とともに否定姫は悪戯っぽく信奈に言った。
石塔が崩壊した場所から水が流れるとともに、そこから一人と一匹の獣が入ってくる。
「待たせたな! 信奈!!」
信奈の頼れる傾奇者、尾張のお兄ちゃん、七花が美濃攻略に参戦した!
大変ながらく、お待たせしました。
最新話です。
最後に七花さんを登場させるためにちょいと否定姫さんにはポンコツっぽく演じていただきました。
キーボードをたたく時間がなかなか取れませんが、とりあえず、この作品を終わらせる気はないですよ。
まぁ、次も大変、待たせるとは思います。