第3Qが始まり、先攻を取ったのは誠凛高校。
ボールはSGでキャプテンの日向に渡る。僕を警戒したのか、ボール運びはPGの伊月ではなかった。洛山と誠凛の現在の得点差は16点。開始早々に逆転困難な20点台に乗せたいようだ。だが、僕以外になら付け入れると思うのなら大きな間違いだ。
「くっ……さすが洛山。ディフェンスも鍛えられてらぁ…」
相手の主将がマッチアップしている相手とて、中学時代は全国大会常連校のエースだった選手だ。しかも、現在の一年生は全員が僕の特訓によって守備面においては大幅に強化されている。あまりにも隙のない守備に日向の顔色が変わる。だが、純粋なチームの性能(スペック)で勝負は決まらないのは前半で分かっていた。
「なっ……ボールの軌道が変わった!?」
驚きの声がコート上に漏れる。苦し紛れにあらぬ方に投げられたボール。しかし、その軌道は一瞬にして変化し、鋭角に前線へと突き刺さる。
「またかよっ!?どうなってんだよ、一体!」
その不可思議なパスに対応するのは、ボールの軌道が変化する直前に裏をかくように走り出していた伊月。が、幸いにも僕の反応の方が早く、抜かれることは阻止できた。予想外の方向からのパスによって、対戦相手の虚を突くテツヤのボール回し。常識を遥かに超えた現象に仲間達の顔には驚愕が張り付いていた。
「やっぱり実際に見ても信じがたいぜ。噂は聞いてたけど、実在したのかよ……」
誰かが呆然とつぶやいた。
「帝光中学のレギュラーでパス回しに特化した見えない選手――これが『キセキの世代』幻の六人目かよ」
黒子テツヤ――身長も体格も速度も技術もない、才能の欠片もない選手である。だが、彼にはひとつだけ才能、というか特異な体質を備えていた。
――それは『影が薄い』こと。
テツヤのバスケはその特異性のみに特化したものである。並外れた洞察眼によって他人の視線の動きを感じ取り、操作する。手品などにも使われるそれは『視線誘導(ミスディレクション)』と呼ばれる技術で、彼は自身の姿を完全に消すほどの錬度にまで昇華させていた。
誰にも気付かれずにコート上を好き勝手に動き回り、無数のパスコースを作り出すその超越技術は『キセキの世代』の名に相応しいものだった。
「日向っ……!」
「……しまっ!れ、連続で……!?」
苦し紛れにSGの日向にパスを戻す伊月。が、そのボールは突如出現したテツヤによって、前線へと軌道を変更する。全員の視界の隙間から現れ、こちらの虚を突いたそのタップパスはマークを外した火神へと突き進む。
「よっしゃ!黒子!」
連続でパスの軌道を変えてくるとは完全に予想外だった。意識の外から放たれたこのボールに反応できる者はいない。
――ただひとり、赤司征十郎を除いては
「えっ……?」
守備の合間を抜くように放たれたパスは、僕の左腕によって遮断された。
「速攻だ!走れ!」
驚愕の表情で固まるテツヤを抜き去り、ゴール前へ走りこんでいた仲間へとロングパス。見事に速攻が決まり、第3Qの先取点は洛山。
見えないはずのパスを止められたことに誠凛の選手たちは動揺を隠せない。明らかに浮き足立った様子だ。この結果に手ごたえを感じた僕は、畳み掛けるように次の作戦に移る。次の作戦とはつまり――
「赤司の野郎……黒子にマンツーマンだと!?」
驚愕に目を見開いて火神が叫ぶ。他の選手達も同様の表情で固まっていた。ボールにすら触らせまいとパスコースの間に陣取り、テツヤに見透かすような視線を向ける。
「……赤司くん」
「させないよ、テツヤ」
同じチームで仲間として戦ってきたのだ。もちろん無策でこのようなことをする人間でないことも知っているだろう。テツヤの瞳の色は警戒と緊張、それとわずかな怯えが混ざっていた。
まあ、全てを見透かした風に振舞っているが、もちろん湯気で曇ったような視界である。見せ掛けでハッタリの絶対感だが、余裕を見せることには意味がある。この一対一でテツヤを完封して、力の差を見せ付けることができれば、相手の心を折ることができるはずだ。ここで一気に洛山に流れを傾ける。
「たとえ視野の広い『天帝の眼』だろうと、それだけで攻略できるとは思われたくないですね」
「コート上を俯瞰で認識する僕の眼からは、逃れられないよ」
「いいえ。視線とは、人間の意識そのものだということを教えてあげますよ」
珍しくテツヤは闘志を燃やした瞳で宣言する。それに対して僕は不敵な笑みを浮かべて見せた。
『キセキの世代』同士の衝突の予感に体育館中が静まり返る。ボールは誠凛のPGの伊月が持っている。だが、この選手の実力なら単独でのカットインは無い。必ずどこかにボールを回すはずだ。そして、最も確率が高いのがエースである火神大我。しかし、そこは常時ダブルチームで簡単にはボールは回せない状態だ。そこで猛威を振るっていたのが、変幻自在のパスコースを作り出すテツヤの存在である。
――しかし、現在のテツヤは一切ボールに触れられないでいた。
「なっ……黒子がマークを振り切れない!?」
相手チームからどよめきが起こる。
「くっ……だったら!」
強引に一瞬だけマークを振り切ったテツヤは、伊月からのパスの中継点として機能する。送られてきたパスを火神へと――
「甘いよ」
だが、その動作は僕の耳が余すことなく捉えている。ならばそれは見えないパスなどではなく、ただの連携に過ぎない。パスカットは容易だ。だが、僕の様子を見てテツヤは小さく笑った。
「ええ、わかってましたよ。赤司くんの眼は僕にとって天敵です。ですが、眼から逃れられなくとも、意識からは逃れられる」
そう言って、テツヤは身体を捻り、わずかにタメを作って全身の力を込めた。思い出した。パス回しに特化した彼のバスケ。その中でも最速のこのパスは――
「まさか……火神が取れるのか!?」
――『加速する(イグナイト)パス』
元々のパスに後方からさらに力を加え、反応すら難しいほどの高速で放るパス。何も知らない者が見れば、途中で加速したようだったろう。火神へと鋭い風切音を鳴らしながら直進する。『キセキの世代』以外はキャッチすることさえ不可能だったパスを、火神が取れるとは予想外だった。それゆえに選択肢から無意識に外していた。
「たとえ見えていようと、意識の死角を突けば!後出しでこのパスは止められませんよ」
この試合、一度も『加速するパス』を使用しなかったのは、この一撃のためか!ただのパスと油断させた瞬間、反応不能の速度で放ったそれは、ノーマークの火神に最高のタイミングで――
「残念。それも読めてたよ、テツヤ」
――そのボールは僕の掌に収まった。
「そ、そんな……」
目を見開き、呆然自失の表情でテツヤはつぶやく。もしも視覚で捉えていたならば、僕は通常のパスだと油断していたかもしれない。だが、僕の聴覚はテツヤの踏み込みの音を捉えていた。すなわち、全力でボールを弾くために体育館の床を叩く強烈な踏み込みを――
そこからのテツヤは明らかに自信を喪失し、動きに精彩を欠いていた。僕に対する萎縮でミスを連発し、さらに精神の平衡を乱すという悪循環。
「おい!黒子!いつまで気落ちしてんだよ、切り替えろ!」
「火神君……」
背中をバシッと叩かれ、大声で叱咤激励する火神。絶望に染まった黒子の顔にわずかに安堵が浮かぶ。
「よくわかんねーが、お前の視線誘導(ミスディレクション)が赤司には効いてねーんだろ?だけど、アイツの方だって大してオフェンスで役に立ってる訳じゃねーよ」
気にするな、と肩を叩く火神にテツヤは小さく礼を言う。そして、困惑を浮かべながら首を左右に振った。
「いえ、違うんです。視線誘導(ミスディレクション)が効かないなら、ここまで驚きません。むしろ逆です。ボクが驚いているのは――」
――どうして赤司君に視線誘導(ミスディレクション)が効いているのかですよ
「あん?何言ってんだ?」
「本来なら、赤司君の眼の前ではボクは姿を消せないはずなんです。だというのに、彼の視線は確かにボクから外れていた。それなのにパスはことごとく止められる。わけが分かりません」
戦慄を覚えたようにテツヤの顔はこわばっていた。
テツヤの言う『視線を外す』とは、つまり『意識を逸らす』ということだ。人間が外界から取り入れる情報の9割以上は視覚を通してのもの。その視界から逃れるということは、意識から逃れるということだ。視界から逃れられないのを確信して、『加速する(イグナイト)パス』によって意識から逃れることを画策したが、僕の視界からは確かにテツヤの姿は消えていた。
「視線は外せて、意識が外せないなんて、そんなこと……!」
人間の感覚器官からの情報の9割以上を占める視覚。それはつまり、相手の意識そのものである。そんな持論をかつてテツヤが話していたが、こんなケースは想定外だったろう。9割以上を占める視覚ではなく、たった1割以下の聴覚によって情報を聞き取る人間がいるなんて――
「くっ……視線は外せてるのに、どうして……!?」
極端な緩急を織り交ぜ、視線の動きを見極め、僕の視界からテツヤは姿を消す。事実、その一瞬に曇った僕の眼は他の選手に釘付けにされていた。だが――
――僕の耳にはテツヤの足音がしっかりと届いている。
その後も独断でパスルートの変更を試みたりとこちらの予測を外そうとするも、僕のマークからは逃れられない。憔悴した風にテツヤは表情を歪めた。
ただ視界が広くてマークを外せないのならば、ここまでテツヤは焦らないだろう。僕の眼を考えれば、ある意味では予想通りの結果なのだから。しかし、視線が外せているのに捉えられているとなると、彼にとっては全く未知の領域だ。もちろん、これが視線を外されたフリなどではないことは洞察眼で見抜いているはず。
「マジかよ……黒子が通用しないなんて……」
「これが『キセキの世代』赤司征十郎――」
影が薄いながらも、卓越した能力でチームの二本柱となっていた黒子の完封は彼らに大きな動揺を与えた。敗北が心をよぎった瞬間、それは精神から肉体へと悪影響を与え、誠凛の選手の動きからキレを奪う。形成は逆転した。
「よっしゃあ!同点!」
聴覚による位置把握から、ドンピシャのタイミングでゴール下へ打ち込まれたノールックパス。それを仲間が決めることにより、とうとう同点へと追いつく。流れは完全にこちらのものだ。この洛山の勢いを止めることは不可能。
「なっめんじゃねーよ!」
ガツンとリングを叩く轟音。ダブルチームを高速のドリブルで振り切った火神による豪快なダンクが決まる。
いまだ揺れるリングを背に鋭い目付きでこちらを振り向いた。瞳からは燃え滾るような闘志が渦巻いている。そんな彼に賞賛の言葉を送る。
「ほう、やるじゃないか。まだ心が折れていないとはね」
「黒子を封じたくらいで勝った気になってんのかよ。まだオレが残ってんだろーが」
あまりに挑戦的な言葉に、僕の口角が薄く吊りあがる。
――身の程を知った方がいいな
「火神大我と言ったね。確かに身体能力、特に跳躍力の伸び代は驚異的だ。僕の眼にはその潜在能力が見えている。だけど、勘違いしているようだな」
「勘違い……だと?」
「潜在能力は認める。だが、今の実力は『キセキの世代』より数段劣る」
ボール運びを仲間に任せ、PGの位置から移動した。代わりに先ほどまで火神をマークしていた玄人をパス回しの要員として機能させる。これで罠は完成。あとは張った罠に掛かるのを待つだけ。
「PGの仕事を放棄して、一体どういうつもりだ?」
「見ていれば分かるさ」
怪訝そうに眉を寄せた相手PGの伊月が疑問の声を漏らした。それに対して軽く肩を竦めて見せることで答える。無防備にドリブルをつく玄人。いや、もちろんマークされている相手への警戒は怠ってはいないが、ある人間にとっては無防備も同然。その人物とは言うまでも無く――
「玄人、右から来てるぞ!」
――突如、玄人の目の前に出現した黒子テツヤのことだった。
視線から隠れ、玄人の視界から消えていたのだ。無防備なボールを奪っての速攻は帝光中時代からの得意技である。当然、死角に這入られた玄人からも容易にスティールできる、はずだった。
「なっ……反応が早い!?」
スティールに来たテツヤをロールでかわし、その瞬間マークを外して玄人に近付いていた僕にパスを出す。たしかに視線は消えているテツヤを捉えてはいない。だが、僕の耳にはその位置がはっきりと聞こえているのだ。
「あ、赤司の指示に従うのは、な、慣れてるよ」
相手の姿の見えないままに、僕の声に玄人は反応したのだ。そして、テツヤがスティールを失敗したということは、その分マークが空いた選手がいるはず。他の仲間達は突然の出現によって混乱しているが、僕だけは正確な位置情報を把握できている。
「テツヤ、忘れたのか?お前の力を見出したのは僕だ。その能力の全てを、僕は知っている」
「……っ!?」
今度こそ絶望的な表情で、ガクリとテツヤの身体が傾いた。緊張の糸が途切れたのを感じる。マークの空いた仲間に通ったパスは、再びの同点へと得点を伸ばしたのだった。
第3Q終了のブザーが鳴り響く。全てを封じられたテツヤは悔しげに唇を噛み締め、俯きながらベンチへと戻っていった。もはや勝敗は決した。第4Qはダメ押しで一年最強の矛、城谷代々を投入するつもりだ。崩れきったチームの状態を立て直す暇は与えない。油断はしない。一切の手を抜かずに容赦なく終わらせる。
――視覚に頼らない僕は、視線を誘導することに特化したテツヤにとっての天敵なのだ。
結局、洛山高校と誠凛高校の試合は、僕達の勝利で幕を閉じたのだった。