体育館の中に部員達の声が響く。コート上には小太郎と玲央の二人。それに対するは僕ともうひとりのチームメイト。ツーメンの練習である。攻撃側の玲央がボールを持った。
「おっしゃ、レオ姉!パス!」
「はいはい、わかったわよ」
「よーし。赤司、今度こそ抜いてやるもんね」
意識を小太郎に集中。呼吸はすでに合わせてある。周囲に網の目のように張り巡らせていた神経を、目の前の小太郎のみに凝縮。心の内面を読み取りに掛かる。とはいえ、勝手知ったる仲間のこと。心を合わせるのは難しいことではない。
――よし。早くも入れた、『変性意識(トランス)状態』
曇りガラスのようだった視界が一変する。代わりに小太郎の視界が幻視された。鮮明な映像が脳内にイメージされる。
「よーし、行っくぜー!」
動き出しの際に、脳からの命令と身体の反応との間にできる隙。ドリブルを開始するとき、一瞬だけ意識が僕から外れる間隙。その二つのタイミングをあえて見逃して、小太郎を泳がせる。今回の目的は1対1で止めることではないのだ。
ワンフェイクを入れて左から抜きに来る小太郎。しかし、それは予測済みだ。心を合わせて絶妙なタイミングでサイドステップ。だが――
「ぐっ……やっぱり感じ取れなかったか……!?」
――スクリーンで僕の身体は強制的に止められてしまった。
進行方向に陣取った玲央にぶつかり、小太郎はあっさりと左からのドライブで抜き去ることに成功。
「スイッチ!」
僕が叫ぶと、もう一人の仲間とマークを交換する。僕のマークマンは玲央へと変更される。小太郎のマークマンを務めることになった先輩が、ギリギリでドリブル突破を止める。
「レオ姉、決めちゃってねー」
ここで小太郎がリターンパス。今度はパスを受け取った玲央と僕との一対一になる。慌てて目の前の男に意識を集中させなおす。
――『変性意識(トランス)状態』を解除
小太郎に合わせていた呼吸を、玲央の呼吸へと合わせ直さなければ……。別人であるがゆえに、当然すべてのリズムが異なってくる。呼吸のリズム。動き出しのタイミング。意識と行動のテンポとパターン。意識の修正程度では済まない。最初から『読心(コールドリーディング)』し直さなければならないのだ。
「遅すぎるわよっ!」
「呼吸すら……合わせる余裕がっ……」
何の抵抗もできずに、玲央にあっさりと抜かれてしまう。そのままゴール下までフリーパス。僕の敗北である。
仲間として知り尽くした相手だが、それでも『読心(コールドリーディング)』はおろか、呼吸すら合わせられなかった。圧倒的に時間が足りなすぎる。全神経を、全意識を小太郎に同化させていただけに、そんなにすぐに別人に切り替えることなどできないのだ。
「なるほど。たしかにマークチェンジに対応できてないわね」
「そうだね。『読心(コールドリーディング)』が済んだ君達が相手でも、意識の切り替えには若干以上のタイムラグは避けられない」
首を左右に振りながら、僕は小さく溜息を吐いた。
「アナタの能力にこんな弱点があったなんて……。これは部外秘にしなくちゃね。まさか、こんな簡単に無効化できる代物だったなんて」
「そんな心配しなくてもいいじゃん。マジでやばいよ、赤司の本気モード」
不安げに眉を顰める玲央だが、小太郎は明るく口を挟んだ。
「……そうね。弱点さえバレなければ、たしかに『キセキの世代』すら圧倒できる強力な武器だもの。私達の方でスクリーンに行きづらいマークをしましょう」
ことマンマークに関しては『天帝の眼』に匹敵する特殊技能――『変性意識(トランス)状態』
純粋な一対一ならば、大輝のような例外を除けば攻守共に完封できる。弱点さえ突かれなければウィンターカップでは大きな力になるはずだ。それを確認するための最後の練習試合。対戦相手は同じく『キセキの世代』である。現在、バスで遠征に来ているここは、『キセキの世代』紫原敦の所属する――
――陽泉高校である
「やあ、ひさしぶりだね。覚えてるかな?」
振り向くと、陽泉高校のユニフォームを着た選手が軽く手を上げているのが見えた。僕の前へ現れたその男の顔には見覚えがある。泣きボクロに鍛え抜かれた長身。
「キミはインターハイのときの……陽泉の選手だったのか」
「転入してきたのがインターハイの直前でね。残念ながら出場は間に合わなかったんだよ」
予想外の人物との遭遇に思わず、僕は驚きに目を見開いた。ストバスで出会った、たしか氷室辰也という名前だったか。かつて、インターハイに出場した際、野試合で対戦したことがあったが、『変性意識(トランス)状態』に覚醒するまではただの一度たりとも止めることはできなかった。その実力はあまりに並外れており、『キセキの世代』にすら匹敵するだろう。
「だけど驚いたよ。君があの赤司征十郎だったなんて……。アツシから話は聞いているよ。十年に一人の埒外の天才達が集結した帝光中学の『キセキの世代』のことはね――」
「おおげさだな。まあ、今日はお手柔らかに頼むよ」
「うちにもアツシがいるからね。恐ろしさは身に染みてるさ。あんな常識外れの選手が五人、いや六人か。そんな彼らを率いていた主将の力。試合を楽しみにさせてもらうよ」
だが、と氷室は誰にともなく小さくつぶやいた。
「どうもアツシの話と、実際にオレがやったときの感想とはだいぶ違うみたいなんだよな……」
チラリと値踏みするような視線をこちらへ向けた。僕はそれに気付かぬフリをする。『キセキの世代』の完全無欠の天才と思われていた方が都合が良いからだ。先入観を持ってもらっていた方がバレにくい。まさか、そんな僕に致命的な欠点があるなどとは思わないだろう。
「おい、そいつ赤司の知り合いか?初めて見る顔だが」
「そうだよ。以前、インターハイの期間中に知りあってね」
近くに来た永吉が興味深そうな目を氷室に向ける。
「この試合、僕は彼のマークにつくよ」
「なっ……マジかよ。こいつがそんな強ぇのか?」
僕の言葉に永吉が驚きに目を見開く。警戒したように、視線を上から下まで移動させた。僕がマンマークにつくということは、つまり敵チームのエースということだ。
「ん?だが、アイツはどうなんだ?『キセキの世代』の紫原は……。さすがに赤司じゃ身長差があまりにもひどくてマークできないか」
「いや、敦については考えなくていいよ」
周囲を見回して敦の姿がないことを確認すると、僕は左右に首を振って見せた。やはり、予想通り今回の練習試合には出てこないようだ。
「あー、わざわざ遠くから来てもらって悪いんだけど、じつは今日はアツシは休みなんだ。どうも風邪を引いたらしくてね」
氷室が済まなそうに謝る。陽泉の監督であるスーツ姿の女性に目をやると、苛立たしげに竹刀をギリギリと握り締めていた。これはサボりだな。洛山と試合をやるというのでズル休みしたのだろう。それは僕にとっては好都合だった。
「とはいえ、彼がいなくとも陽泉は負けるつもりはないよ」
「そうか。楽しみにしている」
自信に満ちた表情で宣言する氷室。たとえ敦が不在であろうとも、氷室辰也の実力は『キセキの世代』級だ。とても甘く見ることのできるチームではない。それに何より、ひとつのチームとして考えたとき、この陽泉高校こそが――
――僕の能力と最も相性が悪い
――試合開始。
ジャンプボールを制したのは陽泉高校である。陽泉高校のチームとしての特性は何かと問われれば、一言で「高さ」と答えられるだろう。センターの紫原敦を含めた三人が2mを超える長身であり、その高さを利用したインサイドは圧巻だ。守備陣形も鉄壁のインサイドを最大限に活用した2-3ゾーン。その内側の堅牢さは全国随一である。今回の試合には敦は出ていないが、控えの選手もかなりの長身であり、その高さは顕在だろう。
「へえ、キミがオレのマークか……」
しかし、最も恐るべきはまぎれもなくこの男、氷室辰也。ボールを受け取った瞬間、凍えるような寒気が背筋を走った。
――集中しろ
聴覚を最大限に研ぎ澄ませ、呼吸を合わせる。ぼやけた視界は役に立たない。テンポとタイミングによる先読みのみに専心する。氷室が動き出す。
「……テンポの切り替えが……速すぎるっ…!?」
小刻みで流れるようなテンポの変化。とても読みきることなどできず、僕の身体は左に泳がされてしまう。前回のストバスの対決で弱点を知られているとはいえ、こうもあっさり……。しかも、技の流れが自然すぎて、いつ切り替えたのか把握すらできなかった。
「出し惜しみはやめた方がいい。『キセキの世代』の本気、見せてくれよ」
ドリブルによる切り返しからのジャンプシュート。完璧なテンポとタイミング。シュートフォームを見るまでもなく、外すことなど考えられない。それほどに洗練された、流れるような美しいシュートだった。
「す、すごい……」
同じくシュートに絶対の自信を持つ玲央の口から感嘆の声が漏れる。試合中だということも忘れて、誰もがその芸術品のような一連の動きに見入ってしまっていた。『キセキの世代』青峰大輝の野生的な、何をしでかすか分からない天衣無縫の型(フォーム)とは違う。基本通りの技を極め、洗練しつくされた理想的な型(フォーム)。それが氷室辰也の最大の武器。
そこからは、いつもの洛山高校の試合展開だった。僕のところからひたすら得点されるという展開。『キセキの世代』級が相手ならば、誰がマークをしようと結局この展開になるのだが、あまりに僕が負け続けるので最近、主将としての威厳がだいぶ損なわれている気がするのが難点だ。この劣勢が通常は後半まで続くことになるのだが――
「――隙だらけだよ、氷室」
「なっ……!?」
意識の隙を突いたドライブに、氷室の顔が驚愕に染まる。相手の視界が幻視され、意識の全てが手にとるように分かる。よし、早くも入った。
――『変性意識(トランス)状態』
「うおおっ!来たっ、赤司の本気モード!」
「うそっ、早すぎる……まだ第1Qの後半よ!?」
仲間達の驚きの声が耳に届く。やはり予想した通りだ。一度心を合わせた相手に対しては、二度目以降の『読心(コールドリーディング)』に必要な時間が減少するらしい。口元に笑みを浮かべ、その勢いのままゴール下へとドリブルで切り込み、レイアップを仕掛ける。
「そう簡単に入れるかい!」
しかし、そのシュートは相手センターに叩き落とされてしまう。熊のような体格の男、主将の岡村がこちらを見下ろす。まるで地に根を張った大木のような威圧感。インサイドは鉄壁の城塞にも等しい。苦々しさを内心に押し隠し、ディフェンスへと戻った。やはり、このチームは相性が悪い。
――中距離のシュート成功率がゼロの僕にとって、陽泉の鉄壁のインサイドはまさに鬼門なのだ