全国大会を連覇した帝光中学バスケ部には、不世出の天才達がいた。彼らは『キセキの世代』と呼ばれ、埒外な才能の持ち主が集まったそのチームはまぎれもなく歴代最強だった。常勝にして無敗の、文字通り負け知らずのバスケ部を率いていたのは、支配していたのは、ただ一人の少年であった。
常勝無敗を象徴した彼の名は赤司征十郎。これまでの人生において、ただの一度も敗北を経験したことのない、勝利を決定付けられた人間だった。
――この話は、そんな僕の初めての敗北から始まり、そして終わる物語。
中学三年の冬のことだった。全国大会決勝戦の当日、僕はいつも通りの気分で電車を降り、駅の改札を出る。中学最後の試合ではあり、それに対する感慨もあるが、それでも自身の精神状態は平静そのものだと感じていた。
いつも通りの、勝つことの決まった試合に過ぎない。集合場所である駅前のベンチに腰掛けた僕だったが、しかし思いのほか早く到着してしまったようだ。
「集合までは少し時間があるか……。そういえば、たしか近くにコートがあったな」
向かった先はストリートバスケットのコートだった。少し寄り道をしてちょうどいい時間になるだろう。試合前のウォーミングアップにもなる。
まだ早朝だし、人はいないだろうと思っていたのだが、この日は先客がいたようだった。数人の、おそらく高校生だろう。ラフな服装で3on3を行っていた。
「あれ?その格好、帝光中のジャージじゃん。何でこんなとこに」
「もしかして赤司くんじゃね?『キセキの世代』の赤司征十郎」
「雑誌で見たことあるぜ。マジで、本物!?」
「そういえば今日は全中の決勝戦じゃん。きみ、帝光のキャプテンでしょ?ちょっとバスケしようぜ」
眺めていた僕に気付いたようで、陽気な調子でこちらに話しかけてきた。『キセキの世代』といえばバスケ雑誌の取材も何度も受けたことがある。バスケ部らしき男たちも驚いた様子だった。
「おい、試合前の選手に何言ってんだよ!」
「構わないよ。僕も少し時間を持て余していたところなので」
「いいの?じゃあやろうぜ!1on1で三本勝負くらいでいいからさ」
喜びの声を上げる高校生たち。投げ渡されたボールを片手でキャッチし、コート内に足を踏み入れる。ウォーミングアップに過ぎないが、手を抜くことはできない。
すぐに『キセキの世代』相手に勝負を挑んだことを後悔するだろう。なぜなら、すべてを見通す僕の『天帝の眼』の前には、いかなるプレイも意味を成さないのだから。
そのはずだったのだが――
数分後、そこには呆然とした表情でコートに膝を突く僕の姿があった。
「え?」
「よっしゃああああ!勝った!勝ったぜえええ!」
嬉しそうにはしゃぐ高校生と対照的に、僕は何が起きたのかまるで把握できていなかった。まさか……そんな馬鹿な……。
僕が、負けた――?
ありえない。こんなことがあっていいはずがない。生涯無敗の僕が、まさかこんな野試合で……?
青ざめた顔色を必死に取り繕おうとして、盛大に失敗した。無言で俯いたその内心は混乱でぐちゃぐちゃに渦巻いており、その眼の焦点はまるで定まらない。しかし、幸いというか相手はこちらの変化に気付いていないようだった。
「はしゃぎすぎだって。俺ら、高校生なんだから中学生に勝って当たり前だろ?」
「わかってるよ!?そりゃ試合前なんだから、赤司くんだって遊び半分で流してたんだろうけどさ。だけど、あの『キセキの世代』に勝ったんだぜ?部活の奴らに自慢できるじゃねーか」
「はあ……。悪いね、試合前だってのにこんなことに付き合わせちゃって」
「おう!今日はありがとな。試合がんばれよ!」
返事をする精神的な余裕もなく、僕はその場を逃げるように去っていた。それからのことは正直あまり覚えていない。
ふらついた足取りで集合場所に到着したとき、すでに他のメンバーは待ちくたびれた様子だった。
「珍しいじゃん。赤ちんが遅刻なんて。さっき電話したんだけど出ないしさ」
「……ああ、悪かったね」
中学生離れした長身の紫原が携帯を軽く掲げて見せる。しかし、傷心のあまりなおざりな返事しかできなかった。
「赤司、何かあったのか?やけに顔色が悪いが」
「……真太郎か。何だ、今日のラッキーアイテムはその大量の本か?」
「いや、これは別件だ」
『キセキの世代』のシューター、緑間真太郎が両手に大量の雑誌を抱えながら、クイと眼鏡を直す。彼はいつも謎のラッキーアイテムを所持しており、その類かと思ったのだがどうやら違うようだ。
「本当に大丈夫か?お前に限って緊張などということはないだろうが……」
「珍しいね。僕を心配だなんて……」
「まあさすがに心配もするさ。今日の占い、お前の運勢は最悪だったのだよ」
沈痛な面持ちで答える真太郎に、僕は小さく肩を竦めて見せた。馬鹿馬鹿しい。所詮はテレビの占いだ。あまりにも深刻そうに話すものだから、逆にこちらは少しリラックスすることができた。
「ははっ、それは大変だな」
「笑い事ではないのだよ」
そう言って、真太郎は抱えていた雑誌をバラバラと近くのベンチに落とした。その内の一冊を手に取って開いてみる。
「生まれて初めてなのだよ。この雑誌も、その雑誌も、すべてお前の運勢は最悪だ。誕生月占いも血液型占いも、タロット占いも動物占いも」
「……動物占いはただの傾向だろう」
「動物占いは冗談だ」
これは、まさか……。さすがに僕の表情も引き攣った。これは先ほどの人生初の敗北を占っていたのか?いや、そんなはずはない。あれは何かの間違いだ。だが、蒼白になっていた僕の顔色はさらに最悪なものとなる。
「赤司、おは朝の占いの結果を教えてやる。今日のあなたの運勢は人生で最悪でしょう。ラッキーアイテムは『眼鏡』。アンラッキーアイテムは――『バスケットボール』」
最悪な予感を拭い去れないまま、全中の決勝戦が始まった。
そして、その予感は的中した。
「ぐっ、どうなっている……!?」
――『天帝の眼』が発動しない
さっきまではしっかりと見えていたはずなのに……!
まるで曇りガラス越しのように、ぼやけた視界。試合を開始した途端、僕の目は活動を停止したかのようだった。こんな状態では相手の行動予測などできるはずもない。それどころか、目の前の人物にすら焦点が合わせられない。
「いただきっ!」
ドリブルをカットに来た相手をかろうじてロールすることでかわす。ぐっ……こんな見え見えのスティールなのに反応はギリギリだと!?
しかし、カットのために体勢を崩した相手をロールによって抜き去ろうとして――
そこで気付く。進行方向に別の選手が待ち構えている。この僕がロールを誘われたのか!?罠に掛けられたと悟った瞬間には、待ち構えていた選手によって、ロール中の無防備なボールを奪われていた。
「お、おい!赤司!?」
真太郎の驚く声が耳に届く。本来なら『天帝の眼』による広範囲の視界によって、あの程度の罠は読み取れていたはずだ。まさか、視野まで狭くなっているのか!?
騒然とする場内。開始直後の『キセキの世代』の失態に、特にチームメイトからの困惑をひしひしと感じていた。しかし、先ほどの野試合での敗北のおかげで、僕の精神は自分でも意外なほどに落ち着いていた。
ああ、そうなのか。屈辱感も絶望感もある。それでも、仲間たちの前で醜態を晒せないというプライドの方が勝っていた。どうにか外見上だけは平静を装いながらプレイを再開する。
「だが、これはマズイな……」
おそらく、現在の視力は0.1にも満たないだろう。視界は霞み、人物を認識するのが精一杯だ。こんな状態でボールをキープし続けるのは厳しい。
「こっちッス」
――しまった!
涼太がフリーになった絶好のタイミング。普段なら余裕を持って出せていたパスを出しそびれてしまった。
続いて真太郎がマークを外したが、それも見逃すという失態。味方の動きすら予測できる僕にとって、このタイミング逃しは恥ずべき事態だった。
「くっ……大輝」
「ちょっ……おい!どこ出してんだよ!」
焦った僕が出したパスは、大輝の進行方向とは真逆だった。常人離れした敏捷性を誇る彼の反転によって、パスカットされることだけは防いだが、そのせいで体勢は最悪。真太郎にボールを返さざるを得ないという展開へと陥ってしまう。これはひどい。
慌てた僕はベンチへ向けてハンドサインを送る。直後、ブザー音が鳴り響いた。
「メンバー交代」
ベンチから出てきたのは、小柄で影の薄い少年。彼こそは帝光中学の『キセキの世代』幻の六人目――黒子テツヤ
「予想外の善戦で、相手チームは浮き足立っている。その影響で守備の意識がおろそかだ。テツヤ、ここで一気に勝負を決めろ」
「……さっきからのミスはそのためでしたか。意外ですね。赤司くんが、そういった劣勢を前提とした作戦を立てるなんて」
「そういうな。一応は決勝戦だからな。万全を期しただけだ」
テツヤの代わりにベンチへと腰を下ろす。戦況は一変した。テツヤのパス回しによる攻撃力に特化したこの布陣は、その後の5分間で30もの得点を重ね、圧倒的な点差による勝利へと導いたのだった。
勝利に沸くチームメイトとは裏腹に、僕の心は生まれて初めて覚えた敗北感に満ちていた。