Links   作:枝折

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第六章 わたしの望み

「そして高一の三学期から穂波川に転校してきて、二年生になって、私は今ここにいる」

 

 平坂さんが長い話を終えた。わたしは気になっていることを聞いた。

 

「その白糸台の先鋒ってもしかして――」

宮永照(みやながてる)さん」

 

 やっぱり。平坂さんが口にした名前はわたしでも知っている。昨年のインターハイと春季大会の二冠優勝者。誰もが最強と認める高校生と平坂さんは戦って、そして負けたんだ。

 

「私の大量失点が原因でチームは敗退したの。全部……私のせいなんだ」

 

 平坂さんは堅く唇を引き結んでうつむいた。何かつらいものに耐えるように、誰かに許しを請うように、平坂さんはじっと動かなかった。わたしはそんな平坂さんが見ていられなくて、気がつくと口を開いていた。

 

「そんな……そんなことない。相手は高校生で一番強い人だったんだよ。平坂さんのせいとか、そんなの違う――」

「違わないよっ」

 

 平坂さんが鋭い声をあげた。

 

「私は自分勝手だった。監督に、他のレギュラーに、なによりミケ先輩と理瀬先輩に先鋒を任されていたのに。なのに決勝であんな……。肝心なところで期待に応えられない人間に何の価値があるの?」

 

 吐き捨てるように平坂さんが言う。彼女の自虐的な言葉にわたしは何も言えなかった。否定の言葉はたくさん頭の中に浮かんでくるのにそれを口に出すことはできなかった。平坂さんの厳しい口調が、わたしを見つめる瞳に浮かぶ激情が、わたしに有無を言わさなかった。

 

「あの決勝戦以来、私は牌を握れなくなった」

 

 平坂さんの言葉にわたしは息を呑む。

 

「トラウマ……みたいなものだと思う。局が進むにつれて息苦しくなるの。どんどん空気が重たくなって、そのうちにあの時の記憶がフラッシュバックして、彼女が私の前に座るの。そしたらもう駄目。また何もできずに負けてしまうかもって思うと怖くて、体が震えて、頭の中がぐちゃぐちゃになる。私はもう壊れてる……これはきっと自分勝手だった私への罰なんだよ」

 

 部屋が静かになった。ただ掛時計の針が盤面を走る音だけが聞こえていた。平坂さんは黙り込み、わたしはかける言葉が見つからなかった。

 少しして平坂さんがポツリとつぶやいた。

 

「私は藤咲さんの力にはなれない」

 

 だから、と平坂さんは頭を下げた。

 

「ごめんなさい」

 

                      ***

 

 この状況はなんなのだろう。私は隣ですやすやと眠る藤咲の顔を眺めて首をひねった。

 事の起こりは数時間前にさかのぼる。私の昔の話が終わったちょうどその時、階下から早苗さんの声が聞こえたのだ。「奈々ちゃん、お友だちを連れて下りてらっしゃい。夕飯の時間よ」と。下に降りると、リビングの食卓にずらりとご馳走が並んでいた。藤咲はそれを見て目を丸くしていた。早苗さんちょっとやりすぎ……。

 藤咲は最初こそ早苗さんのもてなしに恐縮したように行儀よく振る舞っていたが、本当に最初だけだった。祖父母にいろいろ話を振られているうちに、お得意の盛り気味トークを披露し始めたのだ。早苗さんが「奈々ちゃんは学校ではどうかしら?」と聞いた際には、まるで私の十年来の親友とでも言うような口ぶりで「今日昼ご飯をいっしょに食べました」と一行で済むはずの話をぺらぺらとしゃべっていた。よくそんなに口が回るものだと私は感心半分、呆れ半分で聞き流していたのだが、祖父母は表情豊かに話す藤咲を見ながら楽しそうに話を聞いていた。

 ご飯を食べ終わり、トイレに席を外した私がリビングに戻ってきたら、なんと藤咲が泊まっていくことになっていた。藤咲が「そろそろお暇しないと」と言うと早苗さんがしきりに残念がり、繁さんが「明日は休みだし泊まって行ったらどうかね」と言い出したらしい。私が頭を抱えて「迷惑じゃなかった?」と聞くと藤咲は特に気にした様子もなく、「全然へいきだよ~。それよりいっしょにお風呂入ろう」などと言い出した。ゆるゆるとほおを緩めて湯船につかる藤咲は、この数時間で「生まれた時からこの家に住んでいます」というくらいに馴染んでしまっていた。

 祖父母が就寝する時間になって、私は藤咲と自分の部屋に戻った。寝る前に繁さんが貸してくれたオセロやら人生ゲームやらをやりながら、瞼が重たくなるまでとりとめもないことを駄弁った。そしてもう寝ようかという段になって私は藤咲の布団を用意していないことに気がついた。すでに祖父母は就寝してしまっていて、私には予備の寝具がこの家のどこにあるのかわからなかった。すると藤咲が「わたし、ここでいいー」と勝手に私のベッドにもぐりこんで、「ほら、平坂さんもおいでー」とずうずうしくもそうのたまった。そうして今に至る。

 隣で幸せそうな寝顔を浮かべている藤咲をみて、本当にこの状況はなんなんだろうと私は再度首をひねった。藤咲と初めて話をしたのは昨日の朝だったはずで、知り合ってそう時間は経っていない。にもかかわらず一つのベッドで肩を触れ合わせて寝ているなんて、どちらかというと人付き合いの苦手な私にとってはありえないことだった。

 藤咲といるとどうにも調子が狂う。さっきだって本当はあんな昔話をする必要はなかったはずだ。きっと話したくないと言えば藤咲はそれ以上聞かずに引いてくれただろう。

 けれど私は藤咲に過去を話した。どうして? その理由を探っていくうちに私は原因らしきものに思いあたった。藤咲はミケ先輩に似ている。ぐいぐい距離を詰めてくるところとか、ほんわり柔らかい笑顔とか話し方とか、考えてみれば二人には共通点が多い。

 ひょっとしたら私は無意識の内に、藤咲にミケ先輩を重ねて、自分の後悔を吐き出して気持ちを軽くしようとしていたのかもしれない。教会に自らの犯した罪を懺悔に来る人のように私も自分の罪を告白して楽になりたかったのかも。だとしたらそれはあまりに卑怯で虫が良すぎる話だ。そんなことで私は私を許してはいけない。

 

「ごめんね」

 

 隣で眠る藤咲にささやく。藤咲はすごくいい子だ。見ているだけで元気になるくらい明るくて、笑顔がきれいで、昨日会ったばかりの私のところにわざわざお見舞いに来てくれるぐらい優しい。

 藤咲の頼みを聞いてあげたいとは思う。全国に行きたいというなら連れて行ってあげたいとも思う。けれど私には無理だ。一年前、私は誰の期待にも応えられなかった。託された役目を放り出して自分勝手なことをした。そしてその罰のように私は麻雀を打てなくなった。それは苦い過去で、どうしようもない事実で、重くのしかかる現実だ。

 私には藤咲に求められるほどの価値はない。

 私はもう一度ごめんなさいと謝ってきつく目を閉じた。

 

                      ***

 

 翌朝、目が覚めると見知らぬ天井があった。ここはどこだろう、と寝起きのぼんやりした頭でしばらく考えてそういえば昨日は平坂さんの家に泊まったんだったとわたしは思い出した。その証拠に隣で平坂さんがわたしの左腕に体を寄せてすやすやと眠っていた。普段のクールな雰囲気が消えて、あどけない表情で眠っている平坂さんは小さな子どもみたいで微笑ましかった。

 平坂さんを起こさないようにわたしは静かにベッドから出た。壁にかかった時計で時間を確認すると六時で、わたしのいつもの起床時間と同じだった。環境が変わってもわたしの生活リズムに狂いはない。制服に着替えてからわたしは一階の洗面所に降りた。顔を洗い、棚からタオルを一枚拝借して濡れた顔を拭いてから、自前のブラシで髪を梳かした。

 一通り身だしなみを整えて洗面所を出ると、玄関口の方から歩いてきた繁さんに出くわした。繁さんの手には新聞があった。たぶん郵便受けに新聞を取りに行った帰りなのだろう。

 

「おはようございます、繁さん」

「ああ、おはよう。ずいぶんと早いね」

「いえ、いつもどおりです」

「そうなのかい? それは奈々にも見習ってほしいね。奈々はいつも遅くまで寝ているのでね。あれで学校に間に合うというのだから驚きだ」

 

 繁さんが不思議そうに首をひねった。わたしはあいまいに笑う。平坂さんは遅刻の常習犯であることを繁さんや早苗さんに秘密にしている。それをわたしは昨日の夕食の席で知った。昨日、わたしがうっかり平坂さんの遅刻について口を滑らしそうになるたびに平坂さんは隣からわたしの足を踏みつけてきたのだ。あれはちょっと痛かった。

 

「ところで私はこれから日課の朝の散歩に行くところなのだが良かったらいっしょに来るかい?」

 

 乾いた笑みを浮かべていたわたしに繁さんが言った。わたしは目を丸くして「いいんですか?」と尋ねた。

 

「もちろん。若くて素敵なお嬢さんと朝からご一緒できるなんて光栄だよ」

 

 繁さんは歯の浮くようなセリフを違和感なく言った。素敵なお嬢さん。見え見えのお世辞にもかかわらず頬が緩む。繁さんはもしかすると若い時はプレイボーイだったのかもしれない。奥さんの早苗さんも綺麗だし。

 数分後。それならばと繁さんの散歩のお誘いを受けたわたしは繁さんについて外に出た。早朝だけあって肌に触れる空気がひんやりと冷たい。繁さんの散歩コースは近所の公園まで歩いて行って、その中をぐるりと一周して帰るというものらしい。三十分かからないくらいの時間で回れるのがちょうどいいそうだ。

 早朝のため公園に人は少なかった。たまにわたしたちと同じように散歩をしている人とすれ違う程度だ。ひっそりとした雰囲気の園内をわたしと繁さんはおしゃべりしながら歩く。

 

「昨日は無理を言って引き留めてすまなかったね」

「いいえ。お泊りできてすごく楽しかったです」

「そうかい? それならよかった。実は我々が孫と暮らし始めたのは割と最近のことでね。孫の話を聞けるのなら嬉しいのだよ」

 

 両親の駆け落ちで祖父母とは疎遠になっていたという平坂さんの話を思い出す。

 

「そういえば奈々ちゃんが言っていました。繁さんたちと暮らし始めてまだ半年も経ってないって」

「ああ、その通りだ。実は孫と初めて顔を合わせたのもいっしょに暮らすと決まってからでね。その……少しいろいろあってね」

「駆け落ちのことですか?」

「おや、奈々はそんなことまで話したのかい?」

 

 驚く繁さんにわたしは頷いた。わたしが昨日、駆け落ちってドラマっぽくて少し憧れるかもと言って平坂さんに呆れられた話をすると繁さんは声を上げて笑った。

 

「ははっ、うちの孫はきびしいな。あれは本や映画が好きなわりにずいぶんと現実的だ」

「やっぱり駆け落ちにはびっくりしましたか?」

 

 わたしの質問はすこし不躾だったが繁さんは特に気にした様子もなく答えた。

 

「そりゃびっくりしたさ。結婚に反対した翌日に飛び出していくとは夢にも思わなかったからね。親の心子知らずとはよく言ったものだが、私たちは私たちで娘の心を理解していなかったということなのだろうな」

 

 繁さんは肩をすくめる。

 

「娘が家を飛び出していった時、私たちは悲しいやら腹立たしいやらで、絶対私たちから連絡するものかと変に意地になってしまったんだ。そのままずいぶんと長い時間が過ぎた。つまらない意地でも一度張ってしまうとなかなか引っ込みがつかなくなってしまうのだよ」

 

 繁さんは少し恥ずかしそうに言った。

 

「娘に孫を預かってほしいと言われた時は驚いたし不安だった。娘とは二十年も音信不通にしていたから、孫とは本当に初めて顔を合わせるわけだ。孫だっていきなりこの人がおじいちゃんですと言われたら戸惑うだろうし、うまくやっていけるのかと心配せずにはいられなかった。しかし預かってみるとからかいがいのある可愛い娘でね。それまで世の中のじじバカどもを不思議に思っていた私も考えを改めたよ」

 

 繁さんが相好を崩す。わたしはそれを見て少しうれしい気持ちになった。なんだ。やっぱりかわいがられてるよ、平坂さん。

 

「けれど孫はなかなか心を開いてくれない。たぶん親からも私たちからも長い間ほったらかしにされていたせいだろうな。自分の世界にこもりがちというか、あれはなんでも自分でしようとするきらいがある。もう少し遠慮せずに甘えてくれれば私も家内もうれしいのだが……それも虫のいい話なのかもしれない。孫が生まれて十五年間、わたしたちは一度も孫に関わってこなかったのだから」

 

 繁さんの表情が後悔に満ちた寂しげなものに変わった。

 

「大丈夫です」

 

 わたしは気がつくとそう言っていた。繁さんが不思議そうにわたしを見た。

 

「繁さんや早苗さんが奈々さんのことを大切に思っていること、きっと奈々さんに伝わっていると思います。奈々さん、昨日言っていました。繁さんも早苗さんもすごく優しい人だって。たぶんまだ戸惑っているだけで――」

 

 そこまで言ってわたしははっと口をつぐんだ。何も考えずにひどく生意気なことを言ってしまった気がする。わたしは慌てて頭を下げた。

 

「すいません、わかったようなこと言って」

「いや、ありがとう。それを聞けただけでも少し楽になったよ」

 

 繁さんは優しく微笑んだ。気がつくと園内を一周していた。わたしたちは公園を出て家へと足を向けた。

 

「ところで藤咲さん」

 

 だいぶ家に近づいたあたりで繁さんがそう切り出した。

 

「参考までに聞きたいのだけどうちの孫とはどうやって仲良くなったんだい? あれは気難しいというか引っ込み思案というか、あまり自分から友だちを作れるようなタイプじゃないだろう?」

「それはもうひたすらアタックです。今もアタック中なんですよ?」

「アタック中?」

「実はわたしが奈々さんと初めて話をしたのは始業式の日なんです」

「そうなのかい?」

 

 繁さんが目を丸くした。

 

「ええ。以前から奈々ちゃんとお話ししたいなあとは思っていたんですけど、クラスも違っていたし、奈々ちゃんいつもクールでかっこいいから、少し遠く感じてしまってなかなか声をかけられなかったんです。奈々ちゃんは知らないと思いますけど、奈々ちゃんは学校じゃ憧れの的なんですよ?」

「ほう?」

 

 繁さんがそれはいいことを聞いたという風に目を細めた。その顔は沙夜ちゃんや中富先生が時折見せる意地悪な表情に似ていた。ひょっとしたらあとで平坂さんをからかうつもりなのかもしれない。わたしは自分の口の軽さを後悔した。情報の出所がわたしだとわかったらまた足を踏まれるかもしれない。痛いのは嫌だなあ。そんなことを考えながら続きを喋る。

 

「二年生になって新しいクラスになって、奈々ちゃんと席が近かったり、他にもいくつかきっかけがあって、わたしは奈々ちゃんに声をかけたんです。それから一昨日、昨日と色んなことたくさんお話しました」

 

 話してみると、わたしがそれまで平坂さんに抱いていたクールでかっこいいというイメージは実際の彼女とは全然違うことがわかった。口下手で不器用で、けれど時折見せるアンニュイな表情を見ると何となくほうっておけなくて、ついついかまいたくなる。本当の平坂さんは、なかなか懐いてくれない猫みたいな人だった。

 

「気がついたらわたしもっと奈々ちゃんと仲良くなりたいって思ってました。だから今もアタック中なんです」

 

 道の向こうに平坂さんの家の門が見えてきた。散歩の時間ももう終わりだ。確かに朝の軽い運動にはちょうどいいくらいの長さのコースだった。

 

「藤咲さん」

 

 門の前まで来ると繁さんが口を開いた。「はい」と返事をすると繁さんが小さく頭を下げて言った。

 

「なかなか難しい孫ですがこれからも仲良くしてやってください」

 

 繁さんの声はとても温かった。平坂さんのことを想っているのが自然と伝わるすごく優しい言葉だった。わたしはそれが自分のことのようにうれしくて、気がつくと笑っていた。

 

「はい、喜んで」

 

                      ***

 

 散歩を終えた後、朝ご飯をご馳走になってから、わたしは平坂さんの家をあとにした。土曜日だったけど生徒会で登校しなければならず、あまり長居はできなかった。平坂さんは結局起きてこなかった。早苗さんが起こそうとしたけれどわたしはそのまま寝かしてあげてくださいと頼んだ。病み上がりだし見送りぐらいでわざわざ起こすこともない。

 校門を抜けて学校に入り、生徒会室のある四階まで上がる。休みだし廊下に人影は見当たらない。

 ちらりとスマホで時間を確認すると集合まではまだ二十分くらいあった。けれどそれはわたしにとって特別早すぎるということはなかった。というのもわたしは普段できるだけ一番に生徒会室に来ることを心掛けているので、いつもこれぐらい前には着いているからだ。だってわたし、会長だし。偉い役柄には色々責任がつきまとうのだ。

 この時間ならいつも通り一番乗りだろうと思いながらわたしは生徒会室の前まで来て、あれっと立ち止まった。もう生徒会室のドアが空いていた。

 

「あら、美織。おはよう」

 

 わたしが部屋の中に入ると、一番乗りの人物が挨拶をした。沙夜ちゃんだった。自分の席に座りながらわたしの方を見ていつもどおりの意地悪そうな微笑みを浮かべている。わたしは一番乗りが沙夜ちゃんだったことを少々意外に思いながら返事した。

 

「うん、おはよう。珍しいね、沙夜ちゃんが一番乗りって」

「そうね。今日はたまたま早く目が覚めたから」

「そうなんだ」

 

 相槌を打ちながらわたしは沙夜ちゃんの横を通る。会長席は部屋の一番奥だ。しかし通り過ぎる寸前で沙夜ちゃんにがっしりと腕を掴まれた。何だろうと思う間もなく沙夜ちゃんがわたしの腕を思い切り引っ張る。いきなりのことにバランスを崩したわたしは沙夜ちゃんに引かれるがまま、よろよろと沙夜ちゃんの胸の中にダイブすることになった。

 ぽよりと顔に沙夜ちゃんの柔らかい胸の感触が伝わる。わたしは慌てて立ち上がろうとしたが、沙夜ちゃんに今度は背中を引っ張られ半回転。上向きになって気がつくとお姫様抱っこに近い形で沙夜ちゃんの腕の中に納まっていた。戸惑うわたしを沙夜ちゃんの真っ黒な瞳がじーっと見下ろしていた。

 

「な、何?」

「二人っきりね、美織」

「そうだね」

「ここには私と貴女しかいないわ」

「うん」

「なのに他の女の匂いがするわ」

「えっと……」

「貴女の髪から他の女の匂いがする」

 

 さらさらとわたしの髪をいじって沙夜ちゃんが言った。

 

「ああ、昨日は平坂さんの家に泊まって、その時シャンプー借りたから」

「あら美織、出会って間もない相手の家に泊まり込むなんてずいぶんと大胆ね。それでどうやって夜這いを仕掛けたの?」

「仕掛けてないよっ!」

「なら、逆に襲われたのかしら。私の美織に手を出すなんて許せないわ」

「襲われてもないからっ!」

「冗談よ」

 

 いつものことながら欠片も面白くない冗談を沙夜ちゃんは言う。

 

「それで平坂さんはどうだったの?」

「うん、元気そうだったよ。月曜日からは登校できると思う」

 

 わたしは簡潔に答えた。それ以上のことを言うつもりはなかった。他人の過去を本人の許しもなしに吹聴するのは良くない。ここはポーカーフェイスでさらりと流すに限る。

 しかし沙夜ちゃんはわたしの眼を少し見てからあっさりと言った。

 

「なにか隠しているわね、美織」

「か、隠してにゃいよ?」

「あからさまな動揺ありがとう。それで何を隠しているのかしら?」

「言わない。あんまり人に触れ回るようなことじゃないもん」

「そう、なら仕方ないわね」

 

 沙夜ちゃんがすっと目を離した。わたしは沙夜ちゃんが引いてくれたことにほっと胸をなでおろした。しかしそれも束の間。沙夜ちゃんはとんでもない一言を放った。

 

「拷問するしかないわね」

「へ?」

 

 わたしの肩に手を回していた沙夜ちゃんの左手にぐっと力が入ったかと思うと、沙夜ちゃんは空いている右手で突然わたしの体をくすぐり始めた。体勢が体勢だけに抵抗も難しい。私は自由な両足をバタバタさせながら叫ぶ。

 

「あっはっは、ちょっ……やめっ……あはっ、やめてってばぁ」

「なら白状する?」

 

 くすぐりを止めて沙夜ちゃんがそう聞いたので、わたしは毅然と答えた。

 

「こんな……非人道的な行いにわたしはぁ……はぁ、はぁっ。断じて屈しないもん」

「もうちょっとくすぐってみようかしら」

「やめてえぇ!」

 

                      ***

 

 数分後、わたしは息も絶え絶えに床に這いつくばっていた。

 

「ふーん、宮永照にねえ」

 

 わたしからすべての情報を聞き出した沙夜ちゃんは何事もなかったようにそんなことを呟いていた。わたしを見おろす沙夜ちゃんはいつも通りの意地悪な笑顔を浮かべている。悪魔だ。魔女だ。人でなしだ。わたしは沙夜ちゃんの悪口を心の中で叫んだが、口に出すことは決してしなかった。だって勝てないんだもん。

 

「それで貴女はどうしたいの?」

 

 わたしが恨みたっぷりな目でにらんでいると沙夜ちゃんはそう尋ねた。わたしは床に座り込んだまま即答した。

 

「わたしはこのまま平坂さんのこと放っておきたくない」

「それは平坂さんに麻雀部に入ってほしいから?」

「それは麻雀部のこともあるけど……それだけじゃなくて……」

 

 ただわたしは平坂さんにはもっと楽しく笑っていてほしいなと思っていた。きっと平坂さんはあまりにも考えすぎている。平坂さんの話を聞いてとき、たぶん平坂さんの先輩たちは平坂さんのことをもう許している――というより最初から怒ってなんていないとわたしは思った。平坂さんを必要以上に責めているのは平坂さん自身だ。周りの誰が彼女を許していたとしても、他ならぬ彼女自身が自分のことを許そうとしていない。

 平坂さんは昨日、わたしに向かって「ミケ先輩みたいなこと言ってる」とか「ミケ先輩みたいな反応するね」というような内容の言葉を何度か口にしていた。平坂さん自身が気がついているかはわからないけど、どうも平坂さんにはわたしとミケ先輩を重ねて見ているようなところがある。その証拠に平坂さんは時折、まるでわたしに対して負い目を感じているような苦しげな表情を見せた。そしてその度にわたしは胸が引っかかれるよう痛みを感じた。それはたぶん私にとって平坂さんがもう大事な友達だからだ。

 

「わたしはもう平坂さんのことを大切だと思ってるから。たとえいっしょにいたのがたったの二日間でも……ううん。たったの二日間だからこそ、もっとたくさんいっしょの時間を過ごして、いっしょに喜んだり、怒ったり、泣いたり、笑ったりしたいと思うから……、だからわたしは平坂さんの力になりたいんだと思う」

 

 友達といっても今はまだ一方通行だ。たぶん平坂さんはわたしにミケ先輩を重ねているから、彼女の感じている罪の意識は平坂さんとわたしの距離を遠ざけてしまっている。だから、平坂さんが自分のことを許せた時、わたしは平坂さんと、わたしはそう思っているという一方的な繋がりじゃない、本当の友達になれるはずだ。

 

「だからね、沙夜ちゃん。わたしは平坂さんのことを放っておかない」

 

 わたしがそう言うと、沙夜ちゃんはどういうわけかくすくすと笑った。

 

「わたし、何かおかしいこと言った?」

「いいえ。あなたらしい情熱的な告白だったわ……」

「告白?」

 

 沙夜ちゃんの言葉にわたしは自分の発言を思い返した。途端に顔が赤くなる。

 

「ち、違うからね。大切っていうのは友達って意味だからね!」

「そんなに誤魔化さなくてもいいわ。美織は女の子が大好きな男前だもの」

「だから違うんだってばっ!」

 

 わたしが大きな声で必死に訴えっていると、沙夜ちゃんはいつもの意地の悪い顔でただの冗談よ、と言った。やっぱり沙夜ちゃんの冗談はこれっぽちも面白くない。

 

「それで具体的に美織はどうするの?」

「へ?」

 

 沙夜ちゃんに聞かれてわたしは見事に言葉に詰まった。どうする? どうしよう……。どうしたらいいのかさっぱりわからない。こういう時バカな自分が恨めしい。頭を抱えるわたしに沙夜ちゃんがぽつりとつぶやく。

 

「美織は馬鹿ね」

「ううっ……そんなこと言われなくても知ってるもん」

「知ってるのなら直す努力をすべきなのだけれど……まあ、美織はそのままでいいわ。私はお馬鹿ちゃんな美織が好きだから」

「沙夜ちゃんがわたしをバカにしてる~」

「いいえ。私は自分の気持ちに正直な貴女を好ましいと思うわ。だからもし平坂さんにふられたら私のお婿さんにしてあげるわ」

「もうっ、沙夜ちゃんってばっ! その冗談。次言ったらわたし、怒るからね」

 

 そう言ってわたしは沙夜ちゃんをにらんでみせたけど沙夜ちゃんは涼しい顔のままだった。まあ美織の性癖はどうでもいいとして、と少しも反省した様子のない前置きをして沙夜ちゃんは言った。

 

「平坂さんのことを何とかしたい。それが貴女の望みなのね、美織。わかったわ(・・・・・)

 

 何だろう。沙夜ちゃんの何気ない一言にわたしはとてつもなく不吉なものを感じた。すごく嫌な予感がする。

 

「ねえ、沙夜ちゃん……何か変なこと考えてない?」

「別に」

 

 ふいっと沙夜ちゃんが顔をそらした。怪しい。わたしは問い詰めようとしたけれど、ちょうど梢ちゃんと遥ちゃんがやって来た。床に座り込んでいるわたしを見て二人とも目をぱちくりさせている。わたしは慌てて立ち上がった。それでわたしの追及はうやむやになってしまった。


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