Links   作:枝折

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第三章 開局

 数分後、わたしたちは麻雀牌を握っていた。「とりあえず麻雀をしよう」という遥ちゃんの唐突な提案に、平坂さんは少し考えた後こくりと頷いたからだ。この生徒会室で生徒会のメンバー以外の人と卓を囲むのはこれが初めてだ。いつもと少し違う雰囲気にちょっとドキドキする。

 卓と言っても今わたしたちが囲んでいるのは全自動卓ではなく机を二つ引っ付けて上に緑のマットを敷いただけの簡易なものだ。本当は全自動卓もあるのだけど、ついこの間壊れてしまって残念ながら修理中だった。そのため牌を混ぜたり、山を作ったりは手作業になる。

 勝負は半荘(ハンチャン)一回で、25000点持ちの30000点返しだ。東家(トンチャ)・平坂さん、南家(ナンチャ)・梢ちゃん、西家(シャーチャ)・わたし、北家(ペイチャ)・遥ちゃんに決まった。起家(チーチャ)の平坂さんが牌を切ってゲームは始まった。

 

 

東一局 親・平坂奈々

 

「よっし、できたあ。門前自模(ツモ)混一色(ホンイツ)(ハク)、ドラ3。16000!」

 

 {一筒一筒一筒二筒三筒三筒四筒五筒七筒八筒九筒白白} ツモ {白}

 

 五巡目だった。いきなり遥ちゃんが倍満を和了った。わたしと梢ちゃんは4000、平坂さんは親っかぶりで8000点分の点棒を持っていかれる。

 不思議なことに遥ちゃんは、こうして局の最初の方に高打点で上がることが多い。元々、遥ちゃんは高打点志向の打ち筋だから、高い役を上がること自体はおかしいことでもなんでもないのだけれど、序盤に一回必ずと言っていいほどアガるのはどういうことか。

 これは生徒会全員が知っていることなのでわたしも梢ちゃんも「またですか」と慣れた調子だったが、平坂さんは少し驚いたらしい。

 

「いきなり倍満……」

 

 目を丸くする平坂さんに梢ちゃんがぼそっとつぶやく。

 

「最初だけです」

「そうなの?」

「ええ。遥さんはいつも序盤に大きなアガリを一回するのですが、その後はたいてい――」

 

 

東二局 親・水町梢

 

「遥さん、ロンです。1500」

「おうっ」

 

 

東二局一本場 親・水町梢

 

「またロンです、四十符三翻の一本場は6100」

「あいて」

 

 

東二局二本場 親・水町梢

 

「またまたロンです、7700の二本場は8300」

「やめてえええ」

「と、まあこのように一瞬で失速します」

「こずえん、ひどいよー」

 

 梢ちゃんの三連続和了(ホーラ)で遥ちゃんが瞬く間に点数を失い、稼いだ16000点をすべて吐き出した。

 

 

東二局三本場  親・水町梢

 

 続く三本場。二向聴(リャンシャンテン)の好配牌からほどなくわたしは聴牌(テンパイ)したが、リーチはかけなかった。

 

 手牌 {一萬二萬三萬六萬七萬七萬八萬八萬九萬九筒東東東}

 

 今は東とドラの一萬だけど、いずれは一盃口、全帯、混一色、一気通貫……。まだまだ高くなりそうだと思ったのだ。しかし手変わりを待ってツモ切りすること数順、先にアガリ牌が来た。アガれて嬉しいような、安手に留まって残念なような、複雑な気持ちでわたしは牌を倒した。

 

 {一萬二萬三萬六萬七萬七萬八萬八萬九萬九筒東東東} ツモ {九筒}

 

「面前自模、場風、ドラ1。四十符三翻の三本場は6100だよ」

 

 梢ちゃんの親番を止める和了。梢ちゃんが少しむくれてわたしに不満げな視線を送って来た。

 

「梢ちゃん、いっぱいアガったよね?」

「永遠に親番を続けることは私のささやかな夢なのです」

「それ、他家にはささやかでない悪夢だからね」

 

 

東三局  親・藤咲美織

 

 わたしの親番が回って来た。今のところ一位は梢ちゃんの34000点で独走状態、わたしと遥ちゃんはスタート時とほぼ点数が変わらず横並び、平坂さんは17000点と出遅れている。ここまで平坂さんは和了が一度もなくずいぶんとおとなしかった。もっとも、麻雀は運の要素が強いゲームなので強豪校のレギュラーだからといって必ず勝てる訳ではない。

 

「ロン」

 

 そんなことを考えているとその平坂さんが牌を倒した。振り込んでしまった。

 

 {八筒八筒一萬一萬六萬六萬七索七索白白中中西} ロン {西}

 

七対子(チートイツ)のみ。1600」

「捨て牌が何か気持ち悪いと思ったら七対子かあ」

 

 遥ちゃんが呟く。七対子は同じ牌のペア、対子(トイツ)を七個集めるという少し変わった役で捨て牌も独特な並びになることが多い。ちなみに、対子の状態で我慢できず、ついつい鳴いて対々和(トイトイホー)に走ってしまうわたしにとって七対子は少し苦手な役だ。

 

 

東四局  親・八波遥

 

「リーチです」

 

 中盤。梢ちゃんがリーチをかけた。梢ちゃんはおとなしそうな外見とは逆に麻雀では攻撃的な打ち筋が多く、今のように大量リードしていても果敢にリーチを仕掛けることがしばしばあった。以前、梢ちゃんが「点差を守りきることよりもたくさんアガって相手の点棒を根こそぎ持っていくことを考えた方がいいと思います」と過激な発言をしているのを聞いたことがある。

 梢ちゃんのリーチ宣言に私はすぐさま現物を切った。まだ三向聴(サンシャンテン)で押していくような手牌じゃなかった。遥ちゃんも手牌が悪いのか、親番だけど下り気味の捨て牌をしている。

 続く平坂さんの捨て牌は六萬だった。梢ちゃんの捨て牌は一九字牌が並んでおり、いかにもタンヤオっぽい。現物でも筋でもない六萬はかなり危なそうなところだ。それをリーチ宣言の同順に切ったところを見ると、平坂さんはかなり高い手を仕上げようとしているのかもしれない。

 平坂さんはそれからもわたしと遥ちゃんが安牌を切るのと対照的に危険牌を放りまくるというデンジャラスな打ち方をつづけた。そして――

 

「ツモ」

 

 平坂さんが牌を倒した。あらわになった手牌を見て一同目を丸くする。

 

 {六筒六筒七筒七筒四萬四萬五萬五萬三索三索六索六索北} ツモ {北}

 

「七対子と面前自摸で3200……。また七対子ですか……」

「ていうかその打点でオリないの!?」

 

 梢ちゃんが意外そうにつぶやき、遥ちゃんがすっとんきょうな声を上げた。確かに平坂さんは最下位だし点数がほしいのはわかるけど、リーチに対してこの打ち筋はかなり意外だった。リスクの方が高い気がする。

 しかも平坂さんのアガリ牌は北だった。七対子で待ちを字牌にすることはよくあるけれど、リーチがかかっているこの状況、待ちを変えやすい七対子なら危険牌を切るより先に切るべき牌のはず。なのに、平坂さんはリスクを冒して危険牌を切り、わざわざ北を残していた。

 

「次、私の親番だね」

 

 驚くわたしたちなどどこ吹く風で平坂さんは牌を混ぜはじめた。

 

 

南一局 親・平坂奈々

 

「ロン」

 

 南一局はあっさり終了した。遥ちゃんが平坂さんに3900点の放銃。これで平坂さんは三連続和了。平坂さんの順位は今の和了でわたしと遥ちゃんを抜いて二位に浮上していた。

 

 

南一局一本場 親・平坂奈々

 

 順位を一つ落としたわたしは負けてられないと気合を入れなおして牌をツモる。配牌がよかったおかげで、現在のわたしの手牌はなかなかいい感じだった。

 

 手牌 {二筒二筒六筒七筒八筒七萬八萬九萬五索六索六索七索八索} 

 

 六巡目にして、索子(ソーズ)の四、七待ちの平和(ピンフ)を聴牌していた。まだ平和しか役はないけど、ツモ次第ではタンヤオと三色(さんしょく)がつく。ここはダマで手変わりを待とう、そう決めてツモ切りを繰り返す。

 

「リーチ」

 

 平坂さんがリーチをかけた。十巡目、追いつかれてしまった。現物を切った梢ちゃんに続いて、親リー相手に少しびくびくしながらわたしも牌を切る。そのまま遥ちゃんの番に回った。セーフ。当たり牌じゃなかった。そう安心したのも束の間――

 

「ツモ」

 

 平坂さんの声が響いた。

 

 {白白八筒八筒五萬五萬六萬六萬三索三索四索四索七索} ツモ {七索}

 

立直(リーチ)一発(いっぱつ)、面前自摸、七対子に――」

 

 平坂さんの手が王牌(ワンパイ)に伸びドラ下の牌をひっくり返す。中だった。平坂さんの手牌には白が二枚ある。

 

「裏ドラ2枚。七翻の一本場は、18300」

 

 跳満(ハネマン)のアガリ。一気に平坂さんがトップに躍り出る。

 

「また七対子……」

「これで三回目」

 

 梢ちゃんと遥ちゃんの顔が驚きに染まる。わたしも驚いていた。三回目の七対子にではない。平坂さんのさらした牌には四索と七索の対子が含まれている。わたしのアガリ牌がきれいに止められていたのだ。

 

(それだけじゃない……)

 

 平坂さんは、九、十巡目で一萬の対子落しをしている。どちらの一萬もツモ切りじゃなくて手牌から出していたはずだ。そしてリーチをかけたのは同順の十巡目。ということは――

 

(平坂さんは九巡目でわざと聴牌を崩した――?)

 

 そうとしか考えられなかった。でも、平坂さんは何でそんなこと意味のないことをしたのだろう。わざわざ出来上がっている七対子の聴牌を崩すなんて。

 そこまで考えてわたしははっと気がついた。ひょっとして平坂さんはわたしのアガリ牌、四索か七索のどちらか一方が待ちの七対子を聴牌していたのかもしれない。その状態で九巡目、四索か七索か手牌にない方をツモって来た。対子六つと四索と七索。普通なら四索か七索のどちらかを捨ててわたしに振り込んでしまう状況で、平坂さんは六つの対子のうちの一つ、一萬を捨てて聴牌していた七対子を崩した。その次巡、四索をツモった平坂さんは残ったもう一枚の一萬を切ってリーチ、直後の十一巡目に七索をツモってアガった。

 

  九巡目  手牌 {白白八筒八筒一萬一萬五萬五萬六萬六萬三索三索四索} ツモ {七索} 打 {一萬}

  十巡目  手牌 {白白八筒八筒一萬五萬五萬六萬六萬三索三索四索七索} ツモ {四索} 打 {一萬}

 十一巡目  手牌 {白白八筒八筒五萬五萬六萬六萬三索三索四索四索七索} ツモ {七索}

 

 これなら平坂さんの不可解な打牌に説明がつく。平坂さんは一度聴牌を崩してわたしへの振り込みを回避したばかりか、わたしのアガリ牌を取り込んだ上で七対子を作り直しアガった。まるでわたしのアガリ牌が見えているかのように――。

 背筋がぞっと冷たくなる。

 突拍子もない考えだけど、そう仮定すれば平坂さんの打ち方に納得がいく。七対子が多いのはおそらく危険牌をツモっても手に組み込みやすい役だから。安い手しかできてないのに他家(ターチャ)のリーチに対して危険牌を捨てていたのも、他家のアガリ牌がわかっていたから。何より平坂さんはこれまで一度も他家に振り込んでいない。もちろん半荘一回打つ間、一度も振り込まないことなんてよくあることで、根拠というにはあまりに弱いけれど――

 

(オカルト……かなあ)

 

 わたしはぼんやりそう思った。麻雀には摩訶不思議がつきまとう。特定の牌を呼び込む体質だったり、ちらりと未来のようなものが垣間見えたり、まるで見えざる力が働いているかのように一向聴(イーシャンテン)地獄が続いたり。確率論では説明できないような奇天烈な現象がちらりと顔を出すことがあるのだ。

 もちろんそれを信じない人もいる。たとえば徹底したデジタル打ちの人間からしてみたら「そんなオカルトあり得ません」となるだろう。じゃあわたし、藤咲美織はいわゆるオカルトについてどう思っているかというと、わたしは麻雀にオカルトはあると考えていた。身近に一人、そういう人間を知っているだけにわたしはどうしてもオカルトに対して否定的になれないのだ。

 普通では測れない不思議を有する打ち手。もしかしたら平坂さんもそういう類の人間なのかもしれない。少なくとも可能性だけは頭に入れておく必要があるとわたしは思った。

 

「二本場」

 

 平坂さんが静かに宣言した。彼女の親番はまだ終わってはいない。

 

                      ***

 

南一局二本場 親・平坂奈々

 

「ポン」

 

 始まって早々に梢が役牌を鳴いた。たぶん私の親番を早アガリで流して次の自分の親番で逆転を狙うつもりなのだと思う。

 跳満を上がってトップになっても私には一息つく余裕もなかった。梢が追いすがって来るから? 違う。私を追い立てているのは過去の記憶だ。

 さっきのアガリをしてすぐ私は頭に鈍い痛みを感じ始めていた。私はやっぱり来たかと顔をしかめた。こんなことならリーチなんてかけなければよかった。

 あの日の記憶はいつもこの痛みとともに蘇る。努めて思い出さないようにしていても、牌の音が、感触が、あの夏の日の記憶を連れてきてしまう。石を積んでせき止めたはずの水流が、それでも石の隙間から少しずつ、少しずつ染み出すように、あの日の記憶は私の脳裏に広がりつつあった。

 去年の夏のインターハイ。西東京地区予選の決勝。先鋒の私の出番は真っ先にやって来た。控室で他のレギュラーの先輩たちが私の背中を叩いて激励してくれた。部長はいつものふわりとした笑顔を浮かべて「奈々ちゃん、がんばっ。エネルギーを分けてあげるね」とわけのわからないことを言って私に抱きついた。

 

「ロン。2600」

 

 梢が遥から出アガリした。

 

 

南二局 親・水町梢

 

 痛む頭に記憶は次々と流れてくる。

 私が対局室に入るとすでに一人、選手が来ていた。白い制服を着た彼女は席に座って本に目を落としていたけれど、私が卓に近づくとぱたりと本を閉じて顔を上げた。

 その少女のことは前から知っていた。何せ彼女は有名選手だ。昨年の優勝校白糸台の先鋒を務める彼女は周囲からの注目も大きく、雑誌やテレビのインタビューで何度もその姿を見ていた。写真や画面越しにみる彼女はいつも明るい笑顔を浮かべていて、綺麗な人だなーと思っていた。

 けれど、目の前にいる少女はどこまでも無表情だった。感情の見えないガラス玉のような目で私を見る彼女は、まるで人形のようだった。今まで持っていたイメージと実際に見た彼女の違いに戸惑いながら、私は「よろしくお願いします」といって席に着いた。

 

「チー」

 

 対局は進行している。六巡目に梢がまた鳴いて仕掛けた。喰いタン狙いか役牌をバックに抱えているのか。梢は早アガリを目指しているように見える。親だから安手でもとにかく上がって連荘(レンチャン)するつもりなのかもしれない。

 他の選手もほどなくやって来て先鋒戦が始まった。彼女は起家で私の対面に座っていた。相変わらず表情はなかった。配られた牌を見て私は内心にやりとした。最初から七対子の一向聴という好配牌だった。そして数巡で聴牌した私は躊躇うことなくリーチをかけた。アガリ牌も間もなくやって来て私はアガリを宣言した。立直、面前自摸、七対子。さらに裏ドラが乗って12000。いきなり私は跳満を和了した。絶好調の滑り出しだった。

 

「平坂さん?」

「え?」

 

 不意に藤咲の声がして私は我に帰った。卓に目をやると藤咲の手牌が倒れていた。四十符三翻は1300・2600だ。私は慌てて点棒を出した。

 

「大丈夫? 顔色が悪いみたいだけど」

 

 藤咲が心配そうに私を覗き込む。私は「大丈夫」と答えると、藤咲は「ならいいけど」と山を積み始めた。残り二局だ。

 

 

南三局 親・藤咲美織

 

 頭痛は増し、きりきりと締め付けるような痛みは次第に熱を持ち始めていた。

 あの決勝戦、最初の異変を感じたのは東一局が終わった時だった。跳満を和了して幸先の良いスタートを切れたと浮かれていた私の背中にゾクッと奇妙な感覚が走ったのだ。まるで後ろから何か大事な秘密を覗かれたような薄気味の悪い感覚だった。私はとっさに振り返ったけれど、後ろには何もなかった。言いしれない不安が胸に渦巻いた。

 それが悪夢の始まりだった。

 

「ポン」

 

 遥が鳴いた。一筒だった。遥の捨て牌はわかりやすく萬子(マンズ)と索子に偏っている。点差を考えて筒子(ピンズ)清一色(チンイツ)でも狙っているのかもしれない。

 そういえばあの時、私も鳴いた。終わらないのではと思うほど長い長い彼女の連続和了を止めるために鳴いた。速度で勝とうとして鳴いた。それは普段の私のプレイスタイルに反することだったけどやむを得なかった。けれどそんな私の必死の抵抗も彼女に対しては何の意味もなさなかった。

 いよいよ頭痛がひどくなってきた。熱い。視界がぐにゃりと歪む。ダメ、これ以上思い出したら、また……

 

「リーチ」

 

 藤咲の声が彼女の声に重なった。それがきっかけだった。

 違う。ここはあの決勝戦の卓じゃない。違う。違う。違うっ! わかっているのに。必死に押しとどめようとする私をあざ笑うかのように、あの日の記憶は容赦なく私の中に蘇る。牌の鳴る音。卓に降る照明の光。ずしりと重い空気。乾く喉。最悪の記憶の欠片が次々と脳裏に浮かび、折り重なって、そして気がつくと――私の前に彼女が座っていた(• • • • • • • •)

 彼女の人形のような無機質な双眸が私を捉える。それだけで私は身がすくみ、何も考えられなくなった。

 ぼんやりと歪む視界の向こうで上家(カミチャ)が牌を切るのが見えた。

 ああ、牌をツモらないと。半ば無意識に私はのろのろと山に手を伸ばし、牌に触れた瞬間、頭が割れそうなほど痛んだ。全身にぞくりと悪寒が駆け巡る。呼吸が乱れ、息苦しくなる。危ない。この牌は駄目だ。絶対に切ってはいけない――

 けれど私の体はもう私の意志で動いてはいなかった。私の右手は山からつかんだ牌を無情にもそのまま卓の上に放した。

 コトン。牌が卓上に落ちた音がやけに大きく鳴り響く。対面に座る彼女の口がゆっくりと開く。そうだ、あの時私はこうやって――

 

                      ***

 

 南入して跳満を和了したあたりから平坂さんの様子がおかしかった。あのままさらに和了を続けそうな勢いを感じていたのに、それが急に途絶えた。最初、平坂さんは牌の感触を楽しむように明るい顔で麻雀を打っていた。それが今は一転してどこか辛そうな表情だ。少し瞳が潤んでいる。やはり体調が悪いのだろうか。

 

「ポン」

 

 梢ちゃんと遥ちゃんもそれに気がついているようで、ゲームを進めながらも、ちらちらと心配げな視線を平坂さんに送っていた。平坂さんはさっき大丈夫って言ったけど……もう一度声をかけた方がいいだろうか。わたしはどうしようと迷っている内に聴牌した。平和とタンヤオができていて、それ以上に役をつけるのは難しい形だった。

 

「リーチ」

 

 わたしがリーチ棒を場に出した、その時だった。平坂さんが呻いて左手で頭を押さえた。梢ちゃんが小さく悲鳴を上げる。

 平坂さんがわずかに顔を上げてこちらを見た。わたしは彼女の眼を見て息をのんだ。彼女の瞳は恐怖に揺れていた。平坂さんの瞳はここじゃないどこかを映していて、そこにいる何かに怯えているかのように見えた。

 

「平坂さん?」

 

 平坂さんの尋常じゃない様子にわたしは戸惑いがちに声をかけたけれど、平坂さんは答えなかった。わたしの声は彼女に届いていないようだった。

 平坂さんがゆっくりと山に向かって右手を伸ばす。その手は微かに震えていた。平坂さんの表情は苦しげで辛そうで、だけど何かに突き動かされるように、平坂さんは牌をつかんだ。震える手に掴まれた牌はゆっくりと卓を移動し、手牌に加わる直前でするりと手から抜け落ちた。牌がコトリと音を立てて卓上に転がった。

 わたしは声を上げた。危ないっ――! 平坂さんの体がゆっくりと横に傾いていた。遥ちゃんがとっさに立ち上がり倒れる前に平坂さんの体を受け止める。

 

「平坂さん、大丈夫――って、うわっ、熱い!?」

 

 遥ちゃんが平坂さんの額に手を当てて悲鳴を上げた。

 

「先生、呼んできます!!」

 

 梢ちゃんが慌てて生徒会室から出ていく。わたしは平坂さんに駆け寄った。平坂さんは意識がはっきりしていないようで、焦点の合わない眼を潤ませ、浅く呼吸を繰り返している。

 

「平坂さん、大丈夫。ねえっ」

 

 わたしはどうしたらいいかわからなくて、おろおろと声をかけた。すると平坂さんの唇が微かに動いた。

 

「え――?」

 

 ごめんなさい……ミケ……先輩。平坂さんは震える声でそう呟いていた。


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