Links   作:枝折

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第一章 思いがけない頼み事

 親が離婚することになった。高校一年生の夏のことだ。両親に離婚の話を切り出された時、私はさして驚かなかった。二人の不仲は普段から私の知るところで、ずいぶん前から離婚の予感はあったからだ。なるべくしてそうなった。それが両親の離婚に対する私の唯一の感想だった。

 離婚の手続きはよどみなく進み、お母さんに引き取られることが決まった私は、高一の夏休みの間に東京から九州のお母さんの実家へと引っ越すことになった。新居がお母さんの実家と聞いた時、私は内心戦々恐々だった。私は今まで母方の親族と会ったことは一度もなかったのだ。

 私の両親が結婚するとなった時、お母さんの周囲の人間は大反対したらしい。お母さんはそれなりにいいところのお嬢さんで、お父さんはそうでもなかった。そのあたりがお母さんとお父さんの結婚に周囲が反対した原因の一つだったと聞いている。散々言い争った挙句、お母さんは周りの賛同を得られないまま、お父さんと駆け落ちしたそうだ。となると、私はお母さんとかわいい娘をたぶらかした男との間にできた子どもということになる。正直、良く思われているはずがない。だから私は不安を感じていたのだ。

 しかし、結果から言うと私の心配は杞憂だった。初めて会う祖父母は優しい人だった。おまけに新居も素晴らしいものだった。お母さんがいいとこのお嬢さんと言うのは嘘ではなかったらしく、祖父母の家は大きかった。立派な門があるし、広いし、壁に絵画がかけてあるし、お手伝いさんがいる。生まれた時から家族三人狭い安アパートで暮らしてきた私にしてみればそこはまるでお城のようだった。こんな家に住めるならお父さんを失ったのも悪くないかもしれないと考えてしまったことがあるのはナイショの話だ。

 そういうわけで私、平坂奈々(ひらさかなな)は偉大な祖父母のおかげもあって、親の離婚、という人生においてそれなりに大きな出来事をうまく乗り切れた……と思っていたのだが、我が両親(しか)り、人生そううまくは行かないらしい。

 

 私の新生活には問題があったのだ。

 

                      ***

 

 四月九日、新学期初日。春うららかなと言うには少々きつい日差しを肌に感じながら私は高校への通学路をとぼとぼと歩いていた。半月もあった春休みは、本当にそんなにあったのかと疑いたくなるほどの速さで過ぎ去ってしまった。今日から再び学校生活という窮屈なルーチンワークに身を落とさなければならないのかと思うと、私は朝から悲嘆の感情を禁じ得ない。

 少々大げさじゃないかって? そんなことはない。私は道の向こうに白い大きな校舎が見えてきたのを確認して、思わずため息をついた。

 私立穂波川(ほなみがわ)女学院。それが私の通っている学校の名前だ。女学院なんて今どき珍しいような気がしなくもない名前のこの学校は全国的にもそれなりに有名な、真正のお嬢様校である。そしてこの穂波川女学院での学校生活こそが私の新生活における最大の問題だった。

 両親の離婚により、東京から引っ越すことになった私は、当然のことながら転校を余儀なくされた。そこで新しく通う高校にと、祖母が薦めたのがこの穂波川女学院だった。何でもお母さんも穂波川の卒業生らしい。話を聞いたときには、「へー、女子校かあ」くらいにしか思わなかった。しかし、何とか編入試験をパスし、三学期から穂波川に通うようになってまもなく私はこの高校に転入したことを後悔することになった。

 穂波川は私がそれまでにいた世界と空気が違った。お嬢様校と言うだけあって校内に流れる空気は極めて上品なものだった。フィクションでよく見るような金髪縦ロールのお嬢様がいるわけではなかったけれど、生徒の誰しもの言葉やしぐさの端々に育ちの良さを感じた。

 そんな中で私は一人浮いていた。着崩した制服も、ちょっと派手めの桜のヘアピンも、ぶっきらぼうな言葉遣いも、私だけのものだった。こんなの前の学校じゃ特に珍しいものでもなかったのに。

この学校にいるとまるで私だけ世界からずれてしまったかのように感じることがある。全く違う世界に迷い込んだという感覚じゃなくて、同じ世界にいるけれど微妙にノリが違うから馴染めない、みたいなこの感覚は私をいつも気だるくさせる。周囲から疎まれていたり、いじめられているというわけではないけれど、穂波川女学院は私にとってさほど楽しい場所ではなかった。

 後悔したことと言えばもう一つある。それは穂波川女学院の校則がやたら厳しいということだ。髪留めが派手すぎるとか、制服を着崩すなとか、先生はいちいち細かい。もちろん遅刻なんてもっての他で、前の学校で遅刻回数にかけては他の追随を許さなかったほどの遅刻魔の私にとっては厄介なことこの上ない。

しかし今日に限って言えば、遅刻の心配はなさそうだった。ご立派な校門を抜けたところで、腕時計を確認すると始業時間まであと五分と珍しく余裕があった。校舎に入り、下駄箱近くの掲示板に張り出されていたクラス分けを確認すると、私は階段を上り始めた。私の教室は二階だった。

 そういえば以前、遅刻しそうになってこの階段を駆け上がって、偶然そこに居合わせた先生に、はしたないと怒られたことがあった。危ないから走るなとかじゃなくて、はしたないと怒るあたりがお嬢様校たる所以かもしれないと、変に感心したのはいい思い出だ。それ以来、私は遅刻しそうなときは素直に諦めてゆっくりと教室に向かうよう心掛けていた。

 教室の中に入り、自分の席を探す。新しいクラスだからか席は出席番号順に並んでおり、私は窓際最前列という良いのか悪いのかよくわからない席に腰を下ろした。その時だった。

 

「おはよう、平坂さん」

 

 後ろの席から声をかけられた。私に声をかける人間がいるなんて珍しい。そう思いながら振り返ると、女の子が明るい笑顔を浮かべていた。黒髪を肩のあたりまで伸ばした女の子で、童顔気味の可愛いらしい顔立ちをしている。柔らかそうな頬にえくぼを作り、くりくりとした大きな瞳で私を見る彼女からはいかにも人懐っこそうな印象を受けた。

 

「えっと……」

 

 彼女のあいさつに私はすぐに返事ができなかった。向こうは私のことを知っているみたいだけれど、私はその女の子のことを知らなかったからだ。私は少々極まりの悪い気持ちになったが、その女の子は特に気にした様子もなく名乗った。

 

藤崎美織(ふじさきみおり)だよ。去年は隣のクラスでした」

「そうなんだ。えっと、おはよう、藤咲さん」

「うん。平坂さん、今日もギリギリだね」

「早く来たつもりだったんだけど……って、今日も?」

 

 違うクラスだったというはずの彼女はまるで今まで私が遅刻を重ねるところを見てきたかのような口ぶりだ。何で私が遅刻の多いことを知っているのだろうと首をかしげると、藤咲は藤咲で不思議そうに首を傾げて言った。

 

「有名だよ? 平坂さんの遅刻癖」

「えっ……」

 

 藤咲の言葉に私は絶句してしまった。私の遅刻が多いのは事実だけど、隣のクラスにまで広まっているとは思っていなかった。驚きで私が固まっていると、ちょうど担任の先生が入って来た。私はこれ幸いと前を向き藤咲との会話を終えた。まさか遅刻で有名になっているなんて、少し、いや、だいぶ恥ずかしかった。

 

                      ***

 

 お昼ご飯は購買部でパンといちご牛乳を買って裏庭で食べると私は決めている。裏庭というのは特別教室が並ぶ特別棟の裏にある小さな庭のことだ。校内にはいくつか中庭・裏庭があるけれど、私はこの特別棟の裏庭を特に気に入っている。この裏庭は一般教室が並ぶ一般棟や食堂などから離れたところにあるおかげで、昼休みでも人気がなく、一人でまったり心安らかにお昼ご飯をいただくにはちょうどいい場所となっていた。

 しかし今日は一人ではなく、藤咲美織が一緒だった。藤咲は人見知りしない性格のようで、休み時間になる度に後ろから私に声をかけてきた。そしてお昼休みになると、購買に行こうと席を立った私に「お昼ご飯いっしょにいいかな?」と笑顔で言ったのだった。

 そういうわけで私は今、藤咲と並んで裏庭のベンチに腰かけている。私は菓子パンといちご牛乳。藤咲はお弁当だ。私がパンの袋を開ける隣で、藤咲はお弁当箱のふたを開いた。小さめのお弁当箱に卵焼きやらタコさんウインナーやらブロッコリーやらが彩りよく盛り付けられている。なんともかわいらしい内容だった。

 

「自分で作ったの?」

「ふっふっふ、まあね。平坂さんはいつもパンなの?」

「うん。ここの購買のクリームパンが好きで。ついでに言うといちご牛乳も好き」

 

 言いながらクリームパンを一口食べる。すると途端にクリームの甘い味が口いっぱいに広がって、私は幸せな気分になった。

 穂波川の購買部で売られているクリームパンはそこらのやつと違って、クリームがとてつもなくたくさん入ったボリューム溢れる一品となっている。このパンがある限り、私は一口目で中のクリームに到達しなかった時の何とも言えない心淋しさとは無縁でいられるのだ。なんてすばらしい。

 私がもぐもぐと口の中をクリームでいっぱいにしていると、藤咲が隣でくすりと笑った。私が怪訝(けげん)な顔をすると藤咲は少しはにかんで言った。

 

「平坂さんがハムスターみたいだったから、つい」

「ハ、ハムスター?」

「うん。昔飼ってたんだけど 頬袋に餌をいっぱい詰めるんだ。すごく可愛いんだよ」

 

 むう、パンを食べている私が家庭用愛玩動物に見えたと? なかなかに失礼な発言だったが、まったく嫌な感じがしないのは藤咲の人柄のなせる技なのかもしれない。ニコニコとしている藤咲を見ていると不思議と文句を言う気が起こらなかった。

 

「平坂さんも可愛いけどね」

「は?」

 

 さらりと付け加えられた藤咲の言葉に私が思わず固まると藤咲がクスクスと笑った。からかわれているのだと気がつき、今度こそ私は憮然とした表情になった。

 

「ごめん、ごめん。平坂さんはもっとクールな感じに食べるのかと思ってたから」

 

 クールなクリームパンの食べ方ってなんだ。

 

「でもでも、可愛いのは本当だよ?」

「まだ言う?」

「あうっ。痛いよ~」

 

 べしりと藤咲の眉間に軽いチョップを落とすと、藤咲は額をおさえて痛そうなふりをしてから、からからと笑った。

 

                      ***

 

 ご飯を食べ終えた私たちはそのまま裏庭のベンチで他愛もない話をしていた。藤咲は口下手な私のテンポに合わせてくれているようだった。言葉がなかなか出てこない時も待っていてくれるので話しやすかった。

今、藤咲はこれまでの自分の穂波川での生活を、身振り手振りを交えて話している。藤咲には話を盛るくせがあるようで、彼女が話すとただの日常生活もちょっとしたスペクタクルのように聞こえてくる。くるくると表情を変えながら話す彼女は見ているだけでも楽しい。

 

「というわけでわたしは部活には入らず生徒会をすることにしたのです」

「藤咲さん、生徒会役員だったんだ」

 

 私がそう言うと藤崎はがっくりと肩を落とした。

 

「教室で話しかけた時、初めてわたしを見たみたいな顔していたから薄々感づいてはいたけど……やっぱり知らなかったんだ」

 

 藤咲が何を言いたいのかわからずきょとんとしてしまった私に藤咲は驚きの一言を放った。

 

「わたしは生徒会長だよ」

「生徒会長!?」

 

 私は思わず藤咲をしげしげと見てしまった。偏見もいいところだけど、少なくとも私の目には藤咲が生徒会長にぴったりくるタイプには見えなかった。そんな私の反応が大いに気に障ったらしく、藤咲は頬を膨らませた。

 

「もうっ、驚くとこじゃないよ。たとえばだけど、この間の卒業式、在校生代表でスピーチしたよ?」

 

 そう言われて卒業式のことを思い出そうとしたが、記憶が全くない。そもそも卒業式なんて、仲のいい先輩もいない私にとって退屈な行事でしかなかった。式そのものに全く興味がなかった私は、少なくとも記憶に残るほどに藤咲のスピーチを見ても聞いてもいなかった。

 藤咲は落とした肩をさらに落として、「スピーチ考えるのに一日かかったのに……」「どうせ私は影の薄い生徒会長ですよ」などとぶつくさといじけ始めた。あまりの落ち込みぶりにあわてて私はフォローを入れた。

 

「すごいよ、生徒会長。たくさんの人の前でしゃべるなんて緊張するし、なかなかできることじゃないよ。藤咲さんは偉いと思う」

 

私は教室でクラスメイトに自己紹介するくらいのことでも緊張してしまうタイプの人間なのでそんな大勢の前に出るなんて、想像するだけでも憂鬱になってしまいそうだ。私の言葉に藤崎はころりと機嫌を直して笑った。

 

「そうだよ。わたしってばとーっても偉いんだから、気軽にチョップとかしたらダメなのです」

 

 がっくりから一転、藤咲生徒会長は実に得意げな様子で胸を張ったが、残念ながらさしたる威厳は感じられなかった。何という絶壁。

 

「平坂さんも生徒会どう? 今なら特別にわたしの部下にしてあげるよ?」

 

 この会長、調子に乗っていらっしゃる。

 

「あんまり興味はないかな、大変そうだし。それに私は……そういうみんなから頼りにされるようなポジションは向いてないから」

 

 生徒会長とか委員長とか、誰かから期待されたり、頼られたりする仕事に私は首を突っ込まないことにしている。そういうのは大変だし私には向いてないことを過去の経験から私はよく知っていた。だから先ほど藤咲をすごいと言ったのはおべっかではなく、本心だ。なにせ彼女は私にはできなかったことをやっているのだから。

 

「そっかあ、残念。あ、じゃあさ、部活とかはしてないの?」

「うん。前の学校では麻雀部に入ってたけど、転校してきてからは何も」

 

 私が転校してきたのは一年の三学期。部活内の人間関係はとうの昔に出来上がっている。そんな中に身を投じるほどの勇気も部活にかける気概も私は持ち合わせていなかった。前の学校で入っていた麻雀部はちゃんと一年生の最初から入っていたからよかったけど。

 そういえば穂波川には麻雀部ってなかったなあ、なんて思っていると隣からいきなり両肩をつかまれた。そのままグイッと上半身だけ横を向かされる。すると目の前に藤咲の顔があった。思わずたじろぐ。

 

「な、何?」

「平坂さんっ、やっぱり麻雀やるの?」

「う、うん。やってた……けど」

 

 私が目を白黒させながら頷くと、藤咲の表情がぱあっと明るくなった。突然のことに戸惑いながらも私は藤咲の言葉にある疑問をもった。やっぱり? その口ぶりだと藤咲は私が麻雀をやる人間だと察していて、それを先ほどの私の一言で確信に変えたという風にとれる。けれど私は今朝初めて会話してから今に至るまで藤咲に麻雀のことを話した覚えはない。なら、どうして藤咲は私が麻雀をする人間だと思っていたのだろう?

 けれど私にその疑問を口にする暇はなかった。藤咲は両肩をつかんだままこちらにぐいっと顔を近づけてきたからだ。近い、近い。私は後ろに体を引いたが、その分だけで藤咲が前に出てくるので意味がなく、私は藤咲にベンチの上に押し倒されそうになった。

 

「じゃあさ、もし穂波川に麻雀部があったら平坂さんは入る?」

 

 藤咲が弾んだ声で聞く。

 

「麻雀部? どういうこと――」

 

 私が返事をしようとするのとちょうど同じタイミング校舎の方からガガッとノイズ音が鳴った。直後に校内放送のアナウンスが聞こえてきた。

 

「二年二組、藤咲美織さん。至急、生徒会室まで来てください。繰り返します、二年二組――」。

「ありゃ、何だろう? せっかくのお昼休みなのに」

 

 藤咲は少し不満げに口をとがらせた。すっと体を引くと弁当箱を持って立ち上がる。

 

「平坂さん、ごめん。わたし、生徒会室に行くね。また教室で」

「う、うん」

 

 会長様はぶんぶんと手を振りながら裏庭から出ていった。一体なんだったんだ。遠ざかる藤咲の背中を私は呆然と見送った。

 

                      ***

 

 夕方。放課を告げるチャイムが鳴り、学校から解放された生徒たちは教室を出て、思い思いに散っていく。今日も今日とて窮屈な一日だった。縮こまった体をほぐすように一度大きく伸びをしてから、帰宅しようと私は立ち上がった。

 

「平坂さん」

 

 と、そこで後ろの席から声がかかった。ほにゃりと柔らかい声。藤咲だった。

 

「今日はお急ぎ?」

「いや、そんなことは……」

 

 たった今さっさと帰ろうとしていた私に用などあろうはずがない。前の学校の時みたく部活に入っていたらそんなこともないのだろうけど、あいにく穂波川では部活に入っていない。私の返事を聞くと藤咲はぱっと花が咲いたように明るく笑った。

 

「よかったあ。それなら少し付き合ってくれないかな?」

「いいけど……」

 

 どこに、と私が聞く前に藤咲はがしっと私の手を握って歩き出した。藤咲の行動に意表をつかれた私は藤咲に手を引かれるがままよたよたと教室を出た。

 廊下には帰り支度をした生徒や今から部活ですと言わんばかりにジャージを着ている生徒で混雑していた。そんな中、手を繋いで歩くのは目立つような気がして私は恥ずかしかったが、藤咲にはそんな様子は微塵も見られなかった。

 溢れかえる生徒の間をずんずん通り抜け二階の渡り廊下から特別棟に入ると、中に入ってすぐの階段に足をかける。先を行く藤咲がぐいぐいと手を引っ張るので私はつまずかないよう気を付けながら階段を登った。

 

「ねえ、どこに行くの?」

「もう着くよ」

 

 藤咲は四階まで上って階段から廊下に出ると、その突当りまで進んで足を止めた。廊下の突当りには教室の扉が一枚。私はその上につけられているプレートを読んだ。

 

「生徒会室?」

「うん。さあどうぞ」

 

 藤咲はがらりとドアを開けて中に入る。いまだ手を放してもらえていない私はその後に続いた。

 生徒会室はホームルームの教室の半分くらいの広さだった。中央に机と椅子がいくつか、壁際に戸棚が置かれているだけの簡単な部屋だった。生徒会室に入るのは初めてだったけど、案外素っ気ないところなんだなと拍子抜けしてしまった。

 生徒会室にはすでに人がいた。女の子が一人、椅子に座って本を読んでいた。華奢な体つきをした小柄な女の子で、制服の下からは細い手足がすらりと伸びている。彼女は膝の上に乗せたハードカバーの本に集中しているらしく私たちが部屋に入ってきたことに全く気がついていないようだった。

 

「やっほー、梢ちゃん。早いね」

 

 藤咲がぶんぶん手を振りながら能天気な声であいさつをすると、梢というらしい女の子が顔を上げた。ショートの黒髪に縁取られた小顔。控え目ながらも整った顔立ち。楚楚とした印象の彼女は、膝の上の本と合わせるといかにも文学少女といった雰囲気だった。

 

「こんにちは、美織ちゃん」

 

 梢が挨拶を返す。透明感のある綺麗な声だった。

 

「今日も今日とて本に夢中だね。それ、また新しい本?」

「はい。今回の本はすごくいいです」

 

 藤咲が尋ねると、梢は胸の前でいとおしそうに本を抱いた。見た目通り相当な本好きらしい。

 

「以前から愛読しているミステリー小説シリーズの新刊なのですが、毎度のことながら主人公の新聞記者と名探偵のおばあさんとの掛け合いが軽妙で読みやすいです。シリーズを通して凝ったトリックは今作でも健在ですが、今作はそれ以上に犯人の動機に深くスポットが当てられている点が秀逸です。最愛の家族、永遠の友情を誓い合った友人、自分に生きる道を示してくれた恩師。複雑に絡み合う人間関係の中で、犯人は大切な人を助けるために、同じくらい大切なもう一人を手にかけるという究極の選択をしてしまうんです。許されざる行いだと知りつつも凶行に及ばざるを得なかった犯人の苦しい心の内が鮮明に書き出されていて、読んでいると思わず胸が痛くなってしまいます。私が特に気に入っているのは――」

「ストップ、ストーップ。梢ちゃん。今日はお客さんがいるから」

 

 突如として語り出した梢を藤咲が大声で制止した。藤咲の声にはっと梢が我に返る。梢はちらりと私の方を見て頬をわずかに赤く染めた。しかし、梢はこほんと咳払いを一つすると、まるで何事もなかったかのように名乗った。

 

「はじめまして。生徒会書記の水町梢(みずまちこずえ)です」

 

 どうやら梢は先ほどの長口上をなかったことにしたいらしい。その証拠に私が名乗ると

 

「平坂さん、やっほー」

 

と、ごまかすかのように藤咲風のあいさつを私に向けて繰り出してきた。笑顔でぶんぶん手を振る。藤咲がやるといかにも自然なあいさつが、梢には似合わないこと甚だしかった。笑顔も手の動きもぎこちなくて、無理して頑張りましたという感じが、何とも反応に困る。

 私が戸惑いがちに「やっほー」と小さく返すと、梢は今度こそ顔を真っ赤にして机の上に突っ伏してしまった。

 

「わー! 梢ちゃん?」

「やってしまいました。いきなり変な人だと思われています」

「大丈夫だよっ。まだ全然修正できるから」

「修正を施さなければならないほどひどい第一印象がついた時点でもう終わってます」

「出会って数分で終わらないでー!」

 

                      ***

 

「生徒会室って意外とふつうっていうか、あんまり物がないんだね」

「うん。前はもう少しにぎやかだったんだけど、春休みに大掃除したから」

 

 数分後、私は生徒会室の椅子の一つに腰かけていた。対面に藤咲、その隣には何とか復活を遂げた梢がすわっている。梢の顔にはまだ若干火照(ほて)りが残っていた。

 

「先程は失礼しました。私、夢中になると我を忘れてしまうことがありまして」

「いや、私も本好きだから。さっきのシリーズも読んだことあるよ。すごく面白かった。新刊が出ているのは知らなかったけど」

「本当ですかっ。やっぱり主人公と探偵のやりとりが――」

「梢ちゃん」

「はい……」

 

 梢はしゅんと小さくなってしまった。どうやらこの二人の力関係は藤咲の方が上らしかった。流石は生徒会長ということなのだろうか。

 

「で、付き合ってほしいことって何? 藤咲さんの部下になる話なら断ったはずだけど?」

「実は――」 

 

 藤咲が口を開こうとしたところで勢いよく生徒会室のドアが開いた。

 

「ごめーん、遅れた。新学期早々、掃除当番に当たっちゃってさあ……ってあれ? 平坂さん?」

「八波さん? なんで生徒会室に」

 

 快活な声とともに部屋に入って来たのは私の顔見知りだった。八波遥(やつなみはるか)。すらりと背が高く、ポニーテールにまとめた髪がよく似合うスポーティな雰囲気の女の子だ。

 

「あたし生徒会だから。会計だよ。知らなかった?」

「そうだったんだ……」

「遥さんと平坂さんはお知り合いですか?」

「あたしと平坂さんは一年の時は同じクラスだったからね。体育の時は良きライバルとしてしのぎを削った仲だよ。ねー、平坂さん」

 

 梢の問に遥は良き思い出を懐かしむような声で答え、私に同意を求めてきたが、私はあいまいに笑ってごまかした。私にとってそれはさほど良い思い出ではなかった。

 一年生の体育の授業でバスケットボールとかの団体競技をする時、見た目通り運動が得意な遥と自慢じゃないけど運動神経の良い私はパワーバランスを公平にするため必ず違うチームに配置されていた。

 遥は授業に積極的に取り組むタイプの人間で、試合では精力的に動いてバンバン得点した。すると日ごろさほど授業に熱心ではない私も、彼女と釣り合いをとるために別のチームに配属されている手前、手を抜くことができず、彼女に付き合って動きっぱなしになるよりなかった。

 そのせいでくたくたになった私と遥は、直後の授業で寝てしまいそろって先生に怒られるということを繰り返していた。もちろん遥に罪はなく恨み言を言うつもりは全くないが、さりとてあれをいい思い出として共有できるほど私は人間できていない。

 

「平坂さんは何組になったの?」

「二組だけど……」

「そう。私は一組だからまた一緒に体育できるね」

 

 遥が楽しそうに笑った。穂波川では体育は二クラス合同で行われる。一組と二組、三組と四組のように。私も遥に合わせて笑ってはみたものの、きっと頬のあたりがひきつっているに違いない。

 

「うん? というか平坂さんがここにいるってことは、みーちゃんが昼休みに言っていたメンバー候補ってのは平坂さんのこと?」

「メンバー候補?」

 

 話が見えない。小首をかしげる私に藤咲が話し始めた。

 

「あのね、平坂さん。今日ここに来てもらったのは平坂さんにお願いがあったからなんだ」

 

 藤咲がそう言うと、梢が壁際の戸棚から革のケースをとって机に置いた。留め具を外して中身をさらす。机の上に開かれたケースの中には小さな直方体がたくさん敷詰められていた。

赤、青、緑。色付きの模様が刻まれたそれらは前の学校で麻雀部だった私にとっては見慣れたものだった。

 

「麻雀牌?」

 

 私がそう呟くと梢が頷いた。

 

「実は私たち生徒会は、生徒会の他にもう一つ、麻雀同好会としても活動しています」

「それでね、わたしたち今度の夏のインターハイに出たいの。だけど、団体戦のエントリーには最低五人必要なんだ」

 

 藤咲が私をじっと見る。さすがにここまで言われれば次に藤咲が言うであろう一言は容易に察しがついた。藤咲は私の眼をまっすぐに見て予想通りの一言を放った。

 

「単刀直入に言います。平坂さん、麻雀部に入ってください!」


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