放課後。学校が終わってすぐ私は家路についた。藤咲もいっしょだった。聞けば家まで送ってくれるという。そんなに心配してもらわなくても大丈夫だったけど藤咲は奈々ちゃんは病み上がりだからと言って聞かなかった。私は倒れてしまった前科があるので強く言うこともできず、藤咲のしたいようにさせておくことにした。
隣を歩く藤咲は道すがら相変わらずの大盛りトークを披露した。私はほとんど相づちを打っているだけだったけど、それでも楽しかった。誰かと一緒に家へ帰るのが久しぶりだったからかもしれない。話題は次から次へと変わり、いつの間にか今日のことになった。
「奈々ちゃん。沙夜ちゃんのことだけどあんまり悪く思わないであげてね、明日わたしがきつく言っておくから」
「大丈夫。ちゃんと謝ってくれたし」
終局後、沙夜は私に「いろいろ失礼なこと言ってごめんなさい」とあっさり頭を下げた。きっと最初から対局が終わったらそうするつもりだったのだろう。
「砥上さんって不思議な人だよね」
モノクロの少女の飄々とした様子を思い浮かべながら私がそう言うと藤咲がくすりと笑った。
「沙夜ちゃんはね、とってもとっても意地悪で、でもすっごくすっごく優しいの」
「そうだね。うん、きっとそうだと思う」
最後のオーラス。それまでの傾向からして沙夜は手牌に自風牌か場風牌を握ってたはずだ。それならあれだけの点差でトップを走っていた沙夜がどうしてわざわざリーチをかけたのかという疑問が生じる。本当に勝負に徹するなら黙聴にしていた方がずっとよかったはずだ。実際、沙夜のリーチによって彼女の点数が減り、私は跳満ツモでも彼女をまくることが可能になったのだから。
沙夜がリーチをかけた理由。それはたぶん私のトラウマを見抜いていて、それを乗り越えさせるためだったんじゃないかと私は思う。ひょっとしたら東四局でのリーチにもそういう意図があったのかもしれない。今にして思うと沙夜には初めから何もかも見透かされていたような気すらしてくる。そう言うと藤咲は苦笑した。
「それはさすがに考えすぎだと思う。沙夜ちゃんは結構いいかげんだよ?」
「そうかな……」
藤咲は玄関先までついて来てくれた。
「上がっていく?」
「ううん。この間ずいぶんお世話になっちゃったし今日は帰る。奈々ちゃんもちゃんと休まないとだしね」
「もう平気だって」
「平気でも休むの。これ、会長命令だからね」
「会長命令かあ。それじゃ、しかたないね」
「うむ。しかたがないのだ」
藤咲が胸を張る。偉そうな仕草に私は吹き出した。藤咲も笑った。さして面白いことでもないのに私たちはくすくすと笑い合った。
「じゃ、わたし帰るね」
「うん。送ってくれてありがとう」
藤咲が背を向けて歩いて行く。それが少しだけ名残惜しいような、寂しいような気持ちがしたけれど、でもすぐにそんな必要はないんだと思った。だって私たちはまた明日も学校で会って、きっと今みたいにくだらないことでたくさん笑い合うのだから。だから私は彼女にこう言うべきだ。
「また明日ね、美織ちゃん」
すると美織が何かに気がついたように勢いよく振り返った。どうしたのだろう。首をかしげる私を見た彼女はなぜかすごく嬉しそうに笑って、また明日と大きく手を振りながら去っていた。
美織と別れて家に入るとリビングから繁さんと早苗さんが出てきて迎えてくれた。
「ただいま」
「おかえり。喋り声が聞こえていたけれど誰かといっしょだったのかい?」
「美織ちゃんといっしょだった。少し体調が悪かったから送ってもらった」
「あら、大丈夫なの?」
私の言葉に早苗さんが慌てた。繁さんも私の方を心配そうに見た。そんな二人の様子に私はじわりと心が温かくなるのを感じた。そして、ああ、そうかとあることに気がつく。
私はここに引っ越してきてから心のどこかで繁さんと早苗さんのことも遠ざけていた。家においてもらっているのだからそれ以上迷惑はかけられない。そんな風に感じていたし、それ以上に家族というものに対する不信もあって、私は繁さんや早苗さんとどう接していいかずっとわからなかった。けれど本当は難しく考える必要なんてなかった。二人の向けてくれる好意や親切に対して申し訳なさを感じるのではなくて、素直に受け取ってありがとうって笑えばよかったんだ。
こんな簡単なことに今まで気がつかなかったなんてと思う。でも気がついた今からでもきっと遅くないはずだとも思う。だから私は笑って言った。
「心配してくれてありがとう。もう大丈夫だよ」
私はこうしてまた誰かと繋がっていく。そしていつか振り返った時いっしょにいてよかったと心から思えるような時間を積み重ねていくんだ。
どういたしまして、二人は笑い返してくれた。
***
「まだ怒ってるの?」
「当然でしょ? どうしてあんなことしたの?」
翌日の放課後。生徒会室にはわたし、梢ちゃん、遥ちゃんに、あと沙夜ちゃんの四人が揃っていた。わたしは昨日、奈々ちゃんに無理やり麻雀を打たせた一件について沙夜ちゃんを問い詰めていた。
「どうしてって、そうね。美織がお見舞いに行った日、梢と遥からもっと詳しく平坂さんとの対局の話を聞いたり、彼女の過去の牌譜を調べたりして、このまま逃すのは惜しいなと思ったの。危険牌がわかるだけでもすごいのに裏ドラ体質なんて逸材だもの。だから美織が何か知っている風な顔をしていたのを見て、事情を快く話してもらうことにしたのよ」
「全然快くなかったよっ!」
くすぐり地獄の恨み忘れまじ。わたしがにらむと沙夜ちゃんは「あら、そうだった?」と首をかしげた。なかなかに憎たらしいすっとぼけだった。
「でも貴女から話を聞いてみると思ったよりややこしい事情でね。これは無理かしらと諦めかけたのだけど、美織は平坂さんのことなんとかしたいって言うし、どうしたものかしらと思ってね。結局、私自身の目で平坂さんを見てみないことにはどうしようもないって思ったから、私は平坂さんに勝負をふっかけることにしたの」
「わざわざ私がいない時をねらって? 事情も話さず?」
「だって美織は絶対に邪魔するもの。でしょう?」
「当たり前だよ……」
沙夜ちゃんは正しかった。もし知っていたらわたしは絶対に奈々ちゃんと麻雀をやるのを阻止しただろう。
「平坂さんの打ち方を観察していて平坂さんはどうやらリーチに対してトラウマめいたものがあるらしいことは分かった。ちょっと興が乗ってやり過ぎたせいで、平坂さんがだいぶ弱っちゃったのには、正直悪いことをしたと反省したわ。本当に具合が悪そうだったし、そろそろお開きにした方がいいかなと思っていた時に、ちょうど貴女が乱入してきたの」
「沙夜ちゃんはわたしが止めに入らなくても止めるつもりだったってこと?」
「当然でしょう? 平坂さんが生徒会室に戻ってきた時はびっくりしたわね。まさか帰ってくるなんて思ってなかったから。平坂さんがやけに腹くくった顔をして席に着くものだからとりあえず勝負を再開したのだけど……美織。生徒会室から出て行った後、平坂さんと何かあったでしょう?」
「くすぐられたって教えないから」
わたしがそう言うと沙夜ちゃんは「もう、しないわよ」とため息をついた。
「平坂さんが自分でリーチをかけ出した時は、本当にこの短時間でいったい何があったんだって驚いたわ。リーチをかける平坂さんは完全にトラウマを乗り切ったように見えたから。それでオーラスにたまたま面前で聴牌したから、本当に平坂さんが吹っ切れたのか試してみようと思ってリーチしたのよ」
奈々ちゃんが言っていた不可解なリーチ。あれはトラウマを乗り越えさせるためじゃなくて、乗り越えたか確かめるためのものだったということか。
「また彼女の様子がおかしくなった時は私やっちゃったかしらと思ってたけれど、平坂さんが追っかけリーチしてきてくれて安心したわ。やっぱり彼女はトラウマから立ち直ったんだってね」
話は以上よ、と沙夜ちゃんは口を閉じた。総合すると沙夜ちゃんはほぼノープランで勝負をふっかけただけということになる。これ、奈々ちゃんに伝えるべきか迷うなあ。知らない方が幸せかもしれない。
「だいたい沙夜ちゃんは行き当たりばったりすぎるんだよ……」
「結果的にいい方向に転がったじゃない」
「まあ、結果はよかったけど……」
確かに沙夜ちゃんが平坂さんに勝負をふっかけなければ奈々ちゃんはこんなに早くトラウマを解消できなかったことは事実だ。でも、やっぱり釈然としないものがある。
「まあまあ、そのへんにしてあげなよ。みーちゃんが怒りながら平坂さん連れて出て行った時には、沙夜ちーけっこうへこんでたんだよ」
「美織に嫌われたかしらって落ち込んでいましたね」
「ちょっと。二人とも根も葉もないことを言うのは止めなさい」
遥ちゃんと梢ちゃんの言葉に沙夜ちゃんがめずらしく慌てた。わたしは思わず口の端をゆがめた。へー、そうなんだ。わたしに嫌われたと思ったんだ。にやにやしながら沙夜ちゃんを見る。
「何よ?」
「べつにー? なんでもないよ」
「くっ、美織のくせに生意気だわ……」
沙夜ちゃんがふいっとそっぽを向く。わたしはめずらしく沙夜ちゃんをやりこめたのですこし溜飲が下がった。平坂さんは気にしてないって言ってたし、この話はこれで終わりにしておこう。そろそろ彼女が来るはずだから。
ちらりと壁の時計を確認するわたしに梢ちゃんが「掃除当番はもう終わっている頃ですね」と言う。梢ちゃんの声は弾んでいた。きっとわたしと同じで梢ちゃんも彼女が来るのが待ち遠しくて仕方がないのだろう。だってーー
コンコン。ドアをノックする音に自然と顔がほころぶ。立ち上がってドアまで行くと勢いよくドアを開け放つ。そしてスライドしたドアの向こうに立つ少しびっくりした表情の彼女に、新しくできた友だちにわたしは言う。
「麻雀部へようこそ、奈々ちゃん!」
だってーー今日から始まるわたしたちの時間は今までよりもっと楽しく最高なものになるはずに違いないのだから。