「あら、戻って来たのね。驚いたわ」
裏庭から生徒会室に戻ってきた私たちに最初に声をかけたのは沙夜だった。言葉とは逆に沙夜の表情に驚きはなく、まるで私が戻って来るのが分かっていたかのようだった。
「ここに戻って来たということは勝負を続ける気になったということでいいのかしら?」
「うん、最後までやる」
「そう。迷いは吹っ切れたかしら?」
沙夜がまっすぐに私を見て問いかける。けれど私がそれに答える前に彼女は再び口を開いた。
「いいえ。答えなくていいわ。答えはすぐわかるもの。さあ続きを始めましょう」
私が席に着くと、遥がサイコロを回した。中断された勝負が再び始まった。
***
東場終了時の点数
砥上沙夜・49700 水町梢・17900 八波遥・16800 平坂奈々・15600
南一局 親・八波遥
「ポン」
再開早々、沙夜が
麻雀を打つ人間の中にはまれに魔物とでも言うべき輩がいる。必ず特定の役で上がったり、他家の手を一向聴で止めてみせたり、とんでもない速度でアガリながら打点を上昇させたり。そんな
おそらく沙夜は字牌とりわけ風牌に好かれている。ここまでの局、沙夜のもとにはまるで彼女に引き寄せられるように風牌が舞い込んでいた。彼女はそんな自分の性質を利用して鳴きを入れた速攻を仕掛けている。沙夜は鳴きによってゲームをコントロールしていた。
けれどそれは諸刃の剣だ。鳴けばそれだけ手牌が減って守りが薄くなるはず。そこで直撃をとることができれば私にもまだ逆転の目はある。
(ここは我慢するしかない)
沙夜に付き合って鳴き勝負をしてもこの点差だ。鳴いて打点を下げていたら到底追いつけない。さっき沙夜の親番でアガった梢のように面前で沙夜に並ぶチャンスさえ回ってくれば、私なら――
「ツモ。混一色、自風、場風。8000」
{一索二索二索三索三索四索八索東東東北北北} ツモ {八索}
沙夜が満貫をアガってさらに差が開いた。残りは三局。
南二局 親・平坂奈々
(これで聴牌……)
手牌 {四萬五萬六萬七筒七筒七筒二索三索六索七索八索白白}
南二局の十巡目。私は両面待ちで聴牌した。すでに沙夜は三副露していた。ここでリーチをかければ手牌の少ない沙夜が放銃する可能性は高いはずだ。
けれどリーチは私にとってもリスクのある行為だ。ひとたびリーチをかけてしまえば私の危険牌察知は何の意味もなくなる。仮にツモが誰かの和了牌だったとしても私はそれを河に捨てるしかないからだ。ましてや沙夜は三副露している。それは守りの薄さだけを意味するものではない。彼女がアガリに近い位置にいることも同時に示している。
大きく開いた点差を埋めるためにはリーチは必須だと強気に主張する自分とまたあの決勝戦での失敗を繰り返すのかとささやく弱い自分。私はどちらに従うべきなんだろう。
(――って何をためらっている。どのみちリーチかけないと役がないんだから迷うような場面じゃない)
そう頭ではわかっているのに手はなかなか点棒の方に伸びてくれない。私が止まっていると、不意に肩のあたりにぽんと何かが乗った。ほんの少しだけ力の入った藤咲の手が私の肩をきゅっと掴んでいた。対局中のため藤咲はしゃべれない。だからその代わりにと私を応援してくれているのだろう。
私は小さく息を吐き出すと点棒を掴んだ。そもそも生徒会室に戻ってきた時点でとっくに自分のやることなんて決まっていたはずだ。それなのに今さら迷って藤咲に励まされるなんて、つくづく私は情けない。
(私はここに闘うために戻って来た。だったらやることなんか一つしかない)
「リーチ」
私は卓にリーチ棒を放った。
***
(がんばれ)
奈々ちゃんがとうとう自分からリーチをかけたのを見てわたしは心の中でそう呟いた。
わたしは奈々ちゃんの後ろに立っているので、奈々ちゃんの手牌だけはよく見えていた。奈々ちゃんは一索と四索の両面待ちだ。どちらもまだ場に切れていないので、アガリ牌は八枚まるまる残っていることになる。もちろん他家が一索や四索抱えているのなら話は別だけど。
リーチ宣言から数巡した時だった、遥ちゃんが一索を切った。なのに奈々ちゃんはそれを見逃して牌から山をツモった。この点差でアガリを見逃すなんてとわたしは信じられない思いだったけれど牌を切る奈々ちゃんの手には何の迷いもなかった。
「ロン」
{四萬五萬六萬七筒七筒七筒二索三索六索七索八索白白} ロン {一索}
見逃しから二巡後、沙夜ちゃんが切った一索に対して奈々ちゃんは牌を倒した。開かれた手牌を見て遥ちゃんが驚きの声を上げる。
「それさっきあたしが捨てたやつ――っていうかこの点差で立直のみってありえなくない?」
奈々ちゃんの手牌には役がなく、立直のみの手だ。沙夜ちゃんと四万点以上の差がついているこの状況。遥ちゃんの驚きはもっともだった。
「裏ドラは?」
対面に座る沙夜ちゃんが静かに言い、奈々ちゃんが王牌に手を伸ばす。わたしはそれを祈るような気持ちで見つめていた。
(奈々ちゃんがさっき言っていたことが本当なら――)
***
「そういえばさっき沙夜ちゃんが言ってたことってなんなの? 奈々ちゃんがリーチを怖がってるとかなんとか」
裏庭から生徒会室に戻る途中のこと。歩きながらわたしは奈々ちゃんに気になっていたことを尋ねてみた。すると隣を歩いていた奈々ちゃんは「ああ、それは言葉通りだよ」と話し出した。
「私さ、リーチがダメなの。誰かがリーチをかけたり、自分でリーチかけたりするとすぐあの日のことを――宮永照のリーチに放銃して大量失点した時のことを思い出しちゃって具合が悪くなっちゃうんだ」
「じゃあこの前打った時も?」
「あの時は梢ちゃんが最初にリーチかけたんだけどその時は久しぶりだったからか、意外と何ともなかったんだよね。それで調子に乗って直後の局で自分からリーチかけたんだ。そしたら急に頭が痛みだしてまずいなーって思っていたところに……」
奈々ちゃんがジト目でわたしを見た。奈々ちゃんが倒れる直前にリーチをかけたのはわたしだ。ということは奈々ちゃんにとどめを刺したのはわたしのリーチ……? 嫌な汗がダラダラ出はじめる。するとじーっとわたしの様子を見ていた奈々ちゃんが吹き出した。
どうやらからかわれたらしい。自分のトラウマを種にした悪趣味なからかい方だった。けらけらと笑う奈々ちゃんを軽くにらむと奈々ちゃんは「ごめん」とあっさり謝った。素直でよろしい。沙夜ちゃんや中富先生も見習うべきだ。
「じゃあ沙夜ちゃんが言ってたのは奈々ちゃんのリーチに対する忌避感のこと?」
「それと多分もう一つ意味があると思う」
「もう一つ……?」
「藤咲さんは麻雀にオカルトがあるって信じるタイプ?」
きょとんとするわたしに奈々ちゃんが唐突にそう尋ねてきた。質問の意図が分からなかったけどわたしはとりあえず答えた。
「わたしはあると思う。というかうちの麻雀部にいたらそう思わざるをえないっていうか……沙夜ちゃんがああだから」
みんなで麻雀をしているとたまに沙夜ちゃんが怖い感じになる時がある。お腹のあたりにずしっとくるような重たい空気を出すのだ。そういう時の沙夜ちゃんは決まって字牌バックの鳴き麻雀でみんなの点棒をむしり取っていくのだけれど、あれは正直どうかしていると思う。いつも場風牌や自風牌が自分のところに集まってくるなんてこと、普通はありえない。
「それに奈々ちゃんだって当たり牌が何となく見えてるでしょ?」
わたしがそう言うと奈々ちゃんがくすりと笑った。
「なんだ、藤咲さんも気づいてたんだ」
「この間打った時になんとなくね。ちなみに梢ちゃんもだよ。遥ちゃんは全然気づいてなくてびっくりしてたけど」
「なんか八波さんらしいね」
奈々ちゃんはまたくすくすと笑った。さっきから奈々ちゃんはよく笑う。初めて話しかけた時はぎこちない愛想笑いしかしなかったのに今ではずいぶん自然に笑ってくれる。わたしに気を許してくれたということだろうか? もしそうならすごく嬉しい。わたしはほおが緩むのを感じた。
「どうしたの?」
奈々ちゃんが少し不思議そうな表情で尋ねる。それほどに今のわたしはだらしのない表情をしているらしい。わたしは緩んだ頬を何とか引き締めて奈々ちゃんに話の続きを促した。
「私がね、当たり牌をはっきり感じることができるようになったのは宮永さんにぼっこぼこにされた後のことなんだ。それまでもなんとなくそういう感じはあったんだけど今ほど正確な感覚じゃなかった。振り込むときは振り込んでたし」
「そうなの?」
わたしは奈々ちゃんの言葉を少し意外な気持ちで聞いていた。お見舞いに行った時、奈々ちゃんは高校入学以前の麻雀歴は小さい頃に家族麻雀で遊んだ程度だったと言っていた。なのに強豪校でいきなりレギュラー、それもエースポジションの先鋒を任されていたのには、当たり牌を見抜く能力によるところが大きいと思っていたからだ。わたしがそう言うと、奈々ちゃんはにこりと笑った。
「鋭いね。私がレギュラーになれたのは地力がものすごく高かったからってわけじゃない。私は当たり牌がはっきり分かるようになる前から、砥上さんみたいなオカルトっぽいこと、一つだけできたんだ。私が一年生でレギュラーになれたのもほとんどそれのおかげなの」
奈々ちゃんの言葉にわたしは思わず足を止めた。当たり牌がわかるだけでもありえないのにもう一つありえないことができた? それはいったい何なのだろう?
「たぶん砥上さんは私のそれを知っている。だからリーチをかけるのを怖がっているようでは私には勝てないぞって、そう言いたかったんだと思う」
「ねえ、なんなの? 奈々ちゃんのもう一つのやつって」
わたしがそう聞くと奈々ちゃんは私の目をまっすぐ見て、そして言った。
「私がリーチをかけるとね、必ず点数が一番大きくなるような形で――」
***
{四萬五萬六萬七筒七筒七筒二索三索六索七索八索白白} ロン {一索} 裏ドラ表示牌 {六筒}
「裏ドラが乗った……。それも三つも……。マジで?」
表になった裏ドラ表示牌を見て遥ちゃんが信じられないといった様子で驚きの声を上げた。それを見て梢ちゃんが不思議そうに首を傾げた。
「そこまで驚くことではないですよ? たまにはこういうことだってあります」
「ああ、えーっと、うー、何て言うか……」
梢ちゃんの言葉によくわからない返事をしながら、遥ちゃんはちらりと沙夜ちゃんを見る。この様子だと沙夜ちゃんは遥ちゃんにだけ奈々ちゃんの裏ドラ体質のことを教えていたらしい。
「たまには……ね。本当にそうだといいわね」
沙夜ちゃんがぼそりと呟いた。
***
南二局一本場 親・平坂奈々
(八萬……いいところが来た)
配牌から有効牌が次々と手に入ってくる。二本場が始まって私は手ごたえを感じていた。
前局、遥の放銃をあえて見逃したのが功を奏していた。もし私が遥から12000点をアガっていたら、あの時点で残り点数12800点の彼女はたったの800点となりトぶ可能性がきわめて高くなる。遥の守りの薄さ、残り局数、沙夜との点差などを考慮するとそれは私にとって好ましい展開ではなかった。だから私は遥の放銃を見逃してツモ上がりか沙夜の放銃を狙うという賭けに出たのだが、首尾は上々だ。沙夜から直撃をとって一気に12000点も差を詰めた上でまだ親番が続いている。ツモの調子もいい。手がよく伸びている。リーチをかけた影響も今のところ特に感じない。この流れで行ければまだ勝機はある。そう思った瞬間だった。
「ポン」
沙夜が九索を鳴いた。先ほどの直撃で弱まったと思った沙夜の支配の色が再び濃くなり始める。さらに次巡。沙夜がツモ牌を手牌にいれた途端、私の手牌の一筒から嫌な気配が飛んできた。ぞくりと背筋に冷たい感覚が走る。
(ん……砥上さんが聴牌した。たぶん満貫には届いてないけど……)
和了はされたくない。しかし次順、自分のツモ牌を見て私は顔をしかめた。手牌が困ったことになっている。
手牌 {三萬四萬五萬六萬七萬八萬一筒三筒五筒八筒八筒三索四索五索} ツモ {四筒}
聴牌にとるには一筒を切らないといけない形だった。
(最短ルートをふさがれた)
放銃を避けるには回り道をせざるを得ない状況だけど、どう考えても沙夜はそんなことを許してくれるほど甘い相手じゃない。私は仕方ないと八筒を切ったけれど、案の定間にあわなかった。沙夜が私より先に手牌を倒した。
{七萬八萬九萬一筒二筒三筒九筒九筒東東西西西} ツモ {東}
「場風、自風、
沙夜の宣言に私は顔をしかめる。やられた。
「狙い撃ちと裏ドラには驚いたけれど、そう簡単にはいかないわ」
彼女が私を見て楽しそうに笑う。残り二局。
南三局 親・水町梢
私だってこのまま終われない。このまま終わっちゃ何のために戻って来たのかわからない。
「リーチ」
今度は私の方が早いだろう。そう思いながらリーチ棒を場に投げる。するとすかさず対面の沙夜が私の捨て牌を喰い取った。
「ポン」
一発消しの鳴き。さらに私は沙夜の副露によって手牌の九筒が当たり牌になったのを感じた。追いつかれた。こうなると後はめくり合いだ。
「ツモ。立直、面前自摸、平和、裏ドラ二。2000・4000」
{七萬八萬九萬四筒五筒七筒八筒九筒三索四索五索八索八索} ツモ {六筒}
その軍配は私に上がった。これで残りは一局。
南四局 親・砥上沙夜
オーラス。トップの沙夜と二位の私の点差は18300点だから沙夜から跳満の直撃をとるか、倍満以上の手を和了しないと一位にはなれない。かなり厳しい状況だけれどまだ負けたわけじゃない。宮永照と試合した時を思えばこれぐらいなんでもない。あの時は役満直撃でもひっくり返らない十万点差だったのだからそれに比べたらずいぶんましだ。
(跳直? 倍満? 必要ならアガってやる)
そんなことを平然と考えている自分に気がついて苦笑する。宮永照との一戦を基準にするなんてどうやら私の点数感覚はだいぶバカになっているらしい。でも逆転不可能な点差でないのは事実だ。今の状況を楽観しているわけではないけれど、不思議なことになんとでもなりそうな気がする。そんな私の予感に沿うように手はぐんぐん伸びていく。けれど、
「リーチ」
静かな宣言。対面の沙夜がリーチ棒を場に出していた。きゅっと胸が縮む。よりにもよって南四局、オーラスでの親リー。あの決勝戦と同じ――そう考えた瞬間だった。
「あ……う」
途端に急激な頭痛が私を襲い、口から声が漏れた。さっきまでは何ともなかったのに。理不尽なまでに強大な記憶の奔流が私を飲み込んだ。
景色が回り出す。対面の沙夜の姿がぶれる。牌の鳴る音。卓に降る照明の光。乾く喉。苦しいほど重い空気。記憶の欠片が次々と折り重なっていく。
私は思わず目を閉じてうつむいた。嫌だ。あそこに戻りたくない。彼女の前に行きたくない。けれど視界を閉じても記憶は止まってくれない。記憶の欠片は頭の奥で明滅し、私の脳を揺らした。くわん、くわんと意識が揺らいだ。
ふと揺れが止まった気がした。私が恐る恐る眼を開け、ゆっくりと視線を上げると――。
無機質な双眸が私をじっと見ていた。息がつまる。心臓が早鐘のように鳴り、体がかたかた震え出す。視界の端で上家が牌を切り私の順番が回って来る。いやだ。牌をツモりたくない。恐怖心が私を包み、さあっと体が冷えていく。このままだと私はまた振り込んでしまう。あの時のように――。
「大丈夫だよ」
傍で誰かがささやくのが聞こえた。柔らかくて穏やかな声。誰? ミケ先輩? 記憶を探っていると、今度は優しく体を包み込む温度を感じた。
「大丈夫」
再び声がささやきかける。その穏やかな声に息苦しさが薄れ、体の緊張が解けてゆく。私はもう一度目を閉じて、深く息を吸って、吐いた。そしてゆっくり目を開ける。
私は生徒会室に戻って来ていた。対面の宮永照は消え、代わりに沙夜がいた。私は藤咲に後ろから抱きしめられていた。彼女の声と体温が私をあの夏の記憶から引き戻してくれたようだった。温かい。背中に伝わるこの温度の正体を私は知っている。これはかつて家族で麻雀をして遊んでいた時に感じていたもの。ミケ先輩や理瀬先輩といる時にもいつも感じていたものだ。
一年前、先輩たちに出会った私はようやく見つけた温度をなくしてしまわぬよう必死だった。けれど宮永さんに敗けて自分の心の奥底にあったひどい打算に気がついてしまった時、私は醜い自分に耐えられなくて先輩たちを遠ざけた。そしてきっかけとなったあの決勝戦をトラウマにしてしまった。本当に私が怖れていたものは宮永照でも失点でもリーチでもなかったのに。
だから、もう大丈夫。私は回された藤咲の腕にそっと手を置いた。私の気持ちが伝わったのか彼女の体が離れる。
私は牌に指をかけた。どうしようもなく切れてしまった絆。絡まってしまって元に戻るかわからない絆。そして今、新たに結ぼうとしている絆。これから私はそのすべてとちゃんと向き合わないといけない。失うことを恐れてばかりの弱い自分を終わりにするために、前に向かうために。これはその始まりだ。
「リーチ!!」
牌を横にしてリーチ棒を出す。対面に座る沙夜が微かに目を見張った。これで賽は投げられた。後はどちらがアガリ牌を手にするかの勝負だ。息のつまるようなめくり合いはしばらく続き、そして決した。
「ツモ」
{五萬五萬六萬六萬三筒三筒四筒四筒二索二索七索七索中} ツモ {中}
「面前自摸、立直、七対子、そして――」
「裏ドラ二。3000・6000!」
長い勝負が終わった。
Result
一位 平坂奈々 +39(43900)
二位 砥上沙夜 +17(42200)
三位 水町梢 -22(13000)
四位 八波遥 -34( 6400)