比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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Welcome(ようこそ) Monster’s World(化物の世界へ)


Side星人――①

 

 時系列は、再び『英雄会見』の夜へと遡る。

 

 世界中が、日本政府が行った記者会見に注目し、眩いフラッシュへと引き付けられた――その、数時間後。

 

 場所は――東京、新宿。

 一晩中明かりが灯り、人の流れが途切れない全国有数の繁華街――その、一歩、()

 

 明かりが強い程、光が濃い程、その分だけ深くなるとばかりに、人気が一切ない、真っ暗な夜道。

 そこに、ぽつんと、まるで誘蛾灯のように灯る一つのネオンがあった。

 

「――ここだ」

 

 怪しげな色の光を放つその前に、一歩外に出た先の繁華街の住人としてはぴったりの風貌の金髪ホスト風の男と、学生服ズボンに真っ白なYシャツにグロテスクマスクの少年が並んで立っていた。

 

「……地下に潜るって聞いてたから、てっきりあの千葉のアジトに篭もるもんだとばかり思ってたっす」

「あそこは只の地下だ。人間社会との繋がりを完全に消せるわけじゃねぇ。攻め込まれたら逃げ場がない行き止まりだ。アジトではあっても住処には出来ない」

 

 本気で繋がりを断つなら、もっと深く潜る必要がある――と、ホスト風の男・氷川は凍えるような声色で言った。

 

 煙草に火を点け、氷川が一服する。

 その間、グロテスクマスクの少年、真っ白な髪の白鬼――元人間の吸血鬼・川崎大志は、何も思わぬ真っ白な瞳で、ただネオンが照らすその扉を見詰めていた。

 

「――覚悟はいいか? 大志」

「しつこいっすよ、氷川さん」

 

 まぁ、今までが今までだったのでしょうがないかとは思いながら、あるいは何も思っていないかもしれないが、大志は氷川の一服が終わるのを待たず、その見るからに怪しげな店の扉を開けた。

 

 扉を開けた先に待っていたのは、眩いばかりの光ーーで、ある筈もなく。

 

「……バー?」

 

 足の長い背もたれのない丸椅子にカウンター。壁には一面に並ぶボトル。

 薄暗い照明に、静かな音楽。

 

 ついこの間まで普通の高校生のふりをしていた大志にとっては、これだけでもまるで異世界に迷い込んだかのような空間だった。

 姉がこのような店でバイトをしていたとは聞いたことはある――が、大志は当然、このような店に足を踏み入れたのは初めてのことだった。

 

 無論、新宿の繫華街という立地条件から考えれば、むしろ相応しい種類の店ではあるが――。

 

「――ああ。()()()は、な」

 

 一服を終えた氷川が大志を追い越すようにして前に出る。

 人間離れした美貌の氷川がこの空間を背景にしてフレームに収まると、まるで映画かドラマの中のようだと、漠然とそんなことを大志が思っている――と。

 

「いらっしゃい。ご注文は?」

 

 バッと大志は振り向き警戒を露わにする。

 右、左と勢いよく首を振るも、その声は、大志が先程まで漠然と眺めていた、真正面のバーカウンターの向こう側から聞こえた。

 

 そこには、シェイカーを振りながら、こちらを微笑みながら見詰めるバーテンダーがいた。

 髪は側面を剃り上げ、残った髪は紫に染めている。耳と口元にピアスを開けていて、顔面には稲妻のような入れ墨が入っていた。

 

 一目見ただけでも一生忘れることが出来ないような、言葉を選ばずに表現すれば、明らかにヤバい奴という印象を受ける強烈な男。

 しかし、大志はその男の存在に、そんな男が真正面に、同じ空間に居るということに、声を掛けられるまで全く気付くことが出来なかった。

 

「久しぶりだね、氷川。まさか君がここに来るとはね。いつ千葉から新宿(こっち)に戻ってきたんだい?」

「ふん、お前の(ツラ)をまた見ることになるとは思わなかったよ。まぁ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 氷川は男とそんな会話を繰り広げながら、足を止めることなく男に近づいていく。

 

「何はともあれ、座りなよ。久しぶりの再会だ。最新の実け――自信作を、ぜひ旧友に振る舞わせてくれ」

「お前のゲテモノカクテルを味わうのも乙なんだが、残念ながら今日は別件だ」

 

 そして、椅子に座ることなく、氷川はバーテンダーに会計を支払うように――どこからともなく取り出した一枚のコインを見せた。

 

 氷川が表面が上になるようにバーカウンターに置いたそのコインに描かれているのは―――何かに向かって咆哮する、竜の紋章。

 

驟雨(しゅうう)。『門』を開けてくれ」

「……君ならば、もちろん僕は大歓迎だが――」

 

 そう言って、驟雨と呼ばれたバーテンダーは、目を細めて大志を見ながら――。

 

「――本気、かい?」

「こいつはもう"こっち側”だ。それに――」

 

 氷川は親指でコインを弾きながら、口元を歪ませて言う。

 

「――遠くない内に、この国で『大戦(デカいの)』が起こる。ガキを甘やかせる時間は終わったんだ」

 

 いい加減、大人にならねぇとなぁ、大志――氷川はそう言って大志を笑う。

 大志は、そんな氷川に何も言わず、ただ驟雨を真っ白な瞳で見ていた。

 

「…………」

 

 驟雨は、振っていたシェイカーから、一杯の真っ赤なカクテルを注いだ。

 それを空席に向かって差し出すと――大志は、真っ直ぐにその席に向かって歩み、それを一息に飲み干す。

 

「―――っ」

 

 人間時代には終ぞ摂取することのなかった初めてアルコールは、まるで己の何かを沸騰させるような味がした。

 思わず吐き出しそうになるそれを強引に強引に飲み干し、大志は驟雨に笑いかける。

 

 その笑みは――何もない、真っ白な笑みだった。

 

「……いいね。空っぽだ」

 

 綺麗に飲み干されたカクテルグラスを引き上げるのと同時に、驟雨はコインを打ち上げた。

 くるくると宙に舞ったそれは、コツンと大志の前のカウンターに着地する。

 そのコインには、氷川のそれと同じ竜の紋章が描かれていた。

 

「分かった。『門番』として許可しよう。大志くん、だったかな。いいよ、好きに潜りな」

 

 Welcome(ようこそ) Monster’s World(化物の世界へ)―――そう言って、驟雨はパチンと指を鳴らす。

 

 すると、店の地下の方から、重い何かが開く音が聞こえた。

 

「――行くぞ、大志」

「……はいっす」

 

 その音が聞こえた途端、勝手知ったるとばかりに氷川が店の奥へと消える。

 大志はちらりと驟雨を見たが、笑顔で手を振るばかりなので、大志はぺこっと頭を下げて、氷川の後をゆっくりと追った。

 

 そして、誰もいなくなった店内で、驟雨はぽつりと呟いた。

 

「…………大戦、か」

 

 近いみたいだね、終わりが。

 驟雨は、再び空っぽのグラスにオリジナルのカクテルを注ぐ。

 

 果たして、あの空っぽの少年は、どのような色で満たされて終わりを迎えるのか。

 

「あの氷川が誰かをここに連れてくるなんてね。あの子が特別なのか、あいつが変わったのか。……それとも――」

 

 驟雨は自ら注いだそれを、微笑みながら一口飲んで――そのまま流し台に全て捨てた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――星人郷、ですか?」

「神秘郷とも呼ばれる。少なくとも、星人狩り(ハンター)の一部の連中はそう呼んでいた」

 

 店の奥の狭い廊下を歩きながら、後ろについてくる大志に、氷川はそうレクチャーしていた。

 

「いわゆる、この世界の裏側みたいな場所だ。人間共からは見えない世界、知らない世界。そんな空間がこの世界の至る場所に存在し、色んな星人が住処にしてたりする」

「……俺達が向かうのは、吸血鬼が住処にしてる星人郷、ってことっすか?」

「一口に星人郷っつても、在り方は千差万別だ。隠れ里みたいなのもあれば、山ん中、海ん中、空ん中、一つの街そのものが外からは見えない星人郷だったみてぇな話もある」

 

 規模、形、場所、侵入方法、それぞれがそれぞれの条件で存在している異空間――それが星人郷。

 

「はじめっからあった“空白”にそういう色を付けて出来上がったのもあれば、馬鹿みてぇなチート使ってそういった場所を自力で作り上げた星人もいる。中には星人じゃなくて人間が管理してる神秘郷もあると聞くが――まぁ、他所様(よそさま)のことは分かんねぇが、俺が知ってる、俺らが使える手段は、ここしかねぇってことだ」

 

 世界の至る場所にあるからといって、どこでも自由に使えるわけではない。

 知る存在が限られているからこその神秘であり、異郷。

 

 居場所など、逃げ場所など、行ける場所など、生きる場所など――限られている。世界のほんの片隅にしか存在しない。

 

 自分達は、化物なのだから。

 

「ここだ」

 

 辿り着いた場所は、真っ暗な店内裏において、分かり易い程に強烈な光を放っていた。

 横開きの扉は開いており、侵入を許可していることが明白だった。

 

 氷川は足を止めることなくその中へ侵入(はい)り、大志もその後に続く。

 

 緊張の面持ちを隠せなかった大志だが、想像したのとは裏腹に、その中は狭かった。

 異空間という位だから、広大な世界が広がっているのかと思ったが、もう帰れない我が家の居間よりも狭い空間だ。ちゃぶ台も置けない。

 

「え、えっと、氷川さん、これは――」

 

 その時、がちゃんと、扉が閉まった。

 

「――え?」

 

 大志が呆気に取られ、そのまま閉まった扉に向かって駆け出そうとした肩を、氷川が素早く押さえる。

 

「はしゃぐな。初体験ってわけじゃねぇだろ」

「な、何言って――」

 

 続いて、大志の体を()()()()()()()()が襲った。

 

「え――こ、これって――」

 

 ()()()()()()? ――と、下に向かって降りていく特有の感覚に、大志が呟いた。

 大志の肩から手を離した氷川が「侵入方法もそれぞれだって言ったろ」と、狭い室内の壁にもたれ掛かりながら言う。

 

侵入(はい)るのに特別な条件――ルートだとか許可だとかな――があるのもあれば、気がついたら迷い込んじまってるっていうタイプの星人郷もある。これから行く場所は、『門番』の許可を得た上で、このエレベーターに乗るのが侵入条件なんだ」

「……『門番』……って」

 

 大志は、つい先程に会った、強烈な個性を放つ驟雨と呼ばれたバーテンダーの顔を思い浮かべる。

 

――『分かった。『門番』として許可しよう。大志くん、だったかな。いいよ、好きに潜りな』

 

 Welcome(ようこそ) Monster’s World(化物の世界へ)―――耳に残る、いつまでも残響するその言葉を思い出しながら、ふと大志は顔を上げると、さっき口を閉じるように閉まった扉の横にパネルがあるのに気付いた。

 

 1とB1の二つのボタンが用意されているが、そのどちらのボタンも点灯していない。

 それに、少なくとも一階から地下一階に降りるよりも遙かに長い時間、このエレベーターは下降を続けている。

 

 大志が眉根を寄せて思考していると、まるで退屈しのぎと言わんばかりの気軽さで、氷川が「……星人郷ってのはな――」再び大志に講義のようなことを再開した。

 

 高校一年生から化物一年生へと生まれ変わった大志に、義務教育を授けるように。

 

「一つの種族が己の国としている場所もあれば、いろいろな種族が共存している場所もある。あるいは複数種族がその場所の独占権を争っているって場合もある。平和な場所もあれば、戦争をしている場所もある。まぁ、その辺は表の世界と、人間の世界と一緒だな」

 

 星人郷――決して、そこは楽園ではないと、氷川は言う。凍えるような眼差しで、何も知らない、化物になったばかりの少年を見据えながら。

 

 大志は思わず背筋が凍るのを自覚しながらも――その眼差しから逃げなかった。

 もう自分には、逃げる資格などないのだと、自覚していたから。

 

 氷川は、そんな大志に向かって「さっきのお前の質問に答えてやるよ、大志」と言って、語り始める。

 

「これから向かうのは、ある意味では俺達の始まりの場所だ」

 

 ぐんぐんと下降を続けるエレベーターの中、氷川はどこからともなく剣を作り出し、それを指先一本でバランスをとりながら、何でもないように言った。

 

「俺らが吸血鬼(ヴァンパイア)になったのは、『始祖』の灰が原因だって話はしたか?」

「……ええ。昨日、聞いたっすよ」

 

 宇宙からやってきた、本物の宇宙人の灰。

 それが大志がセミナーで聞かされたナノマシーンウイルスの正体だった。

 

 かつて一千年前、焼身自殺に失敗した本物の吸血鬼が、世界中に撒き散らした細胞の灰が、世界中に吸血鬼もどきを量産する原因となった。

 

「そうだ。つまり、吸血鬼は俺らだけでなく、世界中に存在する。まぁ、昔、吸血鬼(ヴァンパイア)なんて存在が世界中に周知されるくらいやらかした存在が居たせいで、吸血鬼(ヴァンパイア)狩り(ハンター)なんて専門職(星人狩り)が生まれちまったくらいだからな。かなり気持ちいくらい狩られたもんで、有力な、強力な吸血鬼は割と稀少(レア)になっちまったんだが――」

 

 

 それでも、だ――と、氷川は作り出した剣を、見る見る内に凍らせていき、氷剣を作り出しながら言った。

 

「居るんだよ。お伽噺になっちまうくらいご立派なご先祖様のように、偶に生まれるんだよ。もどきといえど、灰を取り込んだだけの罹患者に過ぎないといえども、極まれに、世界をぶっ壊すくらいの影響力を持つくらいの、いわゆる大物って奴が」

 

 レアの中のレア、星5のSSR個体がな――と、氷川は凍った日本刀をくるくると手で弄びながら「だがなぁ、大志。お前にはないか? 吸血鬼(ヴァンパイア)ってのは西洋の怪物だと、そういうイメージが。少なくとも、日本の妖怪(ばけもの)ってイメージはねぇよな?」と笑う。

 

「さっきも言った、吸血鬼(ヴァンパイア)って存在を世界レベルにしたご先祖様が居たからか、西洋の方では吸血鬼はかなりの強豪星人だが、日本では圧倒的に妖怪星人の一強だった。そのルーツ的に世界中で生まれる吸血鬼だが、日本の奴はこれまでずっと弱小種族だったんだ。発祥の地なのに情けない限りだぜ」

 

 氷川はそう言って嗤うが、大志には少なくとも、日本の吸血鬼(きゅうけつき)が西洋の吸血鬼(ヴァンパイア)と比べて弱いとはとても思えなかった。

 本場の吸血鬼(ヴァンパイア)がどれだけ強いかは知らないが、大志が知っている日本の吸血鬼が――黒金が、火口が、岩倉が、化野が、篤が、斧神が、そして氷川が、弱小だとはとても思えない。

 

「それぞれの個々の強さなら、日本にも強い奴はそれなりに居たさ。俺しかり、黒金しかりな。だが、勢力図っていうのは、その名の通り、勢力でなくちゃ参加出来ない。俺らが今、オニ星人とか呼ばれて黒衣(ハンター)共の脅威になったのも、偏に――篤の力が大きい」

 

 氷川は、氷と化した日本刀を、そのまま空中で破砕させて、再び大志の目を見ながら言った。

 

「……今でも思い出す。あいつは、自分と斧神、たった二人で俺や黒金と接触し、本土の吸血鬼を纏め上げ、一つの組織、勢力としたんだ。一つの星人種族として、一個にしようとした。つまりは、俺らの始まりとは、いうならば篤という吸血鬼の誕生の地だ」

 

 これから行くのは、『宮本篤』という人間が死に、『篤』という吸血鬼が誕生した場所だ。

 

 氷川がそう呟くのと同時に、エレベーターの下降が止まった。

 

「――出るぞ」

 

 エレベーターが完全に停止すると、扉が口を開けるようにゆっくりと開く。

 

 先に出た氷川の後を追うように、大志が外に出ると――そこは、どこかの廃墟のようだった。

 

 まるで学生達が肝試しに使用するような、一目見て分かる程にボロボロの建物だった。

 床や壁は罅割れ、長年誰も手入れをしていないかのように埃まみれだ。

 大志達が乗ってきたエレベーターだけが浮いているかのように小綺麗だったが、廊下には蛍光灯すら点いていない。

 

(……うん? 蛍光灯は割れてて点いてない……のに、()()()?)

 

 大志は頭上を見上げた。

 恐らくは二階だろう廊下は崩れていて、隙間からは月明かりが覗いていた。恐らくは光源はそれだろう。

 

(――いや、待て。月明かりっておかしいだろ。僕らは()()()()()()んだぞ――っ!?)

 

 何してやがる、大志! ――と氷川が呼ぶ声に突き動かされるように、大志は止まっていた足を動かし、先に進んでいた氷川の後を追った。

 

 氷川は既に廃墟の外に出ていた。

 大志も続いて後に出ると――そこには森が広がっていた。

 

 いや、森だけではない。

 見上げるとそこには空が広がっていた。そして、氷川の眺めている方向を見ると、そこには海が広がっていた。

 

 そして、海岸沿いには、一面に花が咲き乱れていた。

 

「――彼岸花、というらしい。この島では一年中咲いている」

 

 氷川が絶句する大志に、海を眺めたままそう言った。

 

「……島?」

「ああ。この星人郷は島の形をしている。世界のどこにもない、幻の島。俺達はこう呼んでいる」

 

 その時、目の前の海から、突然、巨大な何かが出現した。

 

 魚の頭に人間の体の巨人。

 それは、一昨日の夜、大志が操り、東京湾を横断させた、あの怪物と同様の姿形だった。

 

 魚人型の――邪鬼。

 それが何体も、何十体も、この島のすぐ近くを泳いでいる。

 

 彼岸花が咲き乱れる海岸線、邪鬼が群がる近海、森が広がり、廃墟が佇む――その島は。

 

「――彼岸島。それが、俺らが隠れ潜むことになる、世界で唯一の俺達の居場所の名前だ」

 

 まるでこの世の地獄のような光景。

 

 大志は、正しく自分に相応しい居場所だと、そう真っ白に自嘲した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 真っ白な世界で、真っ白なフードを被った男が、真っ白な吹雪の中を進んでいた。

 

 時系列は、『英雄会見』が行われた日から、ほんの少しだけ先へと進める。

 

 ロイド眼鏡にマスクという出で立ちは最早その男のアイコンと言っていい定番アイテムだが、今日ばかりはこれがなければ凍傷になっていただろう生憎の空模様だった。いや、嘘を吐いた。本当ならばこんな頼りないアイテムよりも、せめてニット帽やゴーグルやマフラーが欲しかった。

 

 まぁ、たとえ凍傷になったとしても、太陽の下に出て凍り付いた皮膚が溶ければ自分は元通りだろう。

 吸血鬼が回復手段として日光を欲するというもの皮肉が利いているが――と、愛用の風邪用マスクの下で小さく笑みを浮かべた。

 

 この吹雪の中に思わず溶け込んでしまいそうな程に真っ白な男――真っ白な吸血鬼・篤に、隣を歩く、どれだけの吹雪の中でも決して溶け込めない存在感を放つ悪魔のような山羊の頭を被る吸血鬼・斧神には、足を止めずに淡々と語りかける。

 

「――食わされたのではないか。あの化けの皮を被った女に」

 

 篤はその言葉に、自身のロイド眼鏡に積もった雪を、眼鏡を外さずに親指で拭いながら言う。

 

「そこまで頭の悪い女ではないさ。だからこそ、恐ろしくもあるが」

 

 あの革命の日、正式に同盟を結んだ彼の美しき寄生獣から教わったポイントから登山を始めて、既に半日が経過している。

 

 真夏の山に登った筈が、唐突に吹雪の世界に迷い込んでから随分と経つが――目的地は未だ目視することすら叶わない。

 この吹雪の中では、既に目と鼻の先に近づいていたとしても気付かないかもしれないが――ここまで辿り着けないとすれば、考えられる可能性は。

 

 篤は、この半日止めることのなかった歩みを止めて、吹雪の中に立ち尽くしながら言う。

 

「つまり――条件が足りないのだろう。あの里の、かの令嬢の屋敷に辿り着く為には。彼女に教わった入り口から侵入(はい)る以外に、必要な工程が存在するということだ」

 

 斧神は、相棒に追随する形で同様に足を止めると、悪魔の顔を篤に向けながら言葉を返す。

 

「ならば、やはりあの寄生獣に食わされたということだろう。我々が奴に求めたのは、かの『氷姫(こおりひめ)』との面談だ。『鍵』を渡さずに送り出したとなれば、明確な盟約違反と言える」

「だから言ってるだろう、斧神。あの寄生女王(パラサイトクイーン)はそんな愚かな女王じゃない。彼女は渡した筈だ、こちらに鍵を。この局面で俺達を雪山で凍死させても、彼女に益はないからな」

 

 そう言って篤は、風邪用マスクを外して、吹雪の中に白い息を吐きながら、同盟相手の寄生獣が提供した情報を振り返る。

 

(入口は、東北の某山中の洞窟――彼女に言われたそのポイントを通過して、気が付いたらこの吹雪の中にいた。あそこが入口だったのは間違いはない。なら、あの洞窟は潜った者は全員、この吹雪の中に放り込まれるシステムになっているのか……? いや、あの洞窟は確かに目立たない場所にあったが、来る者が限られるという程に山奥ではなかった。興味本位で潜る人間もいるだろう。それならば、それは『神秘』とはいえない)

 

 神が秘すると書いて、神秘。

 来る者を拒み、選ばれた者を通す、あるいは迷い込んだ者を引き摺りこんでこその――化物の巣窟。

 

(ならば、我々はその『鍵』を持って、『扉』を通ったからこそ、今、ここにいるというべきだ。ここは既に『あの里』の中――未だこの空間が歓迎の意を示してくれないのは、我々がその鍵を見せていないからだ)

 

 そして、あの時、かの寄生獣はこう言っていた。

 

『ご心配なさらずとも、あなたならば、あの子の元へと辿り着けますよ。その()()を用意する際、あなたはそれを手に入れているのでしょう?』

 

 篤は、その言葉を思い出し――ふと、懐に手を伸ばした。

 

(…………悪いな)

 

 取り出したのは――大きな指輪と、小さな指輪をチェーンで通して作ったネックレス。

 

 とある鬼の――遺品だった。

 

「っ!」

 

 斧神が息を吞む。

 篤がそれを掲げた途端、吹雪が晴れ――屋敷が現れた。

 

 屋敷といっても、それはまるで時代劇や昔話に出て来そうな、百姓や農民が暮らしていそうな、小さく、みすぼらしいものだった。

 とてもではないが、令嬢が暮らしているような住居には見えない。

 

(まぁ――雪女が出てきそうという意味では、イメージ通りなのかもしれないがな)

 

 この『雪女の里』で口に出そうものなら袋叩きに遭いそうな人間時代の先入観のモノローグを思いながら、篤は再びマスクを引き上げ、手袋もしていない手でノックをしようとする――が。

 

「何を似合わないことをしようとしているの? こんなボロ屋にそんな作法は必要ないわ。さっさと上りなさい」

 

 言葉は尊大だが、声音は美しい許可が入り、篤はノックしようとした手を止め、そのまま横開きの扉を開ける。

 

 屋敷内に這入ると、土間からすぐにその存在は見えた。

 開け放たれた居間の中央、火が消えた囲炉裏の向こう側に、今にも消えてしまいそうな真っ白な女がいた。

 

 白銀の髪。黄金の瞳。

 身に纏う白い衣は、まるで死に装束のようで。

 

「――ようこそ、白い世界へ。それで? 醜いオニが、こんな穢れた白に何のご用かしら?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 ぱち、ぱちと、今にも消えてしまいそうな小さな火種が焚かれた囲炉裏を囲むように、三人の化物が座り込む。

 

「ごめんなさいね。客人を――それも雪女でもない客人を招くなど、思い出せない程に遠い昔のことだから、ちゃんとした火の起こし方など忘れてしまったわ。寒いかもしれないけれど我慢して頂戴」

「いえ、急に押し掛けたのはこちらです。お構いなく」

 

 そう。ならお茶も煎れなくていいわね。ちょうどめんどくさかったの――と、目の前の白銀髪に黄金瞳の雪女は、そう言って篤達を招き入れてから一歩も動かず、立ち上がることすらせずに「――で?」と、その容姿に似合わず膝を立てて、けれどある意味ではその容姿にぴったりの尊大な口調のまま、篤達に問い直す。

 

「早く質問に答えてくれないかしら。まどろっこしいのは嫌いなの。面倒くさいのはもっと嫌いなの。あなたたち、私に何の用なの?」

「それでは、単刀直入に言わせていただきます」

 

 篤は、フードもマスクも取らないままに、表情を見せないままに、目の前の尊大な雪女に向かって言った。

 

「我々の仲間になっていただきたい」

「嫌よ。面倒くさいわ」

 

 雪女は、篤の言葉を間髪入れずに拒絶した。

 黄金の瞳を細めながら「そもそも――」と、囲炉裏の今にも消えそうな火種をぐりぐりと掻き回しながら、興味なさげに篤達に問う。

 

「それって、私個人に? それとも雪女って種族に? 前者でも面倒くさいし、後者ならそもそも訪問する家を間違えているわ。アンタ、ここのことを知っているの?」

 

 色んな意味で――と、ぶすっと灰を突き刺して、細めた黄金の瞳で見据える雪女に、篤は「勿論、予習はばっちりですよ。遠出の際には下準備は怠らないタイプなんです」と前置きし、ロイド眼鏡を持ち上げながら言う。

 

「ここは妖怪星人・雪女が住処とする里――星人郷としての通り名は『雪隠郷(せついんきょう)』……でしたか?」

 

 雪女は、火を搔き混ぜる手は止めたが、篤からは目を外す。

 篤は、そんな彼女に「雪隠郷の歴史はそのまま雪女の歴史といえる程に古いものですが、その発祥当時から続くとされる一つの絶対的な慣習がある」と、続きを語る。

 

「それは、里の長を、雪女の中でも最も古く、最も濃く、最も強い三家から選ぶというもの。その三家とは――『白夜(はくや)』、『白縫(しらぬい)』、そして、『白金(しろがね)』」

 

 そう、()()()()()()()――と、篤は、目の前の、白銀髪で黄金瞳の雪女を見詰める。

 

 雪女――白金(しろがね)は、そんな篤を一度ちらりと、その黄金の瞳で見遣ると。

 そのまま興味なさげに、灰を弄くり回す作業を再開しながら「……少し、情報が古いわね。正しくないわ」と言葉を返す。

 

「確かに、この里の長は、つまり雪女の女王は、その三家からずっと選ばれてきたけれど、今でも掟の上ではそうなっているけれど――残念。実質、今では内の二家は没落し、『白夜』の一択状態なのよ」

 

 無論、今の女王も『白夜』の雪女よ――と、白金はどうでもよさげに言う。

 

「先代の『白金』と『白縫』が馬鹿をやってね。まぁ、簡単に言えば、男に現を抜かしたのよ。――人間の男にね」

 

 ざくっと、火を完全に消火し――熱気どころか冷気を発するようになった囲炉裏を冷たく見据えながら、白金は淡々と語る。

 

「結果――我らが『白金』は、こうして里の端っこで厄介者のように隔離されて、『白縫』の方は名目上は里長の相談役のようなことをしているけれど、実体は他種族との折衝に言いようにこき使われているパシリよ。まぁ、あそこは身内にとんでもない爆弾を抱えているしね。爆弾というか、化物というか」

 

 ま、化物というなら、私達はみ~んな化物なんだけどね、と。

 どうでもよくなったかのように、灰を掻き回していた棒を投げ捨てるように手放すと、あざ笑うような顔で、白金は篤に向かって吐き捨てる。

 

「つまり、種族交渉とかそういうのは『白夜』にいうべきよ。『白夜』に会ってもらえないなら『白縫』ね。あそこはもう『白夜』の手足みたいなもんだから、上手くおべっかを使えば、いずれは『白夜』に面通ししてもらえるんじゃない?」

「いや、『白縫』の雪女には既に会っているんだ。『白縫』の現当主ではなく、その件の爆弾の方なのだが」

 

 この『雪隠郷』にも、そいつの手引きで侵入(はい)らせてもらったと、そう篤が言うと、その時、初めて白金の表情に驚きのようなものが見えた。

 

「……そう。そもそもどうやって、この里に侵入(はい)れたのかと思ってはいたけれど、迷い込んだならば兎も角――そう、あの寄生獣の手引きだったの。まぁ、この里の雪女達が星人とはいえ外の世界の存在を進んで侵入(はい)らせるわけがないし。考えてみれば第一容疑者よね」

 

 そして、案の定、真犯人だったわけか、と、白金が言うと、いえ、真犯人は別にいますよ、と、篤は返す。

 

「…………」

 

 白金は、篤のその返答に、再び驚きは見せなかった。

 

 そう、そもそも、彼の寄生獣が真犯人ではおかしいのだ。

 もしそれが真実であるならば、この侵入者を招き入れたのは『白縫』となり、このオニ達の前に現れるのは、このオニ達と最初に相向かうのは『白縫』の雪女でなくてはならない。

 

 それが、この里の『鍵』の『管理者』であり、『門番』でもある『三家』の役割。

 部外者に鍵を渡す権利を所有する代わりに、その部外者を見極める義務を持つのだ。

 

 ならば、つまり、このオニ達をこの里に招き入れた真犯人は――。

 

「――――っ!!!??」

 

 その時、白金は初めて、篤達を前にして――立ち上がり、絶句した。

 ここまで一歩も動いていない堕ちた雪女が、その死んだように重かった腰を上げた。

 

 篤が、(おもむろ)に懐から取り出し、白金にその『鍵』を見せたからだ。

 

 大きな指輪と小さな指輪の間にチェーンが通され――繋がれた、世界に一つしかない、そのネックレスを。

 

 他でもない、『白金』の――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

「どう……して――」

 

 どうして貴様らがそれを持っているッッッ!!!! ――白金が、今にも消えてしまいそうに儚かった雪女が、その身を沸騰させんばかりに激昂を轟かせる。

 

 篤は、燃えるように怒り狂う雪女に、冷たく、淡々と「……これは、我らが同胞の……遺品だからです」と呟く。

 

「………………遺………品?」

 

 白金は、燃えさかったまま凍り付いたかのように硬直する。

 

 篤は「私達は、だからこそ、あなたに会いに来たのです。『白夜』でも、『白縫』でもなく、『白金』である――あなたに」と、固まる白金に向かってネックレスを放る。

 

 それを慌てた手つきでキャッチし、その冷気が、その大きな指輪と小さな指輪が、忘れもしない、己の記憶と完全に一致し、混乱が極まる――その瞬間を、狙い澄ましたように。

 

 篤は、この険しい吹雪の中、無事に運びきった『土産』の入ったクーラーボックスを取り出すと。

 

 白金に見せつけるように、その蓋を開ける――そして。

 

 開けた瞬間――()()()()()()

 

「託されたのです。あなたへと届けるように。我が同胞に。我らが同志に。つまり――」

 

――『()』に。

 

 白金は、ギュッとそのネックレスを胸に抱きながら、雷光を迸らせる、そのクーラーボックスの中身を見た。

 

 どくん、どくんと、未だ力強く、諦め悪く、敗北を認めないかのように――鼓動を続ける、その物体は。

 

 

「――黒金の、心臓です」

 

 

 真っ白に色を失った、とある雪女の胸に――どくんと、熱い何かが、灯った。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 時系列は、『英雄会見』の直後へと戻る。

 

 場所は――京都。

 かつての日本の中心地であり、かつての日本を最も色濃く残す土地。

 

 だが、いや、だからこそ。

 この国で最も日本人以外の、外国人が多く溢れる観光地でもあるこの街に、かつては最も相応しかった、しかし、今は誰よりも目立つ格好の一組の少年少女が、誰にも気付かれることなく手を繋ぎながら歩いていた。

 

 静かに流れる鴨川を横目に、華やかな祇園の街の――薄暗い、とある路地裏へと迷い込むように入り込み。

 眼鏡にみずぼらしい和装の少年は、日本人形のような童女を連れて、ちりんと透き通った鈴の音を鳴らし、そのまま真っ直ぐに路地を突っ切る。

 

 道を抜けた先は――夜の世界だった。

 

 灯籠の光が辺りにぽつぽつと置かれて道を照らし、障子の向こう側から淡い光が漏れている。

 街灯もなく、当然のようにネオンもない。新宿の目を焼くような退廃的な光が闇を打ち消すような夜ではなく、こちらはあくまで闇を強調するような静かな夜が満ちていた。

 

 少年と童女が路地裏から飛び出ると、その前を燃えさかる車輪が通り過ぎ、その上をひらひらとした布が過ぎ去った

 道行く女の首が唐突に伸びて、振り向く男の眼球が一つしかなかった。

 

 魑魅魍魎が跋扈する。

 異形の人が、人ではない何かが、化物が、(あやかし)が、我が物顔で、隠れ潜むことなく往来する。

 手を繋ぐ座敷童の少女――詩希(シキ)が、化物達を見てほっと息を吐いた。

 眼鏡の少年――平太(へいた)も、それを見て表情を綻ばせる。

 

 そう、この魑魅魍魎に溢れかえった空間こそ、自分達の住まう世界。

 明るく、眩く、光と人で満ち満ちた表の世界とは違い――暗く、怪しく、闇と妖でおどろおどろめいた裏側こそが、自分達の帰るべき場所。

 

 帰ってきた――そう感じてしまう自分に、平太は苦笑した。

 そして、苦笑する平太を見て、手を繋ぎながら見上げる詩希は微笑した。

 

「――よう。帰ったかい、平太。詩希」

 

 行き交う妖を見て笑い合っていた少年童女に、そう声を掛けたのは青白い顔の()()だった。

 

「清元さん。野坊さんも。迎えに来てくれたんですか?」

 

 そこに居たのは、真っ白な死に装束を纏った青白い顔の男と、ジーパンに白のTシャツにニット帽を被った男だった。

 

 死に装束の男の顔は、およそ血色といえるものが消え失せた死に顔だった。

 まるで死体が歩いているかのような男は、ごほごほと咳き込みながらも、小さくその口元を緩ませる。

 

 表情少なめな死に顔の男の隣に立っているニット帽の男は、対して、表情というものが存在しなかった。

 何故なら、その男の顔には――何もなかったからだ。

 目も、鼻も、口も。ただ凹凸のない肌色のみが、その男の顔面だった。

 

 野坊(のぼう)と呼ばれた口のない男は、やはり何も言葉は発さない。

 体は隣に立つ死に顔の男よりも二回りほどに大きい巨漢で、それ故に顔面の異様さが際立つが、平太は顔のない男に笑顔を向けて「ありがとうございます」と告げ、それに合わせるように、詩希もぺこりと頭を下げた。

 

 清元(せいげん)と呼ばれた死に顔の男は、頭を下げる子供達に対し、動かない表情筋を無理矢理に動かしたかのようなぎこちない笑顔で「子供達だけで危ない橋を渡らせたんだ。何もしなかった大人が、居間で胡坐を掻いているばかりというわけにもいくまい。出迎えくらいはさせてもらうさ」と言って、平太の頭を撫でて言う。

 

「――で? おっかない真似をしただけの収穫はあったかい?」

 

 およそ体温というものを感じない冷たい手を乗せられた平太は、「――はい。得たいと思っていた情報は、あらかた手に入れることは出来ました」と答えながらも、「――でも……すいません……」と、言葉を濁らせ、言う。

 

「…………総大将の……あの方の情報だけは…………表の世界にも……百目鬼(どうめき)さんも、心当たりはないようでした」

「……そうかい。星人側であり、黒球側であり、残党側でもある、およそこの国で最も灰色な場所にいる烏鬼(からすおに)でさえも知らないとなると……いよいよ万策尽きた感があるな」

 

 平太は「勿論、百目鬼さんが知っていて僕に隠した可能性もありますが」と言うと、「平太に見抜けないのなら、俺らの誰も見抜くことは出来ないさ。それはつまり、俺らには手の届かない情報だということ。結果は変わらない」と清元は言う。

 

「――と、なるとだ。……残念ながら、時間切れだ。本当は総大将の口から直接が理想だったが……」

「……このままだと……親を追放して組を乗っ取るという形になります。いくら血の繋がった息子とはいえ……いえ、だからこそ、このやり方に納得しない幹部の方もいると思います。この組織は、総大将が集めた『百鬼夜行』なんですから」

「それでも――これ以上は待てない。こればかりは、あの気に食わない噺家の野郎と、俺も同意見だ」

 

 清元はそう言うと、のっぺらぼうの男・野坊(のぼう)を伴って、魑魅魍魎が行き交う夜の街の中へと消えていく。

 

「清元さん」

「悪いが、行く場所が出来た。迎えに来た身分で悪いが、二人だけで帰れるかい?」

「馬鹿にしないでください。子供ですが、僕達はこう見えても1000才を超えてるんですよ」

「鴨桜はいつもの場所に居る」

 

 清元は、(あやかし)混みの中、一度だけ振り返り、死に顔に笑みを浮かべながら言った。

 

「――お前の帰りを待ってる。早く、安心させてやれ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 季節外れの枝垂れ桜が咲き誇っていた。

 

 否、この妖怪達が住まう()()()()()――怪異京では、季節というものは存在しない。

 茹だるように暑い場所もあれば、身の毛もよだつ程に寒い場所もある。

 一年中、美しい紅葉の見所もあれば、草木も生えない更地も存在する。

 

 そして、この屋敷の一本の桜は、千年以上もの間、美しい花を咲かし続けていた。

 

 小さく風が吹き、桜吹雪が舞う。

 

 不思議だ、と、平太は思う。

 こうして花びらは散るのに、この桜は葉桜にならず、ずっと美しい桜色のままだ。

 

 まるで夢の世界だ。

 

 眼下には静かに川が流れている。

 常夜の世界であるこの星人郷には、本物かは分からないが月もある。これもずっと満月だ。

 雨が降る場所もあるが、少なくともこの屋敷周辺は降らない。

 だから、この川の水面は、美しい満月と、美しい枝垂れ桜を、永遠に映し続けている。

 

 怪しく、妖しいのに、醜悪な妖怪変化に溢れかえるこの世界は――人で噎せ返る外よりもずっと美しい。

 

「――帰ったか、平太」

 

 そんな桜の中から、一人の男の声が聞こえた。

 平太がゆっくりと桜の木に近づくと、その男は一本の太い枝に座り込みながら、キセルを吹かし、満月と眼下に流れる川を、桜吹雪の中から眺めていた。

 

 全身を覆い隠さんばかりに伸びるその髪は、斑だった。

 男が纏う着流しのように、黒色と桜色が入り交じっている。

 それはまるで、男の中に流れる血潮を表しているかのようだった。

 

「……ただいま戻りました。鴨桜さん」

 

 鴨桜(オウヨウ)――と呼ばれた男が、煙を吐きながら微笑む。

 その瞬間、一際強く風が吹き、桜が舞い――男が消えた。

 

「――!」

 

 平太が瞬きをすると、男はいつの間にか、平太の傍らに立っていた。

 

「詩希はどうした? 一緒じゃねぇのかい?」

「……長旅で疲れたみたいなので、春さんに任せてきました。ていうか、心臓に悪いのでやめてください」

「はっ、そりゃあ、俺ら妖怪に人を脅かすなと言ってるのと同じだぜ」

 

 鴨桜はそう言って平太の頭を撫でる。しかし平太は、その手を払おうとはしないものの、暗い顔を崩さなかった。

 

 そんな平太を見て、鴨桜は小さく微笑みながら言う。

 

「――親父は、見つからなかったか?」

 

 ギュッと、平太が唇を噛み締める。

 鴨桜は「……ぬらりくらりと神出鬼没なのがぬらりひょんとはいえ、夜遊びって年じゃあねぇだろうに、ジジイめ。しょうもねぇ、親分だよったく」と呟くと、肩に掛けていた瓢箪に口を付け、酒をぐいっと飲み干しながら――屋敷へと向かう。

 

「鴨桜さん」

「――幹部らを待たせてる。詳しい話は向かいながら聞かせろ」

 

 平太は、鴨桜のその言葉に全てを悟った。

 普段は度し難い自由人だが、百鬼夜行の主の血を引き、組の若頭として数百年もの間、大幹部として戦い続けてきたこの男が、何も分かっていない筈などなかった。

 

 分かっていたのだ。鴨桜も、自分の東京遠征が、最後のチャンスだったと。

 それが空振りに終わった以上、最早、一刻の猶予もない。

 

 黒衣達があれほど思い切った手に出た以上、この国は、そしてこの世界は――変わる。

 

 夜の世界に、人間達が乗り込んでくる。

 いずれはこの星人郷すらも、奴等は暴虐的な光を持って侵略してくるだろう。

 

 そのことは、これから平太が鴨桜に報告することなので、まだこの男は知らないだろうが――それでも、この鴨桜という()()は、感じ取ったのだ。

 

 何かが始まる気配を。何かが終わる兆しを。

 変わらなければならないと。動き出さなければならないと。

 

 さもなくば――滅ぶのは。

 

「――平太。そんな顔してんじゃねぇ。遅かれ早かれ、こうなってたさ。俺達は」

 

 足を止め、俯いたまま動けない平太に、鴨桜は振り向いてそう言った。

 瓢箪を肩に掛け、舞い散る夜桜を眺めながら、百鬼夜行を率いる妖怪と人間の間に生まれた混血種は言う。

 

「心配するな。何があろうと、お前等は俺が守ってみせるさ。俺は――ぬらりひょん(妖怪の主)の息子だからな」

 

 平太は、そんな鴨桜に、千年前――無力な、ただ死に行く存在だった自分を救ってくれたあの日から、只一人の自らの(ヒーロー)の姿に。

 

 地に両膝を突き、両拳を突いて、眼鏡のレンズに涙をこぼしながら、頭を下げて言う。

 

「――はっ! ……どこまでも、付いていきます……っ」

 

 鴨桜は、そんな平太に「……さっさと頭を上げろ。んで、俺にお前の東京の土産話を聞かせやがれ」と言いながら、再び回り屋敷へと向かって歩き出す。

 

 そして、平太から顔を外した瞬間、表情を冷たく消し、静かに呟く。

 

「……ああ。お前等は守るさ。……例え――」

 

 どんな化物が相手だろうとな――と。

 真っ暗な屋敷の闇を見据えて、そして激しく舌打ち、吐き捨てる。

 

「――何やってやがる……っ。クソ親父がッ」

 

 そして、大きくはためかせながら、百鬼夜行が背に描かれた羽織を身に纏う。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 勢い良く、弾き飛ばすように障子を開ける。

 

 中は大きな細長い広間だった。光源は等間隔で置かれた蝋燭のみ。

 

 片側に四体、向かい側に四体、計八体の――妖怪が座っている。

 そんな彼等が見上げる場所、一段高い場所に、殿様のように――半妖が座った。

 

「――テメェら、長く待たせた。これより『百鬼夜行』の総会を始める」

 

 妖怪星人。

 この日本という国、そのおよそ全ての歴史において、夜の世界に君臨し続けていた、在日星人最強最大の勢力を誇る星人種族。

 

 そして、そんな妖怪星人を、およそ千年もの間、支配し続けてきたのが、妖怪ぬらりひょんが率いる――この『百鬼夜行』である。

 

 妖怪組織――『百鬼夜行』。

 全国の妖怪を傘下に置くこの組織には、およそ九体の大幹部がいる。

 

 向かって右側の、総大将の座に近い場所に座る者から順に。

 

 妖怪・天狗――鞍馬。

 妖怪・河童――長谷川。

 妖怪・雪女――白夜。

 妖怪・仏像――弥勒菩薩。

 

 向かって左側の、総大将の座に近い場所に座る者から順に。

 

 妖怪・(ちん)――羽未(バミ)

 妖怪・猫又――仙虎(センコ)

 妖怪・狒々(ひひ)――混愚(コング)

 妖怪・妖狸(ようり)――茶釜。

 

 そして、彼等が見上げる場所に――総大将ぬらりひょんだけが座ることを許された場所に、堂々と胡座を掻いて尻を落とす、最後の一人の大幹部は。

 総大将ぬらりひょんのただ一人の息子であり、この『百鬼夜行』の若頭に任命されていた、次期総大将最有力候補であるこの男。

 

 

「今日の議題は、端的に言えば、これからの『百鬼夜行』についてだ」

 

『百鬼夜行』若頭 妖怪・ぬらりひょんと人間の混血種 半妖 鴨桜(オウヨウ)

 

 

 黒と桜の斑の半妖は、日ノ本の闇の世界を支配し続けてきた大妖怪達に向かって、威風堂々と宣言する。

 

「今宵を持って、お前等は俺の傘下に入る。これは決定事項――今、この瞬間より、お前等は俺の『百鬼夜行』だ」

 

 鴨桜が、並み居る大妖怪を見下ろすように放つ言霊を。

 

 彼の後を追うように、静かにこの広間へと入ってきた二人の男。

 鴨桜の左奥に座る側近、妖怪・首無――士弦(しげん)と。

 鴨桜の右奥に座る側近、妖怪・噺家――桂松(けいしょう)が。

 方や無表情で、方や口元だけにやにやとさせながら見守る中。

 

 これまで鴨桜自身が座っていた位置に、つまりは総大将の側近の位置に。

 己に最も近しい二人の側近を座らせながら決行された、若頭の下克上に。

 

 新たな総大将への襲名を宣言した鴨桜に最も近い場所に座る幹部は。

 現総大将――『百鬼夜行』を束ねて、妖怪星人を纏め上げた、妖怪の主ぬらりひょんに最も近い存在である男は。

 

「――――ふ」

 

 この『百鬼夜行』が妖怪星人の頂点に立った千年前から、総大将ぬらりひょんの片腕と呼ばれ続けてきた大妖怪は、当のぬらりひょん不在の場で、実の息子である若頭が起こしたクーデターに。

 

「ふざけるなぁぁぁあああああああ!!!! 若造がぁぁぁぁぁぁああああああああ!!!!!」

 

 その殺意を膨れ上がらせ、鼻の長い真っ赤な顔を燃え上がらせて。

 

 鞍馬山の大天狗と恐れられた大妖怪・鞍馬は、忠誠を誓った主の一人息子に向かって、漆黒の翼をはためかせながら特攻した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 時系列――不明。

 

 場所は京の都の――どこかの闇の中。

 

 果たして、そこは表世界の京都のどこかなのか、それとも妖怪達が住まう裏世界の怪異京なのか、はたまた、誰も知らない、新たな星人郷なのか。

 ただ一つ確かなのは、そこが座標上は日本の京都――それも京都市内のどこかであり。

 

 この日ノ本という国で、最も妖気に満ちた地脈のスポットの真上であるということだった。

 

(まぁ、真上と言っても地下であることには変わりないのじゃがね)

 

 真っ暗闇であるのも妥当というものだ。

 ここは偉大なる太陽の恩恵すら寄せ付けない、よくないものの吹き溜まり。

 

 だからこそ、これから行う儀式には、うってつけの場所ともいえる。

 

「君もそう思うだろう? 妖怪大将――ぬらりひょん」

 

 世界から黒く塗り潰されたような男が、そう目の前の男に向かって言った。

 

 そこには、上半身が裸ながらも、鍛え上げられた肉体にいくつもの拷問の痕を刻まれ、背中の桜吹雪の入れ墨が血と傷で汚されている――侠客がいた。

 

 髪は己を隠さんばかりに伸びきった黒髪。

 目つきは鋭く、放たれる眼光は両手を鎖で縛られ宙吊りにされている囚われの身とは思えぬ程に力強い。

 

 日ノ本を支配する最大派閥の星人組織――妖怪星人を千年間率い続けた百鬼夜行の主は、絶体絶命の状況に陥って尚、気高く、そして恐ろしかった。

 

「――はっ。こんな暗い場所に、お主のような暗い男と何年間も二人ぼっちじゃあ、さすがの儂も嫌気が差してきたわい。殺すならさっさと殺すがよいわ」

 

 妖怪の王――ぬらりひょん。

 彼がこの闇の中に囚われて、およそ百年が経過している。

 

 その間、両手の拘束が解かれたことはなく、昼夜を問わず――否、一切光の入らない常闇の中で、ありとあらゆる責め苦を浴びせかけられながらも、この男の眼光は、畏れは、いささかも衰えることはなかった。

 

 鍛え上げられた肉体は、背中に刻まれた桜吹雪は、その美しさを血で汚すことはあっても、その赤を彩りに加えて、味わいを増しているかのようにも――黒く塗り潰された男は感じていた。

 

「お主は――いつまでも美しいのぉ。ぬらりひょんや」

 

 この漆黒の闇の中においても、なお判別が出来る程に――いや、判別が出来ない程に、まるで世界というキャンバスの中で、一人乱雑に墨汁で塗り潰されたかのような男は。

 

 身動きのとれないぬらりひょんに近づき、そっとその頬を撫でる。

 

「妖怪といえども、星人よ。つまりは宇宙生物――生物じゃ。生きている物である限り、時の流れには勝てん。人間よりも遙かに遅い速度とはいえど、年を重ね、老いる。種族として後を託す者――子を成したならば尚更じゃ」

 

 妖怪星人は、およそ数千年単位の寿命を持つ。

 確かに老いというものはあるが、人間からみればおよそ不老不死と思える程に、その流れは緩やかだ。

 

 しかし、種族としての後継――つまりは子を成した妖怪は、その速度が急激に早まる。

 子が生まれてから、生きることが出来て長くても千年――無論、妖怪星人の中にも長命なもの、短命なものの差はあるが、少なくとも。

 

「お主には、千年前には既に子がいたな。なのに、貴様はいつまでも美しい。老いることなく若々しい。まるで――時が止まっているかのようじゃな」

 

 お主の妻は――あの摩訶不思議ながらも美しかった人間は、とっくに老い、顔を皺くちゃにして死んだというのに。

 そう、黒く塗り潰した男が呟くと、頬に添えられたその手を噛みちぎらんばかりに、殺意を膨れ上がらせ、化物は牙を剥く。

 

 男がさっと手を離すのと、ぬらりひょんの牙が空を噛むのは、ほとんど同時だった。

 

「……てめぇが……アイツを語んじゃねぇ……っ」

 

 黒く塗り潰された男は、そのドロドロと溶岩のように濁り燃える化物の瞳を見ながら「千年という月日を経ても、未だ囚われ続けるか。妖怪の王よ」と嘯きながら、哀れむように言う。

 

「それほどまでに焦がれておるのに、いつまでも愛する妻の元へと逝けぬ。……呪いとはよく言ったものじゃ」

 

 男は、どれだけ鎖を伸ばしても、ぬらりひょんの牙が僅かに届かぬ位置を絶妙に確保しながら、禍々しく睨み付けるぬらりひょんに言う。

 

「先程の殺すなら殺せという言葉も、あながち儂に対する挑発というわけでもないのじゃろ。死ねるなら死にたい――それが、この千年間、いや、あの女を失ってから、お主が心の片隅に潜ませ続けていた本心の欠片じゃ。違うかの?」

 

 ぬらりひょんは、その言葉に対して言葉で返さず、再びの殺害未遂で答える。

 だが、勢いよく放たれた牙は、またも黒い男の鼻先までしか届かず、空を噛み、黒く塗り潰された男は語るのを止めない。

 

「実際――お主を殺すのは難しい。この儂でさえも、お主をここまで弱らせるのに百年かかった。この膨大な妖気が充満する空間に毒を混ぜ込み、全力全霊で拷問を施し続け、一切の身動きを封じての百年じゃ。不老不死にも程があろうよ」

 

 そう言ってくつくつと笑う黒い男は、「だが、安心せい――」と、手の中に『黒い赤子』をどこからともなく取り出すと、真っ黒な妖気を膨大に放つそれを。

 

 ぬらりひょんの腹に、貫くように押し込んだ。

 

「っっっっっ!!!!!!!」

「妖怪の王よ。お主の天下は、今宵で幕が下りる」

 

 新たな王の誕生じゃ――そう言って、男は、真っ黒に塗り潰された中で、唯一ぽっかりと認識出来る瞳を、醜悪に細めて。

 

「――喜べ、化物。ようやく死ねるぞ」

 

 ぐぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああ――漆黒の闇の中で、百鬼夜行の主の絶叫が響く。

 

 どくん、どくん、どくんと、ぬらりひょんの体内で鼓動が響く。

 黒い赤子が纏っていた真っ黒な妖気が、ぬらりひょんの千年間老いることのなかった躰を飲み込むように取り込んでいく。

 

 両手を戒めていた鎖が砕けても、ぬらりひょんは動けない。

 背中の桜が黒く穢され、そして絶叫を上げる口の中から、両の眼から、真っ黒な血を噴水のように吐き出した。

 

「――よい」

 

 その様を、間近で眺めていた黒い男は。

 満足そうに瞳を細めて、己が宿願が叶う瞬間に心を震わせていた。

 

(この裏京都の中心地――この国で最も妖気が集まるこの場所で、千年間、妖怪の象徴であり続けたぬらりひょんを殺害する。百年掛かったが、第一段階はこれで完遂じゃの)

 

 正確には、不老不死のぬらりひょんを、殺害可能な化物へと貶める儀式。

 これによりぬらりひょんは、新たな化物へと生まれ変わることになるのだが、生まれ変わるということは、一度しっかりと死するということ――新たに誕生するぬらりひょんは、千年間、妖怪のトップだったぬらりひょんとは別存在と見なされる。

 

 妖怪の王・百鬼夜行の主・ぬらりひょんは今宵、死ぬ。

 ならば、そんなぬらりひょんを主材料にした新たな強大極まりない化物(ぬらりひょん)が生まれ変わろうが、そんなことは男の知ったことではない。

 

 いや、だからこそ――面白い。

 

(この場所は、この国の霊的エネルギーの中心点。この場所でこれだけの刺激を与えれば、この裏京都の別の場所に眠らされている『あの二体』の封印にも、大きな綻びが生まれる筈じゃ)

 

 ならば、後は――時間の問題。

 あの千年前の宴を再現する。

 いや、今の世の流れならば、恐らくは、あの時以上に大きな祭りとなる筈だ。

 

「――既に、終わりは近い。ならば、最後は派手にいかねばの。思い残すことのない、()()()()()()()にしなくては」

 

 黒く、燃え上がる。

 体中のあらゆる穴から真っ黒な妖気を吹き出すぬらりひょんは、千年間、忌々しい程に健在だった己が躰が、真っ黒な何かに造り替えられるのを感じていた。

 

 徐々に意識が遠のく。これは、二度と覚めることのない眠気なのだと、漠然と感じた。

 

 そうか――これが、死か。

 

(……あっけないものじゃ。あれほど焦がれていたというのに、最後に感じるのが眠気とはの)

 

 妖怪の王としては余りにも惨めな最期だったが、千年も生きたのだ、今更つけるような格好もない。

 何より、誰よりも格好いいと思って欲しかった相手は、とっくの昔に失っているのだ。

 

(……桜華(おうか)よ。ようやく、お主の元へと逝けるの)

 

 あの世という場所は、果たしてどんな場所なのか。

 死んだ時の姿で送られるというのなら、この老いなかった躰も少しは許せる気持ちになる。あの世で会った時も、また格好いいと言ってもらえるだろうか。

 

 だが、もしも、天国や地獄というものがあったとして。

 桜華は間違いなく天国にいるだろう。自分は間違いなく地獄行きだろう。どうしたものか。

 

(そん時は、閻魔をぶった斬り、天国へと乗り込めばいいだけのことよ)

 

 囚われの姫だった桜華を、この手で掻っ払ったあの時のように。

 ぬらりひょんは、真っ黒な妖気に飲み込まれながら、ふっと――不敵に笑う。

 

(……すまぬ。鞍馬、刑部(ぎょうぶ)……共に杯を交わした、儂の百鬼夜行達よ。先に逝くぞ)

 

 そして、ぬらりひょんは。

 千年もの間、日ノ本の妖怪の頂点に立ち続けた歴戦の王は。

 

 消えゆく意識の中、亡くなった妻を思い、共に戦い続けた義兄弟(きょうだい)達を思い。

 

 そして――たった一人の、息子のことを思った。

 

(…………鴨桜よ。駄目な親父ですまねぇ。……面倒を残すが、後は頼む)

 

 愛している。我が息子よ――そう、黒い妖気の中、死力を尽くして呟き。

 

(願わくば……桜華と共に……鴨桜を……あの世で――)

 

 

 

 裏の京の都の中心地で、その日――黒い爆発が起きた。

 

 表の世界では、それはよくある地震として処理されたが。

 

 それは確かに、一つの時代の終焉であり、新たな終わりの始まりでもあった。

 

 

 千年間、平和を守り続けた王の崩御は。

 

 裏の世界を、日ノ本の星人の世界をも、未曾有の混乱へと叩き込み。

 

 千年ぶりの妖怪大戦への、火蓋を切って落とすこととなった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 時系列は――『英雄会見』から、少し時間が経ったある日のこと。

 

 

 

 正義とは何か。

 そんなことを、近頃はよく考えるようになった気がする。

 

 少し前のことだ。

 世界が動いたあの日、何かが決定的に変わったあの日――ネットカフェのPCモニタで観ていたその会見で、とある戦士がこんなことを言っていた。

 

――『わたしにとって正義とは――正しいことです』

 

 正義とは――正しいこと。

 間違っていないこと。歪んでいないこと。

 乱れがないこと。偽りではないこと。

 

 本物――であるということ。

 

 己が正しいと信じる概念――それこそが、正義。

 

「…………はっ。かっちょええな」

 

 正義とは守るもの。正義とは掲げるもの。

 正義とは――貫くもの。

 

 自分もかつては、この胸に、確固たる正義を持って――戦っていた。

 戦士――だった。

 

――『わたしは――逃げない』

 

 だが――逃げた。

 

 自分は守れなかった。掲げた旗を下ろしてしまった。

 自分は貫けず――正義は折れ、曲がり、己の正しさを、信じることが出来なくなった。

 

 自分の正義は――偽物だった。

 

 結果、自分は堕ち、負け――そして。

 

――『この剣で、その全てを斬り払ってみせると』

 

 それ以上は――観ることが出来なかった。

 

「――――ッッ!!!」

 

 その日、自分は住処としていたネットカフェから飛び出し、別のネットカフェへと引っ越した。

 

 あの日から――いや、そのずっと前の『あの日』から。

 鋼鉄の城が崩壊してから、自分はずっと、こんな毎日を送りながら、そんなことをずっと考えている。

 

 正義について、考えている。

 自分の正義はどこで間違ったのだろうか。

 

 どこで折れたのか。どこで曲がったのか。

 どうして守れなかったのか。どうして貫けなかったのか。

 

 偽物だったからか。それとも、どこかで偽物になってしまったのか。

 

 どうして、自分は――。

 

「……ディアベルはん。……わいは――」

 

 トゲトゲ頭の男は、そこまで呟いて、それ以上は飲み込んだ。

 

 既に底辺まで堕ちている自分だが、続きを口にしたら、さらに惨めになるような気がした。

 

 その時、ちくりと首筋に寒気が走った。

 

「…………」

 

 男は、まるで何かを諦めたように、ゆっくりとネットカフェのフラットシートに身を預けた。

 

 そして、静かに天井を突き破って照射されてきた電子線により、男は消えた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「よぉー。遅かったな、木場。ジブンが最後やで」

 

 そこは、まだ数度目だが、既に見慣れ始めた無機質なワンルームだった。

 天井に設置されたエアコン以外は、テレビも、ソファも、テーブルも椅子もない。

 

 あるのは、鎮座する、一つの無機質な――黒い球体。

 

「はよ着替えろ。既に新参も何人か来とる。あんまりにジブン遅いから、部屋の外でまた死んだんかと思うたくらいや」

 

 部屋の中には、既に何人もの先客がいた。

 

 髪型は全員違うが髭とサングラスが何故かお揃いの三人の男達。

 上半身裸の男。線の細い優男。ケバケバしい髪色と化粧の二人の女。

 

 そして、それらの中心に立つ、スキンヘッドの日に焼けた男と坊主頭の鋭い眼光の男。

 

「室谷はん……島木はん……」

 

 木場と言われた男がゆっくりと立ち上がると、室谷と呼ばれた坊主頭の男に顔面に向かって真っ黒のスーツケースを放り投げられた。

 

「がふっ」

「ぶはは! がふっ、やて、がふっ」

「どんくさいわー。こいつ、今回こそ死ぬんちゃうか? 賭ける? 俺、一万」

「うわっ、お前ずっこいぞー。なら俺も死ぬ方に五万~」

「お前、さっきパチスロですって財布空っぽやんけ」

 

 木場の醜態に後ろの三人組が笑うが、木場はそんな彼等を睨み付けることすら出来ず、気色悪い愛想笑いを浮かべる。

 そんな自分に再び情けなさが込み上げてくるが、室谷は「ええ加減脱げい。お前の粗末なモンなんか誰も見とらん」と言いながら、「それよりそこ退け。邪魔や」と言って、木場を退かす。

 

「――始まるで」

 

 そう、室谷が呟いた途端、無機質なワンルームに不気味な音楽が流れ出す。

 

「…………え? なんやこれ? 新喜劇?」

 

 初々しいリアクションだ。自分が初めてこの部屋を訪れた時と、全く同じ反応を見せる見ない顔。きっと、怯えたような表情を見せる彼等が、室谷が言っていた新入りなのだろう。

 

 見ない顔も、見たことがある顔も、自分以外のこの部屋にいる人間達は、けれど全員――同じ服を着ている。

 

 同じ衣を――黒い衣を、纏っている。

 機械的な、SF風の、光沢を放つ全身スーツ。

 

「な、なんなんやこれは! こんな――『GANTZ』のコスプレさせて……これから何が始まるんや!!」

 

 そう、あの日――世界が変わった日。

 全世界にその存在を明らかにした、対星人用特殊部隊――『GANTZ』。

 

「あー? そんなん決まってるやん。だって、()()()()G()A()N()T()Z()()()()()()

 

 怯えた表情など欠片も見せない。

 余裕と、愉悦と、そして圧倒的な自信で満ちた表情の――この部屋に染まりきった、先住民は言う。

 

「楽しい、楽しい――星人(バケモン)退治や」

 

 愉快な音楽が終わり、黒い球体の表面に、真っ黒な狩人の今宵の獲物が表示される。

 

 

【てめえ達はこいつをヤッつけてくだちい】

 

《ぬらりひょん》

 

 

「さぁ――いくで」

 

 先住民達の表情は笑みで統一され、新住民達の表情は不安の一色になる。

 

 そんな中、木場だけは唯一。

 とぼとぼと、まるで隠れるように、一人で廊下に出て全裸になって着替えを始めた。

 

――『GANTZ(おれたち)が――世界を救ってみせる』

 

「…………」

 

 そう全世界に向けて、かつてと同じく黒い剣を掲げて宣言した、あの世界で肩を並べて、いつの間にか手の届かない場所で輝き続ける男と、同じ色の服に、袖を通す。

 

 人間を超人にするスーパースーツ。

 だけど、木場には――それは、あまりにも重い色だった。

 

「……わいは――」

 

 そして、かつて戦士であった、けれど戦士ではなくなった、そして未だに戦士ではない男は、何も出来ない戦場へと送られた。

 

 かつてのように剣も持たず――勿論、なくした正義も持たずに。

 




人間達の知らない裏側で、化物達も動き始める。

近付いている、“くらいまっくす”に向かって。

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