『あやせ――俺が、悪かった』
高坂京介は、真っ直ぐに、深々と、年下の女子高生に頭を下げた。
だが、そのまま、いつまで経っても、頭を上げることは出来なかった。
頭を下げた――謝罪をした、罪を謝った相手が、目の前の女子高生が未だに何も言ってこないことも、何も言ってはくれないことも理由の一つだったが――何より。
「……………ッ」
京介は、頭を下げたまま、ズボンで掌の汗を拭った。
何よりも――京介は、怖かった。
目の前の女の子と顔を合わせることが――合わせる顔が、なさ過ぎて。
沈黙に耐えきれず、己の中に荒れ狂う、謝罪をしても尚も衰えることのない、むしろ更に暴虐に荒れ狂う――罪悪感に、耐えきれず。
そのままもう一度、何かを吐き出すように謝罪しようとした所で――未だ頭を上げられていない京介の頭頂部に。
淡々と、冷たい――感情の篭らない、美少女の声が降り注いだ。
『…………本当に――』
――愚かですね、あなたは。
それは、この日、初めて新垣あやせが見せた、高坂京介に対してみせた、感情のような何かだった。
京介は身体を震わせたが――未だ、頭は上げない。
だからこそ、気付かなかった。この男は、未だ、何も気付けていなかった。
新垣あやせが――高坂京介を、そのみっともなく下げられた頭を、見てすらいなかったことに。
あやせの冷たい眼差しは、真っ直ぐに――京介の隣に立っている、呆然と立ち尽くしている、無表情だけれど、必死に無表情を作ろうとしている。
泣きそうな少女に、向けられているということに。
『……本当に、愚かです。……あなたは』
五更瑠璃は、そんなあやせの冷たい眼差しに、今にも壊れそうな儚い笑みを返す。
あやせはそんな瑠璃に口を開きかけたが、何かを呑み込むように口を閉じて、今度こそ京介を見下ろして『……頭を上げてください』とあっさりと許可した。
京介は、それでもすぐには頭を上げようとしなかったが、やがてゆっくりと頭を上げて、ベンチに座るあやせを見下ろした。
『――それで? 今のは何に対しての謝罪ですか?』
『…………』
京介は、あやせの飄々とした明るい声での言葉に、口ごもる。だが――。
『まぁ、何でもいいですけど。
――もう、これで終わりにしましょう。
と、言って、あやせはベンチから立ち上がった。
『…………は?』
京介が、そして瑠璃が呆然とする中、あやせは、その真っ黒な手を京介に差し出し、言う。
『――仲直りの握手です。今まで、ありがとうございました。これから、それぞれお互いに頑張っていきましょう』
それは、明るい笑顔で突き付けられた、圧倒的な拒絶だった。
京介は真っ黒な手と、真っ黒な笑顔を向けられて――どうして桐乃が、自分の妹が、あれほどまでに傷ついて帰って来たのかを余すところなく理解した。
こんなものを向けられたら――誰だって、そうなる。
京介は、その手を取らず、小さな声で、情けなく言った。
『…………やっぱり……許しては、もらえないよな』
『何を言っているんですか。許すって言っているじゃないですか。そもそも何のことだかは分かりませんけど』
あやせはニコニコと笑いながら、俯く京介に黒い手を差し出し続ける。
その手を頑なに取ろうとしない京介に――あやせは。
ぼそりと、小さく、殺意を込めて――言った。
『やっぱりわたし――あなたのことが、大嫌いです』
京介は息を吞んで顔を上げる。
だが、そこにはもう、あやせは居らず。
あやせは、そのまま京介と瑠璃の間を抜けて、彼等に背中を見せていた。
『――っ! あやせ!』
『
あなたはもう――わたしにはいりません。
そして、あやせは、首だけで振り返り、京介に向かって、小さく口だけ笑みを作りながら言った。
『最後の忠告です。女の子を泣かせる男は――最低ですよ』
あやせは、そう
京介と瑠璃は、あやせの後を追いかけることすら出来ず。
黒い手を取れなかった京介の右手は、今にも血が出そうな程に固く握り締められ。
『…………ちくしょう…………ッ』
そう、小さく、血を吐くように、京介は吐き出した。
『………………』
瑠璃は、本当に愚かだと、思いながら。
何も言わず、ただゆっくりと、その右手を優しく握った。
+++
次の日の朝、高坂京介は家を飛び出した。
高坂桐乃は未だに部屋から降りてくることもなく、五更三姉妹に両親の迎えが来た時、見送りをしてくれたのは高坂夫妻のみだった。
瑠璃は、松戸の自宅へと向かう車の中で、昨夜の記者会見の映像を思い返す。
『こんばんは、新垣あやせです。よろしくお願いします』
流れるように、彼女は無数のカメラの中でお辞儀をした。
あの地獄の池袋のと同じ、漆黒の近未来的SFスーツを身に纏いながら。
彼女は、「星人」という化物と戦う、政府公認の特殊部隊の一員として、記者会見に参列していた。
ほんの数か月前まで、間違いなく自分達と同じ日常を生きていた筈の彼女が、どうしてそんな立場になっているのかは分からない。
共に記者会見のテレビ中継を観ていた京介は、歯を食い縛り、拳を握り締めていた。
そんな中、五更瑠璃は――かつて、彼女に黒猫と呼ばれていた少女は。
『子供である身で、戦場に出て戦うことをどう思うか――そういったご質問でしたね。勿論、怖いです。ですが『星人』は既に、わたし達にとって身近な恐怖となりつつあります。誰かが対処しなくてはならない脅威です。そんな存在に対抗出来る立場に選ばれた以上、全力を尽くして精進していきたいと考えています』
抜け出した筈の同志に、かつて共に戦った恋敵の姿に。
ギュッとクッションを抱き締めて、胸中に表現不可能な感情を渦巻かせて。
その時――テレビの向こう側で。あやせは、ピタリと、言葉を止めた。
記者達が少し騒めき始める中、あやせは、天使の微笑みに、ほんの少し――堕天使を垣間見させて。
不特定多数に向けた仮面の笑顔ではなく――確固たる誰かに向けた言葉を紡ぎ始める。
『――突然ですが、皆さんにとって、正義とは何でしょうか?』
黒猫は――そして、京介も、静かに息を吞んだ。
記者会見場の空気の変化も感じ取りつつ、二人はあやせの言葉に引き込まれていく。
『わたしにとって正義とは――正しいことです』
二人の知る新垣あやせという少女は、間違いを憎む少女だった。
己が信じる正しいこと――それから外れるものを許せない少女だった。
そして、間違いを正すべく、どんな相手に対しても、戦える強さを持った少女だった。
例え、それが親友でも。例え、それが初恋の相手でも。
京介が、黒猫が、真っ直ぐにテレビを見詰める中、新垣あやせは――宣言した。
『わたしは――逃げない』
その言葉に、京介は目を見開き――そして、唇を噛み締めた。
そして――彼女は。
黒猫は――五更瑠璃は。
『わたしは貫きます。わたしは曲がりません。わたしは――折れません。真っ直ぐに、己の正しさを、『本物』だと信じて戦います』
カメラに向かって真っ直ぐに伸びる、その視線に、突き刺されるような錯覚を覚えていた。
あやせのこの言葉が、自分に向けられたものだとは、黒猫は確信が持てない。
高坂京介かもしれない。高坂桐乃かもしれない。
もしかしたら――だが、それでも。
黒猫の瞳からは、一筋の涙が、真っ直ぐに零れ落ちた。
『見ていてください――
黒猫は――五更瑠璃は。
抱き締めていたクッションを退けて、その姿を目に焼き付けた。
その美しく、強く――卒業した、元恋敵を。
『『
瑠璃は、小さく――けれど、力強く。
窓の外を流れる千葉の風景を眺めながら、誰かに向かって呟いた。
「…………私も、強く……ならなければね」
それは、一人の少女の、初恋に対する宣誓の言葉だった。
+++
リムジンは、学校からある程度離れた、人目に付かない場所で停車した。
「おそらく、正門の前はマスコミでいっぱいだろうから。裏門の方にはマスコミを近づけないように対処してあるよ」
「――ありがとうございます」
弥子は、先にリムジンから降りて、扉を開けながらエスコートするようにして言った。
あやせは、それに対し冷淡に礼を言った後、そのまま少し動きを止めて、緩慢に車外に出ながら言う。
「……何も、言わないんですか?」
と。それに対し、弥子は。
「ん? 何が?」
あやせと入れ替わるようにしてリムジン内に戻り、弥子の顔を見ずに、顔を俯かせたままで問うてきたあやせに、笑顔のままそう返す。
車外に出たあやせは、やはり弥子の方を見ないまま――自身が通う高校を見上げたまま、まるで懺悔でもするように。
「……この期に及んで、こうして学校に通うことを――望むことに、です」
望んでいるのか――あやせは自分のことながら、果たしてよく分からなかった。
昨夜、会見後において。
防衛大臣である小町小吉から――今後のことを聞かされて。
その上で尚、学校に通うこと、専用の住居に移り住むことなどの選択を求められた。
桐ケ谷和人は、学校には通わず、専用住居への転居を迷いなく決めて。
東条英虎は、学校には通わず、だが専用の住居へも移り住まないことを選び。
潮田渚は、学校に通い続けて、転居もしないという道を取って。
皆、それぞれがこの状況に向き合った上で、それが自分にとってのベストだと、それが己の望むことだと、そう判断し――自分の意思で、決断して。
だが――自分は?
新垣あやせのこの選択は、果たして本当に自分が望んだことなのだろうか?
和人は日常元の世界の全てを切り捨て、特殊部隊を率いるリーダーとして、全ての時間を『GANTZ』へと注ぐ決断をして。
東条は煩わしい
渚は変化していく状況に流されず、普通の中学生としての義務を果たす少年として、全ての時間を日常の維持へと傾けることを――だが、私は?
新垣あやせは――どんな意思の元で、どんなヴィジョンを描いて、この選択をしたのだろうか。
こんな――中途半端な、選択をしたのだろうか。
(家族は切り捨て、家を捨てた癖に――こうして、日常を捨てきれていない)
女子高生を、捨てきれていない。
良い娘であることを放棄したのに、制服を脱ぐことは出来ていない。
黒衣の戦闘服の上に、セーラー服を身に纏う――今のこのファッションこそ、新垣あやせという少女の、中途半端さを象徴しているように思えた。
(……未練があるのでしょうか? ……学校に? ……日常に? ……それとも――)
あやせは、空を眺めながら――唇を噛み締める。
もうすぐ始まろうとしている夏の日差しを遮る木の葉によって――空の色は、よく見えなかった。
「――女子高生が、高校に通うのは、当たり前のことだよ」
桂木弥子は、そう言って車体の外に顔を出しながら、あやせを見詰める。
弥子の位置からは、木の葉で日差しが遮られていないのか――眩しそうに、目を細めて。
私も普通の女子高生だったとは言い難いけれど――と、前置きをした上で、弥子は、年下の女の子に、後輩の戦士に言う。
「どんなに世界が滅亡の危機に瀕していても、星人と戦う宿命を背負わされた戦士でも――青春を謳歌する権利はあるよ。女子高生でいられるのは、人生でたったの三年間なんだから」
日常を過ごしたっていい。
戦士じゃない時間を持ったっていい。
セーラー服を脱がなくたっていい。
捨てられないものは――捨てなくていい。
諦めたくないものは――諦めなくていい。
迷ったっていい。悩んだっていい。
それが世界の滅亡より、ずっとちっぽけな悩みでも――世界の滅亡よりも、ずっと深刻に迷って、悩んで、頭を抱えたっていい。
間違ったって、いい。
それが――高校生の特権なんだから。
「それが、青春だよ。それが――人間だよ」
桂木弥子は、眩しそうに目を細めつつも――決して目を瞑ることなく、あやせを見た。
大きな瞳で、あやせの心を――探るように、偵うかがうように。
見守るように――見詰めていた。
「――いってらっしゃい」
弥子は、そう、あやせを送り出す。
家族を切り捨てた少女に、そう、家族のような言葉で。
「――いってきます」
風が吹き、木の葉が騒めく。
一歩を踏み出す。
影の下から出て降り注ぐのは、目を潰さんばかりの眩しい日差し。
もうすぐ、夏が来る――夏休みが来る。
女子高生でいられる、タイムリミットが、刻々と近づく。
見上げた空は――突き抜けんばかりの、青空だった。
+++
バタンと、女子高生を送り出した元女子高生は、リムジンの扉を閉めて、エアコンの効いた車内へと戻った。
そっか、もうエアコンの季節かと、そんなことを思いながら一息を吐く弥子に、運転席から声が届く。
「――相変わらず、人の心を動かすのが上手いですね」
運転手を務めていた怜悧な美女――アイと呼ばれる女性は、バックミラー越しに、その『探偵』を無表情に見詰めながら言った。
人の心を――探り、偵う。
かつて、お互いの相棒を伴って対峙し――対決し――敗北を喫した、名探偵。
かつての相棒であり、かつての主人でもあった存在の仇でもあり――そして今の相棒であり、今の主人でもある、この少女は。
女子高生でなくなった今でも――『探偵』であり続ける少女は。
誰よりも化物という存在を知っていながら、誰よりも人間の可能性を信じる少女は。
「……私はただ、女子高生の悩み相談に乗っただけですよ」
色々あるんだよー、女子高生には――と、言って微笑む弥子を、およそ普通とは縁遠い女子高生だった少女の言葉を、アイは無表情で受け止めて、思う。
桂木弥子。
どこにでもいる普通の女子高生――だった、少女。
およそ全てのガンツ戦士と同様に、ある日、突然に日常を奪われ、非日常に引き摺り込まれた少女。
そして、およそ、今現在生き残っているガンツ戦士と同様に――非日常に対する適応力に優れ過ぎていた少女。
逆境にあって非常に強く、度胸、耐久力、大きな壁に対する対応力――およそ、優秀な戦士に必要な能力を持ち合わせていてしまった少女。
日常に置いて、およそ発掘され得ない才能を持ち合わし――その才能を引き出されてしまった少女。
何処にでもいるが、誰にも見つからない筈だった少女。
それはきっと、全てのガンツ戦士に当て嵌まる運命で――悲劇で。
(……だからこそ、彼女なのでしょう)
アイは、そう思いながら、何かに向かって瞑目する――と。
「――大丈夫だよ、アイさん」
そう、再び後部座席から、弥子がアイに向かって声を掛ける。
「……あやせちゃんは、きっとカタストロフィの主力になる。主役の一人になる。……きっと、私達の目的にも、力になってくれるから」
まるで、全ての真実を見透かす――『探偵』のように言う。
人の心を、探り、偵う――探偵。
本当に――。
(――この少女に賭けた、私は間違っていなかった)
アイは、再び一度瞑目すると――バックミラー越しではなく、直接振り返り、現主人である少女に向かって言った。
助手席から、とある『アイテム』を取って、突き付けながら。
「――それでは、時間ですね。早くしないと、初日から遅刻してしまいますよ」
「…………うぅ………ねぇ、やっぱりその計画無理があると思うんだけど。本当にやらなきゃ――」
「ダメです。大丈夫ですよ。昨日の試着の時は、『……あれ? もしかして、まだいけるかも――』とか言っていたじゃないですか」
「うわぁあああああああああ!! それ忘れてって言ったじゃないですかぁぁああ!!」
先程までの名探偵めいた雰囲気は消え失せて、途端に情けなく頭を振り乱して悶え苦しむ現主人に。
(……もしかしたら、間違っていたのかも……そう思えてきますね)
内心で呆れ返りながら、鉄のように無表情な美女は。
小さく、口角を上げて微笑んでいた。
+++
もうすぐ夏休み――とは言え、まだそれは大分先のこと。
それに、このようなイベントは、普通は夏休み明けの、二学期の初日にある定番イベントである筈だろう。
だが、それでも、それはあくまで統計学的確率――あるいは物語的な都合というもので、実際には様々な要因や理由の元に、一年を通して起こり得るものなのだろう。
それは日常の中の非日常的なイベントで、日常に飽き飽きしているごく普通の幸せな学生達にとっては、ちょっとばかし胸が躍る瞬間で。
ましてや、それが――美少女であるなら、猶更で。
「――それでは、転校生を紹介する」
担任の教師がそう言って、件の転校生に自己紹介を促した。
新垣あやせは、最早、シャーペンを持っていることすら出来ず、思わずポロリと机の下に落としてしまう。
そんな音を掻き消すように、その転校生は涙目で――やけくそ気味に笑顔で言った。
「初めまして! 桂木弥子です! 趣味はご飯を食べること! 特技は大食い! 好きなものは白米! 座右の銘はまず白米ありき! 今年いっぱいの短い間だけど、どうか仲良くしてくださいね!」
ひょこひょこと、一房の三つ編みが手を上げるように、あるいは引き攣った頬と連動するように動く。
あ……あ……と水面に口を出す金魚のようにパクパクと声を漏らしていたあやせは、前の席に座る親友の鼓膜をぶち破るべく、立ち上がって大声で叫んだ。
「何を――してるんですかアナタはぁぁあああああああああああああ!!!」
(こっちが聞きたいわぁぁああああああああああああああああああ!!!)
桂木弥子は、頬と
新垣あやせが手放せなかった、最後の日常ともいえる高校生活。
それもどうやら、普通の学園ものとはなりそうもなく、一波乱も二波乱も巻き起こりそうだったが――。
――それは、また別の、ただの青春の
堕天使の決意は闇猫を動かし、少女は探偵と共に青春の一頁を紡ぎ出す。