桐ケ谷和人にとって――結城明日奈とは。
果たして、どのような存在なのだろうか。
キリトにとって、アスナとは――希望だった。
――たとえ怪物に負けて死んでも、このゲーム……この世界には負けたくない。
薄暗い
その余りにも眩い可能性に――桐ケ谷和人は、キリトは目を奪われた。そして、きっと心も。
自分のような鍍金ではない、本物の輝く才能。
彼女ならきっと、自分では届かない場所にまで辿り着ける。
キリトにとってアスナとは、正しく希望だった。
キリトにとって、アスナとは――奇跡だった。
――わたしも……わたしも、絶対に君を守る。これから永遠に守り続けるから。
ずっと、他人を拒絶し続け、逃げ続けていた自分に出来た――生まれて初めての、己よりも大切な存在。
孤独を癒し、心を救ってくれた人。心を通わせてくれた人。こんな自分を好きだと、守ると言ってくれた女性。
あの日、心奪われた輝きが、こんな自分を見初めてくれた。
見たこともない景色を見せてくれた。愛してくれた――奇跡だった。
キリトにとってアスナとは、正しく奇跡だった。
ならば――桐ケ谷和人にとって、結城明日奈とは――何なのか。
――わたしこそ、ゴメンね。……君をずっと、永遠に守り続けるって約束……また、守れなかった
結城明日奈にとって、桐ケ谷和人とは――何なのか。
――『俺の命は君のものだ、アスナ。だから君のために使う』
だから、きっと、もう。
一緒には、いられない。
+++
『――はじめまして。桐ヶ谷和人です』
その少年は、無数のフラッシュが浴びせかけられる中、淡々と口を開いた。
漆黒の近未来的な全身スーツを身に纏い、マイクを片手に語る少年は――その瞳を、真っ黒に染めながら、言う。
『――昨夜、池袋において……夥しい程の、血が……流れました』
そんな少年を、彼女達は固唾を呑んで見詰めていた。
テレビ画面の向こう側で、探し求めていた少年が――無数の大人達の前で、俯きながら言葉を紡ぐ姿を。
『現在、判明しているだけで死者は数百名……千にも届くかもしれないと。負傷者も含めれば、その人数は――計り知れません』
少女達は、誰一人、ただ一言も発することはなかった。
勝手知ったる少年が、思いを寄せる少年が、ついこの間まで、共に笑い合っていた少年が。
静かに、淡々と――戦場の地獄を語る姿に、何も言うことが出来なかった。
『――全ては、自分達の力不足です。……俺達が、守れなかった生命です……』
少女達は――信じられなかった。
あそこに立っているのは、カメラを向けられているのは、本当に自分達が知っている少年なのか?
少女達の疑問を晴らすように――黒い少年は顔を上げた。
それは、少女達の知らない
『……今回の事件により、『星人』は隠れ潜むことを止めました。これからは、今までのように一般人に見つからない夜の中だけではなく、人目も憚らずに人間を襲う『星人』も……現れるかもしれません』
それは、自分達の知らない、少年の姿だった。
それは、覚悟を決めた、男の表情だった。
少女達は、皆、静かに――涙を、流していた。
『――約束します』
少年は、桐ケ谷和人は――宣誓する。
それは、少女達には――
『――例え、どれだけ強い敵が相手でも。例え、どれだけ恐ろしい化物が相手でも。例え、どれだけ凶悪な怪物が相手でも』
少年は、剣を握る。
それは日常を捨て、戦場へと向かう剣士の姿。
今、再び、
『――この剣で、その全てを斬り祓ってみせると』
桐ケ谷直葉は、綾野珪子は、瞳いっぱいに涙を溜めて嗚咽を漏らし。
篠崎里香は、あの少年が再び、あのような瞳で剣を取ってしまったことに、ゆっくりと瞑目し。
朝田詩乃は、桐ケ谷和人が夜空のように美しい黒剣を掲げる様に「…………馬鹿」と悲し気に吐き捨て。
そして、明日奈は――結城明日奈は。
『『
勇者の決意に、英雄の誕生に、報道陣が沸き立つ歓声の中で。
直葉も、珪子も、里香も、そして詩乃も、この時ばかりは誰も、明日奈の表情を見ていた者はいなかった。
眩いフラッシュに晒され、光の中にいる和人に向かって―――明日奈は。
何も言わず、誰にも言わず、ゆっくりと―――真っ暗な和人の私室へと戻っていった。
そして――翌朝。
明日奈は、愛娘からのモーニングコールによって目を覚ます。
ユイは言った。
キリトの行方が、見つかったと。
+++
桐ケ谷和人は――否。
かつて鋼鉄の浮遊城を沈め、かつて世界樹の鳥籠を壊し、かつて死に囚われた亡霊を滅し、かつて歌姫の最後の祈りを叶えた――黒の剣士キリトは。
たった一人で、輝く湖面と濃緑の常緑樹が広がる絶景に背を向けて、木造の手摺に背を預けて――閉ざされた空を見上げている。
ここは、キリトにとって最も幸福な時間を過ごした場所であり、キリトにとって最も過酷な時間を過ごした場所でもあった。
今となっては、ここはあくまでその時の場所を再現した模倣空間に過ぎないが――見える景色も、流れる時間も、まるであの時のように穏やかで。
(……あくまで、逃避に過ぎないという意味でも……あの時と同じだな)
けれど、例え逃避だとしても、キリトにとって――あの時間は間違いなく幸福と呼べる一時だった。
アインクラッド第二十二層。
外周部に近い南西エリアの、森に囲まれ、湖にほど近い場所にある――小さなログハウス。
キリトは――桐ケ谷和人は、己にとって、最も幸せな思い出が詰まったこの場所で。
穏やかな笑みを浮かべながら、かつて感じていた穏やかな時間を甘受するように。
目を瞑って、かつてのあの時と同じように――愛しい娘の名前を呼んだ。
「――やあ、ユイ。ユイなら、誰よりも早く俺がここにいることに気付いてくれると思ったよ」
ひらりと、己の頭に乗った小さな可愛らしい妖精は。
そのままジャンプするように浮遊すると、かつてこの家で、家族三人で過ごしていたあの時と同じ姿で――十歳にも満たないが、確かな重みを持った人間の少女の姿へと変身する。
「――パパ!」
濡れたような黒髪を靡かせるようにターンして、朝露の少女はパパと呼んだ少年を抱き締める。
キリトはそんな少女の重みを愛おしげに受け止め、己の腹に顔を埋める少女を抱き締めながら――ログインしてきた
「――やあ、アスナ」
「…………キリトくん」
奇しくも、二日続けてALOにて水妖精のアバターと対面することになったが、やはり、心中を満たす感情はまるで違う。
クリスハイトに対していた時にはまるで抱かなかった、暖かで、切なくて、愛おしい感情が――黒い剣士の胸の中に注ぎ込まれていく。
これは己の影妖精のアバターが感じているデータなのか、それとも、ジェルベッドの上で横たわっている桐ケ谷和人の身体が感じている感情なのか。
愛おしい。失いたくない。手放したくない。ずっと、この手で、この胸で――。
「…………アスナ」
キリトは、その腕を開いて、アスナの名を呼んだ。
ユイはキリトにしがみ付きながらも、その身体の正面のスペースを開けて、母と慕う少女に向かって微笑みかける。
アスナは、その瞳に涙を浮かべさせて、ログハウスの木張りの床を軽やかに蹴って、世界で最も愛する少年の元へと向かう。
そして、華奢ながら、アスナにとっては世界で最も頼もしい腕の中へと飛び込んだ。
「…………キリト君……ッ! ……キリト君ッッ!」
「……ごめん、アスナ。……心配掛けた」
「本当だよっ! ……ずっと……あの時からずっと……心配、したんだからっ!」
キリトは、同じように涙目で見上げてくるユイの頭を撫でて、その涙を指で拭う。
そして、アスナを更に強く抱き締め――腕の中に感じる温かさを、その愛おしさを、刻み込むように目を瞑る。
守りたいものを、失いたくないものを、その温もりを――決して忘れないように。
「……キリト君、教えて。今、何が起きてるの? 君は、今度はどんな事態に巻き込まれてるの?」
アスナは潤んだ瞳で、少年の腕の中から少年の顔を見上げる。
その瞳は涙で濡れていて、湖面から反射した光を受けているかのように――力強く、輝いて。
キリトはまるで、胸を締め付けられるような、激しい痛みと愛おしさを覚えて。
(……そうだ。分かってた。君なら――俺よりもずっと強い君なら、きっとそうしようとするってことは)
だからこそ――分かってしまう。次に、この少女が言おうとしている言葉が。
だからこそ――分かってしまう。その少女の言葉を聞いた時、きっと自分は――負けてしまうであろうことは。
――『大丈夫だ、アスナ。俺はずっと、君の傍にいるから』
だからこそ――キリトは――桐ケ谷和人は。
「――キリト君。私も、君の力に――ッ!?」
その言葉を封じ込む為に、強引に、荒々しく――アスナの唇を奪った。
「――!? ――ッ!」
長く――永い、キス。
それは、およそ英雄らしくない、間違った行いだったけれど。
強く、正しい少女の言葉を封じ込める為の、卑怯で、姑息な口付けだったけれど。
黒い剣士は、静かに目を瞑り、溢れんばかりのありったけの愛情を――そのキスに込めていて。
閃光の少女は、初めは戸惑い、身を硬直させていたけれど、重ねた唇から少年の想いが伝わると、やがて目を瞑り、少年の首の後ろに手を回し、己が体を剣士に預けた。
そんな様子を、朝露の少女は両手で口を押えながら、頬を紅潮させて見守っていると――。
キリトは、アスナよりも少し早く目を開けて、マナー違反とは分かっているが、少女が目を瞑って己に唇を差し出す表情を――その美しい少女を、この世で何よりも守りたい、その笑顔を。
強く、強く、強く――切り裂くように、刻み込んだ。
やがて、アスナが顔を下ろしながらも、体はキリトから離さないままに、真っ赤な顔で言う。
「……い、いきなりなにするのよ、キリトく――」
「――アスナ」
キリトは、優しくアスナの肩を掴んで――そっと、その身体を離した。
「……………え?」
先程までの幸福感が、まるで唐突に削ぎ落されたように――寒くなる。
アスナが呆然とする中で、キリトは、尚も穏やかな微笑みのままで言う。
「……アスナ。……俺は、君のことを――愛してる」
真摯に、真っ直ぐに、突き刺すように告げられた、愛の言葉。
本当に愛おしげに、今にも泣きだしそうな表情で告げられた言葉に――アスナは。
「…………いや」
小さく頭を振り、再び瞳に涙を溢れさせながら、か細い声を出す。
しかし、キリトは。
口にしている自分が、その言の葉一枚一枚に突き殺されているように痛々しい笑みを浮かべながらも、その言葉を紡ぐのを止めない。
己を、そして何よりも、目の前の少女を傷つける言葉を――紡ぐのを止めない。
「……でも、ゴメン。俺は、君のことを連れてはいけない。……俺は、そんなに強くないから。……俺は、それでも――強くならなくちゃいけないから」
――信じてた。
――ううん、信じてる。これまでも、これからも。
――きみは私のヒーロー。いつでも、助けにきてくれるって。
それはかつて、鳥籠の姫から鍍金の勇者へと贈られた言葉。
何の力もない偽物の英雄が、それでもこの少女の為ならばと、鍍金を纏い続ける覚悟を固めることを誓った言葉。
例え、全てを救えないちっぽけな力でも――それでも、この少女の涙を拭い続けるのは自分でありたいと、そう決意した、あの戦いを。
(――ごめん……すまない)
キリトは――黒の剣士は――桐ケ谷和人は。
英雄と、なる為に――剥がれぬ鍍金を纏う為に。
世界を救う為に――この世で最も大事なものを切り捨てる。
「――別れよう」
キリトは、アスナの手を取って――本当に、穏やかな笑みで告げた。
アスナは、まるで何かに戒められるかのように、全く身体を動かすことが出来ずに。
世界が突然、真っ暗になり――視界が突然、真っ黒になって。
「…………やだ………やだよ……キリトくん……こんなの……やだよ――ッ!?」
キリトの手が、アスナから離れる。
そして、その時、初めて――アスナの手に、指輪が握らされていることが分かった。
「キリトく――ッ!?」
黒い剣士の身体が、この世界から消えていく。
ALOから――VRMMOの世界から。
この思い出のログハウスから、穏やかな笑顔の瞳から――涙を、一筋、流して。
黒い剣士の流したその涙は、夜空に浮かぶ流星のようだった。
「パパーー!!」
動けないアスナの代わりとばかりに、ユイがキリトに向かって手を伸ばす。
アスナも手を伸ばした。けれど、足はまるで凍り付いたかのように動かない。
視界が滲む。呼吸が上手く出来ない。
嘘だ――嘘だ――嘘だ。
滲んでいく視界が、揺らいでいく世界が、必死に現実を否定していく。
「……ずっと……一緒って……わたしを――」
置いて、いかないで……――涙に塗れながら、小さな手を伸ばして求める、最愛の少女と愛娘。
キリトは、そんな二人に向かって、何か残そうとし――口を閉じた。
たった二言――それは、かつて、誰もいない公園で息を引き取った、無力な少年の遺言だった。
――アスナ、ごめん。
「……………………ぃゃ」
そして、ユイの――アスナの手が、届く前に。
キリトは――ALOからログアウトした。
「いやぁぁぁぁぁああああああああああああああああああああああ!!」
かつて、世界で最も幸福だった場所に響く、少女の絶叫。
だが、どれだけ泣いても、どれだけ叫んでも。
どれだけ少女が――その名前を、呼び続けても。
彼女の
拭ってくれる者のいない涙は、いつまでもとめどなく溢れ続けた――少女の悲しみを吐き出すように。
世界が英雄を得たその日、少女は英雄を失った。
何処にでもいる普通の少年は、世界を救う英雄となる為。
この世で最も大切なものから背を向けて、剣と世界を背負い、今、再び戦争へと向かう。