その大樹は、まるで世界そのものを支えている柱であるかのようだった。
幹の直径――四メル。全長はおよそ七十メルもあるらしい。
ついこの間、身長が一メル半を超えたばかりの少年にとって、それは正しく化物そのものだった。
いや――柱というよりは、これは屋根に近いか。
異様な体格に相応しい雄大な枝葉を持つこの大樹は、降り注ぐ陽神の恵みの一切を貪り、少年にただ薄暗い闇ばかりを齎す。
本来ならば、夏らしい気持ちのいい青が広がっている筈の空は――今の少年にはまるで見えない。
こうして僅かばかりの逃避を行っている間にも、掌を傷だらけにしながら刻み続けた切れ目を、大樹はみるみる内に回復させていく。そして、また――少年から自由が遠ざかっていく。
「……………」
それを透き通った翡翠の瞳で見詰めていた少年は、亜麻色の柔らかい髪から垂れる汗を拭い――斧を握った。
重い――と、少年は思う。
竜の骨で出来ていると言われる由緒正しきこの斧を、これほど重く感じるようになったのはいつのことだろうか、と。
まだ、たったの一年だ。
朝日が昇り、夕陽が沈むまで――この鉄の壁が如き大樹の幹に、ひたすらに竜骨の斧を叩き付け続ける毎日。
この《天職》を命じられてから――只管に、愚直に。
先人達が三百年もの歴史を掛けて、未だ四分の一にしか到達し得ない果てしない道のりを、小さな体で歩み始めてから。
まだ――たったの一年。
「………………」
僕は、何をしているんだろう――と、少年は思った。
この《巨大樹の刻み手》という《天職》から解放される条件は、ただ一つ――この悪魔のような大樹を、この手で斬り倒す、それだけだ。
三百年以上、およそ六代を掛けて歩み続けてきた道のり、その果てに到達することだけだ。
それはつまり、十一才の己の一生は、この大樹に徒労を叩き付けて終わる――そういう《天職》だと、そうして費やされる《天命》なのだと、そう決定したということだった。そう終了したということだった。
「………………」
汗で滑る斧の柄を握り直す。
後、何度、この斧を振るえばいいのだろう。
後、何度、無限の彼方に向かって一歩を進めばいいのだろう。
斧を一度振るう度に――斧が重くなっていく。
一歩足を進める度に――足が、鉛のように、重くなっていく。
「――――ッ!」
ガキンッ、と。
まるで八つ当たりのように振るった斧は、大樹の切れ目のほんの少し上の樹皮に命中し――少年の腕から斧が弾き飛ばされた。
甲高い音を立てて転がっていく斧を、だが、樹皮と同じく己が瞳の中にも火花を瞬かせた少年は、己の身体を貫く電撃のような痺れによって動けない。
涙が出た。
痛くてなのか、情けなくてなのか――どうしてなのかは、分かることを拒んだ。
「………………っ!」
ここは――暗い。
夏なのに――とても、寒い。
「――おいおい、一年もやってるのに上達しないな。見てろ。こいつはこうやって振るうんだ」
すると、暗い影の中から、白い斧を拾い上げた――黒い少年が現れた。
翡翠の瞳に涙を浮かべる亜麻色髪の少年の横を通り過ぎ「ちょっと下がってろ、危ないから」と言って下がらせ――にやりと笑って、斧を握り、振り上げ、叩き下ろす。
単純ながらも熟練の技術を必要とする作業だ。
呼吸、拍子、速度、体重移動。
ほんの少しでもずれると先程の亜麻色の少年のように容赦ない反撃を食らうことになる一連の動作を、だが黒い少年は、粗削りながらも見事にこなして――斧の刃を大樹の切れ目へと叩き付ける。
高く澄んだ、心地よい音。
それは、竜の骨で作られたとされる重厚な斧の威力を、余すところなく発揮した証明の響きだった。
「――よっと。どんなもんだ?」
黒い影の中、白い斧を担いで得意げな笑顔と共に振り返った――黒髪、黒瞳の、黒い少年の明るい笑顔に。
亜麻色の髪に翡翠の瞳の少年は、呆然と口を開けながらも――その表情を、優しい苦笑へと変えて。
「……そりゃ、あれだけ長いことサボればね。休憩は十分かい? ――相棒」
亜麻色髪の少年は、黒い少年の肩を突きながら言う。
黒い少年は大げさに痛がりながらも、表情に微笑みを絶やさなかった。
すると――薄暗い影の向こうから。
夏の日差しに照らされる――光の中から。
眩い金色を輝かせる髪と、空と同じような青色のスカートの少女が。
籐かごを持った手を振りながら、二人の少年に向かって呼び掛けた。
それは、とても暑い夏の日の思い出。
知らない筈の、だけど決して忘れられない思い出。
美しく輝くその世界の情景は――まるで誰かの夢であるかのようで。
少年と、少年と、少女は。
いつまでもこんな日が続きますようにと、まるで夢見る子供のように願った。
+++
「おはよう、キリトくん。いい夢は見られたかな?」
目覚めとして聞くにはおよそ最悪の部類に入る声によって、夢からの覚醒を促された少年は、眩しい日差しを目に当てられたかのような不機嫌そうな表情で緩慢に起床した。
「…………菊岡さん?」
余程、深い眠りに着いていたのか――中々完全な覚醒に至らない頭に不思議な感情を抱きながらも、上半身を起こし、右膝を立てて、額を手で押さえながら、思考を無理矢理に加速させ、纏めていく。
まず――自分が横になっていたのは、あの体を包み込むようなジェルベッドだった。
つい数時間前までのALO会談において、そしてかつてGGOでのBoB参戦時の時において、幾度となく世話になった横になる身体の負担を減らす器具。
(…………病院?)
辺りを見渡す。
ここは――病院ですらない。
明るい陽射しなど何処にもない。
只管に薄暗い、怪しげな密室空間だった。
病院というよりは――まるで、秘密の研究所のような。
「……菊岡さん。ここは何処だ?」
「どうやら大分意識がはっきりしてきたようだね」
自分が未だ黒いスーツを着用していること、そして制御部に触れてそれが機能を十全に発揮できる状態であることを確認しながら――桐ケ谷和人は、自分が手術台に横たわる患者ならば、まるでその臓物を観察する闇医者のように己を見下ろす男に向かって、鋭く睨み付けながら問い掛ける。
ごく普通のビジネススーツを纏った、この薄暗い空間がまるで生息地であるかのように良く似合う男は――菊岡誠二郎は、黒い少年からの質問に、両手を広げながら言った。
「ようこそ――
+++
「…………ラース?」
和人は菊岡の言葉に眉根を寄せる。
初めて聞く単語――だが、どこかで、聞き覚えがあるような……。
菊岡は、そんな和人の様子を真意の伺えない微笑みを持って眺め、微笑みを消して真剣な表情を作った後、和人に現状の説明を開始した。
「桐ケ谷君、君はあの【英雄会見】の後、他のメンバーや小町防衛大臣らと今後の話し合いをした――その直後、突如として意識を失って倒れたんだ。覚えているかい?」
「……俺が、倒れた?」
和人は額を押さえていた手で己の髪を掴みながら、より深く記憶を反芻する。
……覚えている。
確か、あの会見の後、自分達は別の一室で再び集められ、大まかな今後の計画を知らされ――
日常を切り捨て、非日常に身を委ねるか――それとも、残された僅かな時間だけでも、日常を守り抜くか。
そして自分は――完全に日常を切り捨て、非日常に立ち向かう決断をした。
かつて、はじまりの街にたった一人の友人を置き去りにし、咆哮と共に次の街へと走り出した、あの時のように。
二年もの間、己が胸を掻き毟り続けたあの時と同じ決断を、キリトは――桐ケ谷和人は、選択した。
(……結局、これが俺という人間の、いくら取り繕っても変えられない本質で――本性なんだろうな)
己の醜悪なエゴイズムを突き付けられながらも、和人は更に記憶を掘り下げる。
その後、自分達四人は、各自に別れて解散し、自宅へと『転送』される手筈になっていた。
自分だけは、更に小町防衛大臣と共に首相執務室に移動し、蛭間総理大臣を交えていくつか打ち合わせをしたが、それを終えて――菊岡と個人的な、具体的には
「…………そうか。俺は、あの時――」
「ああ。もう既に、時刻は朝となっている。一晩、それはもうぐっすりと眠っていたよ」
きっと、色々あって張り詰めていた緊張で、
確かに和人は、一昨日の吸血鬼・氷川の襲撃から始まり、ゆびわ星人戦、
それらの合間にも、睡眠どころか碌に休息すら取っていなかった。
気絶するように倒れてもおかしくはない――しかし、よりにもよって、
「……そうか。余計な手間を掛けさせて悪かったな、菊岡さん」
「なに、君は思ったよりも軽かったからね。そんなに手間は掛からなかったよ。これからは
「それと、次の質問なんだが――」
和人は、菊岡のへらへらとした表情からの言葉を一蹴し――両断し、鋭く見据え、右手の親指を己の背後に突き付けながら言う。
「――ここは何処だ? そして、これは何なんだ?」
己が横たわっていたジェルベッド――その背後には、直方体があった。
剥き出しのアルミ板により構成された――正しく、機械。
薄暗く、無機質な周囲の様相も相まって、まるで工場機械のようだった。
直方体の下部には、怪物の口のようにぽっかりと空いた穴がある。
それは己が横たわっていたジェルベッドの延長線上にあり、病院にある
恐らくは、己が目覚めるまで、そのようにして使用していたであろうことも――使用されていたのだということも。
「――答えろよ、菊岡さん。本人に無許可で実験台にしたんだ。それを聞くくらいの権利は、
菊岡は、一度わざとらしく溜息を吐いてから「……事前に説明しなかったのは謝る。だけど、君は気絶していたし、これを使うのが一番手っ取り早かったんだ」と肩を竦めてから。
「それに、遅かれ早かれ、君にはこの研究に協力してもらおうと思っていたからね」
と、嘯く。
和人の視線が見る見るうちに鋭くなっていることに気付いていながらも、菊岡は尚ももったいぶるように――けれど、どこか真っ直ぐに、どこかを見詰めながら言った。
「キリト君――君は、魂とは、何だと思う?」
+++
桐ケ谷和人のことを、再び『キリト』と呼称しながらの質問に、だが和人は僅かに目線を細めながらも、その質問を噛み砕くように繰り返した。
「――魂?」
「心――と、言い換えてもいい」
魂――心。
およそ、この物々しく科学的な空間に、そして目の前の男に相応しくないように思える単語に対する問い掛けに、和人は訝しく思いながらも、己の答えを静かに答える。
「――人の……記憶……感情……精神……」
「そうだ。そのようなものが一般的な答えで、ポピュラーな認識だろう。それを踏まえて更に質問なんだが――人間の心、魂、そのようなものがあるとして、それはどういう形で、人間の何処にあると思う?」
和人は、己の胸を無意識に掴みながら、菊岡を見上げる。
菊岡は、まるで銃口を突き付けるように、己の
「――脳だ。人間に心というものがあるとすれば、それは脳にあると、
和人は鋭く、切っ先の如き眼差しを向ける。
菊岡は、真意の伺えない微笑みで、それを飄々と受け止めながら続けた。
「だが、それを証明出来た人間は、どの時代のどんな国にも居なかった。人間の思考や感情が電気信号による伝達現象であるということを解明し、記憶のメカニズムをも解明しても――それが心だと、そう証明出来た科学者も哲学者も存在しなかった」
銃口を下ろすように、菊岡は手を下ろし――そして。
菊岡は背後を振り向き――このどこかの一室のように無機質な空間の、中心に鎮座する黒い球体に向かって、語り掛けるように言った。
「だが、十年前――《天子》は、【真理】によって、『心』は……『魂』は、約21グラムの物質だという答えを授かったんだ」
和人は僅かに瞠目し、菊岡のその視線の先を見詰める。
菊岡は、薄暗い室内に、ぼんやりと浮かび上がる黒球に――感情の見えない瞳を向けながら。
「魂の、心の――存在が証明された瞬間だった」
和人はその視線を菊岡に移す。
菊岡は、肩を竦めながら、だが和人に背中を向けたまま、おどけるように軽い口調で言う。
「僕は、とある機関で心の研究のようなものを長年続けていてね。……まあ、正確には違うんだが。とにかく、人間の魂のようなものを、科学的に研究していたんだ。……だからこそ、衝撃だったよ。まるで検索エンジンを使って音声検索するみたいに、ポンと答えを無機質に齎されたんだから――それに、その【真理】が正しいことは、少なくとも【
ゆっくりと、菊岡誠二郎は振り返った。
桐ケ谷和人へ――漆黒の戦闘スーツを纏った、“
「《天子》は、【真理】からの神託によって『
それこそが、【真理】の唱える心の理論が、魂の存在証明が正しいことの何よりの証拠だ――菊岡は言った。
和人は――真正面から、お前は作り出された
「…………」
動じず、ただ拳を握り締めるだけで、真正面から受け止めた。
「――言葉が過ぎたね。けれど、気にすることはない。肉体を構成する物質も、魂を構成する物質さえも同質な
少なくとも僕は、君を初めて出会った時からずっと継続して、同じ
「俺は、この場所と、この機械について聞きたいんだ。俺は今度は一体、どんなふざけた人体実験に巻き込まれたんだ?」
「すまない。だが、それらの質問に答える上で、『心』と『魂』は避けられない概念なんだ」
菊岡は表情を苦笑に変えて言う。
「とにかく、心というものの存在は
正確には、完全に失われるわけではない。
菊岡誠二郎が進めていた『研究』は、いわば『心』を持つ無人兵器を作製することにある――心の研究は、その為のプロセスに過ぎない。
だが、だからこそ、菊岡の研究には心の
必要なのは、解答ではなく、解法――心を扱う技術そのものなのだから。
「だから、僕達は真理的に証明されたそれらを、科学的に証明しようと考えたんだ。存在するのは証明された。ならば、後はそれが人間の身体の何処に、どのような形で存在するのかを突き止めて、科学的に運用できるようにすることを目指した」
不親切なことに、【真理】はその存在証明と、それを扱う機械はプレゼントしてくれたけど、それらの仕組みに関する
それは一般家庭に家電を贈るようなもので、どういった仕組みで動いているのかはよく分からないが、何となく扱うことは出来るといった程度の――だが、恐らくはそれだけでも、受け手の身の丈に合わない破格の贈り物だった筈。
大部分の人間は、それだけで満足しているのだろう。恐れている者さえもいるだろう――人間には過ぎた代物だと。
しかし――それでも。
人間という知恵の悪魔の中には、未知や謎を前にしたとき、それを暴こうと手を伸ばしてしまう者達もいる。
それが、科学者であり、研究者という人種だ――それが、明らかに人の身に余る所業だと理解していても。
知識欲の前には容易く人間性さえ捨てて、飢えを満たすこと以外考えられない獣と化す。
和人は、そんな化物を見詰める瞳で菊岡を見据える。
心という物を人為的に操ると堂々と宣言する、薄暗い闇の中で微笑む怪物を。
菊岡は、和人のそんな視線に気付いていながらも、仮面のような不変の表情のまま続けた。
「そして――僕らは、そんな中でとある一つの仮説に目を付けた。それは――」
――量子脳力学。
菊岡が語るそれは、前世紀、とあるイギリスの学者が著書の中で提唱した、脳の情報処理に関する一説。
要約すると、こうだ。
脳を形成する脳細胞には《マイクロチューブ》と呼ばれる中空の管が骨格として存在し、その中には光子が封じ込められている。
この光の揺らぎこそが、人間の心の本質であるという理論である。
「――僕らは、これこそが21gの心の正体だと仮定した」
脳の中を満たす光――それこそが、心……人間の魂と呼ばれる物質であると、目の前の菊岡誠二郎は語る。
和人の鋭い視線を受けながら菊岡は、そのまま真っ直ぐに、和人の背後の巨大な直方体を指差した。
「そして、この
和人は、今度こそ、無表情を崩して瞠目し、開口した。
そのままバッと背後を振り向き、己を咥え込んでいたであろう銀色の直方体を見上げ、呆然といった様相で呟く。
「……フルダイブ……マシン……だと――これが?」
確かに、初代フルダイブ実験機、かのナーブギアの前身のマシンも、当初はこれほどの大きさだったらしいとは聞いたことがあるが――だが、何故だ?
次世代フルダイブマシンとやらが、どうして此処に? 菊岡誠二郎の元に?
さっきまで得意げに話していた心や魂と何の関係がある? ガンツと何の関係が?
心と呼ばれる光子――《フラクトライト》にアクセス? 《ソウル・トランスレーター》?
分からない――ここは、一体なんだ? これは、一体なんだ?
「――――ッッ!?」
菊岡誠二郎は、一体何を企んでいる? ガンツは、CIONは、一体何を未だに隠している?
これから、終焉へと向かうこの世界で、一体何が起きようとしているんだ?
「――ッ! 菊岡さん、アンタは一体――」
「これは――この、《ソウル・トランスレーター》は」
和人が振り向き様に問い詰めようとするのを遮るように――菊岡は。
この薄暗い空間に溶け込ませるような声で、あの微笑みのままに静かに言った。
「かつて、あの『茅場昌彦』がプロトタイプを作成し、そして己が理想の完成形として追い求めたとされる――彼の夢の終着点となる筈だったマシンだよ」
今度、こそ。
桐ケ谷和人は――かつて、キリトだった少年は、絶句した。
「……………な、」
喉が枯れ果てたように、言葉が出ない。
生唾を呑み込むが、全く渇きが癒えない。まるで張り付いたかのように気道が開かない。
衝撃が――脳を打ち抜く。
そんな和人に、菊岡は銀色の直方体を見上げながら、ただ一人に向かって淡々と言った。
「魔王『ヒースクリフ』が、勇者『キリト』に敗れた後、自身の脳をスキャンして自殺したことは知っているね? 何を隠そう、その時に使われたマシンこそが、この《ソウル・トランスレーター》のプロトタイプだったんだよ」
魔王の命を奪った
魔王が夢を託した
茅場昌彦の棺桶であり、方舟となった――終着点。
それが――《ソウル・トランスレーター》。
VRマシンの――いや、茅場昌彦の、夢想の完成形。
「この機械は《メディキュボイド》を原型として作られているからね。医療目的での使用も可能なんだ。あの『会見』の直後だったから、病院に運ぶよりも、このマシンによるケアの方が早いと、そう判断した。その為に、君にこれを使用したんだ」
事後承諾となってしまい、結果として人体実験となってしまったことは事実だ。すまない――と、菊岡は和人に頭を下げたが、和人はそれに対し「……下手な建前はよせよ、菊岡さん」と切り捨てる。
病院に運ぶも何も、ここに連れてくる際に、和人に対して『転送』が使われたことは明らかだ。そもそも、そうやって帰宅する手筈だったのだから。
転送が使用可能ならば、家にだって病院だって連れていく気になれば何処にでも瞬時に連れていけただろう。肉体的損傷はそもそも転送自体で
それをしなかったということは、和人が倒れたことを幸いとし、口実とした為だ。
菊岡が自身で言っていた通り、彼の中で和人をこの『計画』へと巻き込むのは決定事項だった――後は、遅いか早いかの問題だけだった。
「――アンタは、俺に何をさせたいんだ? 菊岡さん」
和人は、片膝を立てながら、彼に背を向けながら――銀色の直方体を見上げながら。
昨日のALO会談の時と、同じ言葉を菊岡にぶつける。
菊岡は、そんな冷たい瞳の和人に対し、妖しい光を放つ瞳を持って言った。
「――君も興味があるだろう? かの天才、茅場昌彦が追い求めた、夢の極地とも言えるマシン、そして『世界』の完成に。……君は、ある日突然、唐突にこの黒い球体の物語に巻き込まれたと思っているのかもしれないが……違う。全ては、繋がっていることなんだ」
桐ケ谷和人が――キリトだった時から。
かの浮遊城へと囚われたあの日から――否、もしかしたら。
桐ケ谷和人が――キリトとなる、あの日よりも前から。
あの雑誌を広げ、茅場昌彦という男を知ったあの日から、あの魔王に、あの天才に――憧憬を抱いた、あの日から。
あの背中に向かって、手を伸ばしたあの日から――キリトは――桐ケ谷和人は。
「君は、とっくに昔から、この物語の登場人物なんだよ――いや、主役の一人といっても過言じゃない」
菊岡誠二郎は、薄暗い怪しい世界で、微笑みながら言った。
両手を伸ばして、口元だけが歪んだ笑顔で――求めた。
「助けてくれ、キリト君。君の助けが必要だ。僕らは『英雄』を求めているんだ」
君が、最後のピースなんだ――闇に紛れ、真っ黒に塗り潰されていく菊岡に。
和人は、どこかへと細められた冷たい眼差しを向けながら、その『計画』の名を、脳に刻んだ。
「――『プロジェクト・アリシゼーション』。君には、この計画においても主役を担ってもらうことになる」
「……それで? 菊岡さんは、そのプロジェクトとやらで、結局のところ何を目指してるんだ?」
その壮大そうな計画は、一体どこへ繋がっているのだと。
和人が凍える程に冷たく淡々と返した言葉に、菊岡は真っ黒な火を灯した瞳を隠そうともせずに言った。
「新天地の、創造だよ」
魔王の夢の終着点たる場所で、漆黒の英雄は、真っ黒に笑う男の野望に呑み込まれる。