某国――某所。
部屋の全容すら掴めない、どれくらいの広さなのかも把握できない程に、真っ黒な闇の中。
ぼんやりと淡い光を放つ
近未来的なデザインの漆黒のマスクに闇と同化するかのような漆黒のマントの男が座る横には、羽と虹が組み合わされたマークが浮かび上がっているモニタが用意されている。
『そろそろ、いい時間じゃないかな?』
「――分かった。お前がそう言うのなら、始めよう」
仮面の男――《CEO》は。
モニタから発せられる《天子》の言葉に了承し、やはり漆黒のユニフォームと手袋によって隠された細い手を伸ばして、その細く長い指で、パチンと小気味いい音を暗闇に響かせた。
途端――六角形の残る五辺に、眩い電子線が照射される。
昨夜と同じく、仮面の男の右隣の辺には二本、残る四辺にはそれぞれ一本ずつの電子線。
異なるのは、CEOの横のモニタが初めから虹と羽が組み合わされたマークを浮かび上がらせているのと同じように、
CEOが座する『本部』の辺の左隣――『
電子線によって金髪オールバックの屈強な男が召喚されるのと同時に、その隣の席に用意されていた星条旗が映し出されていたモニタ画面が、カールがかった金髪にビジネススーツのふくよかな男の姿を映し出す。
『はっはっは、この真っ暗な会議室も久しぶりだな! 商売人の立場から言わせてもらえれば、こんな気分が滅入るオフィスでは捗る仕事も捗らんぞ! 少しは俺の職場を見習うがいい! 世界で最も有名な
非戦士
アメリカ合衆国 大統領
エドワード・サンダース
「……はぁ。アナタはもはや会社ではなく、国家を率いる立場なのだと自覚してくださいと、私は何度申し上げれば良いのか……他の国、いえ、他の支部のトップの前で、何度も説教などさせないでもらいたいのですがね」
戦士ランキング 枠外
アメリカ合衆国 国防長官
ドナテロ・K・デイヴス
US支部の代表と副代表の、そんな会話の――更に、その左隣の辺から。
電子線により召喚された雪のような肌に黒髪ボブカットのガラの悪い女の声と、その隣の席に置かれたロシア国旗を映していた画面からモニタに姿を現した、氷のように冷たく無色な、けれど瞳のみはルビーのように赤い美少年の声が届く。
「――ハッ。相変わらず、笑わせてくれるなぁ、アメリカさんよぉ。おたくの職場よりも黒い場所なんざぁ、この悪趣味真っ暗ルーム以外ねぇだろうがよ。まぁ、世界のトップが集まる会議室なんざぁ、世界で一番ドス黒い場所に決まってるか。笑えねぇな、いや、一周回って笑えるかもな」
ジュリア・ロマノフ
『笑えないよ、ジュリア。まったく、何一つ。それに
非戦士
???
そして、RU支部の代表と副代表の――更に、その左隣の辺。
漆黒の仮面の男と虹と羽を組み合わせたモニタ――CION本部の辺の、ちょうど真正面に位置する対辺には。
一筋の電子線が二つの席の後方に照射され、その前の二つの席には、二つのモニタが用意されていた。
電子線にて召喚された戦士は、この闇よりも尚も黒い、漆黒の修道着を身に纏い、片手で首から下げた十字架を、もう片方の手で聖書を抱えながら厳粛に呟く。
そんな戦士の言葉に、欧州旗が映し出されていた二つのモニタから姿を現した、二人の人物――緋色の聖職者着を身に纏う緋色髪の眼鏡を掛けた女性と、真っ白な法衣を身に纏う白髪白髭の老人は言った。
「……さて。それはそれとして、此度はどういった了見か。見た所、この場所に呼ばれるべき正当な代表や副官が、今回はきちんと呼ばれているようだが。先も言ったが、私は本来、この会議室に呼ばれる立場ではない筈なのだがね」
グレン・ブックマン
『私が頼んだのよ。EU支部の、実質的な経営者はあなただから。出来れば
非戦士
真理教会 枢機卿“憑代”
アリアナ・ガンダリン
『…………さて、うちの若いのがそう言っておるが、儂には、未だ其方らの思惑は掴めぬ。この老いぼれにも分かるよう、色々と説明してはくれぬか? 此度の会合、そして昨夜の会見の――意義についてじゃ』
非戦士
真理教会 教皇 及び バチカン真国統治者
アルフォース・オリーヴァ・ガンダリン
唯一、三種類の声色が発せられたEU支部の、その左隣の辺からは。
一筋の電子線と一つのモニタが用意されており、電子線によって召喚されたのは艶やかな黒髪の若々しい少年、そして、モニタに映し出されたのは血のように赤いネクタイに仮面のような笑顔を張り付けた純黒スーツの男だった。
「――それは、今宵も変わらず、彼等に関することだろう。海を隔てた大陸の我が国にも、当然、大混乱は伝播している。非常に迷惑で、腹立たしいことだ。心当たりがないとは言わせないぞ。――日本」
戦士ランキング 枠外
火炎コンツェルン 会長秘書
『まぁまぁまぁまぁ! そういきり立つな、我が優秀なる右腕よ! お前の猛禽類のような鋭き眼を向けられては、喋られるものも喋れなくなるというものだ――いや、だがまぁ、しかし、かつて世界を救った英雄たる御身らには、このような心配こそ無礼に当たるのかな? 親愛なる親友達よ。先程の若者の無礼に気分を損ねていなければ、吾輩の顔に免じて、どうか英雄の心内とやらを、我々凡人にも明かしてはもらえないかね?』
非戦士
火炎コンツェルン 会長
少年の猛禽類のような鋭い眼が、男の底の見えない真っ暗な笑みが、CN支部に与えられた辺の左隣――CION本部の担当辺の右隣の辺へと向けられる。
そして、その二人に釣られるように、
小さな島国の代表者達に――向けられる。
「……………」
「……………」
与えられた席に、並んで腰を掛ける男達は。
鍛えられた肉体と顎髭が特徴的な男――
低い背に肥満体のように見える醜男――
しばし、それらを受け入れるように黙考しながら、やがて小吉が、ぽつりと小さく言葉を発した。
「――我が国の失態に、
「最善策? 最愚策の間違いだろう、日出ずる国の代表者よ」
否。
「確かに、星人の存在については、いずれは表世界にも周知させることは避けられなかっただろう。だが、それは間違いなく、今ではなかった。これから我々は、あまりにも危うい綱渡りの半年を送らなければならなくなったのだぞ? あなた達は自国の尻拭いに、世界中を巻き込んだのだ」
「言うなよ、中国の。いくら日本のことが嫌いだからって、言ってることが殆ど言い掛かりだぜ?」
呂公瑾の言葉を茶化すように――ガラの悪いボブカットの美女、RU支部の副代表、ジュリア・ロマノフは、六角形のテーブルに足を上げながら言う。
「確かに、コイツ等のやらかしたことで世界は面白く滅茶苦茶になったが、それは昨夜にネタバレを食らってたことだろう?」
「その通りだ、呂公瑾。我々は昨夜の内に彼らの計画を明かされていた。その上で、君もその場で反対意見を出さなかった筈だ」
ジュリアの言葉に――更に屈強な体の金髪オールバックの白人、US支部の副代表、ドナテロ・K・デイヴスが、呂公瑾を諫めるように言う。
歴戦の国防長官の沈着な瞳と、ロシアンマフィアの凶悪な嘲笑に、思わず中国の年若き神童は息を吞みかける。
これだ――と、呂公瑾は思う。
昨夜も自分はJP支部のトップの二人が構築し、《CEO》が認めたという此度の【英雄会見】に、緊急招集された出席者達の中でただ一人反対を示そうとした――だが、しかし。
圧倒的に発言力がある《CEO》が既に了承の立場を示していること、他国も間接的に巻き込まれるとはいえ直接的に舞台となるのは日本であるということ、そして他ならぬ当事者である日本のトップが作戦立案者であること、そしてその《CEO》と日本のトップ達が旧知の戦友であることなど、様々な理由があるが――何より。
ジュリア曰く、文字通り世界のトップが集まる、この深淵の会議室にて――呂公瑾という少年は、余りにも若かった。
否――呂公瑾の他の出席者達が、余りにも怪物過ぎた。
(……いや、本来は、そうでなくてはおかしいのだ。……ここは、世界首脳会談の会議室なのだから)
呂公瑾は、昨夜のその場で、この怪物達を納得させられるだけの代案を提示することが出来なかった。
彼らの異様な雰囲気に呑まれた――そう言い訳をするのは簡単だが、それを許される立場ではないことを、この神童は既に誰よりも自覚している。
故に、ジュリアとドナテロが言うように、呂公瑾には既に【英雄会見】に対して批判できるような立場ではないのだ。ここで更に感情的になって非難することこそ、この会議室に置いての己の発言力を無駄に貶めることに他ならない。
「…………ッ」
ようやく手に入れた、この
手放すわけにはいかない。だが、このままでもいけない。
自分は、ただこの椅子に座ることが目的で、現場を離れたわけではない。戦場を変えたわけではない。
あの誓いは――あの約束は、この怪物の巣窟で、この怪物達を御することで。
世界を救ってこそ――果たされるものなのだから。
呂公瑾は、そう己を奮起させ、再び口を開こうとして――。
『――下らないじゃれ合いは、止めろ。君達は、私に何度同じことを言わせるつもりだ』
空気を凍らせるように、仮面の存在が機械音声を発した。
一切の表情が浮かがえない紫紺のスクリーンの中から、この世界で最も暗く、黒い会議室を見渡す《CEO》。
世界の代表者たる怪物達は、その存在の言葉に粛々と従うように、口を閉じ、皆一様に仮面の存在へと――その隣の虹と羽を組み合わせた
五つの支部に二つずつ用意された、その席(EU支部のみ二つの席の後ろに神父が立っているが)は――世界を征服する組織の頂点たる《
昨夜とは違い、
戦士ではない彼らは、扉も窓もないこの会議室に入ることは出来ない。
逆にいえば、それでもモニタによる参列を許すのは、彼ら各支部の代表者は、《CEO》を除く『主要幹部』と同様に、
正式なメンバーを招集した、世界の行末を決める【
『昨夜、小吉達によって開かれた【英雄会見】。それにより、我々CIONは【
小町小吉、蛭間一郎によって開かれた――【英雄会見】
それにより、世間は、世界は――『星人』、『
日出ずる国にて、白日の下に晒された――夜の世界。夜の地獄。
本来ならば、
『だが、昨夜も言った通り、想定外の時期だったが、想定内の事態だ。いずれこうなることは分かっていた。いずれこうならなければならないことは分かっていた。【
「しかし――幾つかのフェイズを飛び越えた事態になってしまった。それは確かだ」
『然り。故に、飛ばしてしまった
「カッ、部下に丸投げたぁ、頼もしい上司だな」
『私は君達を部下だと一度も思ったことはない。頼りになる仲間だと常に思っている』
物は言いようだな――と、ジュリアは吐き捨て、昨夜のように報告会とならないだけマシだろう。今度は一から我々の意見を聞いてくれるというのだから――と、ドナテロは静かに言う。
「……君はどうだ? まだ、何か言い足りないことはあるかね?」
「……起きてしまったことは仕方がない。これからのことについて議論を交わした方が建設的だということは、自分も理解している」
会議とは、そういう物であるべきなのだから――と、グレン神父の言葉に、呂公瑾はぽつりと返した。
「――感謝する」
その言葉に、小町小吉は頭を下げて答えた。
『おっと、これ以上、我が同盟国たるジャパンの英雄に頭を下げさせるわけにはいくまい。早速、会議を始めようじゃないか。世界の舵取りは、こうして机の上での言葉による話し合いで行われるべきだ。それが平和な世界というものなのだから。そうだろう、我が友人達よ』
US支部代表、アメリカ合衆国大統領、エドワード・サンダースはそう言って真っ暗な会議室を見渡す。
『その通りだな、合衆国大統領。言葉で解決できるのであれば、それに越したことはないと
RU支部代表、名も知れぬ無色透明な少年は、嫌いだという血のような赤色の瞳を押さえながら呟く。
『けれど、残念ながら、世界を守る為には血を流すことも必要です。流血のない世界を作り出す為には、必ず流血が伴うのも、また確か――』
EU支部副代表、血のように赤い聖者着を身に纏う、世界でただ一人の枢機卿たる修道女、アリアナ・ガンダリンは、そんな世界を誰よりも憂うかのように、悲しい瞳で手を組み祈りを捧げる。
『しかし、だからこそ――流れる血は、出来得る限り少なくするのが、我々の務めなのじゃ。儂のような老い先短い命ならばともかく、今もこの世界で生きる若者達に、出来る限り多くの幸いを残し、生を全うさせる為にも。我々は、世界に未来を届けなくてはならない』
EU支部代表、この世で最も神に近いとされる存在、真理を届ける教会の長たる教皇であり、世界で最も神に近い国の統治者でもある老人、アルフォース・オリーヴァ・ガンダリンは、文字通りの白眉に閉ざされようとしている瞳で言う。
『で、あるからこそ。であればこそ、だ。まずはあなた方の意見を、私は聞きたい。かつて終焉から未来を勝ち取り、世界に平和を齎した実績のある、御身らに。英雄たる存在に。此度の終焉へ、我々はどう立ち向かっていくべきなのか? この凡人に、どうかご教授願いたい』
CN支部代表、国家主席にすら絶大なる影響力を持つとされる、中華随一、否、世界随一の巨大コンツェルンを手中に収める現代の大商人、炎維新は、張り付けた仮面のような笑顔を、日本に、そして世界を支配する仮面に向けた。
「……ならば、まずはうちから、再び草案を提示しよう。あのような失態を犯してしまった直後で恐縮だが、だからこそ、それを取り返す為に、ない頭を捻って必死になって考えた。どうか聞いてくれ」
JP支部代表、雑草育ちの内閣総理大臣、孤立無援の若武者政治家、蛭間一郎は、そう言って席を立ちながら語り始める。
『この一郎の意見には、私は何も関知していない。だからこそ、遠慮なく意見をぶつけ合って欲しい。一からの修正案の提示も大歓迎だ』
そして、仮面の男――《CEO》が、そう言って聞きの姿勢に入ると。
隣の虹と羽の紋章を浮かび上がらせた画面が――CIONの象徴的頂点である《天子》の手製の機械音声が響いた。
『それじゃあ、有意義な
こうして、この世で最も暗く、最も黒い場所にて。
今日もまた、世界を動かす会議が始まった。
+++
日本国――千葉。
ぼんやりと朝日が差し込んで、ゆっくりと部屋の全容が明らかになっていく、薄暗い白の中。
一人の濁眼の社畜と、一人の眼鏡の社畜が、並んでソファに腰掛け座っていた。
コーヒーの湯気も、朝食の香りもない――冷え切った空間で。
何の喧騒にも満ちていない、ただ静寂だけが支配する場所で――何もない我が家で、二人はぼんやりと、何も言わずに天井を眺めていた。
「…………静かね」
「…………あぁ」
二人がこの家に居る時、記憶にある殆どがこのような無音の空間だった。
子供達が寝静まった頃に帰宅し、子供達が目覚めるよりも早く出勤しなくてはならない社畜達は、子供達の寝息だけが聞こえる支配するこの家で、いつも出来る限り音を立てずに行動しなくてはならなかった。
ああ、そうだ――いや、違った。
この場所は、この我が家は、このような無機質な無音の空間ではなかった。
子供達の寝息で、子供達の息遣いで満ちた、もっと幸せな静かさの空間だった。
このような痛いくらいに耳に突き刺さる無音では、このような冷たい場所では有り得なかった。
「…………寒い、わね」
「…………そうだな」
温度という面でいえば、帰ってくる時も出て行く時も真っ暗だったあの頃よりも、朝日が差し込んでいる今の方が暖かい筈なのに――今のこの家は、やっと帰ってこれた筈の我が家は、まるで火が消えたかのようだ。
暖かい火が。かけがえのない温もりが――失われた、抜け殻のようだ。
あれほど帰りたかった、温もりに溢れていた空間は、もうどこにもないのだと――そう突き付けてくるかのようだった。
「……あの子達が……小町が…………八幡が……この場所を――“家”にしてくれていたのね」
眼鏡の社畜は――比企谷
まるで寒さに震えるような、温もりを求めるような妻の行動に――預けられた男は、その肩を抱くようなことはせずに。
「………………あぁ」
ただ、何かを吐き出すように、何かを諦めるように――けれど、どこか諦めきれないように、そう呟いて。
そして、胸いっぱいの敗北感を、まるでなくならないそれを、ハッと笑って、諦めて吸い込むように――冷たい我が家の空気を、再び胸の中に取り込んで、言った。
「――ここはもう、“我が家”じゃねぇな」
そう言って、そう吐き捨てて、濁眼の社畜は――比企谷
雨音も「……そうね」と、その背に続き、眼鏡の奥の瞳を細めて、ずっと帰りたかった場所を眺める。
「……八幡も…………小町もいない……ここはもう、帰る場所じゃないわね」
晴空は、そんな雨音の呟きを聞きながら、床に置いていた鞄を背負う。
どれだけ掻き集めても、もう帰らないこの場所から、持ち出すべきと判別した大切なものは、鞄一つに収まる程度だった。
それは、それだけ――この場所に置いてあった思い出がそれだけだと、目に見えて形になったようで。
晴空は、再びハッと笑いかけるが――それを呑みこみ、雨音に言う。
「そんじゃあ、行くか。――仕事に」
いつも通り、身を粉にして、命を懸けて――戦争に行こうと。
社畜は、瞳を濁らせて、しょうがねぇなと溜息を吐いて、朝日を浴びながら出勤する。
生きる為に――働く。
「……そうね。八幡達のオリエンテーションも、結愛達に任せてしまったのだし。私達がサボるわけにはいかないわね」
雨音は、そんな父親の背中を見せる晴空に、小さく力無い微笑みを向けながら、P:GANTZを取り出そうとすると――。
「にゃー」
雨音の足元に、一匹の猫が寄り添っていた。
まるで温もりを分け与えるかのように、雨音のすらっとした足に己の頭を擦り付けている。
「……そうね。アナタが居たわね」
雨音は膝を折ってしゃがみ込みながら、ゴロゴロと甘えてくる飼い猫の頭を撫でる。
飼い猫といえるほどお世話をしてこなかったが――比企谷家のペットであるカマクラは、しっかりと雨音には懐いており、そして当然のように晴空には懐いていなかった。
「……ハッ。相変わらず、可愛くねぇ奴だぜ」
久しぶりの大黒柱の帰宅だというのに、一切寄り付いてこない、比企谷家のカーストランキングをきちんと見抜いているお猫様に、晴空が溜息を吐いていると、雨音はクスッと微笑ながら考える。
(……そっか。昨日の時点では、八幡は私達がCIONのメンバーだと知らなかったから……)
カマクラをそのまま家に置いていたのだろう。
普段滅多に帰らない晴空と雨音だが、それでも小町の死を知れば、何を差し置いてでもこの家に帰ってくるだろうと考えて。
雨音は、そんな、きっと自分達と同じく、小町を失ったこの家の冷たさの中に居たであろう、昨朝の息子のことを考えながら――カマクラを抱き上げて。
「…………本当は、ずっと……あなたを――ただの
静かに、微笑みを消して、雨音は――抱き上げたカマクラと目を合わせて、呟く。
「――『
瞬間――カマクラがピタッと静止し、その瞳の、色が変わる。
「……あなたは自由よ。好きに生きて。……今まで、小町と八幡と、一緒にいてくれて……本当にありがとう」
カマクラは、しばし、じっと雨音と見つめ合っていたが――やがて、「……にゃー」と鳴くと、光に包まれ――その姿を消した。
「…………いいのか? 勝手にこんなことをしても。虹鳴も天子も、何言うか分かんねぇぞ」
「…………いいのよ。……だって――」
晴空は、鞄を肩に掛けながら雨音にそう言葉を掛ける。
雨音は、そんな晴空に向かって振り返りながら――いたずらっぽい笑顔で、けれど、どこか涙を堪えるような表情で言う。
「
晴空は、そんな笑みを浮かべる雨音に、瞳に雫を浮かべる雨音に――ゆっくりと近づいて、ゆっくりと抱き締めた。
「…………」
そして、雨音は、晴空の耳元に口を寄せて、ほうと息を吐いて、こう呟く。
「――ねぇ、晴空。戻ったら」
一緒にシャワーを浴びましょう。
雨音は、甘えるように、そう言った。
そして、二筋の電子線が注がれ――晴空と雨音は、帰りたかった我が家から、帰るべき戦場へと姿を消えた。
+++
そして、誰もいなくなった――比企谷家の、すぐ外で。
電柱の上に立つ一匹の猫が、「――にゃー」と、小さく鳴くと。
その猫は、ひょいと電柱から飛び降りて――空中で、その姿を跡形もなく消し去る。
そして、その場所は――誰もいなくなった。
父も、母も、息子も、娘も、猫も――誰もいなくなった。
この家に、ただいまという家族も、おかえりという家族も、もう誰も――いない。
日常を失った家族は、非日常を日常とし――今日もそれぞれ、戦争に向かう。
にゃーと、どこからか、寂しげな猫の鳴き声が響いた。
こうして、日常パートを失った“物語”は、それでも止まることなく進み続ける。
終わりに向かって、加速し続け――家族は今日も、戦争に向かう。