比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

177 / 192
【いってらっしゃい】


Side戦争(ミッション)――⑧

 

 目を開けると、そこは慣れ親しんだ景色だった。

 

 いっそ“帰ってきた”という気持ちすら湧き起こる程に、俺の中に染み込んだ――いや、この『部屋』に、俺という存在が染み込んだのかもしれない。

 これまで、この小奇麗で無機質な『部屋』に、一体どれだけの人間の――どれだけの戦士の存在が染み込んできたのか。どれだけの生命を、この『部屋』は呑み込んできたのか。

 

 もう来ることはないと思っていた――この『黒い球体の部屋』には。

 

 俺は、全てが終わり――全てが始まった場所に。死んだ俺が、再び生まれ変わった場所に。

 無機質な黒球が鎮座する、『黒い球体の部屋』に、目が覚めたら立っていた。

 

 いつものことだった。

 

 そして、きっと――これが、最後の訪問だ。

 

「――八幡ッ!」

 

 部屋には先客がいた。黒い球体の他に、二人の黒衣の戦士がいた。

 

 一人は――今の俺の存在理由であり、世界で一番の大切な女性。

 恐らくは俺と同じ『試験』を受けたであろう、雪ノ下陽乃その人だった。

 

 陽乃さんは俺が目を開けるのと、ほぼ同時に俺を抱き締めてくる。

 ……流石は陽乃さんだ。俺よりもずっと早く、あの試験をクリアしていたのか。

 

「…………すいません、陽乃さん。遅くなりました」

「いいよ! それよりも――どうだった?」

 

 俺を抱き締めていた陽乃さんは、俺の肩に手を置いたまま、真剣な眼差しで俺の目を見る。

 ……そうか。てっきり、俺は合格されたら転送されるもんだと思ったが、この様子だと、不合格でもこの『部屋』には転送される仕様なのか。

 

 この『黒い球体の部屋』は、最後の審判の場所――いや、恐らくは結果はもう出ているだろうから、只の判決を言い渡される場所ということか。

 

 ……まぁ、俺の場合はあの《CEO》って明らかに親父以上に偉そうな立場の人(?)から言い渡されているし、たぶん大丈夫だろう。この分だと、陽乃さんはやはり合格しているようだしな。

 

「少なくとも、『試験』を見ていたという者からは、合格と言われましたね。これで不合格だったらとんだブラック企業です」

 

 まあ、ブラックはブラックだろうが。どこぞの黒ずくめの組織よりも真っ黒だろうが。

 俺がそういうと陽乃さんは再び満面な笑みを咲かせて、そのナイスバディを俺に押し付けてくる。

 

「わたしもだよ!」

「でしょうね。知ってました」

 

 どんな試験だろうと、この人を落とすようなそれは試験自体が欠陥品だろう。

 俺を合格とする時点で、欠陥試験である説得力は十分にあるが。

 

「……よかった。まだ、ずっと一緒に居られるね……」

 

 陽乃さんは、そういって俺を優しく――けれど、強く縋るように抱き締める。

 

 ……俺と一緒に来るということは、それは雪ノ下と離別する道を選ぶということだ。

 まだ生き返って一日――死んでから、およそ半年が経っている陽乃さんにとって、ここで俺とまで離別するということは、それは……考えたくもない可能性なのだろう。

 

「――――はい」

 

 やはり――俺は、死ねないな。

 

 雪ノ下雪乃を壊し、由比ヶ浜結衣を傷つけ、比企谷小町を殺した――俺は、雪ノ下陽乃を、孤独にするわけにはいかない。

 

 例え死んでも、俺は生きなければならない――この女性(ひと)の為に。

 

「……………ありがとうごさいました、陽乃さん」

「…………八幡?」

 

 俺は、優しく強く――そして、何よりの感謝を込めて、陽乃さんの柔らかい体を抱き締める。

 

 ……この人が、きっと俺を救ってくれた。

 

 死にたくて、死にたくて、死にたくてしょうがなかった俺を。

 

 逃げたくて、逃げ出したくて、何もかもを捨てて終わりたがっていた俺を。

 

 

『――あなたに、生きていて欲しいの』

 

『わたしはあなたを、助けない。わたしはあなたを、死なせないと――ここに誓うわ』

 

 

『――わたしの幸せは、あなたの幸せ。……だから、あなたの不幸を補って余るくらい、わたしは幸せになるわ。……だから、ずっと、わたしの隣で生きてね』

 

 

 あの言葉があったから、俺は生まれて初めて――親父に勝つことが出来た。

 

 あの言葉があったから、この人がここに居てくれたから――俺は。

 

 

「――陽乃さん」

「…………八幡」

 

 あの時、ここで――陽乃さんが、俺を救い上げてくれたように。

 

 俺は、この人に恩を返したい。この人の力に。この人の救いに。

 

 

 俺は――雪ノ下陽乃を、幸せにした――

 

 

「じ~~~~~~~~~」

 

 

「………………」

「………………」

「わくわく。わくわく。あ、おばさんに構わず続けて続けて! いやぁ~若いっていいなぁ~」

 

 …………俺と陽乃さんは、顔を赤くして近づけていた顔をそっと遠ざけた。

 

 …………いや。誰?

 

「「…………………はぁ」」

 

 陽乃さんと、図らずとも同時に深い溜息を漏らしてしまう。

 いや、この部屋に転送された瞬間、陽乃さんの他にも気配が、黒い影がいることは気が付いていた。

 

 だが、瞼を開けると同時に陽乃さんに抱き着かれ、陽乃さんの温もりやら匂いやら柔らかさやらを感じていると――その、なんだ、昨日のここであったあれやこれやを思い出して……こう、陽乃さんに対する感謝やら愛しさやらが溢れ出して、な。うっさい男子高校生の生存本能ナメんな。ついさっきまで殺し合ってたんだいつも通り死に掛けてたんだしょうがねぇだろ。

 

 なんか陽乃さんもバッチこいみたいな感じで目を瞑って唇を近づけてきたもんだから、色々と頭から吹っ飛んでたけど、そうだよね他人見てる前でイチャつくのよくないよね。知ってる! 奇跡的に彼女出来たからって浮かれまくる童貞って一番気持ち悪いって兄ちゃん言ってた! 俺兄ちゃんいねぇしついでに童貞でもねぇけど(ドヤ顔)。

 

 さて、現実を見ようか。

 思わぬ形で醜態を晒してしまったが、ここにいる、俺と陽乃さん以外のもう一人の黒衣。

 

 中坊か? ――だが、声からして女だった。

 ……母ちゃん達も後から来るって言ってたし、陽乃さんの『入隊試験』の『試験官』か?

 

 俺は散々脳内で言い訳を模索しながら、気不味さマックスで声を掛けてきた女の黒衣を見る。

 

 それは、今、俺が最も見たくない顔だった。

 

 合わせる顔のない、女の子だった。

 

 

「――――っ!? …………由比、ヶ浜……?」

 

 

 俺が――昨夜。

 

 この世で最も傲慢で、この世で最も醜悪な手段で――解放した、女の子。

 傷つけ続けて、押し付け続けて、背負わせ続けて――逃げ続けた、女の子。

 

 由比ヶ浜結衣。

 俺が失った日常の、俺がぶち壊した日常の、その象徴たる素敵な女の子が。

 

 真っ黒な衣を纏って、見たことのない笑顔を浮かべている。

 

「――――っっ!!」

 

 俺の心に真っ黒な絶望が急速に広がる。

 

 何でだ? どうして? なんで由比ヶ浜が? 此処に居る? 黒衣を着ている? 俺を見て笑っている? 俺のことを知っている? 俺のことを思い出している? 俺のことを忘れていない? 何でだ? どうして? 何が原因だ? 何が起きている? 

 

――こいつは、誰だ?

 

「……誰だ、アンタ?」

 

 俺がそう呟くと、目の前の由比ヶ浜のようなナニカは、ニヤリと――俺の知らない顔で笑った。

 

 ……違う。コイツは、由比ヶ浜じゃない。

 余りにも面影が強かったからか、思わず由比ヶ浜と見間違いかけたが、よく見れば違う。別人だ。背も、髪も違うし、体つきもより大人びている。

 

 そう――大人。

 本人がそう口走ったようにおばさんと言うほど老けては見えないが、由比ヶ浜と比べると十分にお姉さんとは表現できる。

 

 まさか――と、俺は陽乃さんを見る。雪ノ下の姉である、彼女を。

 

 陽乃さんは、複雑な表情を浮かべていた。

 ……もしかして、本当に……?

 

「…………――――っ!?」

「ふーん。君が噂のヒッキーくんか。思ったよりも可愛い目をしてるね」

 

 そんな懊悩する俺を、いつの間にか斜め下のアングルから覗き上げていた彼女は、ギョッとして一歩後ずさった俺を見てクスクスと笑い。

 

 由比ヶ浜とそっくりな――けれど、由比ヶ浜が終ぞ見せなかった、冷たい眼差しで俺を見据えながら言う。

 

「初めまして、ヒッキーくん。あたしの名前は、由比ヶ浜結愛(ゆあ)。世界一可愛い結衣ちゃんのママの妹なんだ。叔母さんって呼んだらぶっ殺すよ」

 

 そう、由比ヶ浜結愛は、由比ヶ浜結衣の母方の妹にあたる――由比ヶ浜の家族は。

 

 気安い笑みで――けれど、冷たい眼差しと声色で。

 大切な家族に、消えない傷跡を刻むまで傷つけ続けた、俺という加害者に向かって、満面に笑い言う。

 

 元来、攻撃的な威嚇の意味合いを持つ――笑顔を作って、殺意を向ける。

 

「あたしのことは気安く由比ヶ浜さんって呼んでね」

 

 比企谷晴空(はると)。比企谷雨音(あお)

 その二人に続いて、俺の前に姿を見せた――由比ヶ浜結愛という黒衣の戦士。

 

 

――『――――ッッ!! お兄ちゃん!! お兄ちゃぁぁぁあああああん!!!』

 

――『……帰って、きて。……ずっと、待ってるから。……いつまでだって、ずっと、ずっと……あたし、待ってるから!』

 

 

 それは――まるで。

 

 忘れるなと――何かが、世界が、俺にそう、突き付けるかのようだった。

 

(…………言われるまでもねぇよ)

 

 俺は、自分の瞳が見る見る内に腐っていくのを自覚した。

 

 忘れることなど、出来る筈もないのに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 その後、陽乃さんと由比ヶ浜結愛は、自分達がこの『部屋』に来てから俺が来るまでの一部始終を語ってくれた。

 

 必然的にその内容は、俺が見逃した午後六時からの『記者会見』の内容についてとなったのだが。

 というか、陽乃さんは俺とほぼ同時刻に『入隊試験』が開始となったのにも関わらず、およそ10分で試験をクリアしたらしい。……流石というか、相変わらずというか、何というか、だ。

 

 何でも、ガンツの表面をテレビ代わりにして、この『部屋』で途中から見ていたらしい。っていうか、今も点いてる。急な引っ越しで段ボール開ける前にテレビを床に直置きして見てるみたいな状態みたいになってる。……ガンツ。

 

 だが、10分程度の遅れしかないということは、その殆どを把握出来たということで――。

 

「――で、どう思うかな? ヒッキーくん」

「……どう思うと言われましても」

 

 粗方、二人が視聴できた限りのこれまでの記者会見の情報を俺に伝え終えた由比ヶ浜結愛は、そう俺に感想を求めてくる。

 

 ……感想ね。

 元から全ての真実が白日の下に晒されるなど思ってはいなかったが、思った以上には思い切った、というのが素直な第一印象か。

 

 日本政府が会見を開くという時点で政府が真っ黒に染まっていることは百も承知だったが――少なくとも、話を聞く限り、総理大臣と防衛大臣はかなり黒いな。恐らくは、現場を知ってる戦士経験者だろう。

 

 蛭間一郎といえば、受け継いだ人脈も後ろ盾も血筋もないままに、裸一貫で総理大臣まで上り詰めた泥臭い政治家として知られている。

 それ故に政界には敵が多く味方は少ないが、それが逆に汚い政界の中で堂々と戦う若武者というイメージが付き、国民の信頼は高かった。

 

 小町小吉は、そんな蛭間の数少ない盟友として知られている。

 一切の政治経験はなく、自衛隊や防衛省の現場で実績を積み重ね、総理である蛭間の大抜擢により防衛大臣へと任命された人物。

 

 蛭間は最大与党『日本党』党首でありながら、己の個人的親友である小町小吉を始め、憲法上の最大可能人数である9名もの『民間人閣僚』を任命している。

 

 これは野党だけでなく与党内からも『お友達内閣』と揶揄され、批判の対象となることが多いが、その9名の大臣は、皮肉にも政治家が勤めていたこれまでの内閣の大臣よりも遥かに仕事が出来ると評判だった。

 

 そして、まるで定期的に話題を提供しなくてはいけないルールでもあるのかと思う程に明らかになる政界のスキャンダルは、そんな彼等を揶揄する本職の与野党の政治家ばかりがやらかすので、彼等の唱える批判は何の説得力も生まれず、蛭間内閣の支持率は上がる一方だった。

 

 が――そんなエピソードも、こうなった今では見方は大きく変わる。

 

 こうして作り上げられた、汚い政界の中で己を貫き真の政治を実行する若き総理大臣というサクセスストーリーも――いざという時に国を動かしやすくする為に、奴等が仕込んでおいた伏線だったんじゃないか、と。

 

 裏から世界を支配していた組織が、表立って支配する準備を進めていない筈がない。

 

 ……日本の総理大臣は既に黒かった。

 この分なら、日本以上の大国の首脳達も――いや、世界中の国を動かす立場の人間全てが、GANTZの、つまりはCIONの傀儡である可能性は低くない。むしろ、現状考えられる可能性とは、最も高いくらいだ。

 

 そして、CIONが仕込んでいた傀儡――圧倒的な支持率を誇る現内閣が打ち出してきた、黒金が起こした革命に対する対処法は。

 

「――対『星人』用特殊部隊……GANTZ……か」

 

 つまり、これまでこの『部屋』で行ってきた戦争――ガンツミッションを、白日の下に晒すこと。

 これまで闇夜に紛れて、世間様に隠して行ってきた虐殺を、政府公認としてオフィシャル化するということ――か。

 

「――率直に言わせてもらえれば……時間稼ぎってことが見え見えですね」

「……ふ~ん」

「どう考えても、長くは持たないでしょ」

 

 その『GANTZ』、そして『星人』の説明資料として流された記録映像も、まるで『PV』のようだったというし。

 

 桐ケ谷を始めとするあの四人をピックアップして会見に同席させている辺りから、政府はアイツ等を――『GANTZ』をまるでアイドルグループか何かのように押し出していきたいようだが。

 

 今まで数多くのアイドル(二次元)をプロデュースし、パーフェクトコミュニケーションを連発してきたエイトマンPから言わせてもらえれば――そんなに現実は甘くない。俺がたったの一度もパーフェクトコミュニケーションを叩き出せないことからして明らかだ。

 

 世間が、政府が、アイツ等に求めているのは――『正義のヒーロー』だ。

 悪の『星人』が現れたら何処からともなくすぐさま駆け付け、自分達に危害が及ぶ前に敵を駆逐してくれる、安全安心の抑止力だ。

 

 オニ星人・黒金の革命『池袋大虐殺』――これにより、日常と非日常の、表の世界と裏の世界の垣根が破壊された。

 自分達の存在が公にされた以上――今後、人目を憚ることなく日常の世界へと、太陽が昇っていようと関係なく攻め込んでくる『星人』も現れるだろう。

 

 そんな脅威に対し、オフィシャルに動かせる戦士として世間に認知させるために、桐ケ谷達を誰もが知っている戦士(ハンター)とする為に、こんな茶番をしなくてはならなかったんだろうが――こんなのは所詮、一時のブームだ。

 

 いざ、『星人』が本当に日常世界へと来襲し、その身に怪物の牙や爪が突き立てられる状況へと陥ったら。

 

 ほんの僅かでも、一般人が『星人』によって害される時が訪れたら。

 その責任の矛先は、叱責の対象は――政府公認の防衛力たる『GANTZ』に向く。

 

 全ての戦争を、誰一人の犠牲者を生まずに、連戦完勝しなくてはならない。

 昨夜、あれ程の犠牲を生んだにも関わらず――不可能だ。

 

 明日からのニュースでは、その辺りを嬉々として突いてくる自称インテリが量産されるだろう。抜群の支持率がどこまで持つか――いや、それこそ時間稼ぎか。

 

 半年持てばいい。年末まで粘れればいい。

 そうなれば、終焉が訪れれば、後は全て有耶無耶に出来ると。

 

「……そう考えれば……桐ケ谷和人というのは適役かもしれませんね」

 

 かのSAO事件を終結に導いた英雄。

 話題も実績も華も、全て兼ね備えている理想の英雄だ。

 

「本当は陽乃ちゃんもあそこに並べたかったらしいんだけどね。でも昨日の時点で陽乃ちゃんはもう『本部(こっち)』に来るか、全部の記憶失うかのどっちかだったからさ~」

 

 由比ヶ浜結愛はそう嘯く。

 ……さらっと全部の記憶を失うとか言ったが、文脈からして『試験』のペナルティみたいなもんか?

 

 相変わらず初見殺しのトラップが至る所に仕掛けられてるな、ガンツ関係ってのは。……存在ごと消去(デリート)でゲームオーバーていうのも十分考えられたから、ある意味では良心設計なのか。両親とのバトルだっただけに。はっ。

 

 ……それに、両親といえば。

 

「ま、結果的にはオーライだったかな。カメラには映えそうだけど、あんな風に傀儡的に動かされるのとか凄く嫌いそうだもんね。動かすのは大好きそうだけど。ね、陽乃ちゃん!」

 

 にこやかに笑い掛ける由比ヶ浜結愛に、だが、陽乃さんは、何も答えない。

 

「………………………っッ」

 

 それも――そうだろう。

 

 顔面を蒼白させ、そんな青白い顔を手で覆いながら、無機質な壁に背を着けて唇を噛み締める陽乃さん。

 あそこまで混乱し、思考を制御出来ていない陽乃さんを、俺は初めて見たかもしれない。

 

 ……無理もない、か。……明かすべきではなかったか? ……だが、寄生(パラサイト)星人はCIONとも同盟関係にある。このまま『本部』へと連行された後も、ずっと無関係でいられる保障はない。だから、俺は少しでも早く知っておくべきだと思った。

 

 そう思い――明かした。

 雪ノ下陽光――雪ノ下豪雪。つまりは、陽乃さんの両親の秘密を。

 

 既に陽乃さんの生母は、生父は――この世にはいないことを。

 ずっと陽乃さんは、雪ノ下は――化物に、星人に、育てられてきたということを。

 

「…………陽乃さん」

「……ごめんね、八幡。……大丈夫。覚悟はしてたから」

 

 陽乃さんは、自分の母親が、父親が化物であることは昨夜の戦争の時に既に対面し、理解させられていた。

 その上で、本物の両親は幽閉されているか――あるいは殺され、なり替わっているのだと、そう理解し、覚悟していた。

 

 ……だが、真実はもっと残酷で。

 およそ、物覚えのついた頃から、その思い出の殆どの母親は、父親は――ずっと、ずっと、化物だったという。

 

 両親か――俺も両親の衝撃の事実を知ったが、陽乃さんの場合は、俺のとはまた種類が少し違う。

 

 陽乃さんの母親は化物に殺されていた。そして、殺した化物は、母親の実の母親だった。

 

 それは――つまり。

 

「……………っ」

 

 陽乃さんは、顔面を蒼白させながら――己が手をじっと見つめる。

 あるいは、自分の中に流れる――四分の一の冷たい血潮を。

 

 そして、震える瞳でこちらを見遣る――俺は、そんな陽乃さんの手を握った。

 

「――ッ! はち、ま」

「……大丈夫です」

 

 とても――温かいですよ。

 俺は、そう言って、笑いかけることしか出来ない。

 

「……今まで何もなかったんです。今すぐどうこうなることはないと思います」

「……………そう、かな」

「……大丈夫です。陽乃さん、言ってくれたじゃないですか。一緒に背負うって」

 

――あなたの罪を、わたしも背負うよ。……今度こそ、全部背負う。

 

 俺を救ってくれた、あの言葉。

 

 あの言葉を、今度は俺がこの人に送ろう――送り返そう。

 こんなもので救えるとは思えないけれど――救いたいのだと、その気持ちだけは届くように、強く手を繋いで。

 

「俺にも、一緒に背負わせてください」

「……うん。……うん」

 

 ありがとう、八幡――そう言ってくれる、陽乃さんに、力無くも笑顔が戻ったような気がした。

 ほんのすこしでも、彼女のことを救えたのならば、似合わない真似をした甲斐があったというものだ。

 

 そして、その時――記者会見を映していたガンツの表面から、こんな宣言が、『部屋』の中に響き渡った。

 

 夜空のように美しい黒剣を、堂々と掲げる黒い少年兵が、全国民に――全世界にした、英雄のような宣誓。

 

GANTZ(おれたち)が――世界を救ってみせる』

 

 大歓声が記者達から湧き起こるのを、俺は陽乃さんと手を繋ぎながら――冷めた目で見詰める。

 

 世界か……英雄様はカッコいいな。

 いや、素直に憧れる。そりゃあ世界なんて救えたらそれに越したことはないだろう。

 

 しかし、俺はそんなものに魅力を感じない。

 こうして――手を繋げるだけの、こんな俺と繋がってくれる誰かを救うだけで精一杯だ。

 

 桐ケ谷、お前は気付いているのか。お前を操る大人達が、お前を監視する世界が、お前を取り巻く勢力が――どれだけ深く粘ついた黒色なのか。

 これから世間の注目を一身に浴びて、一挙手一投足を呟かれ、無垢な目を、濁り切った眼を注がれ続けるのだと、理解しているのか。

 

 それを理解した上で、それでも尚――そんな誓いを、そんな大言壮語を、全世界に顔を晒して宣えるというのならば。

 

 お前は、正しく英雄だよ。

 

「……今の時点では、まだ客寄せパンダだけどな」

 

 そんな俺の呟きに呼応したように――記者会見の映像を打ち切ったガンツから、二筋の光線が照射された。

 

 俺の目の前のガンツのすぐ傍に一筋、そして、俺と陽乃さんと由比ヶ浜結愛の背後に一筋。

 そして、俺の目の前に照射された光によって顕現した存在は、まるで俺の言葉が聞こえていたかのような口ぶりで言う。

 

「――客寄せパンダ、実に結構ではないか。パンダを舐めるなよ、この小童が」

 

 猫のように俊敏に舞い、熊のように獰猛に狩る。更には功夫(クンフー)をも習得(マスター)する個体もいるという――と、渋い声で語りながら。

 

大熊猫(パンダ)を、嘗めるなよ」

 

 大事なことなのか二回ダンディな声で繰り返した――その黒い衣を纏った獣は。

 狭い室内の中に二本足で立ち上がり、意外とビビるくらいに大きい体躯をアピールしながら、口の中からロケット砲を突き付けながら――ジャイアントパンダは言った。何と性別は♀だった。

 

「…………悪かったよ」

 

 別にパンダをディスったわけじゃないし、っていうかお前が転送されてくる前に呟いた言葉を聞き取るんじゃねぇよ、それから功夫を使うパンダ云々は色々と危ないからやめて等々色々――言いたいことはあったが、とりあえず怖いので謝っとくことにしました。

 

「いやあ、ワリィな。ちょっとマダムとイチャイチャしすぎて遅くなったぜ」

 

 と、背後から聞こえるクズい発言の主は、今更確認するまでもなく確定的に明らかだった。

 

「――え? もしかして――」

 

 振り返り、思ったよりも近い距離にいたオッサンに陽乃さんの俺と繋ぐ手に力が入るが、その男の顔を見るなり、何かに気付いたような声を上げかけて。

 

「よう、さっきぶりだな、クソ息子」

 

 そう言って親父は――俺の不肖の父である比企谷晴空は。

 

 俺の顔を見つけるとそのまま視線が下がり、俺と陽乃さんの繋いだ手へと注がれると。

 そのまま陽乃さんの肩に手を乗せて――すごくいい笑顔でこう言った。

 

「さて、君はどこの誰から派遣された美人局(つつもたせ)だい、カワイ子ちゃん」

 

 ビキッ――と。

 空気が罅割れた効果音が聞こえた。

 

「――――ハァ?」

 

 陽乃さんから聞いたこともないような低い声が飛び出す。握られた手はガンツスーツを着ていることもあって信じられない握力を叩き出している。っていうかキュインキュインいってるイタタタタタタタタクソ親父ぶっ殺。

 

「いや、直に見たら想像の数百倍美少女で秒で確信したわ。八幡がこんな美少女と付き合えるなんて何十回カタストロフィがきても有り得ないだろう。じゃあ美人局だほれ決まり。ほれほれ言ってみオジサンに言ってみ。今なら爆笑するだけで怒らないから」

「あたしが怒るよ、はぁるる~ん」

 

 蟀谷(こめかみ)を引き攣らせたまま微笑する陽乃さんにウザ顔で近づいていく何処に出しても恥ずかしいクソ親父を、由比ヶ浜結愛が頭部をワシッと掴んでスーツをキュインキュイン言わせながらリンゴを潰すように握り込んでいく。

 

「なにいい歳こいて娘みたいな歳の子供にセクハラしてるの? 恥ずかしくないの? なんで生きてるの?」

「イタタタタタタタタタタタタクソ息子ぶっ殺! 何でこんな目に遭うんだ全部テメェのせいだ!」

「一から十まで自業自得だろ。そのまま潰されろクソ親父が」

「はる~るん、反省してるのかな? してないよねぇ~。あと~、さっきヒッキーくんから聞かされたはるるん達がやった『入隊試験』の内容についてちょ~と聞きたいことがあるから――ちょっと地獄に行こうか」

 

 ぎゃああああああああああああああ――と、聞き苦しいオッサンの断末魔が響き渡る中で。

 

 俺は陽乃さんを親父から遠ざけるべく背中に隠しながら、もう少しでグロイ意味でR指定が付きそうな親父にドン引きしながらも、胸の中に湧き起こる不思議な爽快感に戸惑っていると。

 

 俺の背中にきゅっとすり寄りながら「……八幡?」と、怯えるような声を出す陽乃さんに萌えながら問い返す。

 

「ど、どうしました?」

「……あの人って……八幡のお父さん?」

「ええ、恥ずかしながら。ああ、親父がガンツ関係者なのは、俺も今日初めて知って――」

「あ、うん、それにも驚いたんだけど……あのね……こんなこと言うなんて失礼だって分かってるんだけど……ごめんなさい、言わせて」

 

 陽乃さんは、本当に申し訳そうに眉根を寄せながら――もはや放送禁止に半身を突っ込んでいる有様の親父を見て、何か苦いものを食べたみたいな表情で言った。

 

「――ごめん。わたし、八幡のお父さん生理的に無理かも」

「奇遇ですね。俺もです」

 

 俺は心の底から同意した。

 いやぁ――本当に、恥ずかしい親を持ったぜ。

 

 人に見せられない顔になっている我が父親を、心の底から軽蔑しながらそっと陽乃さんに見えないように背中で隠した。

 

「はる~る~ん。そういえばこないだ同じ『部隊』の子となんだかんだでフラグ立てたって聞いたよぉ~。よくないな~あおのんが泣くよぉ~――あたしは怒るけどね。っていうか怒ってるけどね」

「なにそれおれしらな――って、ちょっと待ってガンツスーツ着ててもその角度に人体は曲がらなあばばばばばばばばばばばば」

 

 っていうか由比ヶ浜おばさん怖い。絶対におばさんとか言わないようにしよ。

 

 そして、そんなよい子は真似したらいけませんな光景が広がって、ただでさえ生気のない俺の目が見る見る内に死んでいき、ぶるぶる震える陽乃さんに萌え続けている中――更に一筋の光線が、この『部屋』の中に注がれ始めた。

 

「っ! 八――? ………………………」

 

 現れた黒い機械的スーツを纏ったインテリ風美女――俺の母である比企谷雨音は。

 

 瞑目していた瞼を開け、俺の方を向くと何かを言いかけたが。

 目の前のグロい拷問でシバかれる己の夫と、ニコニコ笑顔でシバき続ける美女という光景に、あの時折出現させる冷たい眼差しを向けて。

 

 そして、俺の方を振り向いて、クズとヤンデレに指を向けながら言った。

 

「…………あれ、何?」

「…………知らねぇよ」

 

 むしろ俺が聞きたい……俺の父親と由比ヶ浜おばさんはどんな関係なんですかね……。

 

「おばさんって言うなって言ったよね?」

 

 ニュータイプ勘弁してくれないですかね……。ふぇえん、怖いよぉ。っていうかリアルガチで怖い……。

 

「お! やっと来たか愛する妻よ! 愛する夫がマジ大ピンチなんだ助けろください!」

「触んないで。比企谷菌が移るでしょ」

「いやもう二十年近くあなたも比企谷なんですが……」

 

 親父が無様に母ちゃんに向かって手を伸ばすが、母ちゃんは冷たくその手を蚊でも払うかのように弾き落とす。

 母ちゃん。それは息子(オレ)にも効く。……比企谷菌感染力強すぎなんだよなぁ。バリア無効化だもんなぁ。

 

 今度は俺がガタガタ震えながら陽乃さんにしがみ付き、そんな俺のアホ毛を陽乃さんが恍惚の表情で撫で始めた時――途中から北海道の土産みたいに迫力ある体勢で動かなかったパンダが、渋い声を放つ。

 

「――どうやら揃ったようだな」

 

 パンダは二本の足で立ち上がりながら、この部屋に集まった五人の戦士を見渡す。

 

 俺。陽乃さん。由比ヶ浜結愛。

 そして、親父――比企谷晴空と、母ちゃん――比企谷雨音。

 

 パっと乱雑に親父を投げ捨てる由比ヶ浜結愛を一瞥して、俺はパンダに問い掛ける。

 

「……霧ヶ峰の奴が、まだいないみたいだが」

 

 これが昨夜、日常を捨て本部へと潜る決意を固めた戦士達を試験した結果発表の場として用意されたものならば、俺と陽乃さんの他に、あと一人対象者がいる筈だと、俺はパンダに問い掛ける。

 

 雪ノ下陽光(ひかり)の昔語りが終わった頃からアイツとは別行動となり、結局そのまま別れてしまったが――俺が親父と殺し合っていたあの時、アイツも『入隊試験』を受けていたのだろうか。

 

 だとしても、アイツが落ちるとは思えないが……だけどアイツ、どんな難題も死地もへらへらとクリアし生き残りそうな一方で、誰も落ちないような落とし穴に落っこちてゲームオーバーになりそうな所もあるんだよなぁ。誰にも読めない方向に突き抜けるっていうのか。

 

 案の定、パンダが答えた言葉は、俺の想像を超えたものだった。

 

「霧ヶ峰霧緒は既に本部に転送されている――正確には、奴は既に《天子》様直轄部隊への就任が決定した」

 

 やっぱりアイツは特別待遇だったかと変に納得した一方で、《天子》様とかいう新しいワードの登場に俺は顔を顰める。何なの? ちょっと一日に一気に情報を詰め込み過ぎじゃない? 無駄に風呂敷を広げ過ぎて誰もついていけなくなる長期連載かよ。

 

 だが、同じように首を傾げているのは俺だけのようで、母ちゃんと由比ヶ浜結愛は目を見開いてパンダの言葉に素直に驚いていた。

 

「え? 《天子》ちゃんの!? 直轄って、マジ?」

「……あの子のお眼鏡に叶う男の子って存在したのね」

 

 そして――親父は。

 一瞬呆けるように瞠目したが、すぐにいつもの不快な笑みを浮かべて。

 

「――ほー。そいつぁ、面白れぇ……」

 

 俺はその顔を見て、また下らねぇことを企んでるなぁと考える一方で――また別の考察も組み立てる。

 

 ……よく分かんねぇが、《天子》様ってのはさっきの《CEO》と同じくらい特別っていうか独特な立ち位置(ポジション)にいる存在っぽいな。母ちゃん達は妙に親しげだが、このパンダがきちんと様付けしてるくらいだしな……。

 

 そんな風に思考していると、パンダは「そんなわけで、君達は同期に早速差をつけられてしまったわけだ」と、俺達に言う。

 

「今後、本部に送られても気軽には会えないかもしれない。霧ヶ峰よりも出世したくば、本部に送られた後も研鑽に励むことだな」

「隣の奴に露骨に依怙贔屓されるのは慣れてるよ。今更だ。それよりも俺にとって聞き逃せないのは、今の言葉だ」

 

 俺はパンダの言葉の中の、そのワードを、つぶらなその瞳を腐った眼差しで見据えながら言う。

 

「俺と陽乃さんも、今度こそちゃんと、本部に入職確定ってことでいいんだよな?」

 

 昨夜に内定をくれるみたいな口ぶりだったにもかかわらず、こうして『入隊試験』とかをノー告知で受けさせられた身としては、はっきりとした言葉がなくては納得出来ない。本当なら正式な書面として合格通知が欲しいくらいだ。

 

 俺のそんな面倒くさい問いに、だがパンダは、獣ならではの無表情で、はっきりと返す。

 

「――ああ。君達は見事に『合格』を勝ち取った。これから君達をCION本部へと送ろう」

 

 合格――その通知を受け取った俺は。

 背後にいる陽乃さんへと手を伸ばし、そして陽乃さんは、強くその手を繋いでくれた。

 

「……それでいいな? お前達」

 

 パンダは、俺達の『入隊試験』の『試験官』である三人の大人達に言葉を促す。

 

「もっちろんだよ! 陽乃ちゃんは立派な正義な味方になれると保証するよ! ま、ヒッキーくんもたぶんなれるんじゃないかな。知らんけど」

 

 由比ヶ浜結愛は、年甲斐もなくにこやかに――そして俺に対しては適当にぞんざいに言う。

 

「…………あぁ。ひどくとても残念に大変遺憾なことにな」

 

 比企谷晴空(おやじ)は、年甲斐もなくガキのように不貞腐れながら――そして俺に対して中指を立てながら言う。

 ……この大人達、大人げなさすぎないですかねぇ……。主に俺に対して。

 

 そして――残る一人の大人は。

 

「…………………えぇ」

 

 そう、俯きながら、窓の外の夜景に向かって言う。

 

「……………………そうか」

 

 パンダは「では、これにて必要なプロセスは全て完了した」と、背筋を伸ばして言う。

 

「比企谷八幡。雪ノ下陽乃。君達はこれから、世界を救う組織の本部へと――世界を守る最前線へと送られる。故に、今一度、君達に問おう」

 

 パンダは、渋く低い声で――威厳ある、戦士の声で問う。

 

「世界の為に――何度でも死ぬ。どんな地獄にでも飛び込み、どんな星人にも立ち向かい、どんな戦争をも生き抜く。その覚悟が、君達にはあるか?」

 

 黒き衣を身に纏った、機械仕掛けの兵装をまるで威圧するように展開する獣に。

 

 俺は。そして、陽乃さんは。

 

 繋いだ手に――ギュッと力を込めて。

 

 そんな言葉を――嘲笑した。

 

「「ごめんだね(よ)」」

 

 陽乃さんは、腰に手をやって、不敵に笑って宣言する。

 

「世界なんて知らないわ。地獄も星人も戦争も興味なし! ただ、この手を解こうとする者がいるなら容赦しない。そんな奴等にこそ言ってやるわ――あなたに、その覚悟があるのってね」

 

 陽乃さんは、そう言って俺に笑いかける。

 

 ……まったく、親の見てる前でそんな嬉しいこと言わないでくれないですかね。恥ずか死ぬでしょ。

 

 だがまあ――全くもって、同意ですがね。

 

「安心しろよ。俺は死なない――ただ、生き残る。その為に必要なんだってなら」

 

 ついでに、世界も救ってやるよ――そう、きっと、世界一ムカつく表情で言っているであろう、俺に。

 

 パンダは、ただ一言――機械のように、返す。

 

「期待している。未来の英雄よ」

 

 そして――転送が、始まった。

 

 

 まず光が照射されたのは、他ならぬパンダ自身だった。

 

「――転送された先に設定されている場所は、CION本部の一階のロビーだ。私はそこで待っている。新天地でまた会おう」

 

 新天地――ね。

 新しい――そこは、天国か、それとも、地獄か。

 

 愚問だったな――まぁいい。

 天国でも、地獄でも、やることは変わらない。

 

 ただ死なないように――殺すだけだ。

 

 

 次に転送されたのは、由比ヶ浜結愛だった。

 

「え? もう? ……まぁ、そっか。う~ん、まだまだ言いたいことがあったんだけどなぁ」

 

 そう言って唸る由比ヶ浜結愛は、「陽乃ちゃん! それじゃあ頑張ってね! 分かんないことがあったらいつでも頼って! まぁヒッキーくんもガンバ。分かんないことがあったらググればいいよ」と、陽乃さんにはにこやかな笑顔で、俺にはザ・社交辞令でエールを送る。本当にグーグル先生が通用するんだろうな? 信じるからな?

 

 そして結愛は、びしっと親父を指差し。

 

「はるるん! まだ話は終わってないんだからね! 向こう言ったらお仕置きの続きだからね!」

「……はいはい。分かったよ。………………悪かったな」

 

 親父は後頭部をガシガシと掻いてボソボソと呟き、その言葉に由比ヶ浜結愛は小さな笑みを作る。

 

 そして、その笑みのまま、彼女は母ちゃんの方を向いて。

 

「…………あおのん」

「…………結愛、私は――」

 

 母ちゃんは何かを呟きかけたが、由比ヶ浜結愛はその言葉の先を言わせずに、一言。

 

「――がんばって」

 

 ただ、そう告げて――完全にこの『部屋』から消失した。

 

 

 そして、次に転送されたのは――陽乃さんだった。

 

「……っ。……そっか。なるほどね」

 

 陽乃さんはそう呟いて、解こうとしたものには容赦しないといった手を――自ら放した。

 

 え? もしかして手汗キモかった? と俺が反射的に自殺を検討し始めたのを察したかのように(いやたぶんしてないが)、陽乃さんは俺に向かって小さく微笑みながら言う。

 

「本当は八幡と一緒に行きたかったけどね。でも――八幡には、まだやらなきゃいけないことがあるでしょ」

 

 そう微笑みながら――けれど、小さく目を伏せながら、陽乃さんは言う。

 

「――八幡。ごめんね。……でも、わたしは」

「大丈夫ですよ。陽乃さん」

 

 これは、これから先、陽乃さんも立ち向かわなくてはならない――乗り越えなくてはならないものだ。

 

 ならば――俺が、逃げるわけにはいかないだろう。

 こんな俺が、少しでも――陽乃さんの勇気になれるのならば。

 

「……なるべくですが、やれるだけやってみます」

 

 俺はそう言うと、陽乃さんは繋いでいた手を俺に向かって小さく振って――消える。

 

「――待ってるね。八幡」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 そして、残されたのは、俺と、親父と、母ちゃんの三人。

 

「……聞いてはいたが、本当に戦士(キャラクター)に感情移入する部品(おとこ)なんだな、識別番号000000080(コイツ)は」

 

 中でも八幡(おまえ)はお気に入りってわけだ――と親父は嘯く。

 

 ……まぁ、そうだな。流石にここにきて、この人選の意味に気付かないわけがない。

 本当に、お節介ここに極まれりって感じだが。

 

 でも、陽乃さんにああいった以上――頑張らなきゃな。

 

 向き合わなければ。乗り越えなければ。

 

 これは――俺の戦いなんだから。

 

「――八幡」

 

 口火を切ったのは、親父だった。

 親父は、へらへらした表情を消して――はっきりと、殺意を突き付けて言う。

 

「俺は――お前が小町を殺したことを、絶対に許すつもりはない」

 

 その瞬間的に迸る殺意は、先程の殺し合いの時のそれよりも、よほど強く、黒いもので。

 

 だからこそ、俺は――歓喜で震えそうになる声を、必死に平坦に保ちながら返した。

 

「…………あぁ」

 

 親父は、そんな俺に目を細めながらも――尚も強く、尚も冷たく、尚も黒い声色で言い募る。

 

「八幡――俺は、お前が憎らしい」

 

 小町を殺したお前が憎らしい。俺とそっくりな顔のお前が憎らしい。

 

「――俺を……殺さなかった。お前が、本当に憎らしくてたまらねぇよ……八幡」

 

 親父は、俺にそう――真っ直ぐに、俺の目を見ながら言った。

 

 それは、親父から――生まれて初めて向けられる言葉だった。

 それは、親父から――生まれて初めて向けられる殺意だった。

 

 それは、生まれて初めて――真正面から。

 

 見つめる瞳で、向けられる感情だった。

 

 生まれて初めて見る、父親の顔だった。

 

「八幡。俺は、お前が途轍もなく――可愛くない」

 

 どんと、俺の胸に拳を当てて――親父は、気持ち悪く、満面の笑みを向けた。

 

「だから――お前は、俺のようにはなるな」

 

 それは――生まれて初めて。

 

 親父から言われた――父親らしい言葉だった。

 

「お前は俺を殺さなかった。だから、その責任を取れ」

 

 親父はそう言って、胸に突いた拳を解き――俺の頭を、ぶっきらぼうに掻き回す。

 

 やり方を知らないそれは髪を引っ張り――涙が出そうな程に、痛く、不器用で。

 

「勝手に死ぬな――死ぬまで生きろ。最低でも、俺より先に死ぬことは許さねぇ。んな真似してみろ? 今度こそ俺が殺してやるからな」

 

 その瞳は、濁っていて、とてもではないけれど綺麗ではなかったが。

 

 真っ直ぐに、逃げずに――俺だけを、見ていた。

 

「だから、生き抜け。誰よりも生き抜け。誰よりも――生きろ」

 

 幸せにならなくていい。世界なんて救わなくてもいい。

 罪なんて贖わなくてもいい。罰なんて求めなくてもいい。

 

 誰の為にも――生きなくてもいい。

 

「自分の為だけに――死ぬまで、生きろ」

 

 親父――比企谷晴空。

 

 適当で、勝手気儘で、自由奔放で、快楽主義者。

 嫌なことが嫌いで、苦手なものからは逃げ回って、頑張るということが出来なくて、我慢という文字の意味すらも知らない。

 

 息子が可愛くなくて、娘だけを溺愛してウザがられて、妻にはそっけなくされて時折甘えて甘えられて。

 友達なんて数えるくらいしかいなくて、その全てが例外なく奇人変人異人らしくて。

 

 何処をどう切り取っても言い訳のしようも擁護のしようもないクズっぷりで。

 クズ人間で、クズ親父な、クズ野郎で。

 

 そんな――親父の癖に――。

 

「………………何………父親みてーなこと、してんだよ…………ッ」

 

 ふざけやがって。今更――今更――なんなんだよ……ッ。

 

 今まで……俺が……どんなに………っ。ずっと――ずっと――くそっ。

 

 こんなの――また……俺の……負けじゃねぇか……っ。

 

「――当たり前だ。父親に勝とうなんざ――テメェも父親になってからほざけ」

 

 そしたら、八幡。おめぇも気付くさ――そう、黒い球体から照射される光を浴びながら、親父は。

 

 俺の頭から、僅かに手を放しながら、言った。

 

「――子供に勝てる親なんざ……いないってことにな」

 

 そして、親父は――転送された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 これで『部屋』に残っているのは、二人。

 

 比企谷八幡と、比企谷雨音――この、二人だけだった。

 

「………………」

「………………」

 

 微妙な沈黙が満ちる。

 

 俺は目元を擦りながら、少し大きく呼吸して感情を無理矢理にでも整理する。……こういう所を母親に見られるの世界一恥ずかしい。……クソが。あのクズ親父。この好機にお前のちょっとドン引くような隠しAVのタイトルを母ちゃんにリークしてやろうか。

 

 なんて、そんなことを考えてみたものの、俺と母ちゃんは――ぶっちゃけ、そこまで仲良くない。

 

 ここに小町や親父が入れば、むしろ親父に対してよりもずっと会話のラリーが続くのだが、二人きりだと親父とのそれよりも気不味い。良くも悪くも(っていうか絶対的に悪だが)俺に対するヘイトを隠さなかった親父とは違い、母ちゃんはどっちかっていうと――よそよそしいのだ。

 

 ある意味で、親父よりもずっと分かり易い。

 だからこそ――これまでの人生において、俺と母ちゃんのツーショットなど、俺と親父の組み合わせよりも珍しい。

 

 ずっと、お互いに、避けてきたから。

 こうして面と向かって、向き合うことから。

 

 ずっと――逃げてきたから。

 生まれてからずっと――生んでから、ずっと。

 

「…………………八幡」

 

 だから、これを分かるのは、きっと世界で俺だけだ。

 

 由比ヶ浜結愛にも、恐らく親父にも、全部は分からない。

 いや、俺にも全部は分からないだろう。それでも、他の誰よりも、俺はきっと分かっている。

 

 このたった一言に――息子の名前を、二人きりで、真っ直ぐに目を見て呼びかけるという、それだけの行為に。

 

 母ちゃんが――比企谷雨音が、一体どれだけの勇気を振り絞ったのか。

 

 俺はそんな母ちゃんの目を真っ直ぐに見て、何も言わずに待った。

 そんな息子に、母ちゃんは目を伏せながら、ポツリポツリと、呟くように言った。

 

「…………八幡。…………ゴメンね。ダメな母ちゃんで」

 

 ずっと、ずっと――ダメな、母親で。

 ごめんなさいと、母ちゃんは、俯きながら――噛み締めるように、言った。

 

 ゆっくりと、その手を伸ばす。

 親父のように、俺の胸に手をやろうとしたのか――それとも、俺の頭を撫でようとしたのか。

 

 文字通り、恐る恐る、まるで猛獣か何かに向かって手を伸ばすように。

 

 だが――その手は。

 途中でビクリと動かなくなり「…………ごめん、ね……」と。

 

 項垂れながら、俯きながら、母ちゃんはそう、息子に言う。

 

「……わたしは…………怖いの……っ」

 

 それは、初めて見る――母の涙。

 きっと隠れてずっと流していたであろう――俺が流させた、涙だった。

 

「晴空みたいに……雪ノ下陽光のように……なれない……っ。割り切れないの……乗り越え……られない……ッ」

 

 母ちゃんは、涙を流しながら――顔を上げる。

 

「……私は――あんたが怖いよ……八幡……っ」

 

 俺は――そんな母ちゃんに。

 

 笑顔を向けることが、出来ただろうか。

 

「――知ってたよ」

 

 知っていた。ずっと、知っていた。

 

 母ちゃんが――ずっと俺を怖がっていたことを。

 怯えながら接してくれていたことを。恐る恐る触れていたことを。

 

 比企谷八幡という俺の存在が、ずっと母ちゃんを苦しめていたということを。

 

「――違うッ!」

 

 母ちゃんは叫んだ。

 

 自分の身体を抱き締めて。怯えて震える体を抱き締めて。まるで、身を守るように。

 

「違うっ! 悪いのは私なの! 母親失格の――モンスターな私なの!」

 

 ずっと――怖かったのだという。

 

 息子を恐れる自分が。息子と向き合えない自分が。息子から逃げ続ける自分が。

 

 怖くて。情けなくて。そして、何より――憎らしくて。

 

「ずっと――母親になれないのが怖かった。……ずっと――母親になるのが……怖かった……くせに……ッ!」

 

 私は――あなたを、生んだの。

 

 そう、母ちゃんは――血を吐くように言った。

 

「……私は、自分の母親が大嫌いだった……ッ。自分の父親に絶望した……ッ。そんな両親の血が流れている私が……そんな母親を殺して、父親を見捨てて……妹が生まれる前に死なせた……そんな私が――母親になるのが、怖かった……ッッ!!」

 

 それでも、世界は――そんなモンスターにも優しくなくて。

 愛する人に縋らなければ、生きてはいけない程に――残酷で、地獄で。

 

 母ちゃんは――自分のお腹に、手を当てながら、笑った。

 

 壊れそうに、笑った。

 

「私は――母親になる覚悟を決めないままに……八幡――あなたを身籠った」

 

 それでも――生まれてくる子が女の子ならば。

 母ちゃんが、かつて生まれる前に殺したという、妹の生まれ変わりのような女の子ならば。

 

 代替行為かもしれないが、許されない歪んだ代償行動かもしれないが、愛することは出来たかもしれないと、母ちゃんは言う。

 

 俺は、そんな母ちゃんの言葉に――怒りよりも、哀れみを覚えた。

 

 それほどまでに望んだ女の子ではなく、生まれたのは、似ても似つかぬ――望まれない男の子だったのだから。

 

 小町ではなく――俺だった。

 

「…………ごめんなさい」

 

 俺がそう謝る前に――母ちゃんはそう懺悔した。

 

 ごめんなさい――ごめんなさいと。

 

 母親になる覚悟もないのに子供を作ったことか。

 望んだ女の子ではないからと、生まれた男児を愛せなかったことに対してだろうか。

 

 それとも――そんな現実からも、逃げ出したことだろうか。

 

「私は――逃げたの」

 

 母ちゃんは――疲れ切った顔でそう言った。

 

 俺は、もう何も言わなくていいと、首を振った。

 

 この人は、この母親は――母親になる覚悟もなく、子供を――俺を作った。

 そして、生まれてきた子は、せめてと思った女の子ではなく、可愛くない男児だった。

 

 案の定――比企谷雨音は、母親になれなかった。

 

 生まれてきた男の子に――俺に、向き合えず、痛めつけられるように育児をして。

 愛情を注げずに、目を合わせることも出来ずに――逃げ続けて。

 

 だけど――すぐに、小町が生まれた。

 

 つまりは――そういうことだった。

 

「ごめんね…………っ。ごめんね…………ッ」

 

 この人は――弱い。

 いつもは家庭内の誰よりも強いのに、根っこの部分は、小町よりも、そしてあの親父よりも弱弱しい。

 

 きっと――この人のこんな部分に、俺は似たのだろう。

 だから、母ちゃんの気持ちは、きっと誰よりも俺は分かる。

 

 ずっと誰よりも、俺は分かっていたし――知っていた。

 

「だから言ってるだろ、母ちゃん。……知ってたよ。……それも、知ってただろ?」

 

 母ちゃんが、涙に濡れた顔を上げて、それをまたくしゃくしゃにする。

 小町譲りの美人な顔が――いや、小町が母ちゃんに似たのか――見ていられない不細工になる。

 

 見ていられなくて、思わず俺は、俯いた。視界がどんどん歪んでいったから。

 

 知ってたよ。そりゃあ母ちゃんの過去は知らないが、俺と小町に対する顔の違いとか、小町と俺の年齢差とか、そういうのを鑑みればおおよその想像はつく。

 

 この人が息子を愛せなかったのに、すぐに次の子供を作ったことも。

 生まれてきたのが今度こそ待望の女の子で、長男をほっぽり出して溺愛したことも。

 

 ああ、母親失格だろう。モンスターペアレントと呼ばれてもしょうがないよな。

 

 だがそれは、俺だけがこの人にそう言える権利を持つことだ。

 他の誰かにとやかく言われる筋合いじゃない。

 

 お前は見たのか?

 時折、深夜遅くに帰宅して、小町の部屋よりも早く俺の部屋に入って、息子の寝顔に震える手を伸ばすこの人の姿を。

 

 お前は聞いたのか?

 誰もいない早朝の洗面台で、俺の名前を漏らしながら懺悔しつつ涙を流すこの人の嗚咽を。

 

 知ってたよ。誰よりも。

 

 この人が、俺を愛していないことを。

 

 そして、そんな自分を――誰よりも呪い、苦しんでいたことを。

 

 俺はずっと、そんな母ちゃんを見てきたんだから。

 

 母ちゃんも――知ってただろ。

 

 そんな俺を、母ちゃんはずっと見ようとしてくれたんだから。

 

「…………はち、まん」

「――いいんだよ、母ちゃん」

 

――『はぁ……バカだね。あんたの心配をしてんの』

 

 あの時は、不覚にも本当にうるっときた。

 

 いつも小町への愛情に紛れ込ませるような形でしか俺と向き合えていなかったのに。

 小町へのオシャレ服のついでみたいな感じで買ってくる、近所の名前も読めないような服屋で買ってくる変なTシャツも――実は結構嬉しかったんだぜ。

 

 怖くてたまらないのに。自責の念で死にそうなのに。

 

 それでもこの母親は、愛せない息子を愛そうとしてくれた。

 

 いつだって苦しみながら、いつだって傷つきながら、それでも母親になろうとしてくれた。

 

「許す。全部許すよ。愛せなかったことも。向き合えなかったことも。逃げ出したことも。――俺は、アンタの息子だから」

 

 この人は、いい母親ではなかったのかもしれない。

 それでも俺は――この人に生んでもらったから、俺になれたんだ。

 

 だから、言いたい。

 母ちゃんにとっては黒歴史かもしれないけれど――俺にとっては、やっぱり感謝でしかないから。

 

 こんな機会を逃せば、恥ずかしくって言えないような言葉だからな。

 

「生んでくれてありがとう――お陰で俺は、生まれてくることが出来た」

 

 碌なことのなかった人生だったけれど――それでも俺は、生まれてきてよかったと胸を張って言える。

 嫌われ、弾かれ、愛されなかった人生だけれど――それでも、こんな俺を愛し、こんな俺と向き合ってくれた人達とも出会えた。

 

 雪ノ下雪乃。由比ヶ浜結衣――あの二人と過ごした日々は、間違いなく俺の青春だった。

 雪ノ下陽乃――あの人と出会い、そして生きていくこれからは、それだけでも俺の生きる理由となる。

 

 比企谷小町――あなたが俺から逃げて、生むことを選んでくれた天使は、ひとりぼっちだった俺の人生を、明るく温かく支えてくれた。

 

 感謝だ――感謝しかない。

 

 あなたは俺に――こうして生命を繋いでくれた。

 

「……本当に、ありが――っ!?」

 

 色んな思いが込み上げてきて、言葉の切り所を見失い、延々と恥ずかしいことを言いそうになっていた俺が顔を上げると――何かが胸の中に飛び込んできた。

 

 いや、この『部屋』にはもう俺の他にはもう一人しかいなくて、その正体が誰なのかなんて言うまでもないんだけど――それは、余りにも信じられない答えで、俺は本気でこの恥ずかしい場面を覗き込んでいた誰かがいたのではないかという可能性の方を先に疑った。

 

 だって、こんな感触は初めてで。こんな温もりは初めてで。

 ああ意外に背が低いんだとか、体が細いんだとか、そんなことばかりが頭を巡って――中々、受け止めきれない。こんなにも軽い衝撃なのに。

 

 俺は――記憶にある限りでは、生まれて初めて、母親に抱かれていた。

 

 比企谷雨音が、比企谷八幡を抱き締めている。

 顔を胸に埋めて、涙を染み込ませながら、言葉にならない嗚咽を漏らしている。

 

 俺は無様に硬直し、行き場のない両手を気持ち悪く持て余していた。

 

「…………母、ちゃん?」

「…………ごめんね」

 

 母ちゃんの身体は、小さく震えている。

 

 それが泣いているからということだけではないことは明らかで、今でも身体は無意識に俺を恐れていて、涙の他にも汗が滲み始めていて――でも、それが分かっても、俺は。

 

 この小さな体を。この余りにも温かい温もりを、引き剥がすことなど出来なくて。

 

「…………母ちゃん。無理しなくて、いいから」

 

 母ちゃんにとって俺は――正しく罪の結晶だ。

 自分の至らなさ、情けなさ、罪深さをまるで突き付けてくるかのような俺の存在は、母ちゃんにとってはまるで世界から責め立てられているかのように思わせるだろう。

 

 俺の腐った双眸に見詰められる度に、どんな感情が母ちゃんの胸中に渦巻いていたのだろうか。

 

 そんな俺を真正面から抱き締める。その全身で受け止める。

 息子を抱き締める――その行為に母親が、どれだけ頑張って無理をしているのか、俺には分かってしまう。

 

 だが母ちゃんは、まるで駄々を捏ねるように、いやいやと俺の胸に顔を擦り付ける。これでは、どちらが親なのか分かったものじゃない。

 

 俺は――そんな可愛い母親を、強くその胸に抱き締めた。

 

「――辛かったね。怖かったね。……ごめんね。ずっと、助けてあげられなくて」

 

 それは、この『黒い球体の部屋』に迷い込んだ時からのことを言っているのだろうか。

 それとも、これまでの人生そのものを指しているのだろうか。

 

 だが、そのどちらに対してだろうと、俺の返す言葉は変わらない。

 

「辛かったし、怖かった。だけど、それを他の誰かのせいにはしない。……ましてや、親のせいになんかには、絶対にしねぇよ」

 

 俺の失敗は俺だけのせいだ。だから、俺の苦難も困難も、消したいような黒歴史も――忘れたくない思い出も、俺だけのものだ。

 

 勝手に責任を感じる必要なんてない。

 自分のことは自分でやる――それは当たり前のことだ。

 

 俺のやらかした罪を、親に代わりに背負わせるなんて真似はしない。

 

 だから、そんなことは言わなくていい。

 

 母ちゃんは、またいやいやと、顔を擦り付けて――言う。

 

「私は――あんたが小町を大好きだったことを知ってる」

 

 愛されない自分のすぐ傍で、これでもかと両親の、世界の愛情を受けて育つ世界の妹。

 

 そんな存在を果たして心の底から愛することの出来る兄が、果たしてどれだけいるというのだろう――そう、母ちゃんは、声にならない声で言って。

 

 ここにいる――と、この腕の中にいると、母ちゃんは俺にそう伝えてきた。強く抱き締めて、そう息子に伝えてきた。

 

「私は――小町があんたを大好きだったことを知ってる」

 

 誰もに愛される自分のすぐ傍で、これでもかと両親に、世界に見て見ぬふりをされて育つ不肖の兄。

 

 そんな存在を誰の視線も意に介さず、自分だけでも愛することの出来る妹が――果たして、どれだけいるというのだろう。

 

 居たんだ――ここに居たんだ。

 

 世界一の妹が、かけがえのない存在が――それを、俺は、殺したんだ。

 

「――ごめんね。……傍にいてあげられなくて」

 

 ああ……くそ。だせぇ……な。情けねぇ……な。

 

 この年で、高三にもなって、一日に何度も親の前で……くそっ。

 

 今更、母親の胸で泣くなんて、思春期の男子にとっては拷問でしかない。そういうの分かんねぇんだろうな――このモンスターペアレントは。

 

 そんな息子の気持ちなど、まるで分からないこの母親は。

 

 まるで止めを刺すように――俺を殺しにかかってくる。

 

「――頑張ったね」

 

 ああ――完敗だ。また勝てなかった。

 

 母親には――勝てなかったよ。

 

 一生――勝てる気が、しない。

 

 聞き慣れたレーザーの照射音が鳴り響くのと同時に、母ちゃんは俺の身体から離れる。

 

 俺はとてもではないけれど見られたい顔をしている自信がなかったので、思わず顔を隠す。断じて目にゴミが入ったからではない。

 

 母ちゃんは、自分も涙でボロボロの癖に、くすりと笑って言った。

 

「こんなこと――私に言う資格なんてないんだけれど」

 

 まるで母親のように――息子に愛情たっぷりの言葉を。

 

「――幸せになりなさい」

 

 そう、俺に新たな呪いを刻んだ。……まったく、もうお腹いっぱいだっての。その手の呪いは。

 

 全く――俺は、幸せ者だ。

 

「――陽乃ちゃんを、幸せにしなさい。あんなにあんたにピッタリな子は、たぶん一生見つからないわよ」

 

 ああ――勿論だ。

 こんな俺を愛してくれる人なんだ。俺はずっと決めていた。誓っていた。

 

 俺を――こんな無様な俺を、愛してくれる人は現れたらその時は、絶対に幸せにしてみせるって。

 その為なら、何だってしてみせる。それだけが、俺の出来るせめてもの恩返しだ。

 

「……これから先は、今まで以上に地獄よ。私達は……これまで通り、きっとあんたの傍には居られない。……あなたはこれからも、一人で困難に立ち向かわなくちゃいけない」

 

 今更だ。

 

 母ちゃんも、親父も、ずっとそうして戦ってきたんだろう。

 

 だったら俺だって、それぐらい出来なくちゃ話にならない。

 

 俺は――アンタ達の、息子なんだから。

 

「……そうね」

 

 こんなこと、言う資格なんて、本当に、ないんだけれど――と。

 

 母ちゃんは消えながら言う。

 

「あんたは私達の――誇りの、息子よ」

 

 消失が顔にまで及ぶ。

 俺や親父とは似ても似つかないその綺麗な目を隠すように瞼を下し、その部分も消失していく最中。

 

 口元が小さく動き、震える。

 

 そして、意を決したように、言葉を紡ごうとする。

 

「……八幡。……あんたを、愛し――」

 

 そして――母ちゃんは、消失した。

 

 最後まで言葉を紡ぐことなく、消えた。

 

「………………知ってた」

 

 俺は、思わずそう呟いていた。

 

 知ってたよ。

 

 世界がそんなに優しくないことも。

 きっと、その言葉の続きを聞く日は、訪れることはないということも。

 

 色々な条件が重なって、こうして二人きりな状況だったからこそ、あんなに恥ずかしいことをお互いに言い合えたのだ。こんな奇跡の場は二度と設けられないだろう。

 

 知ってたよ――知っていたさ。

 だからこそ、俺は裏切られていない。初めから期待などしていないから。

 

 俺は――本当に、幸せ者だ。

 

 いなくなった母親が居た場所に背を向けて、俺は黒い球体と向き直る。

 

 無機質な部屋に、無機質な黒球が、ただ一つ。

 

 見慣れた光景だ。

 半年間、見続けた光景。

 

 黒い球体と、比企谷八幡、その二つの物体しか存在しない空間。

 安心感さえ覚えるこの空気を、まるで刻み込むように瞑目して、俺はガンツに独り言を呟いた。

 

「……お前は本当に、俺のことが大好きだな」

 

 憎まなかった日があるかといえば――嘘になる。

 生命の恩人であるこの球体を憎み、恨み、怒り続けた半年だった。

 

 あの日から――あの命日から、今日まで。

 色々なことがあった。色んな地獄を経験した。

 

 何もかもが悪い方に転がり続けた。

 愛した人を失い、愛した場所を失い、そして――今、俺は。

 

 この『部屋』すらも失い、更なる地獄に飛び込もうとしている。

 

「――ああ。もういい、ガンツ。十分だ」

 

 そして俺は、旅立ちの覚悟を固めて、言った。

 

「ありがとう――世話になった」

 

 そう、呟くと。

 

 黒い球体は、その黒い表面に、こんなメッセージを表示した。

 

【いってらっしゃい】

 

 俺は、そんな言葉に――小さく、笑って。

 

「――行ってくる」

 

 

 そして、真っ直ぐに、眩い光が俺に向かって照射された。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 照射された光が収まると、その部屋には黒い球体だけが残った。

 

 誰もいない――誰もいなくなった。

 

 

 

 この『黒い球体の部屋』には、もう――比企谷八幡は、いない。

 

 

 

 




 




そして――夜が、明ける。





▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。