比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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……ごめんね、雪乃ちゃん。


Side陽乃――④

 

 屋上という空間が、雪ノ下陽乃は嫌いではない。

 

 昨今では学生ドラマのように生徒が自由に出入りすることが出来る空間ではないけれど、陽乃は割と当時から好き勝手に使用していた。

 

 陽乃は学生時代から王者だった。

 いや、それよりも支配者、操縦者といった呼称の方が近いかもしれないが――兎も角、陽乃の傍には常に人が群がっていた。

 

 明らかに常人離れした存在感、華、カリスマ性を持つ少女。

 容姿端麗、頭脳明晰、才色兼備、天真爛漫、唯我独尊、天衣無縫。

 その上で地元の有力者の長女であり、名家のお嬢様という作り物めいたステータス。

 

 物語の主人公であるかのようなキャラクターな彼女と、花の学生生活を共にする。青春時代を共に送る。

 そんな時間は何の変哲もない只の高校生である有象無象の者達にとって、一生に二度とない、まるで物語の登場人物になれたかのような幻想に浸れる甘美な時間であったことだろう。

 

 無論、陽乃はそんなことは百も承知で、彼等彼女等に意図的にそんな気分を与えて楽しんでいたのだけれど、それでも――何よりも退屈を嫌う彼女は、そんな遊びに飽きを感じた時、ふと一人で屋上へと訪れていた。

 

 密閉空間から解放される感覚。それが陽乃には快感だった。

 

 この時だけは、世界が綺麗に感じられた。

 誰もいない屋上で、突き抜けるような空を仰ぐ瞬間だけは、まるで自分が自由であるかのように思えたから。

 

 そんな学生時代を思い出し――己が青春を回顧し。

 導かれるようにその場所を訪れた陽乃だったが――今日に限っては先客がいた。

 

 

 来良総合医科大学病院の屋上には、一匹のジャイアントパンダがいた。

 

 

「……ちぇ」

 

 陽乃はフェンスからひょいと降りる。

 世にも珍しい漆黒の全身スーツを身に纏ったパンダは、やってきた陽乃に向かってこう言った。

 

「扉から入ってくるという発想はないのかね」

「いくら透明人間になれても扉をすり抜けられるわけじゃないでしょ。鍵やら何やらの後処理が面倒だし、こっちの方が楽よ」

 

 何故だかこちらの姿が見えているようなので、陽乃は透明化を解除しながらパンダに言った。

 世にも珍しい渋い声で流暢に喋るパンダは、まだまだこちらが知らない特技を隠し持っているらしい。もうこのパンダが何をしても驚かない。ロケットみたいに飛んでビームまで出していたらしいし。

 

 露骨にそっけない態度を見せる陽乃に、パンダは構わず渋い声で端的に言った。

 

「それで、お別れは済んだかね?」

 

 パンダの言葉に、陽乃は表情を消して――青い空に消えるような呟きを漏らす。

 

「…………ええ」

 

 もう、この綺麗な世界に、思い残すことは何もない。

 

「――それでは、大歓迎しよう。雪ノ下陽乃。今から君は、我々の仲間だ」

 

 パンダは告げる。

 

「ようこそ、CIONへ」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 雪ノ下陽乃(その女)に――迷いはなかった。

 

 比企谷八幡が『黒い球体の部屋』を卒業(だつごく)し、更にその奥の、更にその裏の、黒い球体を支配する真っ黒な組織へと足を踏み入れるというのならば、更なる深淵へ堕ちていくというのならば。

 

 共にその奥へ、共にその裏へ、共にその深淵へと――心中することを選択することに迷いなどなかった。

 

 即断だった。即決だった。

 故に、夜が明け、朝日が昇った頃には既に、雪ノ下陽乃はパンダのメールアドレスに、自分も『本部』へ行くという希望の旨を綴った履歴書(メール)を送った。そして、パンダは、それを絵文字付きのメールで即行で了承した。

 

 これは、いわゆる特例措置の待遇だった。

 本来ならば、黒い球体の部屋を卒業することは――部屋から抜け出し、脱獄し、『本部』という更なる地獄へと堕ちるのは、こんなメール一つで行えるような気軽な転職ではありえない。

 

 通常、『部屋』の戦士から『部隊』の戦士へと昇格を果たすには、厳選たる審査を通過しなくてはならない。

 

 その入口は、大きく二つ。

 

 一つは、『まんてんメニュー』。

 ガンツ戦士の目標である『ひゃくてんメニュー』を十回通過すること、つまりは通算10回の100点クリアを果たし、通算1000点の得点(スコア)を稼ぐことによって初めて表示される特別画面――『まんてんメニュー』から、『ぶたいににゅーたいする』を選択することにより、初めて『本部』へと転送されることが可能になる。

 

 もう一つは、『勧誘(スカウト)』。

 目の前のパンダのように、時折『部屋』の中に紛れ込んでいる『本部』からの『監視員』により評価され、直接『本部』へと勧誘を受けることだ。今回の八幡や霧ヶ峰はこちらに当たる。

 

 だが、前者はともかく後者の方は、所謂『裏口入学』だ。そこには様々なリスクが存在する。

 

 一つは、単純に実力の問題だ。

 

 来きたる終焉(カタストロフィ)の日に向けて、星人討伐と戦力増強の意味合いを兼ねて、世界中へと配備されている『黒い球体(GANTZ)』。

 一人でも戦士が欲しいCIONが、わざわざ貴重な人材をふるいに掛けてまで厳選することで育て上げている軍隊――それが、『部隊』の戦士。

 

 何故、その栄えある資格を得るまでに、100点クリア×10回などという余りにも高い登竜門を設けているのか――それは偏に。

 

 それほどまでに強い戦士でなければ、数合わせにもならない戦争(ミッション)が存在するからだ。

 それほどまでに強い戦士でなければ、相手にもならない星人(ターゲット)が、数多に、無数に、存在するからだ。

 

 この星には――地球には。

 

 ただ適当に集めた死人では時間稼ぎにすらならない戦争――地獄(レベル)が違う、上級ミッション。

 そんな地獄の中の地獄から生還し続けることで腕を磨き、終焉(カタストロフィ)において明確に『戦力』として活躍することを期待され、使命とした――終焉を齎す災厄(カタストロフィ)を滅ぼす“英雄”となる素質を認められたエリート戦士達。

 

 それが――『部隊』の戦士。

 

 本部に招かれ『部隊』の一員となった者達が受けるミッションは、送り込まれる戦場は、『部屋』時代のそれとは訳が違うのだ。格が違うのだ。何もかもが違うのだ。

 そして『部隊』の戦士は、それに対応できるだけの戦士でなければならない。

 

 地獄の中の地獄に適応し、化物の中の化物に対抗できる、戦士の中の戦士でなければならない。

 

 それを見分ける分かり易い条件(ボーダー)として『本部(CION)』側が設けたのが『まんてんメニュー』――100点クリア×10、通算獲得点数1000点であるというわけである。

 

 つまり――『監視員』が『部隊』の戦士として『勧誘(スカウト)』する『部屋』の戦士は、いずれはその条件(ボーダー)を超えるであろうと想定される資質を認める戦士か、または、それに値する特異な能力を持つ戦士でなければならない。

 

 ある程度戦える――その程度では存在自体が邪魔になる。

 そんなレベルの戦争(ミッション)が、『部隊』の戦士には課せられるのだ。下手をすれば、その中途半端な不適合者(スカウト組)のせいで、地球を救うかもしれなかった英雄が死ぬかもしれない。それはすなわち、地球を滅ぼす戦犯になるということに他ならない。

 

 故に――『監視員』は己が『勧誘(スカウト)』してきた戦士に責任をもたなくてはならない。

 具体的に言うならば、本部側が『戦犯』だと――戦士にすら値しない不適合者だと、己が勧誘してきた戦士が認定されれば、その戦士を連れてきた『監視員』諸共、『部屋』へと送り返されるという(ペナルティ)が与えられる。記憶操作を施されるというおまけ付きで。

 

 故に、『監視員』は余程に才能を認めた戦士以外は基本的に『勧誘』しない。

 勧誘してきた『戦士』が上位幹部(ランキング)入りを果たそうものなら、その『戦士』を連れてきた『監視員』も大幅に評価を上げることになるが、それ以上に余りにも危険性(リスク)が大きい

 

 だからこそ、今回のように、一度に三名の戦士(キャラクター)勧誘(スカウト)するなど、正に前代未聞と言っていい。

 

 それも、その三名の戦士というのも色物揃い。

 13回クリアの実績があるとはいえたかだか5点の星人に一度殺されている戦士――《霧ヶ峰霧緒》――と。

 黒い球体に格別に目を掛けられているとはいえ半年間もの間でたった一度しかクリア出来ていない戦士――《比企谷八幡》――と。

 ワンミッションで100点獲得を成し遂げたとはいえ僅か二回の戦争経験しかない上に脱落経験もある戦士――《雪ノ下陽乃》――だ。

 

 余りにも――不確定なる、不透明な、不穏分子。

 とてもではないが普通の『監視員』ならばドラフト候補にすらリストアップしないであろう――逸材ばかりだ。

 

 だが――と、パンダは思う。

 

(……既に『まんてんメニュー』を当てにする段階(フェイズ)は過ぎている。残る終焉(カタストロフィ)までの期間を思うと――新たに1000点を稼ぐ戦士は、最早現れないだろう)

 

 現れるとしても、それは既に『黒い球体の部屋』の一員となっている既存戦士の内の誰かであろうと、パンダは考える。

 新たな登場人物はもう現れない。カードは全て配られている。ならば、遅かれ早かれだ。

 

(『部屋』の戦争しか経験のない戦士と、『部隊』の戦争を体験した戦士では、その力量に雲泥の差が生まれる。『入隊』は一日でも早いに越したことはない)

 

 カタストロフィでの活躍を望むのならば。カタストロフィに戦力として臨むのならば。

 

 パンダはそう考える。ならば後の問題は、戦士を見抜く『監視員』の目だけであると。

 これまで最も多くの戦士を『入隊』させた名スカウトは、遂に幹部に手が届く地位にまで上り詰めた一体の実験体(パンダ)は、そう考える。

 

 霧ヶ峰霧緒。比企谷八幡。そして、この――雪ノ下陽乃。

 

 誰一人として真っ当な戦力になるとは思えない。

 エースにも、キングにも、クイーンにもなれないだろう。

 

 だが、コイツ等は、とびっきりのジョーカーになれる可能性を秘めている。

 

道化師(ババ)となるか、はたまた状況を引っ繰り返す切り札(ジョーカー)になるか――そこは文字通りの賭け(ギャンブル)だが)

 

 賭ける価値はある――勝ちを狙うには、時に博打に出なければならない。それを獣は知っていた。

 そして、生命を懸けた賭け(ギャンブル)に勝ち続けたからこそ――男は、雌の獣の身体で、こうして未だ無様に生き永らえている。

 

(……そして、可能性(ジョーカー)といえば……もう一人)

 

 あの黒い球体の部屋で、数々の英雄候補を導き出してきた獣が目を付けた――とある最後の戦士がいる。

 

 識別番号(シリアルナンバー)000000080――あの黒い球体が運営する、その黒い球体の部屋には、まるで運命に導かれたかのように、独特の光を放つ可能性が満ちていた。

 

 その中でも一際に昏く、妖しく、獣好みの黒色の光を放つ三名。

 

 黒い球体から魅入られた闇眼の戦士。

 太陽の名を持つ魔王の資質を持った戦士。

 人の身でありながら異形の才能を持って生まれた戦士。

 

 更に、(パンダ)の目には留まらなかったものの、恐らくは他の『目』を持つ者達によって見出されるだろう四名。

 

 英雄の素質を持つ鍍金の戦士。

 小さな身体に蛇を棲まわす死神の戦士。

 二つの本性を持つ美しき堕天の戦士。

 闘争を愛し強者に貪欲な破壊の戦士。

 

 そして、己自身は無力ながらも、不可思議な色を持つ運命に絡め取られる小人。

 

(随分と面白い『部屋』を作ったものだ)

 

 これまで数多くの『部屋』を訪れたパンダは、あの黒い球体の部屋をそう評価する。

 

 誰よりも強い戦士がいるわけではない。何処よりも華々しい活躍をしているわけでもない。

 だが、まるで物語を描く力を持つような、物語を動かす運命を持っているような、そんな不思議な光を持つ戦士達が集結している()()()『部屋』。

 

 しかし、そんな部屋の中で、光輝く可能性の中で、たった一人――異色の輝きを持つ戦士がいた。

 

 否――()()()()()()()()()戦士がいた。

 

 その戦士が放つ光は、余りにも小さく頼りない。

 

 どいつもこいつも個性派揃いの、あの眩い可能性に満ちた部屋において。

 まるで迷い込んでしまったかのような小人さえ、自ら輝いていないまでも、不思議な光の運命を纏っていたというのに――その男には、それさえもなかった。

 

 まだまだ粗削りだが、状況を引っ繰り返す力を持つ、あるいは物語を揺り動かす運命(ジョーカー)の素質を持つ戦士(キャラクター)達が犇めくあの『部屋』で――場違いなまでに、不似合いな存在がいた。

 

 黒い球体(GANTZ)に対する適正。戦争(MISSION)に対する適正。そういったものを、まるで感じさせない戦士。

 

 なのに、案の定無様に死に絶えたのに、誰にも期待されていないのに――それでも。

 

 この局面で――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()戦士(キャラクター)

 

 そこに――このパンダは。

 

 奇妙な、運命(伏線)を、感じた。

 

(――ギャンブルは、賭け(BETし)ないことには始まらない)

 

 圧倒的に確率が低い馬券。

 だが、当たれば――最高に、面白い万馬券。

 

(――それも、またロマンか)

 

 獣は――笑うように、二本足で屹立した。

 

「――雪ノ下陽乃」

 

 急に立ち上がった獣にギョッとし、あ、やっぱりパンダって立ち上がると思ったよりデカいしなんか怖いな、とか思って軽く引いていた陽乃に向かって、ジャイアントパンダは渋い声で告げる。

 

「今日がこの『表の世界』での最後の一日だ。愛する男と過ごすなり、愛する妹の傍にいるなり、好きに過ごせ。夜にはまた迎えに来る」

「……一応聞くけど、あなたはどうするの?」

 

 黒いスーツから物々しいロケットエンジンが飛び出してくるのを冷めた目で見詰めながら、陽乃は本当に一応聞いてやるかといった口調で言う。

 

 パンダはそんな女に、恰好を付けて、返す。

 

「少し――つまらない男に会ってくる」

 

 六時の会見だけは見逃すな――そう言って、まるで流れ星のように、パンダは空の星になって消えた。

 

 飛行機雲すら残らない、音速なのか超速なのか分からない速度で飛んで行った――目で追うことなど当然できなかったので恐らくは飛んで行ったであろうという――方向を、まるで馬鹿な男子を見るような目で眺めながら、陽乃は呟く。

 

「……普通に転送していけばいいのに」

 

 恐らく透明化処置は当然に施しているのだろうが、わざわざあんな大掛かりな装置を使って飛んでいく必要があるのだろうか。体にも負担がかかっているだろうに。

 それとも転送工程にも何らかの条件がいるのだろうか、とまで考えて、陽乃はどうでもいっかとばかりに溜息を吐く。

 

 そして、そのまま屋上の給水塔に背中を付けて座り込む。

 八幡の元に行こうかと思うも、まだあの『母親』と対峙するには心の準備が追い付いていない。

 だが、かといって――妹の元になど行けるわけがなかった。

 

 妹に会わせる仮面(かお)など、雪ノ下陽乃に残されている筈もなかった。

 

(…………雪乃ちゃん)

 

 自分がこのままいなくなれば、雪乃は探してくれるのだろうか。

 

 生き返って、会いに行って、経緯はどうあれ、原因は如何であれ、雪乃はあんなにも感激して、半年ぶりに会った陽乃を迎えてくれた。

 頼りにしてくれて、縋ってくれて、支えにしてくれて――そして、再び、切り捨てられた。

 

 葉山隼人から切り捨てられ、比企谷八幡から切り捨てられ、雪ノ下陽乃からも切り捨てられた。

 

 雪ノ下雪乃は、また、いつまでも――選ばれない。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「ちょ、や、止めなさい姉さん! 揺らさないで!」

「ははは。だってぇ~。雪乃ちゃんのリアクションが面白いから~」

 

 そう言ってゴンドラを揺らしていた陽乃は、雪乃の対面の席へと戻る。

 窓際のパイプにしがみ付いてた雪乃は、そんな陽乃を見て分かり易く溜息を吐いた。

 

「もう……姉さんはいつもそう……」

「雪乃ちゃんが可愛いのが悪い!」

「姉さんはもう少し悪びれなさいな……」

 

 雪乃は額にその綺麗な指を当てながら再び息を吐く。

 しかし、もう片方の手は未だにパイプから離せないでいるのを陽乃が細めた眼でにやけながら見詰めると、雪乃はむっとしながらその手をバッと放した。

 

(……本当に、可愛いなぁ……)

 

 陽乃は、そんな雪乃を今度は慈愛の篭った瞳で見詰める。

 膝に肘を置いて、右手を己の頬に当てながら、真正面に座る――己と目を合わせようとしない妹を見詰める。

 

 姉妹揃って、姉妹だけでの遊園地など何年ぶりのことだろう。

 昔は引っ込み思案だった妹の手を引いて、あちこちへとよく連れ回していた。

 

 可愛い反応をする妹が可愛くて、構い過ぎて揶揄い過ぎた結果、今ではあまり付き合ってくれないというか、露骨に嫌な顔をされるようになってしまったけれど(そんな雪乃もまた最高に可愛いので良しとしているが)、今回は珍しく、素直に了承してくれた。

 

 雪乃にとって姉と来る遊園地など、コースターでバーを放させたり、コーヒーカップで回転数の限界に挑戦したり、彼女にとってはトラウマに近い(勿論、陽乃が植え付けたものだ)場所の筈なのに――事実、今日もそれはもうはしゃぎまくった陽乃に振り回され続けた一日だったというのに、雪乃はちゃんと付き合ってくれた。帰ろうとは一度もしなかった。

 

 雪乃は、どんどんと高度を上げる観覧車のゴンドラの窓から――眩しい夕陽を眺めている。

 陽乃は、そんな夕陽に照らされる雪乃の横顔を眺めながら、優しい声音で問い掛けた。

 

「……雪乃ちゃん。今日は楽しかった?」

「……姉さんは楽しそうだったわね」

「うん! 可愛い雪乃ちゃんがいっぱい見れたからね!」

「…………そう。私はもう、姉さんとは二度と来たくないわ」

 

 つれないなー、雪乃ちゃんは――と、妹のいつもの(自業自得の)塩対応に、そんな言葉を返そうとした陽乃の言葉は、しかし、遮られた。

 

 夕陽を横顔に浴びながら、陽乃の方を向いた雪乃が、姉に向かって――美しく、微笑んでいたからだ。

 

「――でも、楽しかった。ありがとう、姉さん」

 

 最後に、いい思い出が出来たわ――そう言った雪乃を、陽乃は、直視することが出来なかった。

 そのまま顔を俯かせて「……やだなー、雪乃ちゃん。まるで今生の別れみたいだよ」と、声色だけは、いつもの飄々とした感じを繕って――仮面を被って。

 

 外骨格を――強化して。

 けれど、未熟なその鎧は綻びだらけで。隙間からポロポロと――弱さが、零れて。

 

「……雪乃ちゃん。――後悔は、ない?」

 

 陽乃は、やはり、顔を上げることは出来なかった。

 それが酷く今更な、卑怯な問い掛けであることを自覚していたから。その上、どんな言葉であろうと、どんな答えであろうと、その言葉を、答えを出すという行為自体が雪乃を傷つけることも理解した上で――その上で、まるで縋るように、雪乃に投げ掛けてしまったからだ。

 

 恥ずかしい。浅ましい。向ける顔など、あるわけがない。

 それでも、陽乃は問い掛けを撤回することは出来なかった。期待を――捨てることが出来なかった。

 

 もし、期待通りの答えが帰って来たところで――陽乃に出来ることなど、何かをする資格など、ある筈もないのに。

 

「……そうね。これが正解なのかは分からない。……逃げなのだという、自覚もある。…………それでも――私は、弱いから」

 

 雪乃は、陽乃(わたし)を見ているのだと、そう感じた。

 

 顔を上げられない陽乃を。妹に顔向け出来ない姉を。

 きっと、眩しいくらい――温かい、憧れで。

 

「私は――なりたいの。強く、正しく。だから、きっと……後悔しないと信じてる」

 

 その言葉は真っ直ぐで、その思いは真っ直ぐで、その瞳は――真っ直ぐだった。

 

 真っ直ぐ――雪ノ下陽乃に、向いていた。

 

 陽乃は眩しくて、真っ直ぐ妹を見れなかった。

 

 見たらきっと、眩しくて潰れてしまうから。

 

「……そっかぁ。羨ましいな、海外生活。私も、いつか行ってみたいんだよね、アメリカ」

「海外生活というか、留学よ。遊びに行くんじゃないわ。学びに行くのよ」

 

 強くなりに行くのだと、雪乃は言った。

 陽乃は、「そっか」とだけ返した。

 

 俯くままに、陽乃の化物としての脳は、その残酷な答えを弾き出している。

 

 きっと、雪乃のその思いは――叶うことはないのだろう。

 日本の千葉という小さな世界から逃げ出すこの妹が――小さく、美しく、脆い少女が、逃げ出した先の大きな世界で、強く生まれ変わることが出来るとは思えない。

 

 彼女を変えることが出来るのは、世界ではなく――人だ。

 雪ノ下雪乃という、脆くも美しい少女に、壊すことを恐れずに優しく触れることが出来る存在との出会いだけが、彼女を救うことが出来るのだと。

 

 好きな物を構い過ぎて殺してしまう、問答無用で雪の結晶を溶かしてしまう太陽のような自分の手では、決して不可能な偉業を成し遂げてくれる者との出会いだと――陽乃は思う。

 

「……頑張れ、雪乃ちゃん」

 

 陽乃は、今、未熟なりに作れる最高傑作の強化外骨格を身に纏いながら、顔を上げて、旅立つ妹へと微笑みかける。

 

 きっと――此度の海外留学は、この儚き妹を救わない。

 そんな確信を抱きながらも姉は、それでも妹の背中を押す。

 

 今は、この千葉の街を離れることが、妹には必要なのだと。これは必要な逃避なのだと、そう己に言い聞かせて。

 妹に手を伸ばすことすらせず――ただ、突き放すように、突き飛ばすように背中を押すことしか出来ない自分に、しない自分に、そう、言い聞かせて。

 

「……ええ、姉さんも。高校に入ったら、更に母さんの教育も厳しくなるし、父さんの得意先に顔を出すことも増えると聞いているわ」

「適材適所だよ。私はそういうのを上手くやる自信もあるし――ちゃんと、全部、上手くやるから」

 

 それは嘘でも、強がりでもなかった。

 陽乃は事実、母の英才教育の全てを己の血肉とし、父によって連れ出される大人達との会合も己の力とするように動いてきた。

 

 敵のいない己の人生。

 ただ一人、今の己が敵わない相手――己が母親である、雪ノ下陽光。

 

 彼女を打倒する上で、母が施す教育と、父が連れ出す会合は、己が支配力を広げる絶好の狩場だった。

 だからこそ、雪乃のいないこの三年間は、陽乃にとっては絶好の機会だ。

 

 両親の目が全て己に向く。

 それは陽乃にとっては地獄であろうが、それと同時に――戦争でもある。

 

 両親の喉元に手が届くかもしれない好機にもなり得る――陽乃はそちらを選んだ。

 雪乃を救えるかもしれない好機よりも、両親を殺せるかもしれない好機の方を選んだ。

 

 それを自覚した時、陽乃は――生まれて初めて、自分のことを、化物だと認めかけた。

 

「……ごめんね、雪乃ちゃん」

 

 気が付いたら、己の口からそんな言葉が零れ落ちていた。

 強化外骨格を身に纏ったままで、いつもの飄々としたそれと変わらない口調で。

 

 雪乃は、そんな陽乃に――温かい憧れを、向けたままで。

 

「……どうして、姉さんが謝るの?」

 

 雪乃のその目には、今の陽乃はどう映っているのだろう。

 

 自分が逃げ出した戦場で戦い続ける戦士だろうか。

 自分が出来なかったことを成し遂げ続ける女傑だろうか。

 

 強くて、美して、たくましくて――そんな完璧で、眩しい、(あこがれ)なのだろうか。

 

「…………雪乃ちゃんは、可愛いね」

 

 陽乃は、そう呟いて、再び俯いた。

 

 窓から差し込む夕陽が眩しくて――夕陽を浴びる雪乃の横顔を、ちらりと見上げて。

 

 もう一度、心の中で呟いた――ごめんね、雪乃ちゃん、と。

 

 そして、もう一度、心の中で、願った。

 

 可愛い妹に向けて、救いの手すら差し伸べることが出来ない、化物な姉だけれど。

 

 どうか、この美しくて儚い雪の結晶に、優しく触れてくれる理解者が。

 

 他の何を差し置いてでも、彼女に手を伸ばしてくれる、彼女を選んでくれる、彼女を助けてくれる――そんな本物が。

 

 どうか、どうか、現れますように――と。

 

 そして、その時は――。

 

 そんな妹の救済を祝福出来る、そんな姉で、ありますようにと。

 

 

 確かに願った――その筈、なのに。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――――っ。……ごめんね、雪乃ちゃん……」

 

 いつの間にか陽乃は、まるで少女のように、膝を抱え込んで丸まっていた。

 

 ごめんね、ごめんねと。

 誰もいない屋上で、いつまでもいつまでも心の中で謝り続けた。

 

 それでも、陽乃を赦すものはいない。ここには雪ノ下陽乃しかいない。

 

 自分はもう、雪乃と会うことはないだろう。

 八幡のように記憶操作されているわけではないので、もう二度と会えないというわけではないだろうが――それでも。

 

 自分はもう、雪ノ下雪乃の姉を名乗ることは出来ない。

 陽乃が、あんな状態の妹よりも、愛する男の傍にいることを選んだ罪科は――揺るがない。

 

 ごめんね、ごめんねと、少女は泣いた。

 ズキン、ズキンと、心が痛んだ。

 

 いつまでも、いつまでも彼女はそうしていた。

 この世界で過ごす最後の一日を、彼女はそうして妹への懺悔に費やした。

 

 ごめんね、ごめんねと、少女は泣いた。

 ズキン、ズキンと、心が痛んだ。

 

 その痛みが涙を呼び込み、その涙が誰かに許しを請うた。

 

 だけど、誰も彼女を赦さない。

 

 この場所には、雪ノ下陽乃しかいないから。

 

 雪ノ下陽乃は、どんなに泣いても、雪ノ下陽乃を赦すことはなかった。

 

 雪ノ下陽乃は、雪ノ下雪乃を、愛していたから。

 

 きっと――ずっと。これからも――ずっと。

 




誰もいない屋上で、自分しかいない空間で、姉は妹に懺悔する。――彼女を赦す者は、いない。

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