時間は少し遡り、オニ星人との
壊れきり、弱りきり、全てを失った少年に、太陽のような笑顔を持った美女が復讐の口付けをした――その後の、
+++
「――というわけなので陽乃さん。陽乃さんは自室へと転送された後、可及的速やかに自宅から脱出してください。スーツは着たままでもいいでしょう。今から転送されるとしたら恐らくは夜明け前くらいでしょうし、その時間なら第三者に見られる可能性も低いと思います。念の為に透明化は施した方がいいでしょうが」
「……なにが、というわけなのかな?」
あの後――あの情事の後、ガンツスーツを再び着直して廊下から黒い球体の部屋に戻ったと同時に唐突に切り出した俺の言葉に、陽乃さんは苦笑しながら首を傾げた。
……ああ、陽乃さんの顔が見られなくて早口になったのは認めよう。俺みたいな奴がやる照れ隠しなど誰にも需要がないという声も受け止めようじゃないか。だが、これは言わなくてはならないこと、陽乃さんに絶対にやってもらわなければならないことだ。
ガンツスーツに再び着替える間、陽乃さんに聞かされたその話が確かなら、まだまだ俺達は気を緩めることなど出来やしない。
「今日は色々なイレギュラーがありましたが、従来通りならこの後、俺達は自室へと転送されると思います。ですが、陽乃さんの話の通りなら、今の雪ノ下家は怪物の巣窟でしょう。しかも――陽乃さんを一度、殺したような星人」
「…………」
「放置は当然出来ませんが、陽乃さん一人で相手をするのは危険すぎます。明日の朝一で俺と中坊――霧ヶ峰が乗り込んで、敵のトップ――話を聞く限りでは恐らくは陽乃さんの両親に
「……へぇ、意外。今の八幡なら、星人は問答無用で即時殲滅! とか言い出すのかと思った」
……まぁ、たしかに、今の俺ならそう言うだろう。普通ならば。
だが、陽乃さんの話が確かなら、その星人達はオニ星人のように、人間社会に深く溶け込んでいる。擬態して、紛れ込んでいる。
そして、
そんな星人が形成している組織の全容を明らかにする為には、この繋がりを、出来れば潰すのではなく、突破口にしたい。
……それに――。
「――そいつ等には、万が一即座に戦争になったとしても、絶対に聞かなくてはならないことがあります」
「……本物のお母さんたちが、どうなったかだね。……それに――」
――雪乃ちゃんのことも。
陽乃さんが、その名前を口にした時――俺の中に、どすんと重々しい何かが圧し掛かるような感覚が襲った。
……そうだ。
陽乃さんは、奴等に殺された。一体、いつから“そう”なっていたかは分からないが、最低でもその時には、少なくとも雪ノ下の母親は、謎の星人にすり替わっていたことになる。
そして、その日から、既に半年が経過している。
俺は――そんなことには、全く気付かなかった。
雪ノ下の母親に会う機会は終ぞなかったが、俺は雪ノ下と二十四時間一緒にいたわけではない。
休日もかなりの時間を一人暮らしのアイツの家で過ごしたが、それでもアイツの症状がいくらかマシになってからは、夜は自宅に帰ったし、当然ながらガンツミッションの時は一緒にはいられなかった。
つまり、雪ノ下の母親に化けている化物が、その謎の星人が、雪ノ下に接触するチャンスがなかったとはいえないのだ。
なんせ母親だ。周りの人間はおろか、雪ノ下本人すら警戒心を抱かないだろう。……いや、もしかしたら
通院中送り迎えをしていた都築さんすら、こうなると信用できない。
…………俺は、しばしの黙考後、陽乃さんの方を、意を決して向いて告げる。
「…………その事なんですが、陽乃さん」
「ん? なあに?」
情事後、俺は初めて真っ直ぐ陽乃さんの方を向いたので、心なしか頬を染めて嬉しそうにする陽乃さんだったが、俺の告げた言葉に、その笑顔でぴしっと表情を固めた。
「俺と霧ヶ峰が雪ノ下家へ乗り込んでいる間――陽乃さんは、雪ノ下の元へ行ってもらえませんか?」
+++
「……………………」
陽乃は、そんな昨夜の会話を思い出しながら、その機械の前に立っていた。
昨日の今日なので、やはり体に少し違和感を覚え――生き返ったのとはまた別の要因だ――誰に気付かれている訳でもないのに妙に恥ずかしく、同時に物凄く嬉しくて偶に頬が緩みそうになったが、ここに到着する頃には流石に頭も冷え、そして気を引き締めていた。
夜明け前、八幡の言う通りに自室に転送された後、陽乃は初めてのガンツミッションからの帰還に何の混乱も抱くことなく、即座にクローゼットへと駆け寄り、最低限の着替えと財布と携帯だけを持って、スーツの透明化を発動させながら窓から外に飛び降りた。
一応、追っ手などが来ないか確認しながら、一目散に広大な雪ノ下家の敷地から脱出し、最寄りの公園の公衆トイレの中でスーツの上からジーンズとパーカーを着用する。
雪ノ下陽乃としては相応しくない凡庸な服装だったが、それでも彼女が着れば最先端の流行ファッションのように様になるのだから不思議だ。
そして、平日故に登校の学生が賑わう時間帯になる前に彼女の住むマンションに着くように計算しながら移動し――
――今、雪ノ下陽乃は、雪ノ下雪乃が一人暮らしをしているタワーマンションのエントランスにいる。
時刻は、午前八時。
規則正しい生活を送っているであろう雪乃ならば、おそらくはとっくに起床して登校準備を済まし、彼が迎えに来るのを待っているのだろう。
と、そこまで考えて、そんなことは有り得ないのだと悟る。
何故なら、彼女はもう――。
陽乃は、何故、自分だけ別行動なのだと八幡を問い詰めた時、彼が目を逸らしながら――黒い球体を見つめながら呟いた言葉を思い出す。
『……もう俺は、雪ノ下と会うことは出来ません。……アイツはもう――』
――俺から、解放されているでしょうから。
「――――ッッ」
陽乃は、ぐっと何かを堪えるように胸の上で右手を握り締めた後、突き動かされるようにエントランスから雪乃の部屋に呼び出しを掛ける。
…………出ない。陽乃はもう一度呼び出す。
出ない。三度、四度、五度――ベルは鳴るが、それでも雪乃は応答しない。
陽乃は表情を歪める。
……八幡の話から覚悟はしていたが、呼び鈴に反応出来ない程に――これだけの距離を開け、高級タワーマンションのセキュリティに守られている状態ですら、他人との接触が出来ない程に――それほどまでに、雪ノ下雪乃は、陽乃の、自分の妹は――。
こうなれば、身内ということを理由にマンションの管理人に部屋を開けてもらうしか……と、陽乃が最後の強硬手段を検討していると――。
十度目――これが最後と陽乃が気持ち強く押したベルに対し、初めてスピーカーから反応があった。
『………………だ……だれ……?』
消え入りそうな、か細い声。
だが、それは半年振りに聞く――生き返ってから初めて聞く、愛する妹の声だった。
陽乃はスピーカーに食いつくようにして応える。
「雪乃ちゃん!? わたし! 陽乃よ! お姉ちゃんだよ、雪乃ちゃん!」
そう反応した後に、陽乃は八幡から聞かされたあのことに気付く。
この世界で――自分はこの半年もの間、いなくなっていたことを。
いないことに、なっていたことを。
それはガンツミッションで死亡した、脱落した敗北者達の末路。ガンツによる犯行の、存在の隠蔽工作。
自分も、葉山も、この世界の――おそらくは全ての人達の記憶から、存在が抹消されていた。
いないことに、何も思われない存在。いないことが自然な存在。
それを聞いた時、流石の陽乃も背筋が凍ったが、その後、八幡はこう言った。
『――俺に対する記憶工作は、ガンツミッションの脱落者に対するものと同じものだと、パンダはそう言っていました。直接関係者に会えば、崩れてしまうような強度の改変だと。……これは俺の予想ですが、きっと生き返った後、顔を合わせればそいつは、陽乃さんや葉山のことを思い出すんじゃないですかね? 出来事や思い出まで
そう言った時の八幡は、自嘲めいた冷たい笑みを漏らしていたけれど、そのことに胸を痛めていた為に、雪ノ下陽乃ともあろうものがこんなことにまで思考が回らなかった。こんなことに、この事態になってようやく思い至った。
この状態は――果たして
『…………おねえ、ちゃん?』
雪乃の、訝しむような声。雪乃が、自分のことを、
陽乃の背中に、あの時とは違う種類の冷たい汗が流れる。
不味い。雪乃は、陽乃のことを
あの記憶操作は、顔を合わせなくては解除されないのか? 声だけの――機械越しの再会では、その
陽乃が焦りと共に――最愛の妹に忘られていたという胸の痛みを精神力で押し込めながら――この状況に対する打開策を瞬時に模索し始める。が――
『…………ねえ、さん? …………ねえさん! ねえさん! 姉さん! 姉さん!』
突如、スピーカーから聞こえる雪乃の声色が変わる。
陽乃はふうと息を吐く。よかった。どうやら
と、陽乃が雪乃の声に答えようとすると――。
『ああ、姉さん! 姉さん姉さん姉さん! 姉さん! 姉さん! 姉さん!』
ピクリと、その動きが止まる。
スピーカーが壊れているのか、と、先にそんな可能性を陽乃は疑ってしまう。
だが、雪乃は止まらない。まるで壊れたラジオのように、ただただ姉を呼び続ける。
「…………雪乃、ちゃん?」
陽乃は、食い入るようにしていた体勢から、一歩、遠ざかる。スピーカーから、愛する妹の声から距離を置く。
半信半疑だった。信じたくなんてなかった。けれど――逃げられない。もう、逃げられない。逃げる訳にはいかない。
陽乃の脳裏に、昨日の、あの八幡の罪の告白が、何度も何度も懺悔していた、あの言葉が過る。自分は――。
――雪ノ下雪乃を、
『姉さん! 姉さん姉さん! ああ、姉さん! そこにいるのね姉さん! 姉さんがそこにいるのね! ああ姉さん、来てくれたのね! よかった……本当に………姉さん……姉さん姉さん……ねえさん……ねえさんねえさんねえさん』
陽乃が唇を噛み締めながら、残酷な現実に涙を堪えていると、スピーカーから響く雪乃の声に、徐々に嗚咽が混じり込んでいく。
途端、陽乃は焦りながらスピーカーへと再びへばり付き、その妹の涙に反応する。
「どうしたの、雪乃ちゃん!? 何かあったの!?」
『ああ姉さん。心配してくれるのね? 姉さんはそこにいるのね? 来てくれたのね? 来てくれるのね?』
「雪乃ちゃん! お姉ちゃんはここにいるよ! 雪乃ちゃんに会いに来たの! だから開けて!」
『開けるわ。直ぐに開けるわ。今すぐ開けるわ。だからお願い。来て。すぐに来て。お願い、姉さんお願い――』
陽乃は開いた自動ドアに向かって駆け出す瞬間、スピーカーから聞こえた最後の言葉に――思わず、その足が止まった。
『――今すぐ……私を……助けて』
その言葉は――重かった。
妹を溺愛し、雪乃の為ならば何だって出来ると、何だってしてみせると、そんな思いをずっと抱いてきた――今でもそれは、こうして生き返った今でもそれは、いや一度死んだからこそこの思いは、変わらず、むしろあの頃以上に強く抱いていると言える、誓える……その筈、なのに。
(…………八幡は、ずっとこれを背負ってたんだね。…………自分が、雪乃ちゃんを
陽乃は、思わず泣きそうになった。
上を向いて、唇を噛み締めて、拳を強く握って。
「――――ッッッ」
そして、再び、今度こそ――愛する妹の元へと向かう。
愛する妹を――そして、愛する男を、傷つけ続けるこの世界を呪いながら。
+++
そして雪ノ下陽乃は、タワーマンションの十五階――表札のないその部屋の前に立つ。
はっきり言って嫌われていたが故に、陽乃は殆ど訪れたことのなかった、愛する妹の暮らす部屋だ。
「……………」
一度、その扉を前に足を止めると、次の瞬間には陽乃の指は真っ直ぐインターホンへと伸ばされていた。
上等な楽器の音のようなものが響く――と、同時に、ガチャガチャガチャと複数個の鍵が乱雑に焦ったように開いていく音がする。
それに対し、陽乃は扉の前から少し距離を取りつつ、けれど唇を軽く噛み締めて、待つ。
時間にしては数秒――その扉は内側から勢いよく開かれた。
「姉さん!」
そう叫びながら、その少女は勢いよく目の前に立っていた女性に向かって飛びついた。
「――――っっ!!?」
対して陽乃は、その一瞬――扉が開いて中から飛び出してきた少女が自らの胸の中に収まるまでの、その一瞬、垣間見えたそれに、目に飛び込んできて、目を奪われたそれに――
「……………ゆき、の………ちゃん………」
掠れた声を漏らす陽乃に対し、雪乃は姉の豊満な胸に顔を埋めながら、その存在を確かめるように何度も何度も顔を擦り付ける。
「ああ、姉さん。姉さん、姉さんだわ。どうして忘れていたのかしら。こんなにも頼りになる人を。私を守ってくれる人を。ああ姉さん。姉さん姉さん姉さん姉さん!」
雪乃は気付かない。自分が抱き付いている姉の身体が――小刻みに震えていることに。
「………ぁぁ」
陽乃は、震える己を掻き抱くように、自分の胸の中の雪乃を、優しく、愛しく、包み込むように抱き締めた。
それに感激したように、雪乃は悩ましい声を漏らしながら、姉さん姉さんと姉の温かさに身を溺れさせていく――自分を守ってくれる存在に、依存していく。
失った何かを、失くしてしまった誰かを、補うように。
陽乃は、そんな雪乃を抱き締めながら、垣間見えたそれに、見てしまった現実に、涙を流す。
(………雪乃ちゃん………こんなのって………こんなことって………)
扉を開け、一目散に自分に抱き付いてきた、満面の笑みを、救われたかのような笑みを浮かべていた、雪乃の、妹の、その瞳は――。
「……………ッッ!」
――いつかの誰かのように、どんよりと………腐っていた。
雪ノ下雪乃は、陽乃の知る彼女では有り得ない、ダボダボのトレーナーとスウェットという恰好だった。
平日の朝だというのに登校準備どころか、おそらくは寝間着のままであるという感じだった。
まぁ、こんな様子だととてもではないが登校など無理だろうという、陽乃の、この雪ノ下雪乃を受け入れようとする心の整備は、部屋へと上がった所で、再び悪い意味で――この最悪の状況から更に悪い意味で裏切られた。
「――――っ!?」
調度品の少なさ――最低限さは、陽乃の知る雪乃らしさを辛うじて残していたが、高校生の少女の一人暮らしのリビングとしては広過ぎる室内に散乱する服やら本やらが、その機能的な家具達を覆い隠していた。
否――覆い隠せてはいなかった。元々雪乃は無駄遣いをせず、物欲も乏しい少女だった。精々が猫関係やパンさんグッズくらいだろう。だが、その数少ない私物や私服が、辺り一面に投げ捨てられ、放り出されていた。全てを覆い隠せてはいないことが、却ってこの惨状をいやに現実的にし、彼女の行動を思い起こさせた。
見えるようだ。彼女の姿が。おそらくは陽乃がここに来るまでの、今日、目覚めてからの彼女の、悲痛な行動が。
まるで、何かに縋りつくように。置いていかないでと、縋りつくように。
遮二無二に、一心不乱に、狂ったように、家中の至るところを引っ繰り返して、探し、探し、探す。求めて、求めて、探し求める。
引き出しは一つ残らず開けられ、リビングに来るまでの廊下から見えた残り二つの部屋、バスルームやトイレに至るまで、全てのドアが開けられ、そして全ての中は此処と同じ有様だった。
それでも――結局、見つからず。
そして――。
雪乃は「座って」と、デッキから出したのであろう『パンダのパンさん』のディスクをざぁっと乱雑に払い、スペースを作ったクリーム色のカウチソファを陽乃に勧める。
言われる通り座った陽乃は、その部屋の惨状を見て、眉尻を落とす。
この部屋は、まるで泣き叫んでいるようだった。
突然、放り出され、捨てられ――切り捨てられ、泣き叫ぶ幼子の嘆きのようだった。
お願い! 捨てないで! 行かないで! 私を守って! ――そんな、雪乃の、失った何かへの、失くしてしまった誰かへの、悲痛な――。
「――――」
ふぁさっ、と、ソファに座った陽乃に、彼女の背中側に回り込んで、雪乃がしがみ付いた。
そして、陽乃の、自分と同じ艶やかな黒髪に顔を埋め、すぅと深く息を吸い、身体の中に取り込むように香りを嗅ぐ。
「ゆ、雪乃ちゃん?」
陽乃はくすぐったいような感覚を感じて身を捩るが、雪乃はそれでも陽乃にしがみ付いて香りを嗅ぎ続け――。
「――あぁ、やっぱり。姉さん………すごく、いい香りがする。………安心する、私の大好きな匂い」
陽乃はその雪乃の言葉に、少し照れくさそうに頬を染めるが、次の言葉に、表情と共に身を固まらせた。
「――【彼】の、匂い」
陽乃はバッと振り向き、目を見開いて雪乃を見つめる。
雪乃は、同じく頬を染めて、けれど壊れそうな、泣きそうな微笑みを浮かべて、座る陽乃を見下ろしていた。
「ゆ、雪乃ちゃん! 覚えてるの!? はちま――比企谷くんのこと!?」
その言葉に、雪乃は、壊れそうな微笑みを更に深めて――ゾッと、陽乃ですら息を呑むような、美しい雪の結晶のような儚い笑みを浮かべた。
「――いいえ。覚えていないわ。………でも、姉さんの口振りから確信したわ。…………そう、いたのね。私が忘れてしまっただけで……【彼】は、この匂いの人は、やっぱり、ここにいたのね」
そう言って雪乃は、自らが身に纏うトレーナーの袖口を、そっと愛おしそうに口元に寄せる。
陽乃は、それによってようやく気付いた。雪乃が着ている、彼女の趣味に合わないダボダボの地味な上下の部屋着――それは、きっと――。
「……今朝、目が覚めた時……なぜだかは分からないけれど、物凄く不安で怖くなったの。……【彼】が来てくれれば大丈夫って思ったのだけれど――その【彼】が……誰なのか……思い出せなくて……【彼】の顔が、名前が、声が……何も、思い出せなくて……そこで、もう…………耐えられなくなった」
雪乃はそう言いながら、ゆっくりとソファの前へと回り込んで、陽乃の横に座った。
そして、儚く微笑みながら、今朝の自らの恐慌について自嘲するように語る。
「とにかくこの怖さを消したくて……ぽっかりと空いた何かを埋めたくて……必死に必死に探した。家中を探し回って……恥ずかしながら、随分と散らかしてしまってね。……それでも見つからなくて……やっとみつけたのが、これなの」
そういって雪乃は、サイズの合っていない大きな寝間着を陽乃に見せるように袖口を握りながら広げる。そして、そのまま袖口を口元へと運び、大きく深呼吸した。
「……この匂いを嗅いだ時、なぜだか少し、恐怖が薄らいだ気がしたの。……守ってもらえるような、誰かが傍にしてくれるような、そんな気が。……【彼】の……顔も、名前も、声も思い出せないけれど……きっと、これが、【彼】の匂いなんだって、そう思うの。……ふふ、変よね。【彼】が誰なのか……そんな人がいたのかどうかすらも確信が持てないのに……よく考えたら【彼】が男性か女性なのかすらも不確かなのに……それでも――」
雪乃は、雪の結晶のように儚く、今にも壊れてしまそうな美しい笑みを浮かべながら――【彼】のことを思いながら、呟く。
「――この匂いを嗅いでいるだけで……【彼】が傍にいて、守ってくれるような……そんな気がするのよ」
陽乃は、その雪乃の言葉に――何も言えなかった。
ただ、悲痛に表情を歪め、雪乃から目を逸らすことしか出来なかった。
何も言ってあげることが出来なかった。八幡のことを事細かに教えようとしても、記憶操作が解けた自分のことならばまだしも、未だ記憶操作が継続している八幡のことを、【彼】に会って記憶を引き出すことでその
それに――こんな妹に対し、こんな状況で……それでも。
八幡のことを、これほど美しい笑みで語るその姿に。彼の匂いが染みついた服がこの部屋にあるということに。それを別の女が身に付け、その匂いを嗅いでいるということに――どうしようもなく、嫉妬している自分がいた。
燃えるように嫉妬している自分がいて、こんな状態の、儚い妹に対して攻撃的な気持ちを抱いている自分がいて――陽乃はどうしようもなく自分に怒りを覚えた。
このままいっそ、永久的に、八幡のことを忘れていて欲しいとまで思った。
そんな自分が許せなくて、そんな自分では、こんな自分は、いつか、この儚い少女を、美しい妹を――。
「――――っ!」
――壊してしまうのではないかと、恐ろしくなった。
『――俺は……雪ノ下雪乃を……壊して、しまいました……』
陽乃はギリッと歯を食い縛る――何かを堪えるように。こんな自分を、戒めるように。
自分はそれほどまでに八幡に狂っているのだと自覚し、自嘲的な笑みが漏れた。しかも、そのことに恐怖と同時に、どうしようもなく歓喜している自分もいて。
(……これも、あの部屋の影響なのかな……八幡)
いいや、きっとこれは、自分が元々持っていた一面が浮彫になっただけだろう。自分が元々抱えていた歪みから、逃げきれなくなっただけだろう。
好きなものを構い過ぎて殺すか、興味のないもの徹底的に殺す。
自分の外側にはどこまでも非情になれて、自分の内側にはどこまでも貪欲であり続ける。
愛して、愛して、愛して、愛して、愛して。
そして――愛して欲しい。
自分だけを見て欲しい。自分だけを聴いて欲しい。自分だけを嗅いで欲しい。自分だけを触って欲しい。自分だけを味わって欲しい。
そして、【彼】にも、そうであって欲しい。
そう――【彼】を見るのは自分だけがいい。【彼】を聴くのは自分だけがいい。【彼】を嗅ぐのは自分だけがいい。【彼】を触るのは自分だけがいい。【彼】を味わうのは自分だけがいい。
そして、それを邪魔するものに対しては、自分はきっとどこまでも残酷になれる。
雪ノ下陽乃は、今、この瞬間、それを徹底的に自覚した。
なぜなら、今、自分は――。
(――こんな状態の雪乃ちゃんに対してまで……わたしは……殺意を抱いちゃったんだから)
陽乃は、そっと雪乃を抱きしめる。
「…………姉さん?」
ぽかんと首を傾げる雪乃の呟きを聞きながら、陽乃は気付いていた。
あの時、機械越しの自分の声だけで、雪乃は雪ノ下陽乃に対する記憶を取り戻した。
いくら
この部屋の惨状が、その何よりの証拠だ。匂いだけでは足らなかったのだ。堪らなかったのだ。怖くて、怖くて、怖くて。失くしてしまった、いなくなってしまった【彼】の残り香だけを拠り所に、この電気すら点いていない広過ぎる家の中、きっと、ずっと、ずっと震えていた。
雪乃は、ギュッと携帯電話をずっと握り締めている。おそらくは【彼女】に助けを求めていたのだろう。そこには【彼】の番号も残されているだろうが、雪乃にはもう【彼】の名前も思い出せないのだから、呼び出すことは出来ない。それに、彼はもう、携帯電話など処分しているだろう。
そして、そんな状況で、そんな暗闇で、唐突にやってきた雪ノ下陽乃という存在に、雪乃は縋った。
彼女にとって自分は、雪ノ下雪乃にとって雪ノ下陽乃という姉は、それほどに頼れる存在だと、守ってくれる存在だと、彼女はどこかで認めてくれていた。声だけで、
そんな妹に、そんな雪乃に対し、自分は――あろうことか、殺意を向けた。
愛しの【彼】の匂いを嗅ぐ雪乃に嫉妬した。こんな服を部屋に残す程に【彼】に日常的に守られていた妹に嫉妬した。【彼】と、記憶を失った今でも、解放された今でも、壊れていても、歪んでいても――絆を持つ、儚い少女に嫉妬した。
(……本当に……救えないなぁ。……お姉ちゃん、失格だよ)
陽乃は、雪乃を優しく、愛しく強く、抱き締める。
「……姉さん――泣いているの?」
陽乃は、雪乃を優しく、愛しく強く、強く強く抱き締める。
彼女の首筋に顔を埋め、彼女の身に着けるトレーナーから香る【彼】の残り香を嗅ぎながら――そのトレーナーに、自らの涙を染み込ませる。
抱き締める。強く、強く――懺悔するように、泣きながら。
雪乃は、そんな姉の温かさと、【彼】の香りを纏う姉の髪に、そっと幸せそうに顔を綻ばせた。
妹は、姉の髪から香る【彼】に安堵を覚え――姉は、妹の服から香る【彼】に殺意を覚える。