比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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――見てろ。


Side東条――④ & Side由香――①

 

 小さなバイブ音が、メールの着信を告げた。

 

 From:桂木 弥子

 件名:会見の件について

 

 先程、『新垣あやせ』と接触出来ました。

 何とか了承を得ることが出来たので、ご報告です。

 

 追伸

 会見が終わったらご飯でも食べに行きませんか?

 三十万円ほど臨時収入があったのでおごりますよ♪

 

「……何があったら三十万も手に入るんだ?」

 

 笹塚衛士は、顔馴染みの少女からのある意味いつも通りなメールに溜息を吐く。

 そして、この子と食事に行ったらきっとこの三十万も紙切れのように意味を失くすだろう光景が目に浮かんで、もう一度溜息をより深く吐く。自分もクレジットカードを持参しなくてはなるまい。

 

 もう彼女も女子高生ではない為、本来ならばこちらが一方的に奢ることもないのだろうが、それでも笹塚にとって彼女は子供であり、庇護対象だった。だから、きっと自分が奢ることになるのだろう。それで何か月分の給料が吹き飛ぶことになったとしても。

 

 それに、それだけの価値が彼女との夕食(ディナー)にはあると、笹塚は思った。

 あの食いっぷりを見ることもそうだし、それに――。

 

「今のメール、『探偵』からですかい? 先輩」

「……まぁ今じゃあ探偵っていうよりもすっかり『交渉人』みたいな仕事をしてるらしいけどな」

 

 彼女は()()()()()()()()()()()()()()()()()けれど、警察関係者や軍事関係者、そして政府関係者の間ではかなりの知名度を誇る、文字通り知る人ぞ知る『名探偵』だった。

 

 数年前、数々の難事件を解決し、そして今ではありとあらゆる場所に丸腰で乗り込み、重箱一つでどんな犯人も交渉してみせる請負人。

 

(…………まぁヤコちゃんらしいといえばヤコちゃんらしいと思っていた……けど)

 

 正直、予想外だった。

 今回のこの池袋大虐殺という事件に、あの『探偵』が関わってくるなんて。

 

(……それも、こちらが把握していなかった『新垣あやせ』という情報を持ち込んだ上で、だ。……ヤコちゃんは確かにとんでもないが、今はあの『助手』もいないんだ。……誰かヤコちゃんに『依頼』をした人物がいる。……いや、それは()じゃないかもしれないが)

 

 少なくとも、この()はあの『探偵』の助力を受け入れている。

 重要人物の一人である『新垣あやせ』への交渉を一手に任せる程に――そして、それは目論見通り成功したわけだが。

 

「……ヤコちゃんは成功したみたいだ。烏間さんからも『潮田渚』を説得出来たという連絡が入っている」

「じゃあ、上からの指令はクリアですね! こっちはとっくに『東条英虎』の了承を得てますし! ファーストクリア報酬とかないんすかね」

「公務員なめんな。てことで、お前はここで待ってろ」

 

 え!? ちょっと先輩!? ――と、石垣が運転席で戸惑いの声を上げるのをガン無視し、笹塚は後部座席に座る少年に目を向ける。

 

「……悪いが、来てくれるか? きっと、君の力が必要だ」

 

 ん――と、爆睡していた少年は、そのまま車外へと出て伸びをする。

 

「ぁぁああ。んあ? ここ何処だ?」

「千葉だ」

 

 笹塚は端的に答えた。

 

 ここは千葉の――とある住宅地。

 

 一軒家が転々と立ち並ぶ中、覆面パトカーが停まっていた家の前の表札には、こう書かれていた。

 

 湯河――と。

 

「……招集リストには入っていないが、彼女も重要な人物には変わりない」

 

 刑事と不良という異色の組み合わせによる、一人の少女への家庭訪問が始まった。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 自分がどうして死んだのか、その少女はよく覚えていない。

 思い出せない。記憶がない――というよりは、思い出すのを怖がっているという方が正しいかもしれない。

 

 魔が差す――という。

 

 まるで何かが心に入り込んだかのように。ぽっかりと空いた隙間に、入り込まれたかのように。

 何かに操られたかのように。何かに突き動かされたかのように――突き落とされたかのように。

 

 覚えているのは――思い出せるのは。

 

 最期の記憶として、焼き付いているのは。

 

 燃えるように綺麗な――逢魔が時の、空。

 

 あの日は一日中曇っていたのに、最後の最期に見せてくれた光景は――涙が出る程に綺麗な、夕焼けだった。

 

 

 

 そして――気が付いたら、真っ黒な部屋に閉じ込められていたのだ。

 

 

 

 

 

「……なに、これ?」

 

 目が覚めたら、自分は見たこともないコスプレのようなテカテカの全身スーツを身に纏っていた。

 

 バッと体を勢いよく起き上がらせる。

 カーテンすら開けていない部屋は真っ暗で、そんな中でも分かる真っ黒なスーツ。

 

 ギチギチする程のサイズ感なのに、全く動き(にく)くない。

 まるでオーダーメイドされたかのように由香の身体にこの上なくフィットしていて、それが余計に不気味で気持ち悪くて。

 

 カーテンを開けようとするも、自分の恰好を思い出して躊躇した。

 

「…………」

 

 何か分からないことがある時、現代人である由香は咄嗟に調べようとする。

 この時は偶々カーテンを開けようとベッドから降りていた為に、スマホよりもテレビのリモコンの方が近かった。

 

 昔から部屋に友達を呼ぶ機会が多かった由香は、自分の部屋にテレビを持っていた。

 残念ながら、正確には“昔から”はなく“昔は”と過去形になってしまったので、最近は視聴者は(もっぱ)ら自分だけとなってしまった代物だが、それでも得られる情報には変わりない。

 

 自分が何故身に覚えのない間にコスプレスーツを着用しているのか等という疑問にまさか地上デジタル放送が答えてくれるとは思わないが、それでも今はこの無音の空間が怖かった。だからこそスマホよりも無意識にテレビを選んだのかもしれない。

 

 だが、ここ最近の湯河由香という少女の孤独を紛らわしてくれていたこのテレビは、こんな時も由香の悩みをしっかり解消してくれた。

 

 あるいは、遂に現実を突き付けただけかもしれないけれど。とびっきりに残酷な現実を。

 

 テレビによって音と光が提供された室内。

 けれど、由香の耳に真っ先に響いた音は、スピーカーから流れる音声ではなく、己が落としたリモコンがテーブルと衝突し、そのままフローリングに落ちる音だった。

 

 それ以外の音は聞こえない。まるで両手で耳を塞いでいるかのように。

 

 だが、耳は逃げられても、目は――テレビ画面から逸らすことは出来なかった。

 

 その地獄から――見覚えのある地獄から、逃げることは出来なかった。

 

「……ぁ……ぁ……」

 

 思い出す。思い出す。思い出す。

 蘇る。蘇る。蘇る。

 

 死んだ記憶が――蘇る。死んでいく光景が――蘇る。

 

 恐怖が――蘇る。絶叫が――蘇る。叫喚が――蘇る。

 

 流血が蘇る。戦闘が蘇る。殺気が蘇る。

 戦争が蘇る。黒球が蘇る。業火が蘇る。

 

 化物が――蘇る。怪物が――蘇る。

 

 地獄が――――蘇る。

 

「……ぁぁ……あぁ……そっか……私は――」

 

 ぐしゃぐしゃと。ぐしゃぐしゃと。

 寝起きでぼさぼさの髪を乱雑に掻き毟る。

 

 まるで次々と蘇っていく記憶を拒絶するように。

 だが、テレビ画面から突き付けられるニュース映像は、由香に現実を突きつける手を緩めない。

 

 それでも、由香はその映像から目を逸らせない。

 息が荒くなり、心拍が乱れても、由香は地獄を蘇らせることを止められなかった。

 

 そして、ニュース映像は、由香にとって忘れられない戦場を映し出す。

 

『――こちらです。……まるで、局所的に燃え上がったかのような……異様な光景です。破壊箇所はあれど周辺ビルには一切火災跡はないにも関わらず、このアミューズメント施設のみが、上から下まで見るも無残に焼失しています。一切の、延焼なく。……ここは、普段は若者達で賑わう、池袋でも有数の人の多い通りでした』

 

 カメラが燃え果てたアミューズメント施設から、サンライト通りへと向けられる。

 

 そこは――この地獄で、地獄と化した池袋で、湯河由香がとある男に守られ続けていた戦場。

 

 人々の絶叫が木霊する中、威風堂々としたその背中を見つめ続けた場所。

 

 本物の強さを。本当の強者を。

 

「……はは……なんだ――」

 

 

 『ゆがわら』0点

 

 

 まもってもらいすぎ。

 

 

 由香は、自分の部屋の中で膝を折る。

 

 テレビの中から流れ続ける地獄の前で。

 

 犠牲者の数が刻一刻と更新されていく中で。

 

 己の顔を隠すように俯き、涙を流しながら――嘲笑う。

 

 

「――死んでんじゃん。私」

 

 

 ガシャン――と。

 

 由香は、鍵を閉めた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 馬鹿は死ななくては治らないという。

 

 でも――。

 

(――弱さは……死んでも治らないんだなぁ)

 

 由香は薄暗い部屋の中で、ベッドの上で体育座りをしながら――そう思った。

 

 既に、時刻は逢魔が時。

 

 ちょうど昨日、自分が死んだ時間帯だ。

 

(死後一日……か。まぁ、今も死んでるようなもんよね)

 

 由香は再び嘲笑う。今日何度目かも数えきれない自嘲。

 

 朝に目が覚めて、己が死んだことを自覚して――丸一日。

 由香は己の部屋の中から一歩も外に出ず、閉め切られた部屋の中で、己の中に閉じ篭っていた。

 

(……不思議と空腹感も……トイレにも行きたくならない。死んだから? それとも……そんなことも、感じなくなってるだけかしら?)

 

 朝の内は扉の前で由香の母親が必死に呼び掛けはしたものの、今ではうんともすんとも言わない。

諦めたのか、それともあんまり無理強いするのも良くないと思ったのか。

 

(……もしかしたら、ママも覚悟してたのかも。……私がどんな学校生活を送ってるのか……全く察していないってことはないだろうし)

 

 いつかこんな日が来るのかもとは、予感していたのかもしれない。

 由香がこうして閉じ篭っているのは何も学校生活が理由というわけではないのだが、それも当たらずとも遠からずかもしれない。

 

 こうして一日学校をサボってしまったら――逃げてしまったから。

 

 自分はもう、どんな顔をして、あの子に会えばいいのか分からない。

 

 恥ずかし過ぎて。合わせる顔がなさ過ぎて。惨め過ぎて。

 

(……昨日の……あの時は――確かに誓った筈なのに)

 

 憧れを、刻み込んだ筈なのに。

 確かに力と、勇気を、その背中から受け取った筈なのに。

 

 真っ暗な部屋で、ひとりぼっちになったら、途端に弱い自分に押し負けた。

 

(……情けないなぁ。……恥ずかしいなぁ。……惨め、だなぁ)

 

 私は――本当に弱いなぁ。

 

(……やっぱり……私には……無理なのかなぁ)

 

 彼女のように美しくなれない。彼のように偉大にはなれない。

 

 あの背中が――遠い。あの憧れが――遠い。

 

 湯河由香は涙を流し、鼻を啜りながら、強く、強く――胸を掻いた。

 強く、強く、誓った筈の魂が――ズキン、ズキンと、痛み続けたから。

 

 その時、コンコンと、由香の部屋の扉がノックされる。

 

「……由香ちゃん。起きてる?」

 

 母の声だった。

 そろそろ何も口にしない自分を心配しに来たのだろうか。そう思ったのだが、全く空腹感は感じず、返事をすることも億劫なので何も言わずにいると。

 

 由香母は、震える声で言った。

 

 何かに、恐怖する声で、言った。

 

 

「――警察の方が、来ているのだけれど」

 

 

 その言葉に、由香は思わず顔を上げた。

 

「っ!?」

 

 頭の中が真っ白になる。

 

(警察? なんで警察が――?)

 

 確かに褒められた人生を送ってきたわけではないが、警察の厄介になる程に道を外していたつもりはない。

 なのに、今、警察が、自宅の、それも自室という世界で最もパーソナルな空間の、すぐ傍にいる。

 

 そんな現実が、中学一年生の湯河由香という少女を恐怖と共に混乱させる。

 

 だが、そんな自分と同じく、あるいはそれ以上に、恐怖と共に混乱しているのが――自分の、母親だった。

 

「由香ちゃん、起きてるんでしょう? テレビの音が聞こえるわよ。お願い、出てきて。お願いだから説明して!」

 

 テレビは今朝に点けてから惰性でずっと点けっぱなしにしているだけだ。

 それに、説明しろと言われても、由香には全く心当たりがない。警察なんて、これまで全く関わったことも――。

 

(――ちょっと待って。……警察? ……そういえば、あの時のあの人達が、たしか警察って)

 

 由香が跳ね上がった心拍を押さえるように、混乱を治めて思考を纏めようとする。

 だが、それと反比例するように、由香の母は徐々に声を荒げ、扉を叩いて由香に叫んだ。

 

「お願い! 説明してよ! 何があったのよ! 学校で何かあったの? あなた何をしたの! ……分からないのよ、言ってくれなきゃ分からないの! 嫌なことがあったの? 嫌なことをされたの? 嫌な子がいるの? 言ってくれればママが何とかするから! 学校にも行くし先生にも話すし教育委員会にでも訴えるから! だからお願いここを開けて説明して! 由香ちゃん由香ちゃん!」

「――お母さん。落ち着いて下さい。我々は、ただ話を聞きたいだけです」

 

 徐々に我を失う母親。扉越しながら、由香は段々と警察よりも己の母親に恐怖心を感じ始めた。

 

 こんな母親は見たことはない。

 いや、見えてはいないが、見えてないからこそ却って気味が悪く現実感がなかった。

 

 由香にとって母は、とてもいい母親だった。

 可愛がってくれて甘やかしてくれて、欲しいものは大抵与えてくれて、やりたいことは大抵やらしてくれて、行きたい所には大抵連れて行ってくれた。

 

 この広い自室も。大きなテレビも。クローゼットに入りきらない程の服も。

 中一どころか小学生の頃から染めたりパーマを当てたりしていた髪も、みんなママがやってくれたことだ。

 海外にだって行ったこともある。同級生が持っているもので由香が持っていないものはなかったし、同級生が行ったことのある観光地で由香が行ったことのない場所はなかった。

 

 とてもいい母親。ある意味では由香をこんな弱者にしたのは母だとも言えなくもなかったし、そういった意味ではいい母親ではなかったのかもしれないが、都合のいい母親であったことは確かだ。

 

 だから、由香はこんな母は見たことがない。聞いたこともないし――覚えがない。

 

 下手な化物よりも、警察よりも、由香は扉の向こうの母親が怖かった。

 

 この時点で由香に扉を開けるという選択肢はない。

 ベッドの上で蹲り、布団を被り、更なる現実逃避を試みる。

 

 そんな由香に、何よりも恐ろしい、母親の叫びが突き刺さった。

 

 

「由香――アナタ、一体()()()()()のよ!!」

 

 

 殺されたような気分だった。鋭い切っ先で、胸の真ん中を貫かれたかのような。

 

 実の母親に――止めを刺された心情だった。

 

(何を――してる?)

 

 何もしてない。私は、何もしていない。

 

 警察の御厄介になるようなことも。母親にここまで言われるようなことも。

 

 何も――してない。

 

(何も――してない。……そうだ。私は、()()()()()()()

 

 何もしなかった。何も出来なかった。

 

 恐怖で震えるばかりで。状況に流されるばかりで。

 

 守られる――ばかりで。

 

 救われる――ばかりで。

 

(……何も、しなかった――ッッ!!)

 

 人が殺されているのに。化物が暴れているのに。

 

 黒いスーツを着ているのに――何もしなかった。

 

 守ることもしなかった。救うこともしなかった。

 

 戦うことすら――しなかった。

 

 0点。

 無得点――無価値の、戦争。

 

「――――ッっ!! ……ぁぁ…………ぁぁ!!」

 

 しょうがないじゃないか。しょうがないじゃないか。しょうがないじゃないか。

 だって私は死んでたんだよ。死んだんだよ。思いっきり死んだはずなんだよ。

 なのにいきなり生き返ってていうか死んでなくていきなり気が付いたらしらない男の人がいっぱいいる知らない部屋に閉じ込められてそんなのこわいよ混乱だよ当たり前でしょ!

 あれよあれよという間になんか知ってそうな人たちが知らない会話していて歌が鳴ってなんか変なの着ろとか言われて気が付いたら六本木で化物がいるし殺されそうになるし!

 こわいでしょわかんないでしょ意味不明でしょ! そりゃ怯えるよ竦むよ何も出来ないよ!!

 やっと終わると思ったら終わんなくて!? またいきなり変な光で消されて!? そして次は池袋で!?

 なんかいっぱい人がいるし! 化物はもっといっぱいいるし!

 なんか蛇みたいなのとか岩みたいなのとか火みたいなのとかわかんない分かんないわかんない!

 しょうがないじゃない! しょうがいないじゃない! しょうがいない!

 だって――怖いんだもの怖いんだもの怖いんだもの怖いんだもの怖いんだもの!!!

 

「……よわいん、だもの……」

 

 由香は、ポツリと、漏らす。

 

「…………もう…………死にたく、ないんだよぉ……ッッ」

 

 何度、謝っただろう。何度、懺悔しただろう。

 

 ごめんなさいと。ごめんなさいと。

 死んでしまった誰かに。守れなかった誰かに。救えなかった誰かに。

 

 戦わなかった自分を、何度、謝っただろう。

 

 未だ脱げていない――漆黒のスーツに涙を染み込ませて、由香はずっと懺悔した。

 

 これが戦う為の兵器だと、由香は理解している。

 あの部屋に送り込まれたということが、あの化物と戦えということだと、この聡い少女は理解しているのだ。

 

 だからこそ、ずっと罪悪感に苛まれていた。

 部屋から一歩も出れない程に。ニュースから目を逸らせない程に。

 

 由香はずっと、戦えない自分と戦っていた。

 

 それでも――それは、この小さな体には、余りにも、重かった。

 

 強さに憧れる少女は。弱さを恥じる少女は。

 

 真っ暗な中、手を差し伸ばすことも出来ず。

 

 部屋に籠って。布団を被って。

 

 目を閉じて。耳を塞いで。

 

「――――」

 

 鍵を――掛けた。

 

 

「いいから出て来い。とっくに――朝だ」

 

 

 パリーンッッ――と。

 

 由香が閉じ籠った世界を、ぶっ壊す音が響いた。

 

「っっ!? ――え?」

 

 きらきらと、飛散するガラスが夕暮れの光を反射する。

 

 伸びてきた腕は、そんな光景に相応しくない程に太く、ごつくて。

 

 白馬の王子様の要素なんて欠片もない。囚われの姫を助け出しに来た勇者でもない。

 

 只の歴とした不法侵入で。ルールもモラルも何もかもを無視して。

 

 凶悪な笑顔で。自分と同じ――真っ黒な腕を伸ばして。

 

 湯河由香の、何もかもを吹き飛ばした。

 

「よう。迎えに来たぜ」

 

 その男は、湯河由香にとって、王子様でも、勇者でも、ましてやヒーローでもない。

 

 ただただ野蛮な破壊者で。大きくて果てしない憧憬で。

 

 弱者の気持ちなんて微塵も考えない――圧倒的な強者だった。

 

「……東条……さん」

 

 逆立つ鬣のような金髪の男が、ガラスを踏みしめて己の元へとやってくる。

 

 ガンツスーツを着ているとはいえ起きてから顔も洗っていないボサボサ髪の女子中学生の前に立つと、東条がずいっと顔を覗き込んでくる。

 

「なんだお前? 今起きたのか? いくらなんでも寝過ぎだろ」

「ばっ、そんなわけないでしょ! っていうか近い! こっち見んな!」

 

 由香は途端に顔を赤くして東条の顔を押し退ける。

 そのまま布団をバサッと引き寄せ何故か体を隠すと、そのまま東条に向かってきゃんきゃんと吠えたてた。

 

「だ、だいたい何してんのよアンタ! なんで窓から入ってきたの!? っていうか突き破ってきたの!?」

「ん? いや、お巡りの兄ちゃんが時間がねぇって言ってたからよ。なのにお前、母ちゃんがいくら呼んでも出てこねぇし。寝てんじゃねかって思ったからよ」

「……思ったから?」

(こっち)の方が早えかと思って突き破ってきた」

「ばっっっかじゃないのッッ!!!」

 

 当然の怒りだった。

 由香はベッドの上に立ち、めちゃくちゃになった室内を指さす。

 

「どうしてくれんのよ! 窓が滅茶苦茶じゃない!」

「大丈夫だ。バイトでいくらでも張ったことあっから。俺がピカピカに直してやる」

「そういう問題じゃないでしょッ!? 完全に完璧に不法侵入&器物損壊だからね!!」

 

 女子中学生に常識について説教される最強戦士。

 由香は思い切り溜息を吐き――いつの間にか、完全にいつもの自分を取り戻していることに気付いた。

 

「あ――」

 

 壊れた窓は、閉め切ったカーテンも全開にさせ、涼やかな風と共に夕陽を室内に齎していた。

 

 閉め切っていた世界が、閉じ篭っていた空気が、見るも美しく完膚なきまでに壊されている。

 

 由香は少し涙を流した。そして、ハハと、久しぶりに自嘲ではない笑いを漏らす。

 

 むちゃくちゃだ。めちゃくちゃだ。だけど、また私は――この人に救われた。

 

 由香は東条に笑いかける。東条は訳も分からず首を傾げた。

 

(――だけど)

 

 絶対に死んでも礼は言わない。

 由香は、背後から聞こえるドアを叩く轟音と、その向こう側から聞こえる母の絶叫を背に、そう思った。

 

「由香ちゃん!? 由香ちゃん!? 何!? 今のガラス割れる音は何!? 十五の夜なの!? あなた十二才でしょ! それにまだ夕方よ!?」

 

 母よ。そういう問題じゃなくない?

 

「大丈夫です、お母さん。たぶん、きっと、我々が連れてきた奴の仕業ですから」

「何なの、あなた達!? 新手の強盗なの!? 警察を呼ぶわよ!」

「我々が警察です。(サッと警察手帳を出す)」

「世も末だなコンチクショウがッッ!!」

 

 今日は今まで知らなかったママをたくさん知れる日だなぁ。

 由香は涙ながらにそう思った。

 

「母ちゃん随分元気出たみてぇだな」

「アンタのお陰でね」

「お、そうなのか。照れるな」

「皮肉だよ、死ねよ」

 

 おっといけない。JCにあるまじき言葉を使ってしまった。反省反省(てへぺろっ)。

 由香は思い切り溜息を吐き、ぼさぼさの髪を掻き上げながら東条に言う。

 

「――で。アンタはなんで私んちに来たの?」

 

 色々と面倒くさくなって、っていうか主に東条相手に敬語とか使うのが馬鹿らしくなって、由香は殆ど素の口調で言う。

 

 ここが自宅で、自分がほとんどすっぴんで、そしてそれ以上に東条が色々と常識が通用しない奴だからという理由だろうが、東条はそんな小さいことを気にするような器ではない為――あっさりと重大事項を暴露する。

 

 

「ん? 記者会見とかいうのに呼ばれたからだろ? その迎えに来たんじゃねぇか」

 

 

 え――と、由香は呆然と東条を見上げる。

 

 ここまでメチャクチャなことをされて、もうこの人のやることで驚くことなんてないんじゃないかと思っていた由香は、自分の想像がとんでもなく甘かったことを知る。

 

 だが、この東条の発言は、いくら何でも理解外の範疇すらも超えていた。

 

(記者会見って……あのニュースでしつこいくらいに言ってた、池袋大虐殺に関する政府の見解発表とかいう……あの? それに呼ばれたの? 私が? は? 何それ意味わかんない)

 

 理解出来ない。それ以上に、理解したくない。

 

 湯河由香という少女がその会見に呼ばれるということは、考えられる要因はただ一つ――由香は、自分が身に纏っている、漆黒の近代的スーツを見下ろす。

 

「――――ッッ」

 

 由香はゾッとする程の恐怖に晒される。

 

 晒される――こんな姿を? カメラの前で? 全国民の前で?

 

 それはつまり、自分が、あの戦場で何をしたか――何もしなかったということを、晒すということで。

 

「――ぃ――」

 

 由香が思わず叫び出しそうになった瞬間――由香の自室の扉の方が開いた。

 

「――違う。湯河由香、君は招集されていない。君のお宅をお邪魔したのは、まったくの別件だから安心して欲しい」

 

 扉から姿を現したのは――やはりというべきか、昨夜に自分が池袋で遭遇した、あの低体温の刑事だった。

 

 その刑事を押し退けるようにして室内に入ってきたのは、自分と同じようにボサボサ髪の母親。

 

「由香ちゃん、大丈――ってなんじゃあこりゃあ!?」

 

 お腹から流血したのかな? と思うような聞いたことのない声を吐き出す母親の後ろから、くるくると針金のようなものを振り回す見たことのない若い男が現れる。

 

「いやあ、どうです? 先輩? 俺のプラモで鍛えた手先の器用さも捨てたもんじゃないでしょ?」

「ああ、そうだな石垣。だが、それとは関係無しにお前が勤務中に作ってたそれと勤務中に持ち込んでたこれは後でぶっ壊すからな」

 

 手始めに石垣と呼ばれた男が持っていたブラモデル作成キットが片手間に破壊され、彼が由香の部屋(JCの自室)で号泣を始めるのを完全に無視して、昨夜も行き会った刑事――笹塚は由香に向き合って言う。

 

「……なんていうか、とんでもない感じになって申し訳ない」

「……ええと」

 

 いいえ――とは、社交辞令でも言えなかった。まだまだ大人になれない十二才の由香である。

 

「どうやら石垣(このバカ)の入れ知恵だったみたいなんだが……まぁそれでも何の疑問も持たずに実行に移す東条君も東条君なんだが……窓ガラスその他諸々はちゃんと警察(こっち)で弁償するから」

「いや、あの、それはお願いしますなんですけど……えっと、それより――」

 

 聞きたいことが、あり過ぎる。

 どうして湯河家(うち)に来たのか、どうして私を訪ねてきたのか――とか。

 

 こうして、この漆黒のスーツを着ている私を、じっと何の感情も見せない瞳で見つめてくるこの刑事は――湯河由香が、あの化物退治のチームに属していると知っているこの警察官は、私をどうするつもりなのか、とか。

 

 だけど、今、一番聞きたいのは、午後六時に行われる会見について。

 

 湯河由香は――招集対象ではないと、この人は言った。

 

 だと、すれば――由香の目は、東条英虎に向いた。

 

 笹塚はその視線の動きに合わせて、自分も東条の方を向く。

 

「……東条君。そろそろ時間だ」

「ん? そうか――で?」

 

 俺は何をすればいい? とばかりに、東条は不敵な笑みを笹塚に向ける。

 笹塚は、そんな東条に近づいて――手の平サイズの黒球を手渡した。

 

「恐らく何人かもう集まっている頃だと思う。コイツを持って誰にも見られない場所に行ってくれ。そうすれば、お前さんらを呼んでるお偉いさんの元に行ける――らしい」

「――了解だ」

 

 じゃあ、俺は行くぜ――そう言って何故か割れた窓から帰ろうとする東条の背中を由香が慌てて止める。

 

「ちょちょちょっと待って!?」

「ん? なんだ?」

「いやなんでそっちから――ってか、そうじゃなくて!」

 

 由香は一度息を落ち着けてから――東条を、潤んだ瞳で見上げる。

 

「――なんで?」

 

 それは、きっと色々な意味が込められていた。

 

 何で――わざわざ、矢面に立つような真似をするのか。

 何で――わざわざ、大人達に利用されようとするのか。

 

 贖罪も、懺悔も、庇護も、取引も、交換条件も、何もいらないだろう。

 

 東条英虎という本物の強者には、そんなものは必要ないだろう。

 

 間違ってもこの人は、そんな難しいことは微塵も考えちゃいない、

 

 

 なら――なんで?

 

 

 由香のぐちゃぐちゃの疑問の嵐を――東条は、ぽんと、ただその小さな頭に手を乗せるだけで吹き飛ばした。

 

 そんなことが出来るくらい、このゴツゴツの大きな手は、偉大な力を持っていた。

 

 

「――見てろ」

 

 

 東条英虎は、ただそれだけを言い残し――由香に強者の背中を向けた。

 

「……ぁ」

 

 由香は、今更ながらにぼさぼさの髪を手櫛で直す。東条は、そのまま窓から飛び降りていなくなった。

 

「……さて。じゃあ、湯河さん。色々と聞きたいことがあるんだけど、いいか?」

「……その前に、私の部屋の隅で泣いているあの人をどっかやってもらっても。……流石にちょっと気持ち悪いです」

「それよりも由香ちゃん!? なんかあの大きい人窓からひょいって気軽に飛んで行ったけどいいの!? ここ二階よ!?」

 

 あ、復活したんだねママ。でもそんなことで一々動揺してたら持たないんです、あの人の場合。たぶんスーツ着てなくても普通にそれくらいやるし、あの人。

 

「由香ちゃん、友達は選びなさい!」

「友達じゃないし」

「じゃあ彼氏!? ママは認められないわよ流石にいろいろな意味で!!」

「彼氏じゃないから! もうママは黙ってて!」

 

 無茶言わないでよ! こんな状況で黙ってられるわけないでしょ!

 ですよねー。

 

 そんな母娘のラリーが行われる間、石垣を窓から放り投げた笹塚は、溜息を吐きながらベランダからとある部下に電話を掛ける。

 

「……あー俺だ。……えっと、今どこにいる? ……雪ノ下陽乃の件で千葉に? そっか、ちょうどよかった。……出来ればでいいんだが、こっちに来れないか? 石垣が使えなくて……少し助けてほし――」

 

 了解です今すぐ行きます!! ――と、可愛らしい返事と同時に通話が切れる。

 

 そして、至極当然の母娘喧嘩が行われている室内に入り、笹塚は言った。

 

「……えっとですね、お母さん」

「あなたにお母さんと呼ばれる筋合いは有りません!」

「分かりました、落ち着いて下さい湯河さん。これよりもう一人、うちの部下が来ます。ソイツが来るまで窓の修理をしていますので、詳しい話はその後と――いや、あれだな」

 

 笹塚はちらりと、テレビ画面に映っている時刻表示に目を向けた。

 そして、しばし黙考し、そのまま湯河親子に告げる。

 

「もうすぐ六時です。この池袋大虐殺に関する国の会見――これを見てからにしましょう。我々が由香さんに聞きたいことにも、大きく関わってくる会見になりますから」

 

 その言葉に、由香母――湯河由紀は娘に戸惑いの視線を向け。

 

 笹塚に真っ直ぐ見据えられる湯河由香は、ごくりと強く唾を飲み込んだ。

 




強さに憧れる弱き少女に、最強の憧憬は、その背中を見せて新たな戦場へと向かう。

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