比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

143 / 192
――ただの、『エンド』ですよ。


Side渚――②

 

 東京都豊島区――池袋。

 

 来良総合医科大学病院。

 

 ここには、昨夜の未曽有の大事件――池袋大虐殺の被害者達の多くが搬送されていた。

 

 事件が集結してから半日にも満たない現在では、何とか患者の収容と別施設への移送がようやくひと段落ついたといった様相だった。

 

 未だ意識を覚醒させない患者への対処や、手を尽くしたものの死亡してしまった方達の処理、そして怪我自体は命に別条がないものの混乱から立ち直れず周囲に当たり散らす者を宥めたり、家族と連絡がつかない者を警察に連絡したりと、やることは全く減らず、むしろ時間と共に増え続けている。

 

 およそ呼べる限りのスタッフ全てを休日出勤させ、夜勤の者を居残らせる。

 段々、スタッフの方も疲労とストレスで限界を迎え始める中――とある男が、未だ地獄を抜け出せない戦場のような病院に足を踏み入れた。

 

「……ひどい混乱状態ですね」

「……この近辺の病院は、まだ全てこんな有様だ」

 

 もはや、これは災害時に近い。

 だが、例え犯人が化物だったとはいえ、これは大量虐殺事件だ。

 

 人の身で防げた、刑事事件だ。

 この惨状は、偏に国の防衛機関の力不足の結果に他ならない。

 

「…………あの」

「……行こう。この場で棒立ちしていても、邪魔になるだけだ」

 

 相方の女性の気遣う雰囲気を遮って、がっしりとした体躯の目つきの鋭い男は、人が押し寄せる中を強引に割って入り、受付の女性に己の身分証を見せる。

 

「――こういう者です。事前にアポイントメントしていた件ですが」

「……電話でも仰いました通り、今、ここは非常に混乱しています。あなた方の捜査に協力は惜しみませんが、時をもう少し考えてもらえませんか。後日、改めて来ていただけましたら、何でも言うことを聞きますから」

 

 迷惑だから帰れと、そんな心情が少なからず声と言葉に出てしまっている受付担当の女性。

 

 少し頭に血が上りかけるが、今も列の横から乱入してきた自分達を恐ろしい形相で睨み付ける患者達、そして周囲にいる溢れんばかりの怪我人やその家族を見て、グッと言葉を飲み込むのは、男と共にやってきた防衛相統合情報部員――園川雀。

 

 だが、こちらも国家の為に動いている(正確には、今は国からの命令ではなく、隣にいる上司の為だが)――それに、交渉事は、自分の専門分野だ。

 良心の呵責に耐えながらも、園川はこちらの要望を通そうと――する前に、隣にいる園川の上司が、ダンと手を着きながら、まっすぐに言う。

 

「手間は取らせません。彼女の病室だけ教えていただけませんか。後は、こちらがやります」

 

 そう言って、その鋭い目つきで頼み込むのは――烏間惟臣。

 対『死神』用の戦力として、防衛省から一時的に警視庁に出向しているエリート軍人である。

 

 そんな彼が、背中で一般人から隠すようにして受付の女性に差し出したのは――とある一人の女子中学生のプロフィール。

 

 名を、神崎有希子。昨夜の地獄の池袋において、他ならぬ彼が救出した一般人である。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 そして、こちらは、来良総合医科大学病院の、とある一室。

 

 いわゆる大部屋であり、左右に三台ずつの計六台のベッドがあり、その全てが埋まっている。

 ここは女性患者に宛がわれた部屋のようで、様々な年代の少女――下は中学生くらいの少女から、上は高齢の老人まで、いっしょくたに詰め込まれている。恐らくは空いているベッドに手当たり次第といった様なのだろう。怪我の酷さもまちまちだが、皆一様に身体のどこかに痛々しい処置の跡があった。

 

 そして、そんな大部屋の、左側の列の、一番ドアに近い手前のベッド。

 

 体の幾つかの場所に火傷の跡はあるが、目立つような大きな傷もなく、一応の検査入院といった様相の少女。

 本来ならば、今のようにベッドが幾つあっても足りないような状況では入院することはないのだろうが、発見された場所が場所なだけに、呼吸器官などにも問題はないかどうかを確認する必要があるのだろう。今も、ケホッと時々、苦しそうに咳き込んでいる。

 

 彼女こそ、神崎有希子。

 

 大和撫子という言葉が相応しい艶やかな黒髪に、清楚な雰囲気。

 身に着けていた彼女に似つかわしくない服やウィッグは焦げていたりダメージが大きかったので、今は入院着を身に着けている。

 

 昨夜、燃え盛るアミューズメント施設の中から、何者かによって外に出され、そこを烏間惟臣が発見した女子中学生である。

 

「――大丈夫、有希子ちゃん? まだ苦しい?」

 

 そんな彼女のベッドの傍の椅子に、一人の女性が座っている。

 

 自分と同じ入院着に、そんな薄手の服によって強調される豊満な体つき。

 同じ女子である自分ですら目を奪われそうになるが、同時に目に入ってしまう、そんな邪な思いを搔き消すような――凄惨な、両手を覆う包帯が痛々しい。

 

「……けほ。……私は大丈夫です。……それよりも――」

 

 自分なんかよりも、遥かに重傷で、遥かに――大丈夫じゃない。

 

 肉体的にも――精神的にも。

 そう確信を持って言える目の前の女性を、有希子は痛ましげに見詰めた。

 

「あはは。あたしは大丈夫だよ。……もうすぐパパとママも来てくれるみたいだから、あたしも自分のベッドに戻るね」

「…………はい。………あの――」

 

 お大事に――そう言ってしまいそうになって、有希子は口を閉じた。

 

 同じ入院患者である自分が言うのも変な気がしたし、何より――それは、今の彼女には、余りにも残酷な言葉のように思えたのだ。

 

 大事なものを、何もかも失くしてしまったかのような――目の前の、この人には。

 

「――うん。お大事にね。……って、なんか変か。へへ」

 

 そう言って、彼女は自分でその言葉を言って、自分のベッドに戻った。

 

 自分の言葉に、誰よりも自分が傷ついたような、痛々しい笑顔を見せて。

 

 

 由比ヶ浜結衣――昨夜の池袋の戦争で、ぽっかりと胸に穴を開けられた彼女は。

 

 窓際の、最も日当たりのいいベッドを与えられた彼女は――まるで何かを堪えるように、窓から差し込む朝日を、目を細めながら浴びた。

 

 そんな彼女の後姿を眺めていると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 どうしてこんなことになっているのか――神崎有希子には理解出来なかった。

 

「…………えっと」

「…………はは」

「………………」

 

 下半身を布団で覆い、ベッドを起き上がらせて座るような体勢で、有希子は目の前の来客を戸惑いと共に見つめる。

 

 一人は、短い髪にスーツの若い女性。OLというよりは、もっと公的な職業の方のように感じる印象を受ける人。

 

 もう一人は、同じくスーツで鋭い眼光のがたいのいい男性。隣の女性よりは年上だろうが、それでも十分に若いと感じる、本人が意識しているのかいないのか、異様な威圧感を覚える人——大人。

 

 そう、大人。

 年齢といい、服装といい、雰囲気といい――覇気といい――紛れもなく大人が、それも公的な仕事としての来訪だという色の空気を纏う二名の大人が、しかも初対面の大人が、唐突に自分を目的としてやってくる。

 

 有希子はこの現状に、中学生として当然の戸惑いと、僅かではない量の恐怖を感じていた。

 

 そんな狼狽える有希子を見て、スーツの女性――園川雀は、まぁそうだろうなという自身の感情としてと、そんな有希子の緊張を少しでも和らげようという二つの意味を兼ねて意図的に苦笑する。

 

 普通の中学生が、明らかに只事ではない目的で、拒否権を発動できない強制的な面会であるということが一目で分かる状況に、それも片方は熊でも平気で殺しそうな(実際に可能そうな)眼光と迫力を放つ男が己と相対するという――恐怖を覚えて当然だ。気の弱い子なら思わず泣き出してしまうかもしれない。

 

 隣の上司も普段ならばもう少しその辺りを(鈍感なりに)気を配ってくれるのだが、昨日の今日だからか、目的が目的だからか、意図的に強めてはいなくても、自身のニュートラルな威圧感を押さえようとはしてくれていない。

 

 だが、昨日と今日といえば、彼女こそ正しくそうだ。

 こうして面会の場が病室となったのも、彼女が布団の中に半身を埋めているのも――その布団の下の足がズタズタに傷ついているのも。頬や腕にガーゼが当てられているのも。すぐ近くに酸素ボンベが備えられているのも。簡素な入院着を纏っているのも。全て、彼女が被害者だからだ。

 

 昨日の、未曽有の大事件である――『池袋大虐殺』。

 彼女はその渦中にいたのだ――文字通りの、火中にいたのだ。

 

 一人の少女の中に、まるで消えない火傷のように、永劫に残る形で刻まれたであろう、その生々しい恐怖(トラウマ)の記憶を。

 自分達大人は、固まってもいない瘡蓋を抉り、強引に思い起こさせ、問い質す為に――ここに来たのだ。

 

「…………あの、私に何か用ですか?」

 

 あろうことか――そんな彼女に、更に勇気を振り絞らせてしまった。

 本来ならば、戸惑い、恐れている彼女の心情を出来る限り慮り、こちらからその当然の警戒心と恐怖心を解きほぐしながら場をリードしなくてはならないのに。

 

 園川はそんな焦りと申し訳なさと、そして目の前の少女の強さに対する尊敬の意を内心で示しながら「――あぁ、ごめんなさい。大の大人がじっと見つめていては戸惑ってしまうわよね」と、威圧感を与える上司の一歩前に出ながら、出来る限りの笑顔で有希子に答える。

 

「こんにちは、神崎有希子さん。私は園川雀。防衛省に勤めているわ」

「防衛省……?」

「ええ。昨日あんなことがあったのに、こんな時間からこんな場所にまで押しかけてごめんなさい。今日は――」

「――昨夜、君が巻き込まれた事件についての話を伺いに来たんだ」

 

 だが、その時、精一杯の笑顔を作る園川の前に、いつも通りの仏頂面の男が出る。

 

 同性ということもあって少し警戒心を緩めていた有希子の身体が強張り、園川も非難めいた目で男を見るが――男は、有希子の一挙手一投足を観察するような目のまま、形式ばった自己紹介をする。

 

「驚かせてしまってすまない。俺は烏間惟臣という。園川君と同じく防衛省に所属しているが、今はとある任務の為、警視庁に出向中の身だ」

「……とある任務? …………警視庁?」

「ああ――だから、今日は警察として昨日の話を君に聞きに来たんだ」

 

 座ってもいいかしら――と、再び烏間と有希子の間に入るようにしながら、園川が尋ねる。

 思わずどうぞと言ってしまった有希子だったが、これで文字通り腰を据えて話をすることを了承してしまったことになった。

 

 これを狙ってのことだったのかは分からないが、どんどんと状況が進んでいくことに戸惑いが止まらない神崎は、ただそれに流される。

 

 さっきの烏間の言い分も、考えてみればおかしな所ばかりだ。

 何故、警視庁の仕事に出向中でもない園川が同行しているのか。どうして、出向中の身であるという烏間が真っ先に自分の元にやって来るのか。とある任務とは何なのか。

 

 烏間はそれらの疑問にもっともらしく答える準備をしているのだろうが、少なくとも有希子はそれらのことを彼等に問い返してもよかった筈なのだ。答えが返ってくるかどうかは別にして。

 

 だが、今まで職務質問すらもされたことのない優等生(だった)神崎有希子にとって(ゲームセンター通いしていた頃も、警官のような人を見掛けたらすぐに見つからないようにして家に帰っていた)、大人、警察というのは、それだけで学校の先生や親と同じくらい、とにかく従わなくてはならない人――というカテゴリーの存在だった。

 

「………………」

 

 それと同時に――従いたくない人種、でもあるけれど。

 

 別に、警察に不信感があるわけでもない。教師にも、恨みを覚えたこともない。親にも――殺意を抱いたことも、ない。

 

 それでも――大人という存在に、理不尽を感じたことは、ある。

 彼等を前にすると、自分という存在が酷く無力で、恐ろしく無価値で――そして、そんな自分が、どうしようもなく嫌いに思えてしまう。

 

 どこにでもある話なのかもしれない。思春期ならば、誰もが抱く感覚なのかもしれない。

 

 でも――彼女の場合は、いや。

 

 彼女()の場合は、それが特別に顕著だった。

 

「……それで、何でしょうか? 私は何を話せばいいんでしょうか?」

 

 有希子は淑やかに微笑む。

 それは大人に向ける子供の笑顔としては百点満点のお手本のような笑顔で――だからこそ、園川と烏間は、それに影を見たような気がした。

 

(…………思っていた以上、聞いていた以上ね。……それとも、この子が特別なのかしら)

 

 前以って、園川も神崎有希子のプロフィールについては道中に烏間から聞いていた。

 

 彼女が――彼女達が属する、椚ヶ丘中学校3年E組についても。

 

 全国有数の名門校にして進学校。

 その中でも有数の、一定数の――落ちこぼれ達が集められ、隔離され、差別される特別学級。

 

 聞いた時はその恐ろしいまでの合理性に耳を疑ったものだったけれど、所詮それは人聞きで得られる程度の情報に過ぎない。その現場を生で見たのならばまだしも、園川の中では、とはいっても名門私立の一クラスという固定観念が消えず、それほどまで劣悪なものであるとは思えなかった。

 

 それがクラスどころか校舎すら違う、差別というのも生温い見せしめのような学級ということを目の当たりにすれば、彼女のその認識も覆るだろうが――ともかく。

 

 園川雀にとっては、神崎有希子が初めて相対するE組生徒であり、そして、E組生徒の歪みのようなものを突き付けられるのも、これが初めてのことだった。

 

「……そうね。それじゃあ、いくつか質問させてもらうわね。これはあくまで任意で行っている聴取だから、答えたくないことは答えなくてもいいからね」

 

 そこから、園川主導で神崎有希子に対する事情聴取が始まった。

 

 少女はすらすらと、聞かれたことに淀みなく答えていった。

 

 有希子が目撃し、相対した怪物について。

 事件が発生した時に何処にいたのか。そしてどのように逃げたのか。

 共に逃げた人達について。そして――殺された人々について。

 あのアミューズメント施設で起きた悲劇について。

 果ては、その日、どうして池袋に居たのかといったプライベートと言ってもいい範囲まで。

 

 神崎有希子は、初対面の大人達に、警察手帳すら見せていない彼等に、赤裸々に余すところなく打ち明けて言った。

 この事情聴取を始めた園川の方が戸惑ってしまう程に。

 烏間はそんな園川に事情聴取を任せ、有希子を鋭い眼差しで見据え続けていた。

 

 園川は、この年頃の少女に対していつも行うように、心を開いてもらえるよう、目線を合わせて、声色を柔らかくし、かといって子供扱いしていると思われないように――と、培ったノウハウを駆使して事情聴取に挑む、が。

 

(……はっきり言って、そんな小細工が通じているようには……思えないのよね)

 

 有希子は基本的に目線を下にし、俯くように聞かれたことに答えている。

 心を開いてもらえているようにはまるで思えず、かといって、大人に対する敵愾心のようなものも感じられない。

 

 しかし、こちらが聞いたことには答えている。隠しているようにも、誤魔化しているようにも感じない。園川は奇妙な感覚を覚えていた。

 

 こちらのテクニックが通じていないのに、何の支障も生じていない。

 そんな気持ち悪い感覚に耐えながら、園川は、段々と問いに対する答えより、目の前の少女が気になっていった。

 

 交渉を専門とし、これまで数多の人間と対話を通じて探り合ってきた園川だからこそ、分かる。こうして僅かに会話を交わしただけで、分かる。

 

 神崎有希子――この少女は聡明だ。とても中学生とは思えない程に優秀だ。

 

 この年頃の少年少女は、基本的に自分達のような国家権力の大人と相対した時、大抵が萎縮するか、反発をする。

 そんな時、前者ならば緊張を解きほぐし、後者ならば対等に立っていると思わせ自尊心を尊重する――が、この少女は、そのどちらでもない。

 

 僅かな言葉のニュアンスや間の取り方から、こちらの意図を正確に察し、まるでこちらが引き出したかのように望んだ答えを返す。

 ずっと俯いているようで、時折、こちらの表情を伺っている証拠だ。

 

 言葉の遣い方も、出てくる単語も、そして呑み込みの早さも、とても会話しやすく、対話として心地いい。交渉を専門とする自分だからこそ、これが目の前の少女が作り上げようとしている空気なのだと、言われるまでもなく理解した。

 

 そして、目の前の少女は容姿端麗だ。

 同じ女性として、十も年下の少女に思う感想としては恥ずかしいものだろうが――正直、憧れる。男にも女にも憧憬を抱かれる、そんな種類の美貌を持つ美少女だ。

 

 中学生というのならば、間違いなくクラスのマドンナとなれる――あるいはされる――少女だろう。運動神経に対しては病床の様子からは分からないが、この見た目の美少女が運動能力で見下されるとは思えない。

 

 なのに――この少女は、落ちこぼれなのだ。

 

(……本当に信じられない。……だけど、それが事実だということは、この聴取の中でも否が応でも伝わってくる)

 

 容姿端麗。頭脳明晰。

 そんな有り触れた四字熟語が相応しい少女にも関わらず、この子は間違いなく落ちこぼれだ。

 

 まず、この子は目を合わせようとしない。

 その上で、こちらの表情を読むことには長けていて、こちらの心情を読み取ることも上手い――日常的に目上の者の顔色を、機嫌を伺う生活を送っていることが伝わってくる。

 

 そして、これだけ質問をしているのに、彼女の方から質問を返されることがない――見返りを求めない。いや、自分が見返りを与えられるという発想がない。日常的に虐げられる、もしくは下に見られる生活を送っていることが伝わってくる。

 

「……他に、何か聞きたいことはありませんか?」

 

 俯いていた少女は、最低限の礼儀の為と言わんばかりに事務的に、園川に目を合わせる――その目に、園川は閉口した。

 

 神崎有希子の目は、諦念と自棄で満ちていた。

 そして、それは、真っ直ぐに――()()に、向けられていた。

 

(……一体、どんな教育を施せば……これほど才気溢れる少女に、こんな目をさせることが出来るの?)

 

 園川も、大人だ。

 どんなに豊かな才能を持っていたとしても、どれほど恵まれた環境に生まれたとしても、全てが正しく芽吹き、育まれ、花開くわけではないということは理解している――とっくの昔に、理解させられている。

 

 それでも、こうして目の前に突き付けられると、思ってしまう。考えてしまう。

 

 E組――合理的の極致とされる、意図的に切り離された隔離差別学級。

 強制的に一握りの弱者を作り上げることで、最大多数の強者を育て上げる教育理念。

 

 椚ヶ丘学園は、現理事長が就任して僅か十年余りで、数多くの優秀な人間を輩出している。

 防衛省の同僚の中にも彼の教え子がいる。能力が高く、合理的で、まさしく強者と呼ばれるに相応しいエリートだった。

 

 結果が物語っている。彼の教育理念の正しさを――だが。

 

(……こんな目をする女の子を生み出すような……こんな目をする子供達を踏み台にすることで成り立っているような教育が、本当に――)

 

 E組――エンドのE組。

 数多のエリートの、文字通りの礎として重荷を背負わされている少年少女達。

 教師からも親からも見放され、自分すらも自分を諦めてしまった子供達。

 

 園川は、目の前の少女を通じて、彼女と同じ境遇を共有している、まだ見ぬ子供達に思いを馳せてしまった。

 

 願わくば、この子達に本当の教育を施してくれる教師が――。

 

「――ああ。申し訳ないが、後二つ程、君には聞きたいことがある」

 

 そんな時、園川雀の頭上から、真っ直ぐに硬質な声が目の前の少女に向かって届いた。

 

 園川は思わず見上げる。そこにいるのは、自らが尊敬し忠誠を誓う上司。

 これまでの事情聴取を全て園川に任せていた烏間が、ここにきて少女と直接会話をしようとしていた。

 

 自分が少女の瞳に気圧されてしまい硬直してしまったからかと、園川は忸怩たる思いを噛み締めかけたが、烏間はそんな部下ではなく、ただ真っ直ぐに神崎有希子と向き直る。

 

 有希子は、園川に向けていた瞳を、そのまま烏間の方へと向ける。

 

「…………ええ。私に答えられることでしたら、何で――」

 

 そこで、有希子は硬直した。

 

 園川はそんな有希子の様子に怪訝な表情を浮かべたが、有希子の方がそんな彼女よりも遥かに戸惑いの様子を見せていた。

 

(……この人――)

 

 E組に落ちて、神崎有希子の人生は変わった――否、終わった。

 十四才にして希望を失い、未来を失い、何もかもを失った。

 

 単なる子供の、誰もが経験する些細な挫折と、大人は笑うかもしれない。

 けれど、子供だからこそ、それは全てを失うに等しい地獄だった。

 

 教師からの信頼も、両親からの期待も、友人も、将来も、居場所も、夢も、誇りも、自信も――何も、かも。

 

 世界が自分を拒絶しているように感じた。

 己に向けられる全ての目が、自分を嘲笑しているような気がしてならなかった。

 

 失望と、侮蔑――真っ暗に染まったその瞳を、あの日からずっと向けられ続けてきた。

 

 同じ境遇のE組の仲間達の目にはそれはなかったけれど、彼等の瞳は――諦念と自棄に満ちていた。

 己の価値を見失い、希望と未来を失った者の瞳――別の意味で、真っ暗な瞳。自分とそっくりな、真っ黒な瞳。

 

 だから――本当に久しぶりだった。だからこそ、こんなにも目が合っているのに、自分を見ているとすぐには理解出来なかった。

 

 烏間惟臣は――神崎有希子を見ていた。

 真っ直ぐに、目を合わせて、()()()()()を見ていた。

 

 こんな目を向けてくる人は――教師にも、両親も、友人にもいない。

 もう、こんな目を向けてくれる人なんて、出会う筈はないと思っていた。

 

「ありがとう」

 

 烏間は、神崎を見下ろしたまま、決して見下さずに真っ直ぐに礼を言う。

 

 E組の自分にも、エンドの自分にも、嘲笑も、侮蔑も――哀憫も、同情もなく。

 

 まるで――教師のように、向き合う。

 

「それでは手短にいこう。君は、あの火災が発生したアミューズメント施設の外で気絶している所を俺が発見したんだが」

 

 園川が場所を変わるかと目線で問うてきたが、間に女性を挟んだ方がいいだろうと判断したのか、小さく彼女に首を振って、再び有希子と目を合わせながら問う。

 

「先程の話だと、君は燃え盛るビルの四階のフロアで気絶したとのことだが――自力で脱出した記憶はないのか?」

 

 烏間の真っ直ぐな問いに、有希子は戸惑いながらもはっきりと答えた。

 

「は、はい……炎の中で気を失って……気が付いたら、もう既にこの病院で――あ!」

 

 その時、何かを思い出したような声を上げた有希子に、思わず園川と烏間が身を乗り出しかけるが、有希子は「あ、いえ!」と慌てたように制して、少し恥ずかしげにこう言った。

 

「わ、わたし、そういえば、まだしっかりと……お礼を言っていなかったって思って」

 

 ここまでに何度か、自分を助けてくれたのは目の前のこの人だと教えられていたのに。それどころか、先に頭を下げさせてしまったことに思い至り、有希子は長い黒髪がたなびく程に勢いよく頭を下げる。

 

「あの! ありがとうございました! その……助けて、いただいて」

 

 有希子は慌て戸惑いながらも、精一杯の感謝を込める。

 

 神崎有希子は逃亡者だった。

 親から逃げて、勉強から逃げて、期待から逃げて、嘲笑から逃げて――そんな自分からも逃げ続けていた。

 

 辛く、苦しい、終わってしまった現実(エンド)から逃げて、ありとあらゆるものから逃げ出して――でも。

 

 

――…………こんなところで、死にたくないっ! 惨めなままで逝きたくない!! 

 

 

 生きることからは、逃げなかった。生きることだけは――諦められなかった。

 

 毎日が地獄で、いいことなんて一つもなくて、生きる希望も将来の展望も、何もかもを失ったE組生だけれど。

 

 

――エンドのままで、終わりたくないっ!!!

 

 

 あの煉獄の火災現場で、そんな自分の中に燻っていた火種を見つけることが出来た。

 

 だから、有希子は感謝した。

 目の前の、自分の瞳を真っ直ぐに見てくれる命の恩人に。

 

(……そうだ。私は、生きてるんだ。助かったんだ。……だったら、今度こそ……戦わなきゃ)

 

 有希子はギュッと、胸の前で手を握る――そこにある、小さな灯を感じるように。

 

 ずっと――小さく燃えていたんだ。

 

 真っ暗な世界の中で、諦念と自棄と失望で溢れて燃え尽きた灰色のような世界で。

 それでも何処かで、小さく、燻る火種があった。

 

 どこかで見返さなくちゃ。やれば出来ると、認めさせなきゃ。

 自分達は、エンドなんかじゃないと――証明しなくては。

 

 折角、死に掛けて、繋いでもらった生命だ――生まれ変わらなくてどうするというのか。

 

「……俺は、ビルの前で倒れていた君を病院まで運んだだけだ。大したことはしていない。顔を上げてくれ」

 

 烏間の言葉に、有希子はゆっくりと顔を上げる。

 

 そして、大人と――まっすぐ、有希子は向き直った。

 

(――っ! この子……目が……)

 

 園川が瞠目する。

 

 未だ昏い――諦念と自棄で暗く黒い瞳だが、その奥に、微かに。

 小さく温かい、種火のような光が生まれたような、そんな何かを、僅かに感じた。

 

 自分が彼女に同情的な気持ちを感じるが故の錯覚だろうか――戸惑う園川を余所に、烏間は、やはり真っ直ぐに問う。

 

「君は、ビルを脱出した記憶はなく、燃え盛るビルの中で気を失い、気が付いたらこの病院にいた。これに間違いはないか」

「――はい。……よく覚えていないですけど……とても怖い何かから逃げていたような……」

 

 これは嘘ではない。

 家でテレビを見て、たまたま特集されていた池袋へと気まぐれで訪れ。

 池袋駅東口でのあの革命の号砲現場に居合わせ、押し寄せる怪物から只管に逃げ回り、命からがらあのアミューズメント施設に乗り込んで――そして。

 

 ()()()()()()()があって、いつの間にか火災が発生した。

 

(……肝心な記憶が……思い出せない……。忘れられるわけないのに……っ!)

 

 余りに凄惨な記憶であるが故に、無意識の内に思い出さないようにしているのだろうか。

 

 しかし、それを言うなら、あの始まりの号砲から一連の、人間だった何かが醜悪な怪物に変貌するシーンや、隣を走っていた逃亡者が虐殺されるシーン等を鮮明に思い出せるのはどういうことだろうか。奥底に仕舞い込むなら、いっそ昨夜の全てを一緒くたに思い出せなくする方が手っ取り早いではないか――そこまで都合よく整理出来ないからこそ、人間の記憶というものなのだろうが。

 

 だが、何だろう――この異様な違和感は。

 

 まるで、()()()()()()()()()()()()かのように、その部分に勝手に鍵を掛けられたかのように――気持ち悪い。

 

 園川は眉根を寄せて頭を押さえた有希子を宥めようとするが、烏間がそれを手で制し――。

 

「――神崎さん。これに見覚えはあるか?」

 

 そう言って烏間が取り出したのは、密閉された袋の中に入った――ガスマスクだった。

 

「っ!?」

 

 自分のこれまでの人生において、およそ仮想世界(GGO)以外では関わることなどなかった物々しいアイテムを突き付けられた有希子は、奇妙な感覚を覚えながら息を呑む。

 

 見覚えは――ない、筈。

 少なくとも有希子はこんな斬新極まりないアイテムを被って池袋を徘徊などしていない。

 

 が、この奇妙なガスマスクを見て、真っ先に感じたのは――胸を刺すような既視感だった。

 

 燃え盛るビルディングのフロア。

 脳裏に響く己の呼吸音。

 そして、極端に狭まった視界の中で佇む――小さな背中。

 

 何も言わず、何も言えず、ただ瞠目のままにガスマスクを見つめる有希子の顔を真っ直ぐに見詰めながら、烏間は補足するように言った。

 

「……俺がビルの前で気を失っている君を発見した時、君はこのガスマスクを装着していたんだ。君に見覚えがない、つまりこれが君の私物ではないというのなら、君は昨夜の池袋で、これを何者かから受け取ったことになる」

 

 烏間はまっすぐに狼狽える女子中学生を見詰める――否、それは余りに眼光が鋭過ぎて、いっそ睨み付けるといった表現の方が相応しいように、園川には思えた。

 止めるべきか――だが、この問いこそが、この緊急事情聴取において、烏間が神崎有希子に問いたかった、最も重要な事柄であることを、園川は前以って知らされていた。

 

 何故ならこの問いは、全世界の警察機関が欲してやまない危険人物への、重要な手掛かりになるかもしれないのだから。

 

 

――……答えるつもりはないと、そう言ったらどうします? 

 

 

「………………」

 

 烏間は生真面目に固められた無表情のまま、少女に見えない位置で固く、固く、拳を握る。

 

 昨夜、炎に囲まれた戦場において、この手の届く位置にまで近づいた、世界一の殺し屋。

 これには変声機能は付いていなかったが、昨日の今日で見間違える筈もない――否、烏間惟臣は、恐らく生涯忘れることはない。

 

 眼球に文字通り焼き付いている――これは、奴と同じガスマスクだ。

 

 たまたまの偶然として彼女と奴が同じデザインのガスマスクを所持していたという推理が成立する可能性も皆無ではないが、こんな装備には無縁に生きていたような少女がその日に限って同じガスマスクと巡り合った可能性よりは――昨夜、同じビルディングにいたのが確定的なあの男が、少女に与えたという説の方がずっと説得力があるだろう。

 

 故に、烏間は、一刻も早く、この少女から聴取することを選択したのだ。

 あの男が――『死神』が、世界で最も人を殺すことに長けた男が、こんな重大な手掛かりを与えてまで救った、この神崎有希子という少女から。

 

「――どうか、思い出して欲しい。このガスマスクを君に与えた男について。どんな些細なことでも構わない」

 

 園川は、その上司の姿に少なからずの驚きを感じていた。

 

 真面目な男だとは知っていた。実直で、堅苦しい程に職務に忠実。

 与えられた任務はどんな難題だろうと平然とこなす――誇張ではなく、この人のお陰で日本という国が救われたケースも、片手では数えきれないだろう。

 

 しかし、それは裏を返せば、どんな難題だろうと任務としてこなしてきたということだ。

 国を救う――そんな偉業には、決まって綺麗ごとでは済まされない相応の闇が伴っている。

 

 誰かを救う為に、誰かを死に追いやったこともあっただろう。

 何かを守る為に、何かを犠牲にせざるを得なかったこともあっただろう。

 悪を滅ぼす為に、自らの正義を裏切ったこともあっただろう。

 

 それが大人の職務であり、責務であり――仕事だ。

 誰よりも真面目なこの人は、その鉄仮面の裏で、どれほどの重荷を背負い続けてきたのか――彼の直属の部下である自分ですら、それを知る由もない。

 

 この超人とも呼ぶべき日本最強の軍人は、それでもいつだって冷静沈着を崩さなかった。

 園川雀は、黙々と、平然と、良く言えば迷いなく、悪く言えば機械的に――任務として任務を遂行し続ける、烏間惟臣しか知らなかった。

 

 故に――こんな烏間の姿を、園川雀は見たことがない。

 

(……この人が……こんなにも感情を露わにするなんて……)

 

 表情は変わらない。声色もいつも通りだ。

 だが、園川には見える――烏間が放つ、押さえようともしていないオーラが。

 

 確かに標的は、全世界の警察や諜報機関が眼から血を流すようにして追っている特S級の犯罪者――世界一の殺し屋『死神』。

 

 こんな怪物の相手を、日本国を代表してたった一人で請け負っているのが、この烏間惟臣だ。

 その重圧たるや、凡人である自分では想像がつかない――が、この横にいる超人は、そんな難易度(レベル)の任務を幾つも淡々とこなしてきたからこそ、対『死神』用エージェントに選出されたのだ。

 

 これまで、どんな任務を与えられた時も、彼がここまで何かを剥き出しにしたことはない。

 

 烏間が放つこのオーラは、闘志なのか、憤怒なのか、それとも――殺意、なのか。

 

「…………ごめん、なさい」

 

 彼の部下として短くない期間を過ごしてきている園川ですら額から汗を流してしまうような烏間のオーラだったが、有希子はそんな烏間に気付いているのかいないのか、俯きながら謝罪の言葉を紡ぐ。

 

「……確かに、これは私を助けてくれた、誰かがくれたものなんだと、思います。………でも、それをくれた人が……あまりよく、思い出せない……っ」

 

 これは鍵を掛けられた記憶ではない。

 確かに、沈み込んでしまいそうな苦しさの中で、それを自分に被せてくれた、何者かの存在は思い出しかけている。

 

 だが、それがまるで暗い影のように朧気で、その正体が掴めない。

 

「……大人……だった、気がします。すらりとした、大人の……綺麗な……男の、人。……優しくて……穏やかで……でも……朧気で。……顔は……思い出せない。……黒い髪の……黒い、人でした」

「……黒? それは日焼けをしていたという意味か?」

「いえ……いえ。……そうではなくて……なんというか――真っ黒な、人でした。何も見えない、見通せない……そんな――」

 

――闇の、ような。

 

 そこまで言って、有希子は頭を押さえながら、沈痛な表情で――遂に、口を閉じた。

 

 有用な証言とは言い難かった。

 しいて言うならば、年齢も国籍も性別も不明だった『死神』が、比較的若い男であるということが分かった以上、成果だと思ってもいいのかもしれない。

 

「…………」

 

 だが、烏間は、この有希子の証言を聞いて、今、改めて確信した。

 

(……そうだ。『闇』――正しく奴は、闇のような男だった)

 

 あの煉獄の戦場で、この手に掴み掛けた正体不明のガスマスクの男――奴は、奴こそは、間違いなく。

 何も見えず、何も見通せず――だが、覗き込もうとすると即座に喉元に鎌を突き付けられるような――そんな恐怖そのものを内包した、正しく『死神』の異名に相応しい男だった。

 

(……何の目的かは未だ不明――だが、何らかの目的をもって、奴は今、この日本にいる)

 

 池袋。

 吸血鬼。

 黒衣の戦士。

 戦争。

 燃えたアミューズメント施設。

 葛西善二郎。

 神崎有希子。

 

 どのキーワードが『奴』に繋がるのか、今はまだ分からない――だが、その糸を、必ずやこの手で――手繰り寄せて見せる。

 

 

――逮捕だ。『死神』。

 

 

 そうだ――必ずこの手で、奴の両手に手錠を嵌める。

 

 烏間は、もう一度そう決意するように、烏間は開いた掌を、再び渾身の力で握り締めた。

 

(……キーワード……そうだ、後一つ、彼女に聞かなくてはならないことが残っていたな)

 

 烏間は一度瞑目して意識を切り替え、有希子と向き直る。

 

 自らにガスマスクを授けた何者かについて思いを巡らせていた有希子に「――すまない。思い出せないのならば、いつか思い出せた時にいつでも知らせてくれ。……では、これが最後の質問だ。入院中の身体に負担を掛けて本当に申し訳ないが、あと少しだけ協力してくれると助かる」と声を掛け、園川も有希子を気遣うように肩に触れる。

 

 有希子は「……ごめんなさい。お役に立てなくて」と申し訳なさそうに言うと、再び烏間と目を合わせた。

 

 烏間は、そんな彼女の目を見て言った。

 

「――君の同級生である『潮田渚』君について。知っていることを聞かせて欲しい」

 

 瞬間――神崎有希子の瞳が、業火に染まった。

 

 

 

 

 

+++ 

 

 

 

 

 

 全身が発火したかのようだった。

 

 

(………………………………あぁ)

 

 

 E組であることの燻りだとか、大人への不信感だとか、命の恩人への感謝だとか。

 

 死への拒否感だとか生へと執着だとか記憶の違和感だとかトラウマだとか心の傷だとか裂傷の痛みだとか火傷の苦しみだとか父親への反発だとか元同級生への劣等感だとか教師への失望だとか自棄だとか諦念だとか嘲笑だとか侮蔑だとか哀憫だとか同情だとか何もかもが燃えた。

 

 溢れ出した炎に、生まれて初めて感じる激情に――否。

 

 これは今初めての感情ではない。昨夜、あの胸に刻み込まれたものだ。

 

 火傷のように――この胸を、焦がした業火だ。

 

 

――神崎さん……どうして、ここに?

 

 

(……………………あぁ! ………………………あぁ!)

 

 

 地獄の奥底で死に掛けていた自分を、救ってくれた命の恩人。

 そうだ、自分は目の前の大人に助けられる前に、思い出せない闇の男にガスマスクを手渡される前に、あの小さな身体に救われていた。

 

 炎の海の中で、絶体絶命の危機に、まるでヒーローのように現れた。

 恐ろしい何かを吹き飛ばして、背に庇って――抱き締めてくれた。

 

 これは、まさしくあの瞬間に――燃え盛った炎だ。

 

 綺麗な紅蓮に染まった美しい感情に、神崎有希子は生まれて初めて、身を焼かれた。

 

 

――大丈夫。すぐに戻るから。

 

 

(…………あぁ! ………あぁ! あぁ! あぁ! あぁ!)

 

 

 それは、余りにも美しい、小さな死神の暗殺劇。

 

 毎日同じ教室で机を並べる同級生は、見蕩れる程に流麗に凶器を振るい。

 

 自分と同じ背丈の同い年の少年は、一瞬の躊躇もなく、一人の大人を死に至らしめた。

 

 

 命を奪う、正にその時――神崎有希子の心を奪う、全てを染める真っ黒な笑顔を贈って。

 

 

(あぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!! そうだ。そうだ。どうして忘れていたんだろう? どうしてこんな業火(おもい)を思い出せずにいられたの!)

 

 思い出せば、もう今までの自分でいられる筈がないと思っていたからか。

 

 それこそ無意味だ――あの笑顔を見た後で、今までの自分に価値を感じることなど出来る筈がないのだから。

 

 生も死もどうでもいい。諦念も自棄も劣等感も自尊心も下らない。

 

 親も教師も大人も元同級生も――友達も仲間も自分すらも。

 

 

 あの笑顔に――比べたら。

 

 

 綺麗で、恐ろしくて、そして美しい――素敵な、あの殺意に比べたら。

 

 

(……渚君。……渚君! 渚君!! 渚君!!! 渚君!!!! 渚君!!!!!)

 

 

 あの背中を、あの瞳を、あの笑顔を、あの殺意を。

 

 思い出す度に、燃えるような業火が全身を灼く。

 

 恐ろしい――けれど、美しい。

 

 怖い――けれど、この世の何よりも、ずっと綺麗。

 

 

「……潮田、渚君」

 

 有希子は、恐怖も羨望も畏怖も憧憬も忌避も愛執も、何もかも詰まったかのような声色で、その名前を呟いた。

 

 そんな有希子に園川は呆然とした表情を、烏間は引き締まった無表情を――共に額から汗を流しながら、向ける。

 

 神崎有希子は、そんな二様の表情の大人達に、虫も殺せないような笑顔を向けて、言った。

 

「……渚君。彼は、私と同じ――」

 

 まるで、どこかの死神のように――殺意に彩られた、美しい笑顔で言った。

 

 

 

――ただの、『エンド』ですよ。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 烏間と園川は、ボタンを押して一階から呼び出したエレベーターを待つ間、ポツリと囁くような音量で言葉を交わした。

 

「……よろしかったのですか?」

 

 園川はそれだけを言った。

 主語のない言葉は様々な対象を指しているようだったが、烏間は小さく、だがはっきりと言った。

 

「……ああ。あの場ではあれ以上何を問うても、彼女は答えてくれなかっただろう」

 

 上司のその言葉に、園川は何も言わなかった。

 だが、無言であるということが何よりも雄弁に、烏間の言葉に同意していることを表していた。

 

 神崎有希子。

 第一印象は、大人に対して恐れを抱いていた少女。

 第二印象は、年並み外れて聡明な少女。

 第三印象は、凄惨な環境に置かれた可哀そうな少女。

 

 良くも悪くも――彼女は、少女だった。

 完成されていないが故に脆く傷つきやすく、自分の世界に籠りがちで、自分の身を守りがちで、失望されるのを恐れて、同情されるのに屈辱を感じて――不安定で、不確定で。

 

 危うい――少女。

 

「……本当に、いいのでしょうか……?」

 

 園川はもう一度呟いた。

 

 彼女は仕事柄、今まで様々な人間と向き合ってきた。

 

 交渉事を専門とし、ありとあらゆる人種と目を合わしてきた。

 そんな彼女から見れば、正しく一目瞭然だった。

 

 あの目――まるで業火に取り憑かれているような、燃え盛るような感情に囚われた瞳。

 

 危うい――危ない。

 あの少女は、正しく今、とても危険な域にいる。

 

(……けれど、私達は、彼女に何が出来るの?)

 

 これが刑事ドラマなら、彼女の闇を取り除く為に、仕事をサボってしつこく関わり続け、彼女の闇と戦うことが出来るだろう。

 だが、これはドラマではなく、自分達は刑事ですらない。

 

 仕事をサボることも出来ない――大人だから。

 それは自分の――自分達の、仕事ではないから。

 

 あくまで園川達は彼女に昨夜の『池袋大虐殺』、そして『死神』について聴きに来ただけの、ただそれだけの関係だ。

 

 彼女と膝を折って向き合うことも、悩みや苦しみに寄り添うことも、彼女を取り巻く環境を壊すことも出来ない。

 

「……我々は、彼女にとっては、只の大人だ。今日会ったばかりで、今後会う機会など殆どないであろう、赤の他人だ。そんな人間の言葉が、彼女に届く筈もない」

 

 そんな大人が、そんな他人が、そんな人間が――誰かを救うことなど出来る筈がない。

 

 烏間は言う。そんな烏間に、園川は何も言えない。

 

 間違った(みち)を進もうとしている少女に――何も言ってあげることが出来ない。

 

「我々は――教師ではない」

 

 子供を教え導くことの出来る存在ではない。

 

 出来ることは、ただ国を守ることのみ。

 

 だが、そこまで考えて、やはり園川は考えてしまう。

 

(……子供を見捨てるような大人が――)

 

 国を守る資格など、あるのだろうか――と。

 

 そんな懊悩する園川の前で、ゆっくりと扉が開く。

 

 目的の階に辿り着いたエレベーターの中には、震える少女が一人居るだけだった。

 余りの震えぶりに患者なのかと思ったが(身に着けている服も外出着とは思えないぶかぶかのスウェットだった)、パッと見る限りにおいては怪我などをしている様子は見られない。

 

 少女は烏間達を見ると恐怖の余りか硬直していたが、まるで何かに押されるようにしてエレベーターを足早に降りる。

 そして園川達の前を通り過ぎた少女は、そのまま園川達がいた病室の方へと向かって行った。

 

 何とはなしにそんな少女を目で追っていた園川だったが、その時、自身の隣の男の様子がおかしいことに気付く。

 

「………………」

 

 烏間は、じっと、スウェット少女の背中を訝しげに見ていた。

 

「……どうかしましたか?」

「……いや――」

 

 何かを言いかけた烏間だったが、その時、既に少女と入れ違いにエレベーターに乗っていた看護師が二人に声を掛ける。

 

「……乗られますか?」

「は、はい。ありがとうございます。……烏間さん」

「……ああ。分かった」

 

 園川と烏間はそのまま頭を下げて、エレベーターに乗り込む。

 

 

 そして――扉が閉まった瞬間、人気の無い廊下に火花が散るような音が発生した。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 病院を出た園川は、駐車場に停めていた覆面パトカーに乗車していた。

 現在警察に出向中ではある烏間もパトランプまで借り受けているわけではないので、正確には覆面パトカーではなく只の公用車だが、兎にも角にも、彼女達は病院を出て車へと戻っていた。

 

 助手席で所在なさげにする彼女の隣の運転席では、烏間が笛吹へと事情聴取の報告を行っている。

 

 神崎有希子への事情聴取の成果としては、可もなく不可もなくといったところだろうか。

 新たな衝撃事実が発覚したわけではないが、聴取前に予想していた事実関係の目ぼしいものに対する裏付け――というよりは心象的な確証を得ることは出来た。

 

 だが、園川の心にはやはり、神崎有希子の危うさだけが心に残っていた。

 

 公的機関の職員ではなく、一人の女性、一人の大人として。

 不安定な子供の、未熟な少女の行末に――心を痛めずにはいられなかった。

 

「――ああ。報告は以上だ。では、これより次の目的地へと向かう。……よし。では行くぞ、園川。シートベルトを締めろ」

「え、あ! はい!」

 

 沈痛な面持ちで俯いていると、いつの間にか烏間が通話を終えていた。

 電話を切ってから一秒に満たない早さで次なる行動へと移る上司の言葉に、園川は慌てて指示に従う。

 

 だが、そんなことをしても、自分があろうことか上司が重要な報告をしている隣で物思いに耽っていたという失態を犯したことを隠せないことは分かっていた。

 

 この尊敬すべき上司が、他の子飼いの部下達を差し置いて、今回の事態に置いて真っ先に自分に同行を要請したのは――園川雀が、こと一つの机を挟んだ戦場ならば、面と向かい、目と目を合わせ、言葉を交わして戦う戦争ならば、正しくスペシャリストだと太鼓判を押してくれたからということは知っていた。

 

 相手が女子中学生だということもあるだろう。だが、それでも、一番長い付き合いというわけでもなく、ましてや共に戦場を渡り歩いたわけでもない若輩者の自分を、例え一日限りだとしても相棒(パートナー)に選出してくれたのは事実だ。

 

 あの伝説の男が、日本最強の人間が――にも、関わらず、自分は何も出来なかった。

 

 神崎有希子の心を開くことも、有用な証言を引き出すことも――何も。

 

(……むしろ、彼女は烏間さんにこそ、心を開きかけていた。途中からは烏間さんと彼女が話すのを横で聞いているだけ……私は、一体、何の為に――)

 

 有希子の、あの危うい表情――園川の心を暗くする、彼女に生まれつつある闇を垣間見させたのも、やはり烏間の言葉だった。

 確かに、あれは生まれてはいけなかった闇なのかもしれないが――そんな闇が生まれつつあるということを明らかにさせたのは、もしかしたらどんな証言よりも有用だったのかもしれない。

 

 しかし、それも自分の手柄ではない。園川雀の戦果ではない。

 自分は――私は、この伝説の男の助手席に座るには余りに相応しくないと、そんな自責の念すら抱き始めていた園川に、烏間惟臣は真っすぐ進行方向を見ながら告げた。

 

「悪いが、君をまだ降ろすわけにはいかない。この車からも、そしてこの捜査からもな」

 

 そんな時間はない。今日の午後六時まで、刻一刻とタイムリミットは近づいている――そう言いながら、静かな安全運転で赤信号の前で余裕を持って公用車を停車させる。

 

「……え?」

 

 園川が運転席の男の方を向く。

 運転手である伝説の男は、やはり真っ直ぐ前を見ながら淡々と言った。

 

「これから、もう一人の重要人物の聴取に向かう——君の仕事だ。君の力が必要だ」

 

 そう言って烏間は、ダッシュボードの中から資料を取り出し、園川に事務的に手渡した。

 呆然とする園川に構わず、青信号を確認した烏間は静かに公用車を発進させる。

 

「我々の……いや、俺の認識が間違っていたのかもしれない。確かに神崎有希子は重要な登場人物だった。……だが、彼女の話を聞いて、俄然――彼の重要度は、跳ね上がったと言っていい」

 

 昨夜の戦場で、烏間はこの少年と、ほんの僅かだが邂逅している。

 

 烏間が見たあの少年は、烏間が感じたあの少年は――強く、鋭かった。

 

 だが――。

 

「……神崎有希子を嘆くなとは言わない。しかし、我々の仕事は、まだ終わっていない」

 

 彼と向き合うことが、彼女を救うことにも繋がる筈だ――烏間はそう言った。

 

 安全運転を続ける烏間が、一瞬だけ目線を前から切り、園川に手渡した資料に添付されている写真へと移す。

 

 恐らくは彼の入学式の写真であろう、何の変哲もないクラス集合写真のアップ。

 だが、間違いなく、昨夜にあの地獄の池袋で邂逅した少年と同一人物であることを明確に示しているその写真を見て、烏間は眉間に深く皺を刻む。

 

 この少年の名前を聞いただけで、あれ程までに神崎有希子は変貌した。

 

 そして、『死神』のメッセージカードに残されていた――【とある少年】というキーワード。

 

 神崎有希子と繋がり、『死神』とも繋がり、そしてこの両者を繋ぐ少年。

 

 そして、オニ星人――更には、謎の黒衣へも繋がっているだろう、小さな少年。

 

(……彼こそが、この闇のように黒い謎だらけの事件の――最も真実に近い存在なのかもしれない)

 

 潮田渚。

 

 真っ黒な黒衣を纏った、美しくも恐ろしい戦士の元へ赴くべく、烏間はゆっくりとアクセルを更に深く踏む。

 

「次の目的地は椚ヶ丘学園だ。法定速度を遵守しつつ――最大速度で向かうぞ」

 

 




業火に灼かれた少女の闇を垣間見た大人達は、椚ヶ丘学園3年E組へと向かう。

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。