川崎沙希は、Tシャツがぴったりと張り付き、己の豊満な胸部を強調するかのように身体のラインが露わになるほどびっしょりと汗を搔いていた。
ちらりとあやせが、モデルという職業柄か、無意識に目が吸い寄せられてしまった、剥き出しの長く綺麗な脚の先を見ると、何と裸足だった。
カランという音が無造作に響く。どうやらサンダルを手で持ってらしい。恐らくはそれを反射的に履いて飛び出してきたのだろう。だが、全力で駆け回るうちに邪魔になったのだろうか。
たった一目見ただけで、見た瞬間に、この人がこの泣きじゃくる幼女をどれだけ心配して探していたのかが分かる。
あやせはゆっくりと、スカートの埃を落としながら立ち上がりつつ、そんなことを考えていた。
一方の沙希は、やっと見つけた京華に言いたいことはたくさんあるけれど、それよりも先に、乱れた息を整えて、飛び込んできた京華をギュッと抱き締めながら、妹が怯えていた原因であろう元凶を――鋭く、見据える。
「……何? アンタ」
普通に考えれば、迷子の幼女を保護してくれた女子高生である。
当然、ここに第三者がいればそう判断したに違いないし、事実、そうであろう。
だが、沙希は京華の姉で、京華は沙希の妹だ。
あの瞬間――沙希が声を掛け、京華が一目散に飛び付いていった、あの瞬間の顔を見て、それが、迷子の幼女が家族を発見した時の安心感なのか、それとも、恐ろしい何かから守ってくれる存在を見つけた時の安堵感なのか、沙希に分からない筈がない。姉に気付けない筈がない。
故に沙希は、迷子の妹を保護してくれば女子高生に、鋭い眼差しで威圧的に問い詰める。
対してあやせは、そんな威圧に対し、妹を守ろうとする姉に対し――にこっと、笑顔で応えた。
「いえ、どうやらこの子、迷子みたいで、泣いていたので。これから交番に向かおうと思っていた所なんです。でも、お迎えが来たようで安心しました。よかったね、けーかちゃん」
あやせはそう言って、笑顔で、幼女を覗き込むように腰を曲げて、沙希を盾のようにする京華に言う。
京華は、悲鳴はあげなかったものの、そのまま逃げるように京華の背中に隠れた。
あやせは「あらら」と言って、そのまま苦笑するようにして、沙希に向き合う。
「嫌われちゃったみたいです」
それは、文字通りの意味なのか、それとも照れてるだけだと思っていながらの冗談なのか――ただ、背中に伝わる京華の怯えを感じ続ける沙希は、あやせに向かって簡潔に、表情を変えずにこう言った。
「……そっか。ありがとうね、京華を助けようとしてくれて」
「いえ、たまたま見かけただけですから。……あなたは、けーかちゃんの――」
「姉だよ。だから、もう大丈夫。学校行く途中なんでしょ。後は、こっちでやるから」
沙希はそう言って、京華をあやせから隠すようにしてしゃがみ込む。
あやせは内心で(お姉さんなんだ……もしかしたらお母さんかもとか思っちゃった……)と呟きながら――沙希の外見やら態度やら、染めたかのような青みがかったお揃いの黒髪からはそう思われても仕方ないが――まあ、無事に家族の方に会えたようだしと、そのまま来た道を引き返そうとする。
(…………)
沙希は、あやせが後ろを向いたことを確認して、京華と向き直る。
京華は怯えているが、実際はあやせが何をしたというわけではなさそうなことは感じていた。
あやせの方に、嘘を吐いている様子や、こちらに対しての害意のようなものは感じられなかったからだ。
だが、それでも沙希は、京華が怯えるのも無理はないとも感じていた。
それ程までに、恐らくは彼女よりも年上である沙希から見ても――あの子の笑顔は、恐ろしかった。
綺麗で、可愛くて、妖しくて――けれど、どこか致命的に壊れている。
似ても似つかないけれど、それでも何処か――アイツに、似ている。
似通った、壊れ方。似通った、壊され方。
「――――っ!」
沙希は、ギュッと目を瞑って、過り掛けた背中と、腐った双眸を打ち消す。
そして真っ直ぐ前を向き、泣き腫らした――自分と同様に、腫れ上がった瞼の妹と向き直って、小さく、ぺちんと、柔らかい幼女の頬を叩いた。
「………心配、かけさせないで」
大好きな姉に叩かれたこと、そして、その姉が、とても悲しそうな顔をしていたことに、泣き止みかけていた幼女の両目に、再び涙が溢れ出す。
「……っ……で、でも……たーちゃんが……たーちゃんがぁ」
「…………大志なら……大丈夫。あたしが……なんとかするから。絶対に――なんとかして、みせるから」
沙希は、そう言って、そう言い聞かせて――妹に、そして自分に、言い聞かせるように、抱き締める。
心優しい妹の、幼く儚い妹の、大粒の涙と、心の叫びを、しっかりと己の胸で受け止めるように。
そして、背中を向けていたあやせは、とある言葉に――足を止めた。
(……大志?)
どこかで聞いたことがあるような、そんな違和感だった。だけど、遥か昔のことのようで、パッとは思い出せない。
あやせはくるりと振り返った。
その大志という兄で弟な少年の特徴を教えてもらえれば、何か思い出せるかもしれない。
あれほどまでに一生懸命探しているのだ。どんな小さな情報でも、きっと求めているだろう。
見れば、既にしゃがんでいた沙希は立ち上がり、未だ泣きべそをかいている京華の手をしっかりと繋いで、元来た道へ――あやせから背を向けるように、帰ろうとしているようだった。
「あの!」
「……何?」
あやせは朗らかに声を掛けたが、対する沙希は、本当に嫌そうに、ゆっくりと顔だけで振り返った。
しかし、あやせはそんな沙希の態度など気にも留めていないかのように、笑顔で、首を傾げながら言う。
「お姉さんの弟さんって、大志君っていうんですか?」
「……だったら?」
「よかったら、特徴か何か教えてくれませんか? もしかしたら、わたし知ってるかも――」
「――あのさ」
沙希は京華を背に庇うようにして、再びあやせと真っ向から向かい合った。
そして、あやせの言葉を遮って、鋭く、目を細めて睨み付け、低い声で言う。
「アンタは善意で言ってるのかもしれないけど、あたしにとってアンタは、路地裏で妹を怯えさせていた初対面の女なんだ。アンタに害意がないのだとしても、ここでほいほいと弟の情報なんて、教えると思ってんの?」
「え? でも、弟さんの――」
「あー、もうはっきり言わせてもらうけどさ――」
沙希は、そこで京華をギュッと抱き寄せて、苛立ちと、それ以上の、何かを込めて、言う。
「――これは、家族の問題なの。部外者が、余計な口を挟まないで」
瞼は腫れぼったく、無論メイクなどもしていない。
恐らくは碌に寝ていない――眠れていないのだろう。目の下には隈が出来ていて、疲れが滲み出ている。
それでも、その眼光は鋭く、その目は死んでいなかった――腐っては、いなかった。
「…………」
あやせは、そんな沙希の瞳を受けて、呆然と挙げていた手を下していく。
「……京華を保護しようとしてくれたことには、改めて、ありがと。だから、これは――忠告」
そう言って、今度こそ、背中を向けて歩き出す沙希は、首だけ向けて、冷たい眼差しで、こんな捨て台詞をあやせに送った。
「
この言葉を言った直後、あやせの視線を背中に感じながら沙希が思い浮かべたのは、およそ一年前の、とある男の言葉だった。
――川崎。お前さ、スカラシップって知ってる?
あの日――川崎沙希にとって、とある男の存在を、明確に意識するようになった日のことだった。
名前すらお互いにはっきりと覚えていなかった存在が、ズカズカと他所の家の事情に首を突っ込んできて、余計なお世話を焼いて――救ってくれた、一夜だった。
そのことを、忘れられないあの日のことを再び思い出して、沙希は、だからこそ歯を食い縛る。
時に、余計なお世話が本当に救いを齎すということを、誰よりも知っている少女は、だからこそ新垣あやせの手を叩き落す。
あんな壊れかけの恐ろしい少女が、とてもではないけれど、あの時のぶっきらぼうな言葉のように、あたしを――あたしたち
彼女は――あの少女は、そんな瞳だ。
――――大志を、助けて……っ
川崎沙希は、そんな瞳をした、壊れかけの男に、ほんの昨日、そう懇願した己を棚に上げて、そう思った。
「――――ッッ!!」
そして、昨日の懇願を思い返したのと同時に――昨夜の、ほんの一瞬、見えたかもしれない映像が、脳裏を過ぎる。
突如、リビングのテレビが映し出し始めた、謎の映像。
その時、まるで帰ってこない大志を待って、ラップを巻いた夕食をテーブルに並べて、京華と共に待っていた沙希は、その映像を見て絶句した。
直ぐに再起動して動き出し、とにかく京華を寝室に押し込んで無理矢理に寝るように命じて、再び自分だけでリビングに恐る恐る戻っていった。
全てのチャンネルが同様にジャックされていて、主電源も落とせないことを悟ると、とにかく無我夢中に大志の携帯に電話を掛け続けた。
そして、テレビをコンセントから引っこ抜くことを検討し始めた頃、池袋東口前の虐殺を映し続けていたテレビカメラが、突如、上空を映し出した。
怪鳥の如く、池袋上空を縦横無尽に飛び回る、醜悪な翼竜――その、背中に。
『………………え?』
一瞬、だった。
猛スピードで滑空するその翼竜が画面に映ったのは、ほんの一瞬。勿論、録画などをしている筈もなく、巨大な怪鳥とはいえ、遠目、それも背中の影など、輪郭すらも朧気で。
でも、何故か、どうしてか――思ってしまった。
化物の背中に、怪物の背中に、向かい合っていた影が――頭部だけ突き出ていた何かと、真っ黒な衣を纏って、その頭部に向かって、銃のようなものを向けようとしていた、誰かが。
『……………大志? …………比企、谷?』
バッ、と。テレビに張り付いた。
見間違えかもしれない。見間違えに違いない。
そう思っても、そう思い込んでも、跳ね上がった心拍数は落ち着かなかった。
再び映像が只々残虐な戦争映像に戻っても、沙希はテレビから離れることは出来なかった。
吐気を催し、涙を浮かべて、脂汗を流しても、唇を食い縛って、目を充血させながら、答え合わせを求めた。
終ぞ、テレビが砂嵐になるまで、大志と八幡はおろか、翼竜の姿さえ碌に映らなかった。
本当に見間違えだったのか、いや、そうに違いない。
そもそもあんな猛スピードで動く中で、人の姿など確認出来るはずもない。ましてや片方は頭部のみだったのだ。たまたま、今、自分の頭の中の大部分を占めるのが、あの二人だから、あの二人に見えただけだ。
そう、何度も自分に言い聞かせても、沙希の心は騒めき続けた。
夜が明けて、朝になったことにも、気付かない程に。
家の扉が開き、幼い妹が家を抜け出したことにも、気付かない程に。
「……大志……比企谷……ッ」
そして今も、沙希は、無意識に、妹の手を強く握り締めていることにも、気付かない。
「…………………」
京華は、少し顔を顰めて沙希を見上げるも――姉の表情を見て、何も言わずに、そのまま少し早い姉のペースに合わせて歩き続けた。
+++
新垣あやせは、呆然と、川崎姉妹が路地裏を出て行く背中を見送った。
――これは、家族の問題なの。部外者が、余計な口を挟まないで
――
そして、沙希が去り際に残していった捨て台詞に、シスコンでブラコンな家族想いな少女の忠告に――苦笑を漏らす。
「……まったく、ですね」
――…………わたし、バカみたいじゃないですかぁ
かつて、とある他所の家の兄妹の関係に――他人様の家の事情に、決死の覚悟で首を突っ込み、そして、これ以上なく馬鹿を見た、何処かの誰かのことを思い返し、笑う。
そしてあやせは、薄暗い路地裏から、首を上げて、空を見上げる。
あの時のような曇り空でもなく、あの時のような血の雨でもない。
まるで、これまでの地獄が嘘のように、青く綺麗に澄み渡っていた。
あやせは、比企谷八幡の背中を、川崎沙希の背中を、五更瑠璃の背中を、高坂京介の背中を、思い浮かべる。
この世の何よりも大切な――家族の為に、戦うことが出来る者達を、切り捨てることが出来る者達を、生きることが出来る者達の背中を、思い浮かべる。
自分は、彼等の、彼女等の、背中しか――知らない。
「……綺麗ですね……本物は」
あやせは、新垣あやせという少女は、綺麗な青空を見て――笑う。
とても綺麗に、美しく――儚く、泣きそうに、笑う。
まるで、二度と手に入らない、かけがえのない何かを、失ってしまったかのように。
「――あやせっ!」
その時――背後から、沙希が去って行ったのとは反対側の路地裏の出口、つまりあやせが入って来た側の入口から、甲高い叫び声が聞こえた。
あやせは、表情を消して、ゆっくりと振り返る――この声を、新垣あやせが聞き間違えることなど有り得なかった。
そして、身体が半回転し、声の主と相向かう時には、あやせの顔には美しい微笑みが見事なまでに作り出されていた。
「おはよう、桐乃! いい朝だね!」
昨日は、よく眠れた? ――そんな風に問いかけると、高坂桐乃は、笑顔のあやせと対照的に、青い顔を更に弱弱しく歪めた。
+++
路地裏を出て、早足で自宅へと帰っていく川崎姉妹。
と、その時、京華は、路地裏の出口のすぐ傍に、自分を励まし続けてくれていた、あの和装の童女の姿があったことに気付いた。
パッと顔を明るくして呼び掛けようとしたが、童女は微笑みながら、指を一本立てて、口に当てる。
そのことに気付いた京華は、姉に引かれていないもう一方の小さな手を己の口に当てて、そして、その手をふりふりと小さく振って、笑顔で口パクをする。
あ・り・が・と――童女は、幼女のそんな可愛らしい言葉に微笑みを深くし、己も小さく顔の前で手を振った。
「――よかったですね、
「……うん」
そして、川崎姉妹が見えなくなった頃、いつの間にか和装の童女の隣に立っていた、これまた時代錯誤のみすぼらしい和装を見に纏った、大きな眼鏡を掛けた小学生くらいの少年が、童女を詩希と呼びながら声を掛けた。
「詩希――座敷童の、シキ。見た者に幸運を齎し、居着いた――居憑いた家庭に繁栄をもたらす精霊。否――『妖怪』か。なるほど、見事なもんだな」
舗装された道、整えられた街の中、余りに不似合いな二人の子供の――真上から。
電線の上に、これまたいつの間にか止まっていた、一羽の烏が――人間達が、人間達の為に作り上げた世界で、どんな生物よりも貪欲に生き抜く真っ黒な獣が。
黒い羽根を撒き散らしながら飛び上がり――真っ黒な着物を纏った人のような何かとして着地した。
烏の濡れ羽のように真っ黒な髪で片目を隠し、下駄でアスファルトを踏み締め、片手を黒い着物の中に突っ込みながら、烏のように黒い男は言う。
「流石は運命操作の能力を持つという稀少種だ。あの男が率いることになる、次代百鬼夜行の幹部候補というのも頷ける話だな」
「
和装の少年は、烏の羽を撒き散らしながら現れた男を、百目鬼と呼びながら迎えた。
対して、詩希と呼ばれた童女は――座敷童と呼ばれた妖怪は、そんな百目鬼から目を逸らしつつ、和装の少年の背中に隠れつつ、ぼそりぼそりと小声で呟く。
「……別に……わたしに……そんな大したことは出来ない。……あの子は……お姉ちゃんが必死になって探してたし……もう……すぐ傍まで来てた。……わたしがしたのは……ほんのちょっと……
詩希は――座敷童のシキは、そうこともなげに言うと、ふいっと顔を完全に百目鬼から背ける。
百目鬼はそんな彼女に苦笑すると「――まぁ、それは置いといて、だ」と言って表情を引き締め、彼女の盾になる少年を見下ろす。
「それで、平太――分かったか?」
「……はい」
平太――と呼ばれた和装の少年は、百目鬼の問いに、顔を俯かせ、静かに答えを返す。
「あの人は……あの女の人は――僕達の敵です。……天敵、です」
百目鬼は、平太の言葉に「……そうだ」と返し、塀に背を付けながら続ける。
「黒衣――今は、ハンターと言うんだったか。上の連中は
「百目鬼さんはいいでしょう。どちらかというと、
「それでも、僕が化物だということには変わりないさ。人間じゃないということは、変わらないさ。それに狩る側っつても、こうしてお前らみたいな
まぁ、僕に、黒以外の色は似合わないか――そう嘯いて、烏色の男は、煙草に火を点けて、真っ青な空に紫煙を吐き出す。
そうして大きく息を吐きながら、とある一点を真っ直ぐに見据えていた。
「……いいんですか、煙草なんて吸って。肉体年齢は僕と一緒で未成年でしょう」
「1000年近く生き残ってきた特権だ。たかだか100年やそこらで決められた人間達の法律なんか、律儀に守る必要性は感じないね」
「悪ですね」
「偽善者と呼んでくれ。ずっと、そう呼ばれ続けてきた――僕の誇りだ」
百目鬼は、そのまま煙草を握り潰して、塀から背を離す。
そして、平太と詩希を見下ろして、新たな煙草を取り出しながら言った。
「さて――俺の上司とお前等の上司が結んだ契約の有効期限は今日一日だ。しっかりと、お前等の関東観光、もといスパイ行為をエスコートしてやるぜ。今度は何処に行きたい? 今度こそ池袋に行くか?」
「……いいえ。今回のオニ星人の一件を、黒い球体がどのように判断しているのかを把握するという、目的の一つは達したので、それは結構です」
百目鬼は一瞬目を見開いて、そして小さく笑みを浮かべる。
平太は、詩希を背中に庇いながら、まっすぐに百目鬼を見上げていた。
「……あの末端の
「……それが褒められているかどうかは置いておくとして、まあ大体は。それに、奴等も隠す気はないようですしね。はっきりとした答え合わせは、今日の夕方の会見ですればいいことです」
「それで――他の目的とは何だ? 他の戦士でも見に行くか? それとも、生き残った別のオニ星人に会いに行くか?」
「ある意味で正解です。僕が
そして、眼鏡の少年は、決して大柄とはいえないが、自分にとっては見上げる程の背丈の烏色の化物に向かって、人差し指を立てて言う。
「一つは――つい最近、百目鬼さん達が支配下に治めたという、『都市伝説星人』についての調査」
「!」
「もう一つは――」
都市伝説星人――この言葉に、露骨に百目鬼の表情は鋭く変わるが、平太は畳み掛けるように、三つ目の目的を彼に告げる。
「――『妖怪星人』であり、そして『オニ星人』でもある者。かつては人間であり、そして妖怪によって“
烏が鳴く。風が騒めく。
雲が太陽を遮ったのか、途端に薄暗くなる中、詩希はギュッと平太の背を掴み、平太はゴクッと唾を呑み込む。
それでも平太は、震える拳をギュッと握って、目の前の男に尋ねた。
「聞かせてください。“烏鬼”――百目鬼
あなたは敵ですか? それとも味方ですか? それとも――両者ですか?
小さな眼鏡の少年の、意を決した問い掛けに。
百目鬼黒羽という化物は、小さく笑い――牙を覗かせ、大きく黒翼を広げて、言った。
「いい度胸だ。この僕を尋問するつもりか。いいぜ、気が済むまで付き合ってやる」
ただしその頃には、お前は八つ裂きになってるかもな。
鬼のようなその表情に、少年と童女は、ちょっと涙目で後悔した。
+++
大気が震えた――ような、錯覚を覚えた。
「っ!? ……ったく、相変わらず、冗談で冗談じゃないレベルの“気”を放ちやがる奴だ」
冷たい汗を流しながら、咥えていた煙草を電柱の上から投げ捨てる、金髪碧眼のホスト風の美青年――氷川は、見下ろすように、先程まで睨み合っていた眼下の烏色の“鬼”を見据えた。
「……それにしても、なんで“烏鬼”が『京』からわざわざこんな場所まで出張って――いやまぁ、十中八九昨日の黒金のアレ関連だろうが……だが、アイツはわざわざそんなことで顔を出す程、俺達に仲間意識なんて持っていない筈だがな。俺等がアイツのことを同胞だなんて思ってないのと同じように」
まぁ、篤の奴は往生際悪く諦めてないようだが――とまで考えて、どっちにしろこっちから関わらないに越したことはないと判断し、目を切った。どうやらこの遊びの“気”も、自分達に向けたものではないようだし、と。
そして、その外した目線を、今度は少し離れた電柱の上にいる白い少年に――否、白い鬼に向ける。
「………………」
烏鬼の気に委細構うことなく、ただ真っ直ぐに街を見つめる、元少年、現白鬼。
真っ白な目で、真っ白な髪を靡かせて、そのまま風に吹かれて消えてしまいそうな程に――真っ白に、灰のような残滓。
「……おい、いつまでそうしているつもりなんだ。お前の目的の人間共は、とっくにおうちに帰ったぞ」
氷川は灰のような白鬼に言う。
学生服のズボンに、真っ白なYシャツ。眼下の街を歩いている少年達同様、何処にでもいそうな学生の装いだが――口元を覆うグロテスクなマスクが、それらの印象を容易く打ち消していた。
まるで何も食べられないようにと、牙を持った己の口を封じるような、禍々しいマスク。
それはまるで、化物である己を隠そうとしているような――否。
「……それとも、まだどうしようもなく、この世界に――未練があるのか?」
いつの間にか、白鬼の背後に立っていた金髪の美青年は、しゃがみ込んで街を見下ろす白鬼に、そう冷たく言い放つ。
白鬼は、そんな氷のような鬼に対し、真っ白な灰のような言葉を返す。
「……いいえ。ないっすよ……何にも。ここは――人間の世界っすから」
そう言って、白鬼は――川崎大志という人間だった、残り滓の化物は呟く。
禍々しくグロテスクなマスクをそっと撫でで、自分の有様を受け入れるように。
「…………」
「……ありがとうございます、氷川さん。散々迷惑かけたのに、こんな我が儘まで聞いてもらって」
そして、大志は立ち上がりながら言った。
最後に一度、川崎沙希が、川崎京華が、帰っていった方角を見詰めて――目を瞑った。
「――大志。これから、俺等は地下に潜る。ちょっと黒金が派手にやり過ぎたからな。ハンターだけじゃなく、今の世界をあんまり崩したくない大御所星人共も、
氷川は新たな煙草に火を付けながら、大志に向かって、淡々と告げる。
「下手すりゃあ、これがお天道さんの下で眺める最後の景色になる。最後にもう一度聞くぞ――いいんだな?」
大志は振り返り、氷川に向かって、微笑んだ。
それは、何もかもを失った、真っ白な灰のような笑顔だった。
再会する少女達の背後で、新たな化物達が動き出す。