比企谷八幡と黒い球体の部屋   作:副会長

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あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?



Sideあやせ――①

 

 朝――ベーコンとエッグを焼くフライパンの音がキッチンから響く中、リビングのテレビの中では、純白の羽衣を纏った羽の生えた美少女が、可愛らしく弾けるようなウインクを向けていた。

 

――『あなたが好きなのは天使の私? ――それとも、堕天使?』

 

 そして、その純白の衣装の美少女と入れ替わるように、同一人物の美少女が、今度はダークな黒い衣装に身を包み、妖しげに色っぽいウインクを視聴者に贈る。

 

 新垣家のテレビから流れているのは、とある化粧品会社が、今年の春から推しているアイシャドウのCMだった。

 天使の衣装と堕天使の衣装を着た同一の美少女が、目元の化粧の違いによって変わるイメージをアピールしたもので、このCMの効果か、もしくは抜擢されたモデルの人気かは分からないが、その商品の売り上げはこれを機に爆発的に伸びたらしい。

 

 そして、何を隠そう、このCMで天使と堕天使を演じたのが、この平和な家の一人娘。

 

「――おはよう。お父さん、お母さん」

「あら、おはよう、あやせ。今日は少しお寝坊さんなのね」

「お、おはよう、あやせ。……ごほん、夜更かしでもしていたのか? 関心せんな。期末テストも近いのだろう」

 

 既に寝間着から高校のセーラー服へと着替えを済ませ、登校準備を整えた格好でリビングへと入って来たのは、現役モデルにして、このたびCMデビューも果たした新鋭――新垣あやせだった。

 

 あやせは母親にごめんなさいと笑顔で謝ると、テレビ画面に映っていた自分の映像と、新聞を広げながらも少し挙動不審な己の父親の姿を見て、少し眉に皺を寄せながら溜め息を吐く。

 その様子に、母親はクスクスと笑いながら、己の夫を窘めた。

 

「ふふふ。あなた、娘に偉そうなことを言う前に、娘のCMに見蕩れるのを止めたらどうかしら? いい加減に慣れなさいな。思春期の娘からしたら、父親のそんな姿は気持ち悪いだけですよ」

「き、気持ち悪――わ、私は、ただ、年頃の娘が、あまりはしたない恰好を世間様に晒すのはいかがなものかと――」

「はぁ。別に、そんなに露出が多い衣装というわけではないでしょう。それにお父さんは、わざわざこのCMの撮影現場に押しかけてきて、さんざん目を光らせていたじゃないですが。現役の議員なんですから、少しは自分の立場を自覚して下さい」

「わ、わかっとる。……だが、それとこれとは話が別だぞ。昨日は遅くまで何を――」

「お父さんの言う通り、テスト勉強ですよ。期末テストが近いですし、御心配なさらずとも、しばらくモデルの方は控えていきます――それに、当分はそれどころではなさそうですしね」

 

 あやせがテーブルに着いて、自分で淹れたコーヒーを一口含みながら、目を細めて呟いた言葉に、両親は揃って神妙な顔つきになり、口を噤む。

 

 その様子を少し訝しんだあやせだが、CMが終わり、再び緊急特番が流れ始めて、ああなるほど、と納得した。

 

『――ご覧ください。昨夜、池袋東口での凄惨な映像は、リアルタイムで強制的に流されていましたが、悲劇はそれだけではありませんでした……。サンライト通り、明治通りといった東口周辺エリアだけでなく、ここ南口エリアも、御覧の通り、破壊の限りを尽くされています』

 

 まるで巨大な何が落下したかのような――豪快な墜落現場。

 

 そこは、ほんの数時間前――新垣あやせが、一体のオニと戦争をした現場だった。

 

 怪物と戦い、殺し合い――そして、再会を、果たした場所だった。

 

 終わった恋との、初恋の相手との、半年ぶりの再会現場だった。

 

「…………………」

 

 あやせはその映像を冷めた目で見詰めながら、熱々のコーヒーを啜る。

 

「――悪いが、もう出掛けなければならない。この件で、今、日本中が混乱しているといっても過言ではないのだ。非番などとは言っていられない」

「…………あなた、せめて朝食だけでも――」

「すまない。このトーストだけ頂くとするよ。……帰りは何時になるかは分からない。お前も、なるべく家から出ないようにな。あやせも、なんならほとぼりが冷めるまで学校は――」

「いいえ。休校の連絡も来てないし。テスト前だから、一応行ってみることにします。……それにしても、こんなことが起きてたんですね。ずっと机に向かってたから、知らなかった」

 

 娘のそんな言葉に、父は苦笑する。

 

 確かに、昨夜の池袋大虐殺は日本中を混乱の渦へと叩き込んだ。

 だがそれは、一見特撮やCGとしか思えない怪物達が、人間達を虐殺していく様を、テレビ放送されてしまい、何を思ったか、そのまま何者かが電波ジャックして強制的に放送し続けたことによるものだ。

 

 ネット全盛期の今、情報を封鎖することなど出来る筈もなく、瞬く間に情報は広がっていったが――その大多数が、己とは関係ない、それこそまるで海の向こう側の出来事のように感じているだろう。

 あの完全無修正の殺人映像を見た者達はそうではないのかもしれないが、実際の放送を見ていないネット情報のみを受け取った者や、少数だろうが、あやせが言うようにテレビやネットに触れず一晩を過ごした者達にとっては、何か大変なことがあったらしいといった程度のものでしかない。

 

 朝起きて、登校する――そんな当たり前の日常のルーティンを崩す要因にすら、なり得ない悲劇でしかないのだ。

 

 議員という立場の人間からすれば、それはとても危ういことのようにも思えるが――だが逆に、その方が今はいいのかもしれないとも考える。

 

 なにせ、状況が異常過ぎて、自分達のような上の立場の人間ですら、状況を計りかねているのだ。

 混乱しているとはいえ、ある程度の地位にいる筈の自分にすら、連絡が来たのは全てが終わった後だった。自宅ではネットやテレビなどに触れない生活を心掛けているとはいえ(議員という立場上の心労から、仕事とプライベートは完全に切り離すのがあやせ父のスタンスだった)、この醜態は議員として痛恨の極みだが、それは一重に、今、自分が職場に行っても何も出来ることはないということを意味している。

 

 つまりは、それほどの異常事態。

 この一件は、自分よりも遥かに上の人間達――それこそ、現内閣クラスのトップ達が、対処に動いているということだろう。

 彼等がこの件を収束させる――このニュースの冒頭で、そして、画面右上のテロップで伝えている通り、今晩午後六時の会見まで、自分達のような地方議員には何もすることがないのかもしれない。

 

 それでも――せめて、この愛する千葉県の混乱だけでも、治める努力をしなくてはならない。

 

(――だが、昨夜から雪ノ下と全く連絡が取れない。………一体、奴は何をやっているんだ)

 

 この千葉において、最も強い影響力を持つあの男――否、あの夫婦の力は、こんな時こそ必須だというのに。

 

 あの――千葉高波大災害の時のように。

 

「…………とにかく、くれぐれも気を付けろ。何かあったら、すぐに私に連絡するんだぞ」

 

 あやせ父は、そう言って迎えの車に乗り――千葉県庁へと向かった。

 

 確かに異常事態だが、異常事態過ぎて、今は何の対策も練られていない。

 つまりは、今の千葉において、池袋大虐殺は、都心で起こった大量殺人事件に過ぎない。

 

 ニュースになり、クラスの話題の的だろうが――日常を崩すには至らない程度の、革命に過ぎない。

 

 今は――まだ。

 

「……あやせ。本当に行くの? なんだか、お母さん嫌な予感がするわ。……あんなお父さん、久しぶりに見たもの」

「大丈夫ですよ。学校に行って、休校だって知らせがあったら、真っ直ぐ家に帰って来ますから。それに、家にいてこんなニュースをずっと見てる方が参っちゃう。だったら、学校で友達と喋ってた方が、気も紛れますし」

 

 それに、やらなきゃいけないこともありますしね――そう、ぽつりと呟いた。

 

「………え? あやせ、なにか言った?」

「いいえ、何でも! それじゃあ、私も行ってきます!」

「ちょ、ちょっと、あなた朝ごはんは!?」

「ごめんなさい、帰ってから食べます!」

「それじゃあ、朝ごはんにならないでしょう……もう、お行儀悪いわね。なにかいいことでもあったのかしら?」

 

 いつもよりも機嫌がよさそうな娘に対し、呆れるようにあやせ母は言う。

 

 母親のその言葉に、昨晩の変態オニを思い起こさせるような台詞に対し、あやせは振り返り、天使のような笑顔でこう答えた。

 

「ううん、何にも――ただの最悪な一日でしたよ♪」

 

 そしてくるりと、そのまま母親に背を向ける。

 

(本当に、最悪でした)

 

 帰り道に、昔の恋敵に会って。

 

 そして目の腐った、不審者に会って。

 

 さらに、唐突に、オニの集団に襲われて。

 

 再び、あの黒い球体の部屋に送られて。

 

 自分を殺した、ストーカーと再会して。

 

 巨大な黒騎士と戦って。そしてまた部屋に戻って。

 

 忌々しくも美しい、新たな恋敵が、復活して。

 

 その女に、変態の相手を押し付けられて。

 

 変態が、変態で、変態して、変態になって。

 

 新たなストーカー属性の変態が合流して、救いようもなく――壊されて。

 

 そして、仲違いした親友と、自分を振った初恋の男と。

 

 真っ赤な戦場で、真っ赤な自分で、再会した。

 

(はは。思い返せば、まるで絵に描いたような最悪の一日ですね)

 

 あやせは笑う。あやせは微笑む。

 

 天使のように綺麗で、可愛く――そして、堕天使のように、妖しく、美しく。

 

 ガチャッと扉を開け、眩しい太陽の光に目を細める。

 

 最悪の夜が終わり、新しい朝が始まる。

 

「さて、今日はどんな一日になるのでしょうか」

 

 まるで生まれ変わったかのように、清々しい気分だった。

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

 透き通った青空が気持ちいい、いつも通りの朝だった。

 

 いつも通りの通学路を、いつも通りの時間に、いつも通りに歩く少女。

 

 強いて昨日までとの相違点を上げるとするのなら、その少女が昨日までよりも遥かに美しい笑顔を浮かべていることと、周りを歩く同じように学生服を纏った少年少女達が、そんな美少女の満面の笑みよりも、己が携帯端末のディスプレイに釘付けであることだろう。

 

 満面の笑みの黒髪美少女――新垣あやせだけが、ただ一人、歩きスマホも、同級生と顔を寄せ合ってお喋りもすることなく、まるでピクニックにでも出かけそうな雰囲気で鼻歌を歌っている。

 

 周りを歩くティーンエージャー達は、そんなあやせを訝しそうに一瞥するものの、直ぐに情報収集へと行動を戻す。

 こんな風に呑気に通い慣れた通学路に繰り出してはいるものの、彼等の中には誰一人としていつも通りに日常を享受しているものなどいやしない。

 

 幼少期から浴びるように創作物に触れ、インターネットの世界にどっぷりと浸かり続けてきた現代っ子だからこそ、昨日の池袋大虐殺を、もしかしたら、彼等は大人以上に異常に感じていた。

 

 あの虐殺映像がテレビ画面に映し出されたその瞬間から、そして、何者かによって電波ジャックされて、地獄の強制視聴が行われていたその時も、そして、画面が砂嵐に変わって、今朝のニュース速報が始まるまでのその間も、そして、今も。

 

 ネットの世界で、SNSの網の中で、彼等は、彼女等は、会議やら形式やらで大人達が机を指で叩きながらまごついていた間も、燃えるように加熱した議論を交わしていた。

 

 合成映像やCG論で一笑に伏せた者や、宇宙人襲来説、政府が秘密裏に開発していた生物兵器の暴走説、UMA説やら壮大なドッキリ説まで、ありとあらゆる仮説や推理が手当たり次第に溢れ返り――やがて、こうして登校時間を迎える頃には、掲示板から草が消えていた。

 

 え……うそ、マジで……どうなってんの? ――そんな書き込みが、呟きが、次第に増えていった。

 もしかしたら――そんな言葉を打ち込んで、そこで、手が止まった。

 

 ありとあらゆる情報に触れ、その真偽問わず、したり顔で知ったかぶっていた悟り世代は――だからこそ、感じ取り始めていた。

 今回の事態が、今まで自分達が鼻で笑ってきた、世間を騒がせはしても、世界の片隅で生きる自分達の日常を脅かすには至らなかった、世紀の大事件とは、何かが違うことを。

 

 見つからないのだ。

 誰よりもその世界にどっぷりと浸かり、下手をすれば給料を貰ってそのことを職業としている専門家よりも早く、事件の真相や事の粗筋や全ての元凶といったそれらを――所謂、黒幕のようなものを発見し、掲示板にアップする、自称正義の味方達が、一向に現れないのだ。

 

 こんなにも――面白そうな、ネタなのに。

 いかにも皆の大好物なのに。明らかにツッコミどころ満載なのに。

 

 なのに、どうして――誰も、何も、言わないんだ?

 

 ネタを暴かないんだ? 種を明かさないんだ? 

 注目を集められるのに。世界に存在を認められるチャンスなのに。皆に褒められる、絶好の機会なのに。主役に――なれるのに。

 

 漠然とした違和感は、漠然とした焦燥感に変わり、漠然とした恐怖感に変わる。

 誰に言われずとも、こうして操られたかのように学校に向かうのは、無意識の内に必死でいつも通りを守ろうとしているからだろう。

 

 崩されていない。まだ、壊されてなどいない。

 自分達には関係ない。あれは遠い世界の出来事で、ここは世界の片隅なんだ。

 

 物語には、関わらない。戦争だって、起こらない。

 自分は、どこにでもいる、普通の学生なんだから。

 

 だから――自分には、関係ない。

 

 そう、必死で言い聞かせる為に、それを裏付けてくれる情報を待ち望む。

 探して、探して、隣の友達と言い聞かせ合う。

 

 この行為こそが、昨夜の鬼の革命が、世界の片隅にまで罅を入れたのだという、何よりも証拠だということから、目を逸らして。

 

「ん~~。今日も、平和ですね!」

 

 そんな罅の入ったいつも通りの通学路を、新垣あやせは顔を上げて歩く。

 

 だからこそ、他の誰も気付かなかった、路地裏で蹲る幼女と童女に気付いた。

 

「あら?」

 

 

 

 

 

+++

 

 

 

 

 

「――うん――そうなの――っ――た――たーちゃんがね――それで――さーちゃんが――」

 

 近づいていくにつれ、そんな嗚咽混じりの涙声が漏れ聞こえてくる。

 

 どうやら、青みがかった黒髪を二つに纏めた、恐らくはパジャマであろう薄着のままの幼女を、こちらはまるで染料で黒く染めたかのような作り物めいた真っ黒な黒髪のおかっぱ頭で、そして着物というよりは時代劇の庶民が着ているような質素な和装の童女が慰めている、といった光景らしい。

 

 初めは泣いている幼女の方に目を取られるが、やはり直ぐに慰めている傍らの童女に目を向けてしまう。

 

 朝といっても、既に中高生がいつも通りの登校時間を迎えるような時間帯に、パジャマ姿の幼女がこんな路地裏で蹲って泣いているのも訝しさを覚える事態だが、それ以上に、その童女は奇妙な違和感を覚えずにはいられない存在だった。

 

 作り物めいている程に真っ黒な黒髪。そして時代錯誤なみすぼらしい和装。

 そして、何よりも違和感を覚えたのは、そんな恰好が恐ろしく相応しいと思える程に――人形めいた、その顔立ちだ。

 

 日本人形――人形のようだ、とは、容姿の整った女の子、もしくは無表情で感情を感じさせない女の子によく使用される例えだが、この童女は、まさしく人形、それも日本人形のような印象を真っ先に覚える女の子だった。

 

 可愛らしい顔立ちだが、人形と称する程に整い過ぎているわけではない。

 目まぐるしく表情が変わるわけではないけれど、泣いている幼女を見る目は、分かりやすく心配げな感情を表している。

 

 なのに、あやせはこの童女から、日本人形のような第一印象を受けた。

 この可愛らしい童女から、作り物めいた黒髪で、みすぼらしい和装の、時代錯誤な、明らかに、この時代から、この世界から、浮いているような童女から――日本人形のような、()()()()を、感じた。

 

 あやせは、ギュッと――黒いスーツに包まれた拳を胸の前で握り締めた。

 

「ッ!?」

 

 その瞬間、誰かが――何かが、息を呑んだ。

 

「どうしましたか? 迷子、ですか?」

 

 あやせはある程度の距離まで近づいた所で、出来る限りの優しい笑顔で声を掛ける。

 

 すると、ビクッと分かりやすく肩を震わせて――パジャマ姿の青みがかった黒髪の幼女が、涙で顔を濡らしたままで顔を上げた。

 

(………おや?)

 

 隣に目を向けると――確かに、先程までいた筈の、日本人形のような童女の姿は消えていた。

 

(……………………)

 

 あやせは一瞬表情を消すものの、直ぐに再び笑顔を作って、嗚咽を漏らす幼女に声を掛ける。

 

「ほら、泣かないでください。こんな所で、どうしたんですか? よかったら、わたしに話してみてください」

 

 あやせは幼女に目線を合わせるようにしゃがみ込み、持っていたハンカチで彼女の涙を拭う。

 幼女は洟を啜りながら俯き、しゃくりあげながら、ゆっくりと口を開いていった。

 

「……あ、あのね……あのね……たーちゃんが……かえってこないの」

「たーちゃん?」

「………きのう、たーちゃん……さーちゃんと、けんかしちゃったの……それで……がっこういって……ずっと……かえってこないから………だから……けーか……ぅぅ」

 

 そこまで言うと、幼女は再び瞳に涙を溢れさせ、顔を隠すように蹲る。

 

 あやせは、この幼女はその「さーちゃん」と喧嘩して帰ってこなくなった「たーちゃん」を探して迷子になったということなのだろうか、と噛み砕く。

 

 だが、流石にこれでは情報が少なすぎる。学校に行った、ということからペットなどではないだろう。帰ってこない、という言葉から判断すると――

 

「あなた、お名前は?」

「……かわさき……けーか」

「けーかちゃん。たーちゃんというのは、お友達? それとも――」

「ううん」

 

 けーか――川崎京華と名乗った幼女は、顔を腕で隠したまま首を振り、そのままポツリと呟いた。

 

「――お兄ちゃん。たーちゃんは、けーかのお兄ちゃんなの……」

 

 その言葉に、新垣あやせは――小さく、美しく、笑った。

 

(……また、お兄ちゃん、か)

 

 あやせは、そのままゆっくりと、お兄ちゃんを探す妹に、泣きじゃくる幼女の頭に手を乗せる。

 ビクッと体を震わせる彼女を宥めるように、文字通りあやすように、綺麗な青みがかった黒髪を優しく撫でる。

 

「――大丈夫です。何でも、千葉のお兄ちゃんは、すべからず例外なくシスコンだそうですから。必ず妹の元へ、あなたの元に帰ってきますよ」

「……しす……こん?」

「ええ、シスコンです。それこそ、結婚を申し込むくらい。殺人も厭わないくらい」

 

 新垣あやせは、ゆっくり、ゆっくり、その美しい笑みのまま、千葉の妹の頭を撫でながら、綺麗な声色で呟いた。

 

「なにせ、(あなた)は、(あのひとたち)の――【本物】……らしいですから」

 

 だから、泣かないで――そんな言葉に、京華は、ゆっくりと、顔を上げて。

 

 絶句――した。

 

「あなたにも――お兄ちゃんがいるんでしょう?」

 

 綺麗だった。

 

 子供ながらに、その笑顔は、とても美しいものだと理解出来た。

 

 まるで――天使のように。真っ暗な、堕天使のように。

 

 昏く、妖しく――恐ろしい。

 

 初めてだった。川崎京華という幼女にとって、それは生まれて初めての感情だった。

 

 綺麗で、美しくて、可愛い――笑顔が。

 

 こんなにも――怖いと、思うことは。

 

 こわい。

 

 このひとは――こわい。

 

 このひとは――きっと、こわいひとだ。

 

「ヒッ――」

 

 京華が、何も考えず、ただ反射的に、目の前にいる恐ろしい何かに向かって身を守るべく叫び声を上げようとした――その瞬間。

 

「けーちゃんッ!!」

 

 あやせが入って来たのとは向かい側の、この路地裏の出口から、切羽詰った――女の声が聞こえた。

 

 その声の元へと、あやせと京華が顔を向ける。そして、京華が涙に濡れた顔を綻ばせた。

 

「さーちゃん!」

 

 一目散に立ち上がり、彼女の元へと駆け抜けて飛び付いた京華を抱き留めたのは、彼女と同じ青みがかった黒髪を腿の辺りまで長く伸ばし、それを束ねることすらせず、簡素なTシャツと綺麗な脚を太腿から惜しげもなく露わにするパンツといったラフな、それこそ寝起きのままといった格好の少女。

 

 川崎京華の姉である、千葉の姉、川崎沙希だった。

 




微笑みを浮かべる天使で堕天使な少女は、新たな千葉の妹と、新たな千葉の姉と出会う。

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