日の暮れた荒倉山に二人の妖怪が倒れていた。
片方は鬼の妖怪。荒倉山、つまりは戸隠れにおいて鬼女になったという伝説を持つ鬼女。都から追われてそれでも都に恋い焦がれた哀しき女。
もう片方は人に知られていない妖怪。ありとあらゆる伝説に語られず只々人を、妖怪を、神を隠す妖怪。空間と空間のスキマを変えて違う存在へと変えていく妖怪。
そして、そんな二人の近くに一本の影があった。その影をたどるとそこには一人の女性がいた。緑色の髪にすらりと伸びる背。細い白魚のような腕。肩に引っ掛けているのは何処にでも売っているような釣り道具。川釣りならまだしもその釣竿は海釣り用の竿。そんな違和感の中、最も有り得ないのが此処は黒の結界の中という事だ。これほどの結界は早々見破ることなど出来ない。かなりの実力者でなければ絶対に見抜けないしたとえ見抜けたとしても侵入することなどはさらに限られる。その限られた存在がそこに居た。
「ようやくだ。ようやく父を解放できる。あの忌まわしき天津神の封印から」
碧眼を倒れ伏している黒に向けて彼女は腕を伸ばしていく。そして、
「グッ!?」
喉を掴み目の前まで持ち上げた。ギリギリと凄まじい力で首を締め上げながら彼女はただ一言つぶやく。
『起きろ』
「ッ!!? お、お前は?」
黒が意識を取り戻すと同時にその事態を把握した。だからこそ分からない。自身の結界を乗り越えられる存在など草々いない。その例外のような存在が何故今まで自分と鬼に悟られなかったのかと。
「私の正体などは今必要ない。今必要なのはお前が只私に従うか否かだ」
首にかける力を強めて彼女は冷淡に黒めがけて言う。
首にかけられた手を振り払おうと黒は抵抗するが今までの戦いで死にかけている今の黒では抵抗にすらなっていない。それでもなお腕に力を込めて手を払おうとする。
「無駄だ。普段でも力自体は弱いお前が今の状態では到底私の力に勝る訳が無い」
スキマ妖怪。それは鬼のように力に優れた種族ではない。むしろ知略に優れた妖怪だ。術を、能力を持って自身が戦いやすいように戦場を操作するような妖怪だ。
首を絞め続けながら彼女はその目的を告げる。
「お前に協力してもらうぞ? スキマ妖怪」
それは知られてはならない情報。後々ならまだしも今の段階で黒の種族が世間に知られてはまずいのだ。種族が分かれば対処方法がとられる。鬼は酒で酔わせて斬られてしまえば死んでしまう。鵺は正体を見破られて矢を射られてしまえば死ぬ。それが妖怪。圧倒的な力を誇りながらも神話や伝承に縛られる存在。だからこそ黒は自分の種族名を隠していた。スキマ妖怪はどの伝承にも載っていないがそれでも如何いう存在かは名前から読み取れる。名は体を表すと言うように。スキマ妖怪という種族であるがゆえに分かるのはスキマに関係する力。それに対して警戒されてしまえば幾らかの効率が下がってしまう。それは彼にとって望むことではない。
「くっ、貴方……に協力が必要? 神であ……る貴方に?」
黒は呼吸を遮られながらもなんとか声を絞り出して聞く。目の前にいるのが神族であるからこそ何故自身に協力を求めるかが分からない。神という種族の名は伊達ではない。神の名がつくものはたとえ土地神だとしても強い力を持つ。それこそ大妖怪とはいえ一介の妖怪に協力など必要としないはずなのに。
「ふん。簡単なことだ。私では叶わない願いだ。それを叶えるためには貴様のスキマに関する力が必要だ。だからこそこうして今此処に居る」
感情を殺した二つの瞳が黒を睨みつける。しかしその瞳には焦燥がわずかに残っていた。だが、それが分かったところで今の黒の状態では何もできない。一切の抵抗ができない状態で、
『私に従―』
そこまで言葉が聞こえた瞬間黒は目の前の彼女と一緒に吹き飛んだ。
「くっ、この程度の火力しか出んか」
いつの間にか起きていた鬼が目の前の女に妖力弾を放ったためだ。その妖力弾で女は黒を手放し、黒は解放され、地面に叩きつけられる。
「ゲホッ、ゴホ! ガハッ!!」
せき込みながらも動かない体を無理やり糸で動かしてすぐさま女に対して警戒する。
「さて、こそこそ隠れて勝負に横槍くれたのは貴様か。今すぐ五臓六腑引き裂いて地獄の鴉に喰わせてやろうか」
ボロボロの体ながらも力強く立ち上がり、鬼は吠える。
「儂の名は
ボロボロの体。それこそ今なら押せば倒れるような体。それでもなお感じられる覇気は強くなり、妖力はさらに荒々しく吹き上がる。これが鬼。そう思えてしまうほどの力が。
「確かに普段のお主なら私は抵抗もまともにできずに死ぬだろうな。しかし、今なら違う。先ほどまでの戦いでお主は疲弊している。それこそ闘いの神ではない私ですらお前に勝てるほどに」
事実、今の黒と紅葉が協力したところでこの神と戦えばまともな戦いにすらなりはしない。それを理解しながらも紅葉は立ち上がり、戦う。
「戯け、鬼の回復力をなめるではない。すでに妖力だけなら九割がた回復したわ! 此処は儂の山じゃぞ? 周りから妖力を回収することわけないわ!!
さて、主には良いものを見せてもらった。これから見せるのがその謝礼だ。大妖怪ならこれくらいの力は持たぬといかんぞ? 格を見せつけて下級の妖怪を従わせよ。それによって主の郷の治安は守られる。主の大妖怪の格と威光でもって郷を守れ」
今まで只吹き荒れるように紅葉の体を巡っていた妖力が変化する。洗練された技術によって裏打ちされた正しく術式へと。
「さて、儂の軍勢を呼び出すとするか」
バチバチと紫電が放たれる。あまりの妖力の密度に空間が悲鳴を上げているのだ。その莫大な妖力をたった一つの術式に。
「莫迦な!!? その術式は!」
「有り得ない。それは私たち神ですら一部の存在を除いて行使不可能な術式!」
「そうじゃ。しかし、不完全ながら西行法師はこの術式を持って死者を蘇らせた。ならば、大妖怪の力をもってすれば不可能ではない。とはいえ、一時間も満たずにまた死の淵へ戻ってしまうのだがな」
カラカラと笑う。しかしそれについていける者はいない。当り前だ。今から行われるのは禁断の術。それを防ごうとしても今の紅葉の近くに行けばそれだけで吹き飛ばされるほどの妖力が放出されている。黒を傷つけた妖力などが児戯としか思えないほどの妖力が紅葉の居る空間に漂っている。
「さて、行くぞ! 黄泉帰れ!! 主らの主の呼び声に従い黄泉の狭間より!!」
地面から腕が伸びる。幾つも、幾つも。泥をかき分けて甲冑に身を包んだ男たちの腕が見えてきた。
「西行法師ですら不可能だったこの術。儂自らが完成させた! 目を開いて視るが良い! 反魂の術を!!」
かつて西行法師と呼ばれた僧は山籠もりの最中に死者を蘇らせたことがあった。蘇らせた理由は分からない。しかし、その死者はゾンビでしかなく、まともな思考能力を有してはいなかった。
「主風に言うと、『反魂 蘇る盗賊団』というべきかな?」
そう言って笑う紅葉の後ろにはまさしく軍があった。蘇った死者たち。しかし、その瞳にはしっかりと知性が見てとれ、会話すら交わしているのだから。
「久方ぶりだなぁ、お頭!」
「久方ぶりに主らを呼び出す事にしたのでな」
「かっかっか! そうかい。お頭をぶちぎれさせてしまったんかい。相手が可愛そうになるねぇ」
快活に笑う死者の一人。それに合わせてほかの死者たちも笑いだす。
「これこそが儂の力。戸隠れの盗賊団」
一人の死者がその武器を構える。それに合わせてほかの物たちも一斉に構えていく。弓を、槍を、刀を、薙刀を、槌を。
「普通の鬼は卑怯な手段をされたら激怒して真っ向から吹き飛ばすが儂は違う。儂なら卑怯な手段を持って愚かな行為をした者に対しては数という最も強い力を持って駆逐してきた」
まさしくそれは最強と謳われている妖怪に相応しいといっても良いほどの力。数の暴力。それは本来か弱い存在が自衛をするために集まるが例外がある。それは王だ。王は身を守るために多くの数で身を守る。しかし、此処に居るのは違う。王であったとしても隠れて潜むのではなく戦場でその拳をふるう妖怪の王。そしてそれに従う盗賊という名の軍。
「さあ、行くぞ。神程度で儂らを止められると思うか?」
咆哮が響き渡る。それは幾つもの口から出る歓喜の声。敵を打倒すことのできる歓喜の声。死んでもなお自身の主と一緒に戦えることの歓喜の声。その勢いは神ですら早々止める事が出来ない。
「殺れ!!」
紅葉の鬨の声とともに軍団が走り出す。ただ目前の神を倒すために。主が生きることを許さぬと決めたのだから目の前の存在を討ち滅ぼすまで彼らは止まらない。
しかし、また眼前の神もただの神ではない。
「ちっ!! そう来るか!!」
一瞬にして隠蔽していた神力を解放させる。神力の圧力で軍団の進行を一瞬だけ遅らせると同時に彼女の能力を使う。
『動くな!!』
ただ一言。それだけで軍勢の動きが鈍り、止まってしまう。
「無駄だ。神の言葉に逆らえる人間はいない」
事実、神託に従わない人間はいない。例え死者であろうとも人間であるがゆえに神の言葉に従わなければならないという強制力がある。神託を持って人を導く。其れもまた神の仕事の一つ。そして目の前の神が司るのは言葉だ。その言葉全てが神の言葉となり人間も、妖怪ですら従わせる。だからこそ紅葉の軍は動かなくなる。
「なめるなよ!! 小娘が!!」
だが、大妖怪を止めるだけの力はなかった。確かに動きが鈍くなっているがそれでも紅葉を止めるのに必要な力には遠く届かない。
「っく!!」
剛腕から繰り出される一撃。それを受け止めて彼女は、
『止まれ!!』
神託によって世界の理すら歪めて押しとめる。後ろに吹き飛ぶはずだった体を無理やり止めて反撃をする。
肩に担いでいた釣竿にしなりを加えて解放する。まるで鞭のような速度に神木の硬さと妖怪に対する優位性によりそれは絶大な威力を発揮する。下から掬い上げるように放たれたその一撃は紅葉の頭を跳ね上げさせた。
だが、彼女は失念していた。もし彼女が闘いの神や軍神や武神なら話は違っただろう。だが彼女はあくまでも言葉を司る神。戦う事に慣れているわけではない。
『結界 白と黒の対極図』
彼女の周りを白と黒の弾幕が覆う。円を描いて白色の妖力弾は下に、黒色の妖力弾は上に。そこから反対の色の妖力弾が彼女めがけて殺到する。
「な!?」
しかもその速度が速い。言葉を言うだけの時間を取らせないほどに。だが幸いこの一撃は三次元的な攻撃ではなく二次元の平面的な攻撃であり避けやすい。だからこそ彼女は避けられた。
地上に立っていた人間が上下に移動するなら上に行くしかない。弾幕を放った後の黒はすぐさま移動しており、最大威力の一撃を放つ用意をしていた目の前に。
『廃線 ぶらり廃駅下車の旅』
スキマが開く。彼女の目の前に。スキマから出てきた幽霊列車に轢かれて彼女は今度こそ吹き飛んだ。
「ッグ!!?」
吹き飛び地面に叩きつけられた彼女にさらに紅葉の拳が迫る。
ズドンと重い音が響きもうもうと土煙が舞う。
「避けたか」
「ええ」
倒れ伏している彼女は首を曲げてギリギリ紅葉の拳を避けていた。紅葉の拳は地面にめり込んで皹を作り上げている。
倒れていた彼女は足を曲げて紅葉の顔面めがけて蹴りを放つ。それ自体は紅葉に簡単に止められたがその間に体勢を整えることに成功した。
三者の間でにらみ合いが起き、うかつに動けなくなる。数的有利は黒と紅葉だがその体は限界を迎えている。しかし彼女もまたダメージはある。だからこそこのにらみ合いが成立している。
「ねえ、紅葉さん? この件私が決着をつけても良いかな?」
「何?」
にらみ合いの中黒が唐突にそう言いだした。
「唯妖怪としての格をあなたに見せつけるだけ」
「面白い。ならば存分に見せつけてみろ」
笑いながら紅葉は術を解く。蘇っていた死者はまた骨になり山の土へと変える。もう紅葉は参戦しないという意思表示だ。
「さて、貴方と少し話をしましょうか」
「話か。今から無理やり話を聞かせるくらいわけないのだが?」
「いいえ、それは不可能ですよ。貴方の正体は分かりました。そこから能力も推察できる。ならば貴方の能力に対して境界を変えれば良い。それだけで貴方に操られることもなくなる。そうでしょう? 神託を司る神。国津神の頂点に存在するダイコク様の子供の一人」
「……何故分かった?」
「まあ、貴方が持っている釣り道具に能力ですね。あれ程能力を使っていたらそこから正体を推察できますよ」
笑いながら言うがそれは簡単な事じゃない。ありとあらゆる情報をあらかじめ入れておいて初めて分かる。それは紛れもない天才の頭脳でなければ不可能なことだ。そして黒はその天才に含まれる。
「まあ、能力のおかげもありますがそれでも貴方の優位性は薄れています。それにここから逃げ切る程度には私も回復していますから」
「そして私はここから逃げ切られたら負けという訳か」
「そういう事です。しかし、私もまた力は欲しい。ですからあなたに一つ提案があります。貴方が私に協力してくださるというなら私もまた貴方に協力しましょう。心配せずともここには鬼がいるんです。約束は破りませんよ」
「……分かった。その提案に乗るとしよう」
何も黒はただ味方が欲しくてこの話を言ったわけではない。今の黒が彼女と戦えばある程度の抵抗はできるだろうがそれ以上は不可能だ。逃げる程度しかできない。それは彼女にもわかっている。しかし彼女も今逃げられる訳にはいかない。此処で逃げられてしまえばもはや会う事が出来るかどうかすらわからないからだ。
だからこそこの話に乗った。今逃げられる訳にはいかないから。
「紅葉さん? これが私という妖怪の格ですよ。只戦うのではなく、より優位に場を持っていく。貴方達鬼にはない格」
「確かにな。確かにそれもまた一つの格。主の格を認めてやろう。それと、だ。紅葉で良い。さんは要らぬ」
紅葉に放していた黒が彼女に向き合い、一つの札を手渡す。
「では、貴方に式となって貰います」
「式? 何故だ」
「簡単なことですよ。協力する貴方に対しての保険です。貴方がいつ私の寝首をかかないとは限りませんからね。式である最中なら私に危害を加えることはできません。式を外れることもできますが式を外した瞬間私にもその情報が伝わります」
「首輪か」
「ええ。それが私が貴方に架す首輪。神である貴方には屈辱かも知れませんがね」
「構わない。すでに神の誇りなど私にはない。あの時父が封印されると分かっていながら兄妹を、子供を、人間を守るために実の父神を見捨てた時にな」
かつて高天原にて下界は天照大御神が治めるべきという話が出た。その際に葦原の中つ国、今の日本を治めていたダイコク様、大国主の神から国を奪い取った。その際に彼らはその報復を恐れて彼を封印してしまった。彼女はそうなることが分かっていながらも一人の父より多くの神と人間を取った。今でもそれを後悔している。だからこそ、彼女は黒を望んだ。スキマ妖怪の力である境界を変化させる力を。その力を持って父にかけられた封印を解こうとしていたのだ。
「私の名は
手渡された札を自分に張り付けて事代は黒に強い瞳で言った。その瞳をまっすぐ見ながら黒もまた言う。
「ええ。貴方が私に協力する限り私も貴方の願いを叶えましょう」
此処に後の幻想郷で最も敵対してはならないと言われた主従の契約が交わされた。
前作での蒼です。今作では早くに名前が出ましたのでwikiですぐにわかると思います。
因みに結界の中は時間軸がずれていますので結界を出たとしてもまだ昼にもなっていません。ですので怪我を治療してから結界を出ました。じゃないと魔法学校で大騒ぎになりますから。事代と戦っていた時ですら体の一部を失っているという状態ですからね。