東方魔法録   作:koth3

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遭遇した恐怖

 ざあざあという雨の音ばかりが耳の奥で木霊する。それ以外に物音は一切ない。誰も口を開くことなく、ただただヘルマンのいなくなった場所を眺めつづけている。そこには水たまりしかないというのに。

 体中の熱さが急激に失われていくのをネギは感じた。背筋を寒気が張り付くように襲ってくる。

 ヘルマンが最後に語ろうとした瞬間に現れた謎の手。見たこともない、黒い空間から無造作に飛びだしてきた、白い腕。それがなにか分からない。だからこそ、怖ろしいとネギは思った。

 眩暈が襲う。今見た物を嘘だと叫びたくなる。だがネギの優秀な頭脳はそれを許さない。理性が本能の怯えを抑え込もうとしてしまう。

 

「なんや、なんなんや……なんなんや!」

 

 小太郎が歯を剥き出しにして吠える。その体は震えている。

 

「おい、ネギ。西洋魔術師はあんなことできるんか?」

「……」

「できるか訊いとるんや!!」

「できない、できないよ! ありえない! 部分転移なんて、近代魔法学を根本から否定している!」

 

 転移魔法は非常に高度な魔法だ。それはネギも知っている。それこそ天才といわれてきたネギですら、学生時代に習得することができなかったほど難しいものだ。

 一見すれば全身でなく一部分だけを転移させるとなると簡単に思えてしまう。しかしことはそう簡単なものでない。そもそも転移魔法というものは(ゲート)を空間に作り上げ、そこから空間を移動する魔法だ。全身を移動させるならば、身体が通る一瞬だけその扉を作ればいい。しかし一部分だけを転移させるとなれば、扉は開きつづけなければならない。それをするには莫大な魔力と、常に移動する時空間を把握し続ける人外の計算力が必要になる。

 A地点からB地点へと移動するのが転移魔法だ。しかし、このAとB地点は常に移動している。地球は()()()いるからだ。地球の自転、公転。それらすべてを魔法術式に加えこんで移動する。それが転移魔法。ネギはこの計算がどうしてもできずに、転移魔法を習得できなかった。一瞬だけでもその計算はスパコン並みの演算能力を求められるというのに、それをずっとし続けられるなど、ネギには考えられない。

 さらにそれだけでない。そもそも、例え計算できたとしても部分転位など到底不可能なのだ。

 そも転移魔法を使うということは、離れた場所へ移動するということにほかならない。視認できる距離だとしたら、そもそも転移魔法を使わず瞬動を使えばいい。転移中に扉が閉じてしまえば、転移させた部位は空間に切断される。そんな危険なことは誰もしない。いつ自分の体がちぎれるか分からない。

 そしてそれは遠距離においてもそうだ。目に見えない位置に自分の体を放置できる者がどこにいるというのか。遠見の魔法を使えば、確かにその場所は分かるだろう。しかしそれは転移魔法を使うまでの状態だ。転移魔法は異常な程演算能力を使う。それだけ脳を酷使しながら、遠見の魔法を使える者など存在しない。

 論理的にも、精神的にも部分転位など不可能というのが、近代魔法学の結論だ。

 それが今、確かに目の前で完全に否定された。ネギに尋ねてきた小太郎の顔を見れば、東洋呪術でも同じような結論がすでに出ているのであろう。だからこそ、この場にいる全員の中でも特に二人は困惑を隠しきれずにいる。

 ありえないと呟き続けるネギ。しかしそう口にすればするほど、起きたことを肯定するかのようでうすら寒さは強くなっていく。それでも言葉を止めることはできない。黙ってしまえばその時点で認めてしまいそうで。

 

「ね、ネギ?」

 

 明日菜が心配そうにネギへ声をかけたが、それに答えるだけの余裕はなかった。ありえないと口にし、理屈を持って事態を理解しようと必死に脳を振り絞っていく。たとえ間違っていたとしても、説明できればそれでよかった。未知の、理解不能から逃れるためには。

 しかしネギの知識すべてをさらい、吟味し知恵を使いつくしてもなお、なにもわからない。

 

「ネギ!」

 

 明日菜がネギの肩を掴み揺さぶった。

 

「あ、明日菜さん……」

 

 その刺激で、ようやく明日菜が話しかけていたことに気が付き、ネギは茫然とした口調で漏らす。そしてようやく周りを見る余裕ができたのか、心配げにしたしている生徒たちに気が付いた。

 

「あ」

 

 首を一度振り、ネギは毅然とした態度を取り戻す。

 今すべきことは、考え込むことではないことに気が付いた。

 とにかく今は生徒たちを無事部屋に戻さなければならないし、その心身のケアをもしなければならない。いやそれだけでなく学園長に報告しなければならないだろう。正体不明の、異常な現象を引き起こした敵が麻帆良内にいるのだから。

 

「ああ、ネギ。すまん、俺帰るわ。なんかお前の仲間近くに来ているようやし」

「え、小太郎君?」

「すまんな! ほな、また今度や」

 

 小太郎が手を挙げ、飛び立った後、エヴァンジェリンが茶々丸に傘を差させてこちらに向かってきた。

 

「坊や。お前はそいつらを部屋に戻して来い」

 

 その顔は、いつもと違い険しいものだった。

 

 

 

 麻帆良学園にいる最後の魔法使いが、学園長室へ入った。時計は既に両針とも頂点を越えている。ずらりと並んだ同僚にその魔法使いは遅れたことを詫びて列に並んだ。全員突然の収集命令に、困惑していた。

 

「それで、学園長。いったいなぜ僕たちを呼んだのでしょう」

 

 近右衛門はしばらく滑らかな机に映る自身の顔を眺めていたが、ついと顔を上げ口を開く。

 

「うむ。本日、悪魔が侵入した」

 

 その言葉に列のいたる所でどよめきが起きる。

 近右衛門が手を打つ。それだけでざわめきが止まる。すべての目が近右衛門を向いている。厳しい顔つきをしている者もいれば、不安げにしている者もいる。

 その白く長い髭を一擦り、二擦りしてから近右衛門はゆっくりと言葉を紡ぎだす。

 

「幸いその悪魔はネギ君の手によって退治された」

 

 多くのものが明るい顔に変わる。中には力強くうなづいている者すらいる。しかし幾人かはいぶかしげな顔をしており、さらに数人にいたっては表情を硬い物へ変えていく。問題は悪魔が侵入してきたことでないと、気がついた者たちだ。

 

「だが、問題はその後じゃ。ネギ君が悪魔を倒した時、その悪魔が何者かの手で救出された」

 

 先程よりも騒がしくなったざわめきが学園長室を満たす。

 

「どういうことですか!?」

 

 ガンドルフィーニが近右衛門の前にある机に掴みかかり、声を荒げる。今にも掴みかかりそうな剣幕だ。近右衛門はその眼を一睨みするだけで、押し黙らさせる。

 言い淀んだガンドルフィーニは一歩後ろに下がった。

 

「儂にも詳しいことは分からん。しかし学園結界に感知されず、誰にも知られることなく麻帆良に侵入できるほどの手練れじゃ。常に警戒を密にせねばならん」

 

 学園長の言葉が進むにつれ、魔法使いたちの顔つきが皆同じものへと変わっていく。険しく、同時になんらかの覚悟を秘めた者へと。

 

「うむ。もしかしたらそれは関西からの刺客かもしれぬ。各々警戒するように」

 

 近右衛門はそう区切り、反応を待つ。

 

「はっ!」

 

 期待していた反応が返ってきたことに、近右衛門は静かに頷いた。

 なにが起きているのか、近右衛門自身分からなかった。ただただ近づく不穏な日に、いやな予感が当たらなければいいと思った。




ヘルマン編はこれで終わりです。次回からは、麻帆良学園祭編に。

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