体を震わす。ネギの耳から雨音が遠ざかり、ただ目の前にいる男しか見えなくなる。それ以外は目に入らない。
ねじくれた角に、人ではありえない卵のような楕円形の顔。そしてその顔は間違いなく、ネギの目の前でネカネたちを襲った悪魔のもの。
心臓の鼓動が激しくなる。今にも胸が破けそうなほど強く、黒々とした泥のような血を体中へ送り込む。
「ぬっ!!」
体の奥底からあふれ出す魔力で無理やり身体強化をしたネギは、悪魔に殴り掛かる。腹部を狙ったアッパーは、しかし軽やかなステップを踏まれて間合いをずらされ、外れてしまう。拳圧が風を生み出すが、男には届いていない。
「ははは! 素晴らしい。その表情、それこそが
うるさい口を閉ざさせるために、そのこめかみ目掛けて膝を繰り出す。体を後ろに傾けるスウェーでは避けられたが、そのまま膝を伸ばす。伸びた間合いは、ヘルマンのこめかみを砕こうとその威力すべてを発揮する。
轟音が響き、ネギの足にはたしかな感触が残る。その瞬間ネギは嗤った。
ステージへと叩きつけたヘルマンは、頭から血を流していた。しかし全力の蹴りを喰らったにしてはダメージが少なすぎる。
「うむ。中々の威力だ。惜しむらくは、冷静さを少し失っていることか? 激情を否定せず、理性を失ってもならない。それができなければ決して英雄には成れんぞ、ネギ君」
地面ごと引っこ抜きそうなほど低い位置からアッパーが飛んでくる。いや、アッパーにまとわせた魔力が襲いかかってくる。横へ跳び退り、ネギはその衝撃を避けた。
「その避け方ではだめだ。本能に任せるときと、理性に身を任せるときの判断は課題だな」
ヘルマンがいつの間にか眼前に立っていた。最前の場所からかなりの距離があるはずだというのに。驚く暇もなく、ジャブがガードを固めようとしたネギの腕を弾き飛ばす。
「クイック・ムーブのひとつでも覚えるといい。戦場で止まるということは、かなり危険な行為だ。武術では時に技よりも歩法が重視されるように、“歩く”という行為ひとつがかなりの力となるだろう」
その言葉通り、踏み出しながら体全体で叩きつけられるような右ストレートが襲う。それを喰らったネギは、今までと比べ物にならない衝撃を受け、叩きつけられた卵のように地面へとめり込んだ。
「がっ!」
息がすべて漏れる。殴られた腹は、灼熱の痛みにさらされ、悲鳴を上げている。体全体が今の一撃で自由が利かなくなってしまっていた。
吹き飛ばされたネギへ、ヘルマンは近づいてくる。革靴の音が段々と明確にネギの耳へ届く。
「感情だけでは彼らに敵わない。さりとて理性だけでは近寄ることすらできないだろう。怒り、悲しみ、悔しさ、そしてそれらすべてを飲み込み人間は人間として戦わなければならない。それは君も同じだ、小太郎君」
振り返りざまのボディーブロー。それを喰らった、小太郎は吹き飛んだ。
「ネギ!」
ステージ上の少女たちも、ネギの変化に気付き、そして同時にヘルマンの様子が変わったのを見た。先程までと違い、一撃一撃の威力が段違いに強く、動きも速くなっているように見える。戦闘者でないほとんどの生徒たちは、ただ手加減をしなくなったと感じていた。一切の容赦なく、ネギを追い立てているヘルマンは、それほど強い。
「どういうことネ。なんであの男、ネギ坊主に助言なんて送っているカ?」
そんな中、古菲だけはヘルマンが語る内容に違和感を覚えて仕方がない。
敵に塩を送って、戦いのレベルを上げて楽しもうという訳だろうか。それにしては助言もどこか抽象的で、どちらかというと心構え的なものばかり。少なくとも、今すぐその助言で強くなる類じゃない。だからこそ古菲にはヘルマンが分からない。
「クーフェ、そんなこと考えている場合じゃないよ! やばいわ。ネギ君完全に頭へ血が上っちゃっているよ!」
朝倉の慌てる声に、古菲は答えの出ない嫌な感覚を覚えながらも、ネギの方をみざるをえなかった。
届かない。怒りに身を任せて戦ったというのに、その拳が
降り注ぐ雨が、無力なネギを責めるようで、その心を冷たく溺れさせていく。
「僕に、戦うだけの力はないの……?」
「それは違うぞ、ネギ君」
だが敵であるはずのヘルマンに強い熱が与えられる。
「人の強さとは、力ではない。戦おうという意思を持つことが強さなのだ。君らは忘れてしまっているだけだ。その強さを、人の意思を力とする方法を。科学や学問の発達によって忘れきってしまった本来の魔法を」
「本来の魔法? ああ、そういえば」
ふと、ウェールズにいる祖父のことを思い出す。まるで口癖のように、真の魔法とは、と語っていたことを。
「わずかな勇気が本当の魔法……」
いつからだろうか。その言葉をすっかり忘れ果てて、力を求めたのは。
ネギの口から笑いが零れる。なにが魔法使いだ。大切なことすらも忘れ、力を振り回した愚か者がここにいただけだ。
「そうだ、ネギ君。それこそが、君たちの真の武器。さあ、きたまえ! 君の敵として私は、君を打倒しよう! 死にたくないならば、戦いたまえ!」
震える手を握りしめる。負けたくない。目の前の男に勝ちたい。初めてネギは、そう思った。
「ぉ、おおおおおおお!!」
吠える。足が膝から崩れ落ちそうになる。――だからどうした。
腕は疲れ切って上がりそうにない。――だからどうした。
魔力はもうすっからかんだ。――だからどうした。
まだ僕の中に勇気はある。
「あああああ!!」
ありったけの力を込めて、ヘルマンへとネギは拳を振るう。技術も何もないそれは、弱々しく、力強かった。
二つの拳が交差した。
「……見事だよ、ネギ君」
ヘルマンが地に伏した。
小太郎と生徒たちがふらふらとしながらやってきた。
円の中央にはヘルマンが倒れている。
「ふむ。ネギ君まずは賛辞を送らせてくれたまえ。素晴らしい心だったよ」
ヘルマンはネギの目をしっかり見ながらそう言う。あまりにも澄んだその瞳に、ネギは胸の中に抱いた疑問を殺しきれなくなってしまった。
「ヘルマンさん、貴方はなにをしたかったんですか? 人質に取った生徒も必要以上に傷をつけていません。それに、なにより戦いのさなか、僕たちにアドバイスを送っていました」
「……なに、ただの謝罪だよ。君の住む町をめちゃくちゃにしてしまったね」
「なにが、なにが謝罪ですか! 貴方のしたことは、ネギ先生の人生をめちゃくちゃにしたんですよ!」
夕映が怒りをあらわにする。その強い憤りすらも、ヘルマンはただ受け止める。
「その通りだ。たとえ、私たちが
「え?」
「む? そうか、ネギ君。君はまだ知らなかったのか。スプリングフィールド家ならば、失伝していないはずだったが。君が師事しているのはエヴァンジェリンだね。彼女の癖が君の魔法からよく感じ取れたよ。だとしたら、仕方がない。彼女は当時を知っていたといっても、まだ子供だった。あのような状況では周りに目を向ける余裕などはなかっただろうし、あの当時すでに
一度ヘルマンは口を閉じ、息を整え再び開こうとした。
「「「なっ!!?」」」
だがそれはかなわなかった。
ヘルマンの顔を、空中から生まれた黒い穴から飛び出した腕がつかみ取り、そこへ引きずり込んだから。
「ここは、どこだ?」
ヘルマンは動かない身体であたりを見回す。ネギの拳は強い感情が込められており、人間の感情から生み出されたヘルマンにとって魔法なんかよりもはるかに強力な者だった。そのせいで今は指一本動かすことができないほど疲弊している。
首が巡る範囲で見る限り、少なくともこの空間に潜む
蠢く手足、睨み続ける目玉。あちらこちらから囁くように、人の言葉ではないものが聞こえる。まともな精神のものならば、一秒でもいたくないと思ってしまうような空間だ。
「はてさて、この国では蛇が出るか鬼が出るかというのだったかな?」
「蛇も鬼も出ないさ。ここにいるのは復讐を誓った人間だけだ」
視線を巡らすと、ヘルマンの頭上に一人いた。金髪の、美しい顔立ちをした子供だ。ただ、その顔は全くの無表情で塗り固められている。
「君は、まさかと思うがユギ・スプリングフィールドかね?」
疑問に相手は答えない。ヘルマンもまさか答えるとは思っていないが。それでもなお、尋ねなければならなかった、そのことを。
「君はなぜ私とネギ君を戦わせたのかね?」
「決まっているだろう。復讐の味を楽しんでもらうためさ。私だけで堪能するには、ネギに悪い」
その言葉を聞き、ヘルマンは表情を変える。
「そうか。貴様は、心から化け物になったか。いいだろう。ならばわが身を晒すのも悪くない。貴様らを滅ぼすために、主ヘルメス・トリスメギストスに産み出されたわが力を知れ!」
ヘルマンの姿が変わっていく。先程ネギに見せた首以外に、二つの首が生え、そこからそれぞれ一回り小さい顔と大きい顔が生えてくる。翼は蝙蝠のそれでありながら、大きさはけた違いに大きくなっていき、一翼がヘルマンの背丈と変わらないほどだ。
三つの首から
「滅びよ、幻想! 我らが主、人間のために!」
ヘルマンのおっさんは、悪魔でありません。
ここら辺から原作と乖離が始まってきます。