雨脚が一層強くなり、ネギと小太郎、それに男は濡れに濡れて濡れ鼠と化していた。
それほど濡れてはいたが、ネギに寒気はなかった。むしろ熱かった。スライムとの戦いで火照った体には、雨が程よい冷たさで浸してくれて気持ちが良い。
だとするならば、なぜネギの体は震えている? 寒いからではない。ではなぜ? 目の前にいる男を恐怖しているのか? たしかに男の歩き方から、ある程度の強さは分かる。それでもネギが体を震わせるほどではない。強いであろうが、エヴァンジェリンのような化け物を越えた強さではない。ならばなぜ、なぜこうも体が震えだすのか。小太郎はなんの変化もないというのに。
ネギは不安に駆られ、空を仰ぎ見た。一瞬、そこに見知った誰かがいたような気がした。
「なにしとるんや、ネギ!」
小太郎の怒声に、ネギは身をすくめて現状を思い出し、慌てて男を見る。なぜ戦っている最中になにもない空に気を取られたのかは分からなかったが、いまするべきことは黒々とした雲で覆われた空を見上げることでない。生徒を守るために、男を倒すことだ。
下がりかけていた腕をもう一度上げて、構えを取る。それに呼応するかのように、男もまた拳を握り込んだ。その構えはネギですらよく知っているものだ。ファイティングポーズ。
イギリスにて生みだされた近代ボクシングにおいて、もっとも基本的な構え。目線まで両の拳を上げて、僅かに段違いにすることでジャブの速さと、ストレートの威力を両立しながらも上体の防御をも可能とした優れた構えだ。
そしてボクシングをする者のことは、とある名称で言われる。敬意を表すがゆえに。
「ボクサー!」
「ふふふ。私はこれでも紳士を自称しているのでね。これは君の国で紳士のスポーツと呼ばれるのだろう?」
私にぴったりでないか。そう言って男は笑い、軽やかなリズムでステップを刻みながら間合いをじわじわと詰めてくる。拙さのない足運びに、ネギの警戒は跳ね上がる。イギリス人であるネギは、ボクシングについて下手をすれば、今習っている中国拳法よりもはるかに知っている。だからこその警戒だ。
「へっ! 面白いやないか!」
しかし小太郎は跳びだした。注意こそしているが、ネギからすればまったく足りない不用意な状態で。
その小柄な体と速度を生かし、あっという間に距離を詰めた小太郎は、フック気味の軌道で男の顔を狙う。
「駄目だ小太郎君!」
だがそれは悪手だ。ネギが知る限りであるが、ボクサーの得意とすることは殴り合いだというのに。
男は小太郎の攻撃を体を後ろへそらすスウェーといわれる技術で避け、体を起こす勢いも加味して左を繰り出す。うなりを上げた拳は、傍から見ているネギにも風切り音が届き、どれだけ鋭い拳筋をしているかがよく分かる。一流のプロボクサーに匹敵する鋭さだろう。ただ、ボクサーと違うのはその拳に秘められた威力が桁違いという点だけ。
「おっ、おおおおお!!」
間一髪。小太郎は首を捻り、男の拳を避けた。しかし全力で避けたのか、完全に体勢を崩しており、男の右を受けてネギの方へ吹き飛ばされた。ワンで動きを止め、威力の高いツーで仕留める。理想的なワン・ツーだ。しかもカウンターまで決めている男の技量に、息を呑む。
飛んできた小太郎を受け止めたネギは、ぱっくりとわれた小太郎の額に気が付いた。おそらくは、男が繰り出した最初の拳を完全によけきれていなかったのだろう。すぐに治癒の呪文で傷をふさがせる。
近代ボクシング。それは拳のみを使うスポーツであるがゆえに、他の武術や格闘技よりも、下半身がおろそかになる部分はある。しかし逆を言えば上半身の運用は他よりも優れているといえる。そのためボクサーは防御もするがなによりも、回避動作にて他の追随を許さないほど優れた動きをし、それを得意とする。しかもその優れた回避動作は、わずかな動きだけで行えるために、相手の攻撃を利用したカウンターを繰り出しやすいという利点もある。
完璧な見切りと、確かな修練で繰り出された拳は恐ろしい威力を内包していた。
「……やるな、おっさん。速くて、重くて、鋭いわ」
小太郎の目が輝いている。ギラリとした光は、好敵手を見つけたからだろうか。荒々しさの中に純粋なうれしさが見える。飛びだしそうになる体を必死に抑えているのか、踵が浮かび上がってはまた地面へ下ろされる。
「ふふふ。これでも
「なるほど。俺の好きな相手や」
二人の間で何か通じるものがあるのか、笑みを交わし合っている。
その間にネギは、気付かれぬよう細心の注意をしながらも、魔法を詠唱していく。練り上げる魔法はひとつ。魔法の射手。それもたった一本。それ以上は男に魔力が気付かれてしまうだろう。だがその一本があれば、ネギには十分だった。
「魔法の射手・戒めの風矢!」
風属性の、束縛性能を持つ魔法の矢。少なくとも、これを喰らえば、一秒は確実に捕縛できる。それだけあれば、現在使える最大魔力で身体強化を施して、男の後ろまで行ける。生徒たちを逃がすことができる。
「ぬっ!!」
目を丸くした男は、コートを掴み目をそれで隠した。光属性の魔法の矢でもないというのに、その動きにネギは訝しんだが時間を無駄にするわけにいかず、走り出す。
縛られる男をすり抜けて、生徒たちの元へ駆けるネギ。しかしその生徒たちは血相を変えてなにかを叫んでいる。いや身体強化した感覚が捉えているせいで、なにかを言おうとしているのだけは分かった。
「中々の不意打ちだったよ、ネギ君」
生徒たちとの間に黒い壁が生まれる。
とっさに足を止めようとしたネギだが、限界まで身体強化した状態での全力疾走。そう簡単に止められるはずもなく、突っ込んでいってしまう。
男の拳が腹を穿つ。水月をえぐる拳は、石のように固く、そしてハヤブサのように速い。障壁が一撃で割られる。とっさに全身の身体強化を胴体へ集中させるが、それでもなおダメージが伝わってくる。
「ネギ!」
殴り飛ばされたネギは、雨に濡れたタイルを滑りながら客席へと叩きつけられた。小太郎が駆け寄り、追撃を牽制するが男に動く気配はなかった。それどころか、帽子のつばに手をかけて、顔を伏せているだけだ。
「こ、小太郎、君」
「なんや、ネギ?」
火を丸呑みしたかのような痛みが襲う中、ネギは小太郎へ訪ねる。
「
しばし黙る小太郎であったが、重苦しい口調で口を開く。
「正直よう分からへんが、傍から見て、お前の魔法があのおっさんを襲った瞬間、あの気ぃ強そうな姉ちゃんの首元が光っとった。そしたら、魔法の矢が防がれた? いや、散らされた? ううん、ちゃう。そうやな、
かき消されたという言葉に、明日菜がなにかされたという言葉に、ネギはあることを思い出す。神楽坂明日菜は、魔法をかき消す力を持っているということに。
「まさか!」
「流石は天才少年だ。ここまでデータがそろえば、さすがにばれてしまうか」
「あなたは、明日菜さんの力を利用したんですか!?」
その言葉に、小太郎と生徒たちが明日菜の方を向く。数々の視線にさらされた明日菜は、ただ現状が把握しきれず、かといって、さきほどの光が自分の首元から発せられていた事実に困惑するしかなかった。
「首元、……あのペンダントですか、媒体は!」
「ああ、そうだ。切り札であったが、拘束していたスライムたちがいないのでは、簡単に外されてしまう。安心したまえ。この状況下では、一度しか使えぬ奇策だよ、君と同じように」
ネギの言葉に、明日菜は一度首元に掛けられたペンダントを窺い、すぐさま首元から外す。おそらくは、それだけで明日菜の力が利用されることはないだろう。
「さて、君も魔法を使っても構わない。ただ戦いたまえ。まあ、その場合、私の拳が風穴を今度こそ開けるがね? 男なら、やはり拳で語るものだろう!!」
男が構える。ネギと小太郎はその場から跳んで避ける。距離があったというのに、黒い影は先ほどまで二人がいた場所を打ち貫く。重い衝突音がして、コンクリートの粉塵が舞う。
二人というアドバンテージこそあるもの、ネギと小太郎はだんだんと追い詰められていく。ネギの中国拳法はまだ習い始めて日が浅く、男のボクシングと比べ物にならないほどに練度が足りない。だからといって魔法を使おうとすれば、その隙を男は見逃さないだろう。今もその瞳は、油断なく二人を見すえている。
そして小太郎もまた同じように、先ほどから何度か攻撃を繰り出しているが、それらすべては的確に防御され、ダメージを与えられていない。
「こなくそっ!」
不用意に伸ばした小太郎の腕を、男は軽く下へはじくと、そのまま連続で繰り出すジャブで小太郎をその場に縫いとめ、コークスクリューブローのように、ねじ込んだストレートで弾き飛ばす。喰らった小太郎は、客席の左端から逆方向へ勢いよく飛んでいき、地面へと激突した。
「こた「いいのかね? よそ見をして?」――っ!!」
小太郎の方へ気を取られてしまったネギは、男が繰り出したアッパーをまともに食らい、砲丸投げのように宙へ飛ばされる。とっさに魔力で強化したあごと障壁のおかげで、なんとか骨が砕けずに済んだが、それでもダメージは軽くない。脳も揺さぶられたせいで、視界がゆがむ。客席を砕きながら、地面へ叩きつけられる。
痛みをこらえながら上体を起こすと、男はため息をついていた。
「やれやれ。ネギ君、先ほどから君は、どうも本気で戦っていない」
その言葉に反論しようとネギが口を開けるが、男はそれを無視して先へ進む。
「君はなぜ戦う? まさか、仲間のためというくだらない回答はよしてくれよ。それは、戦いの理由を他者へ押し付ける最悪の害悪でもあるからね。そう、戦う理由は常に自分の中になければならない。例えば小太郎君。彼は素晴らしい。あの年齢で強いものと戦いたい。なんともいじらしいではないか。夢があって、いい。だからこそつい私も熱くなってしまったが。だが、君はどうだ? 少なくとも私にはそういったものが見つけられなかった。怒りや憎しみ、復讐心などがあれば全力を出すだろう。自身のすべてをかけて戦うから人は強くなれる。それが人間だ。だが、君にそれにいたるための原動力はない。だからこそ、全力を出さず本気で戦おうとしない。強くなることに興味を持っていないから。……説教臭くなってしまったね、しかしもう一度尋ねよう、ネギ君。なぜ君は戦うのかね?」
男の冷たい瞳にネギは言葉を返すことができない。言いたいことはいくらでもあるが、いざそれを口に出そうとすると、
「ふふ、ふは、ふあはははははは! まさかとは思うが、なにも言えないのかね? ……がっかりだよ、ネギ君。仕方がない。ならば私が君の心を当てて見せよう」
帽子がゆっくりとはずされた。一瞬顔が影に隠れて見えなくなる。しかしすぐにその顔が見えた。
「雪の日の記憶から逃げるためだろう?」
その顔は、ネギの村を襲った怪物のものだった。
ヘルマン強化及び、sekkyou化しました。