罅割れていく世界
黒は修学旅行から帰ってきた翌朝、麻帆良中学校近くにあるカフェで、ネギを待っていた。修学旅行から帰宅した後、どうしても話したいことがあると昨日の内に電話でいわれ、こうしてわざわざ時間を取っている。
これがもしネギ以外であるならば断わっただろう。黒にとって、今は大切な時期だ。計画の細部を詰めていく時期である。些細なことにかかわりを持ち、余計な時間を使うわけにはいかない。
だが黒は時間を取り、こうして待つことにした。
朝早いため、カフェには通勤前のサラリーマンがコーヒーを飲む程度で、客入りはそれほどよくない。内密な話をしやすいよう、黒がわざわざ指定した場所だ。そう遠からず、ネギも来るだろう。
手持無沙汰だったので黒が頼んだ紅茶の湯気が、朝特有のさわやかな風で鼻孔に運ばれていく。ほのかに香る淡い香りを楽しみ、黒はショートケーキの甘みを紅茶で流し込む。砂糖の甘みに隠れているがしっかりと存在する茶葉本来の苦みが、口内をリフレッシュさせてくれる。
そうしてもう一口甘みを入れるために、フォークをかるいさっくりとした生地に差し込む。と、丁度フォークが皿に触れたとき幼い子供の高い声が店内に響く。見るとネギが手を振りながら黒の方へ駆けてくる。
「ユギ! ごめんね、待たせて!」
「待ち合わせ時間までまだ十五分はあるのですが」
「えっ?」
息は乱していないが頬を紅潮させ、ネギは素っ頓狂な声を上げた。黒に指差された方にある、店内の時計は待ち合わせから十五分前を確かにさしている。
かっと頬の赤身が顔全体に広がり、ネギは慌てて腕を振りながら言い訳する。
「ほら、落ち着きなさい。別に時間を間違えた程度、とやかく言いません」
「う、うん、ありがとう。でも、ユギも楽しみにしてくれているだろうと思ったらどうにも早く出過ぎちゃったみたい。待ってて、今見せるから」
「いや、そもそもなんの用かなんて聞いていないのですが?」
「あれ?」
首をかしげるネギに、ひとまず席に座るよう促して黒は一息つく。
なにかしたがっているネギだが、とかく落ち着かせなければ話にならない。慌てたネギの言葉は支離滅裂になってしまう。
それを知っている身として、黒は真っ先に椅子へ座らせた。
「それで、話とは?」
「あっ、うん。えっと、ね」
座ったおかげで落ち着いたのか、少しどもりながらもきちんとした言葉が返ってくる。
ガサゴソとネギが鞄の中を探し出す。鞄の中から取り出されたのは、一枚の紙だった。あまり保存状態はよろしくない。また、広げると大きすぎるために、他の机を借りてそこに置かざるを得ない。客がいないからこそできることだ。
広げられたものには絵と文字が書かれている。
「…………」
「すごいでしょう!! 父さんが残したものなんだ!」
それは地図だった。麻帆良の地下通路を示しており、所々に汚い手書きの文字で文章が書かれている。
そして、ある個所に、これまた汚い文字の上、そこに下手くそな絵が描かれていた。
ナギ・スプリングフィールドをデフォルメしたような絵が。
「父さんの手がかりがここにあるんだ! ユギ、行こう!」
「…………」
黒はなにも答えない。ただじっとその絵を見続けている。
その様子に、ネギは不満なのか、頬を膨らませた。
「ユギは父さんに会いたくないの?」
「……会いたいと言ったら?」
「なら、僕と一緒に行けばいいじゃないか! なにをそんなに尻込みしているの!」
とうとう椅子から立ち上がり、机をたたいて顔を真っ赤にして怒鳴るネギ。あたりの客や従業員が立ち止まって様子をうかがい始めている。
「そうですね」
興奮しているネギと比べ、静かな声色で黒は言葉を口にする。
「だから」
「魔力があれば」
二人の間が静まり返る。
ネギは赤かった顔を青くし、続けて出そうとした言葉を飲み込んだ。
「魔力があれば、魔法を使える。魔法を使えれば、父に会いに行くこともできる。だけど、私にはない。だからいけないんですよ。どんな危険が待ち受けているかも分からない。だというのに足を引っ張ってしまう私がいては邪魔になるだけです」
ふらふらとネギは崩れるように椅子へとへたり込む。
「……ごめん、ユギ。僕、最低だ。魔法が使えないのを知っていて」
「構いませんよ。もうそれに関しては慣れています。存外魔法が使えない生活というのも、それはそれで面白いものですよ」
「……うん」
それ以上、ネギはなにも口にしなかった。ただ黙っているばかりで。
黒はすっかり冷めた紅茶を飲み干す。伝票を掴み、その場を後にする。
残されたのは、沈み込むネギとさらに残ったケーキだけだった。
そこは清浄な世界だ。邪というものがなく、楽園と言える世界がどこまでも広がっている。空気は澄み渡り、流れる水は甘露のごとく甘い。大地は暖かく、吹く風は優しい。建てられた建物は、見事な彫刻が彫られており、ひとつひとつがとても大きい。しかしだからといって金持ちが作るような、権威を主張するかのごとく醜さはない。
だがそこは清すぎる。水清ければ魚棲まずという言葉通り、ここには生物の気配がない。ただいるのはぽつりと立つ黒一人。
忘れられた都はただそこにある。どれほどの月日がたとうと、変わらずそこに。
「つまらなさそうだな?」
世界が歪む。黒の隣にスキマが生みだされる。それはゆっくりと、
「そんなことはありませんよ」
「そうか、ならいい。それにしてもここはこれが効きづらいから困る。私個としては住みやすいがな。お主ほどの力を持つならばまだしも、ほとんど多くの妖怪はここでは住めんぞ?」
言葉にできないほど、感情が胸の中で渦を巻いている。うれしさと悲しさ。喜びと悔しさ。幸せと苦悩。それらが重なり合い、万華鏡のごとくさまざまな色合いに代わっていく。
「そうですね。確かにこのままでは住めないでしょう。妖怪どころか、あのどんな環境下ですら逞しく生きる人間ですら生きいけません。ここは清浄すぎる。仙人といわれる者すらも、ここでは不浄でしか過ぎない」
「まあ、な。仙人など他より長く生きたいものがなるもの。生にしがみついたそれらがどうして清浄と言える?」
「私たちと比べれば、どこまでも清浄でしょう。結局、問題は簡単なんですよ。ここには生にしがみつき、生きるために他者を喰らうという欲望が長い間存在しなかった。だからこそ、ここまで清くあり続ける。ならば解決法も簡単。この世界を汚せばいい。生きるという執着を持ってどこまでも」
黒は歩き出す。それに従うように、蒼も一緒に歩く。
二人はなにも語らずに、ただこの世界を眺め続ける。惜しむように、憎むように。
立ち止まる。そこは他よりわずかに高い丘陵だった。そこからは、この世界を一望できる。造られた世界を見下ろし、黒は口にする。
「幻想郷を今ここに」
「よかろう。その覚悟、確かに成就させよう」
その言葉は、空に広がる青い海だけが聞いていた。