関西呪術協会は常と違い、夜闇と静けさに包まれていた。刹那は自身の足音だけが異様に響くことに、かつて慣れた親しんだ屋敷の面影を見つけることが出来ず、少しの不安が胸をかすめ足を急かした。
所々で石となってしまった見知った人物を見かけるたびに、心が痛む。長と深いかかわりがあった刹那に、良くしてくれた相手ばかりが石化している。もしかしたら、木乃香も石とされているかもしれないと思うと、手を引いてくれていた相手を失った迷子のように、孤独がささやくように広がっていく。
刹那は拳を握り込む。夕凪の白鞘が嫌に柔らかく感じる。愛刀が頼りなく感じたのは初めてだった。
それでも木乃香の気をたどり、刹那は奥の間へ進んでいく。できるだけ音をたてないように歩いていたが、きしりという木が軋む音が僅かになる。疲れと緊張にダメージで、彼女は普段の技法を使いこなせていなかった。
それでもできるだけ夜闇にまぎれるように、刹那は奥へどんどん進む。焦りから汗が流れ落ち、僅かなそよ風も感知できるほど気がたっていく。そして気付く。前から吹く風に僅かな血なま臭さが混じっていることに。
息をのみ、刹那は我を忘れて飛びだした。床を踏み抜かんとした足音が耳に残る。ふすまに映る、木乃香と明らかに体格が違う影目掛け、全力の一撃を叩き込む。
「神鳴流奥義 雷鳴剣!」
雷へと変換された気が、夜闇を眩く切り裂いて空間を焼きつくすかのごとく放電している。刃に触れたふすまは、斬るよりも早く焼けていく。
「驚いたね。まさかこちらに人が来るなんて」
だが刹那の一撃は、白色の髪をした少年が張っている魔力障壁に止められた。
「っ!?」
どれほど力を込めようとも、切っ先は障壁に阻まれるばかりで、切り裂くことはできない。それどころか、少年は顔を刹那に向けることもなく、反撃をすることもなかった。まるで興味などないと言わん態度で。
ぎしり、と歯をかみ砕かんばかりに力を込めるが、それでも夕凪が進むことはない。
「無駄だよ。かつてのサムライマスターならば話は別だけど、君の技量では僕の障壁にダメージを与えられない」
それでも刹那は力を緩めない。少年の背後にある布団に、木乃香が横たえられていた。傷こそ見える範囲にはないものの、なにかされた可能性がある。刹那にとって、それだけでもう許せることではなかった。
「邪魔だ!」
「やれやれ。話を聞かない相手というのは、案外疲れるもんだね。こういうのを猪武者って言うんだっけ?」
突然夕凪が横にずれる。力をいなされたと気付いた時には、すでに少年の拳が腹部に突き刺さっていた。重くて低い音が内外で響く。
「カハッ!」
吹き飛ばされ、廊下を刹那は二転三転と転がって、止まる。手足に力が入らず、視界もぶれる。耳鳴りがひどい。呼吸が詰まる。床の固さと冷たさが、安らかな微睡へ誘おうとしていた。
「安心しなよ。僕はお姫様を傷つけようなんてこれっぽっちも思っていない。それどころか、今の僕は彼女に傷ひとつつけないように、護衛をしているくらいさ」
ノイズまみれの耳でも、その声は聞こえた。同時に頭に血が上り、顔が火照る。霞んでいた視界がはっきりした。
「信じ、られるか、そんなこと。血だらけのくせに」
刹那が痛む腹を押さえながら息も切れ切れに叫ぶと、少年は一瞬いぶかしげに顔を歪めた。そして服を見るといま初めて気が付いたとでもいうように、少し目を見開いた。
「白々しい! それほどの血だ。一人くらい殺しているだろう。そんな危険な存在をお嬢様に近づけさせられるか!!」
夕凪を杖に、立ち上がる。
震える足を、刹那は気で無理やり押しとどめる。腹が熱く燃え上がっているように痛むが、それを無視して刹那は瞬動を使い少年の胸元目掛けて飛び込む。
「馬鹿の一つ覚えかい?」
今度は瞬動を終えた瞬間に起きてしまう硬直という、わずかな隙をつかれて手首を押さえつけられ、弧を描いた拳が頬を貫く。首から先がねじれ、顔が跳ねあげられる。膝から力が抜けて、刹那の体は部屋の入り口付近で崩れ落ちた。
足が震えていたのと違い、気で強化しても今度は体全体の痙攣が止まらない。立ち上がるどころか力を入れることが出来ず、夕凪を杖にして立つことすらできなかった。
「脳震盪を起こさせてもらったよ。もう、その足は動かない。少なくとも、数分間はね」
体が震える。怒りが力を生み出すが、それでも足は動かない。刹那は、拳を床にたたきつけた。床板を砕き、拳は幾度も打ち振るわれる。だが、怒りはなくならない。ふつふつと溶岩のようにあとからあとから湧き出ては、内側を焼き尽くしては膨れ上がっていく。体を破裂せんばかりの怒りは、押さえつけることなど彼女にできるはずもなかった。
「畜生! 畜生!!」
すでに背を向け、興味を向けようともしない少年が、刹那は憎かった。まるで力がないとあざ笑うかのようなその態度が。
「立て! 立て! お嬢様を、このちゃんを助けるんだ! 助けられなかったら、意味がない! だから立ってよ。お願いだから、立って…………」
頬を涙が流れ落ちる。
どれほど手を伸ばしても、木乃香に手が届かない。幼いころ、おぼれてしまった木乃香を助けられなかった時と同じように。
助けようとして黒い水に飲まれたときのように、視界が黒ずんでいく。
「いやだよ、このちゃん。置いていかないで」
這いつくばったまま、進む。手の力だけでしか先へ行けず、遅々として進まないが、それでもあきらめることはできなかった。ここで諦めたら、敗北だ。桜咲刹那は近衛木乃香を守れないということになる。もう二度と、木乃香に向ける顔がなくなってしまう。木乃香を守れないのならば、刹那という存在に意味はない。そう刹那は信じていた。
手を伸ばす。少しだけ、木乃香に近づける。それがうれしくて、刹那はさらに手を伸ばしていく。ゆっくりと、ゆっくりと近寄っていける。
「悪いね。これ以上先へは行かないでもらおうか」
そんな刹那をこれ以上先へ行けないよう、木乃香と刹那の間を遮るように、少年の足が置かれた。
刹那は一瞬呆け、すぐに激怒した。少年を睨みつけ、殺気をたたきつける。だが少年は気にも留めない。
「今の君は危険だよ。気付いていないのかい? 自分の瞳が何色に染まっているか分かっていないみたいようだね。神鳴流剣士は魔と交わることもあったから、反転しやすいというのは聞いたことがあるけれども、君はそれ以上だ」
少年が言う言葉の意味を刹那は理解できなかった。ただ、お嬢様の元へ行きたい。それだけが彼女の心だった。
「もし君の手がお姫様に届く場所にあるのなら、君はなにをするんだい? 僕には分からないけど、少なくとも手を取り合うわけじゃないことくらい分かるよ。今の君はきっと、お姫様を欲してしまうだろうね。それも友情とかそういうものではなく、己がものにするために。魔の影響かそれとも君の精神性か分からないけど、下手をすれば自分のものにならなければいっそその手に掛けるということもあり得ないわけじゃない」
少年の言葉など、刹那には聞こえていなかった。ただあるのは、目の前にいる木乃香のもとへ行くこと。それしか頭にはない。
「それ以上先に行こうとするならば、排除しないといけないんだけど。…………仕方がない。千草さんとの約束だ。今の君は危険だと判断して排除させてもらうよ」
木乃香との間に少年が立ちふさがる。刹那はそれがひどく気に障った。彼女にとって、今一番重要なのは木乃香だ。彼女へ手が届く場所に行くこと。だというのに木乃香に近づくのを邪魔する存在はすべてが許せない。
「邪魔、邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔邪魔だ!!」
這ったまま、刹那は夕凪を振るう。技量もなにもない、お粗末なそれはあっけなく少年にはじかれた。
「さようなら。今度はまともな人間に生まれるいいね」
閃光が少年の手に集まっている。それは解放すれば、刹那をなす術もなく無力化するだろう。そうなれば、もう二度と木乃香に会うことができない。それは嫌だった。考えれば考えるほど寒気を感じた。
刹那を認めてくれた大切な友達。離れたくないという気持ちが膨れ上がる。ただ、木乃香だけはこの胸元に欲しい。いつまでも触れられるようにしたい。そう刹那は思った。
「石化の邪眼」
完成した少年の魔法が解き放たれる。光は床板を石にした。
「!?」
口を開け、僅かに固まった少年に、刹那は空から奇襲した。
重力の力も得た斬撃は、先ほどよりも深々と少年の障壁を切り裂いたが、それでもまだ曼荼羅模様に発光する障壁の一部によって止められてしまった。
「なるほど。君は烏族のハーフなのか」
刹那の背中には真白な翼があった。身長ほどもある大きな翼をはばたかせ、さらなる推進力を得る。障壁こそ切断できないものの、少しずつ少年が後ずさりしていく。
「僕を押せるほどの力? それだけのポテンシャル、いったいどこに」
斬ることはできなくとも、退かせることはできる。刹那が選んだのは、力づくだった。しかしその選択は正解だったようだ。翼の付け根がちぎれるほど強く、速く羽ばたかせて押す。少年もまた吹き飛ばされないように全身に力を込めて押し返しているが、刹那の力がわずかに上回っている。障壁ごと、少年を押しのけていく。
「どけぇええええ!」
刀をもう一度大きく振りかぶり、横なぎに振るう。縦から横への唐突な変化に、少年は対処しきれず、またもや障壁で受け止めるしかなかった。だが、刹那の力を受け止めきるには、少年の気は散り過ぎていたようで、留まり切れずに吹き飛ばされる。幾つものふすまごと少年を外へ切り飛ばし、刹那は夕凪を投げ捨て横たわっている木乃香を抱きしめた。
「このちゃん。このちゃん」
抱きしめた木乃香は安らかに眠っている。目を見開んばかりにあった魔力こそないものの、体は無事だ。暖かなその体に、刹那は安堵を覚え、強く抱きしめる。
「う、ん。せっちゃん?」
抱きしめる力が強すぎたのか、木乃香が起きてしまった。
起きた木乃香は、刹那を見た。翼を出した刹那の姿を。異形である彼女の血筋を示すものを。
「う、ああ……!」
(見られた。見られてしもうた。嫌、嫌や。このちゃんもみんなと同じようになってしまう。そんな目で見ないで! 離れないで! 私から離れていくんならいっそ――)
手が伸びる。木乃香の首元へ。
「綺麗や、せっちゃん」
「え?」
呆けた声を刹那は上げた。木乃香の口から発せられた言葉を彼女は認識できなかった。
刹那が持つ翼は異形の証。人に恐怖を与えてしまうものだ。かといって、同族には烏族であるというに白い翼が縁起悪いと言われ、拒絶されてきた。白い翼は刹那にとって、災厄しか招かないものだ。それを綺麗なんて言われるなど思ってもいなかった。
「天使みたいや。柔らかくて、白くて。暖かそうや。まるでせっちゃんみたいに」
「あ、ああ。ごめん、ごめんこのちゃん!」
刹那は熱く頬を流れるものを感じた。
刹那がヤンデレになってしまったような。