変わりゆく世界
小鳥のさえずりがどこからか聞こえてくる。
未だまどろみに浸りかけていた重い瞼をネギが開けば、視界には全く見覚えのない、神経質なほどに小綺麗な淡いクリーム色の天井が広がっていた。
記憶にない光景が広がっていることに、微かに纏わり付いていた眠気が吹き飛ぶ。辺りを見回せば、そこが三メートル四方の小部屋だと分かった。いや、小部屋と言うよりは個室とでも言うべきだろう。部屋の中央にはネギが寝ていた大きなベッドがあり、東側には大きな広々とした窓があり、太陽光が燦々と差し込んでいる。ベッドを挟んだ反対側の、北の壁にはチェストがあった。その上には液晶の大型テレビがおかれ、その前にはエヴァンジェリンから送られた指輪が置かれていた。
慌てて指輪をとる。黄金色の指輪は触れると氷のように冷たく、長いことネギの指から外されていたのが分かった。
ここはどこだろうかともう一度辺りを探る。
ネギがチェストを開けると、一番上には子供用のスーツが糊の利いた状態で畳まれており、真ん中の棚には体温計などの細々とした医療品が整頓されてしまわれ、下段は空だった。
そして、先程は気づかなかったが、チェストの影に姿見を見つけた。
姿見に映った姿は、緑色の病院服を着た、頭に包帯を巻かれたネギの姿だ。
鏡を見つめながら我知らず額に手をやると、くしゃりと布がずれる。
「病……院?」
どうやら間違いないようだった。その証拠に窓からは赤い十字架が見えた。
ネギはなぜ病院にいるのか一瞬分からなかった。が、起きてから混乱していた頭が落ち着くにつれ、記憶が蘇り出す。
「止められなかったのか……僕は」
ぽつりと呟いた言葉に、ネギは胸を押さえた。肩を震わし、歯をむき出しにする。鼻がツンとし、目頭が熱くなる。が、それをこぼすのだけは堪えた。
毅然と前を見据え、病院服を脱ぎ捨てる。取り出したスーツに袖を通し、窓を開く。
そして魔法で杖を呼び寄せようとする。しかし、呪文を詠唱していた口は、途中で閉じてしまった。
「約束守れなくてごめんなさい。父さん」
ネギはしばし立ち尽くしていた。が、自らの頬をはたき活を入れると、最後の詠唱を終える。
「よし、行こう」
飛んできた杖をぎゅっと握り締め、ネギは病室を出た。
ネギが病院の公衆電話で麻帆良学園に連絡を取ると、すぐさま迎えがやって来た。
病院の玄関につけたのはスモークガラスの黒い軽自動車だった。運転席から高畑が出てくる。どうやら一人のようだ。
いつもの草臥れたスーツ姿に、ヨレヨレの煙草をくわえている。しかし顔には疲れが見え、動きもどこか精彩さが欠けている。麻帆良祭のダメージが大きいのかとネギは思ったが、それにしては頬にガーゼが張られているくらいで、目立った外傷はなかった。
「良かった、ネギ君。目を覚ましたんだね。一週間も眠っていたから心配していたんだよ」
ネギの心配をよそに、高畑は口元を僅かに持ち上げ微笑んだ。
どうやら心配のしすぎだったとネギは胸をなで下ろした。
「うん、心配かけてゴメンね、タカミチ」
「それじゃあ、急ごう。一雨来そうだ」
見上げれば、黒みがかった灰色の雲が、広がり始めていた。高畑に促され、ネギが車に乗るとすぐさま発車した。
道路は休日だというのに妙に空いていた。麻帆良学園までは非常にスムーズだった。
しかし麻帆良学園の入り口である道は、群衆で溢れていた。歩道は埋まり、車道にまで人が溢れている。それらはすべてマスコミだった。
「タカミチ、あれは?」
ネギが訊ねると、高畑は前を見たまま答えた。その表情は苦虫をかみつぶしたようだった。
「……彼らは取材に来たんだ」
「取材?」
返事はなかった。ネギは取材陣の様子をスモークガラス越しに観察してみる。
何か違和感を覚えた。その理由を考え、そして見当がついた。取材しているスタッフ達の表情が引っかかったのだ。
ネギの知る限り、麻帆良学園祭に来たマスメディアは笑顔に溢れていた。
しかし今麻帆良学園にいるメディアの表情は、笑顔どころか厳めしいしかめ面ばかりが並ぶ。
取材陣がなぜああもおっかない雰囲気を発してるのか。ネギには分からず、ただ高畑の顔を見上げるしかできなかった。
「タカミチ」
「ゴメン、ネギ君。後にしてくれるかな」
ネギはそれ以上訊ねることができなかった。
車が取材陣の前を通りかかると、幾つものカメラのレンズと、マイクが突きつけられる。
「麻帆良学園関係者ですね!? お答えください。学校法人を隠れ蓑にテロの準備をしていたとは本当ですか!」
「なぜ魔法を秘匿していたのですか! 魔法があれば救われた人がいたかもしれないのですよ! 良心は痛まないのですか!」
「人体実験で人々の頭をいじくり回していたと報告もあります!」
「我々の取材によれば、何でも関西呪術協会という組織から人々を拉致し、本国とやらに連行。そこで戦争の兵としてとして利用していたとか! それも、いまだ帰還者はいないと! どうなんですか! 答えてください! 人として恥ずかしくないのですか!!」
カメラのフラッシュがスモークガラス越しでもギラギラと光り、目を焼く。
ネギは息を呑んだ。そして何か口にしようとしたが、空気がかすかにもれるばかりで、脳裏をぐるぐる巡る思いは言葉にならなかった。
「なにが……」
高畑が返答の代わりに車内ラジオをつけた。ブウンというチューニングのノイズが収まると、壮年のニュースキャスターが落ち着いた声で、しかし緊迫感を伴い原稿を淡々と読んでいた。
その内容は、ネギには信じられないものだった。
「現在世界各国で魔法という技術の存在が発覚し、混乱をきたしています。日本でも陰陽師の子孫が在籍する関西呪術協会と、諸外国から流れの魔法使いが在籍する関東魔法協会が存在することが発覚しました。政府は両協会へ国会への証人尋問を検討しており――」
高畑がラジオを切る。その頃には、車は取材陣の囲いを突破し、麻帆良学園へ滑り込んでいた。
「ど、どうして……? 何が起きたの……?」
「ユ……いや、八雲黒の仕業だよ」
車内を沈黙が満たす。
ネギは膝頭をぎゅっと握り締め、うつむいた。高畑はバックミラー越しにその光景を見つめ、人知れず奥歯を噛みしめた。
「あの学園祭後、世界中で一部の魔法がとつぜん無効化されたんだ。いや、無効化と言うよりも失われたというべきかな。とにかく一部の魔法が使えなくなった。その一つが、認識阻害魔法だよ」
「っ!」
魔法使いにとって、認識阻害魔法は非常に重要な魔法だ。自らの魔法の痕跡を隠すだけではなく、一般人を魔術的に危険な場所へ近づけさせないためにも頻繁に使われる。
麻帆良学園でも世界樹の隠蔽を行うために、常時認識阻害魔法が発動している。
それが失われたらどうなるか。その答えは、先程見た。
「なんで、そんなことを……」
「足止め、だろうね。魔法使いの動きを止めるために、一般人を利用したんだろう」
ハンドルがギリリと軋む。高畑は歯をむき出しにし、肩を震わせている。
「ネギ君、君はどうするつもりだい?」
「え?」
「僕たちもできるだけのことはする。だけれども、きっとそう多くのことはできないだろう。だからこそ、聞きたいんだ。これから激動するであろう世界でネギ君、君は何をするつもりだい?」
高畑の言葉はネギを通して自身に問い掛けているようでもあった。
ネギは不思議なほど冷静な気持ちで、それを口にした。
「もう一度、ユギに会います。そしてもう一度話し合います。……たとえわかり合えなくとも」
それだけ答えると、ネギは背もたれにもたれかかり、前方をぼうっと見つめた。
「……ネギ君、君は僕の知らない間に随分と成長したんだね。分かった。僕も君に賭けよう。ナギ・スプリングフィールドの息子ではなく、ネギ・スプリングフィールドという一人の男に」
時は遡る。麻帆良祭が終了し、妖怪達が黒の作り上げたスキマに飛びこんだ後のこと。
黒は、一人の人間と共に、海辺を歩んでいた。そこは幻想郷にあるたった一つの海だ。どこまでも清んだ水がたゆたっている。
「この地を気に入ったかい、クルト」
「勿論です、我が王よ」
クルトは自らが歩んできた道を振り返った。背後には手つかずの大地がどこまでも、どこまでも広がっている。
「私は農家ではないので詳しくは分かりません。が、ここの大地は気に、いえもっと原始的な、より上位の、そう、生命力に満ち満ちている。ここならば、我が民たちも餓えることなく生きていける」
その瞳は希望に光り輝いている。素晴らしい未来がその瞳の中に照らし出されているのかもしれない。
黒は、唯一の親友にして理解者の喜びように、うっすらと笑みを浮かべた。
「喜んで貰えて何よりだ。約定通りこれから彼らを迎えに行こう」
「ええ、ええ。みな喜ぶことでしょう。アリカ様の、エンテオフュシアの直系の子が統治する王国に戻れるのですから」
そしてクルトは再び海を眺めた。その表情は疲れ切った老人のようにも、夢を叶えた健児にも見えた。
「だから、良いのですよ。私の望みはアリカ様の愛した全てを取り戻すこと。我が友、八雲黒。私はその願いを全て叶えてもらいました。私は満足しています」
クルトが黒に向き直る。その顔は穏やかであった。黒がその瞳を真っ直ぐ見据える。
「我が唯一の友。お前はまさしく忠臣だ。母も、お前のことを誇らしく思うだろう」
黒の腕がクルトを貫く。その手にはいまだ脈動する心臓が握られている。遅れて辺りに真っ黒な血が飛び散った。
クルトは微笑んだまま、黒へ手を伸ばした。黒もまたその手を掴む。
「一つ、お願いが」
「何だ」
「王国を……民を……アリカ様の愛した全てを守ってくだ……さい」
「安心しろ、クルト・ゲーデル。貴殿の血により、この世界は人も、妖も暮らせるようになった。お前こそが王国の礎、真なる忠臣。ならば私も、僕も誓おう。妖怪の、否! 人と妖怪の賢者として! 我が腕は王国に降りかかる火の粉を払い、我が眼は王国の暗雲を見通し、我が頭脳は王国を導かんことを」
クルトが今までで一番晴れやかに笑う。
黒もまたそれに応える。その唇は震え、歪んでいた。
「後は頼みました。……ああ、アリカ様。そこにいらっしゃったのですね」
クルトが腕を持ち上げる。その腕を天から降り注いだ光が包み込む。
幻想だろうか。いや、幻想の満つるこの地では、幻想こそが真実だろう。
黒は自らの腕の中で眠る男の瞼を閉ざす。
幻想郷の歴史は、こう伝える。幻想郷を拓いたものの中に、一人だけ人間がいたと。そしてその人間こそが、妖怪も神もなし遂げられなかった最も偉大な功績を果たしたと。
名を、クルト・ゲーデル。アリカ・アナルキア・エンテオフュシアの忠臣として。今も、人と妖怪の賢者により、そう伝えられている。
クルトをもっと描写しておけば良かったですね。
ちょっと反省です。
次回から、麻帆良原作とは大きく離れていきます。