SIDE 楽就
「……懐かしい夢を見たな」
朝、目を覚ました俺は起きたまましばらく感慨に耽っていた。
俺が今の俺となった時……今の俺の原点と言える時の夢。
平成と呼ばれる時代の日本で郷土資料館のしがない職員兼研究員として働いていた俺は、気が付いたら古代中国に似ているようで微妙に違うこの世界に生まれ落ちていた。
洛陽に程近い農村の農家の息子として。
その事実を認識したのは大体1歳位の頃で、それまでは多分脳が未発達だったために自分自身の意識がはっきりしなかったんだろう。
当初は戸惑ったものだが、少し落ち着いてみると周囲の大人の会話からここが古代中国、それも後漢の末期らしい事に気付いた。
そして真名と呼ばれる日本の諱のような物が存在していたり、有名な人物が女性だったりと俺の知っている世界と違う事も。
だがそれを知った所で赤子の身体で出来る事など殆ど無い。
故にこの時代にこれから起こる事を想像しながら農村で両親に育てられたんだが、時勢が俺をそのまま農村で暮らす事を許さなかった。
俺が4歳頃の時に俺の住んでいた村の近辺を襲った凶作。
凶作により食糧事情が苦しくなったところに、税収の減少を嫌った役人による増税が村の食糧難に拍車をかけた。
時代を問わずに苦しい時に人間が取る手段というのは変わらない。
物が足りなければ人を減らせばいい。
村中で起きた口減らし、その対象は労働力とならない老人と子供。
そんな状況の中で当時幼かった俺も間引きの対象となり、俺は実の両親によって村から連れ出された。
定番通り『後で迎えに来るから』と言葉を受けて村から1日程した山に捨てられた俺だったがそのまま素直に待つバカではない。
凶作となった時から口減らしの事を覚悟していた俺は村にいた頃から身の処し方について一応考えていた。
凶作はこの辺り一帯を襲ったので別の村に行ってもよそ者の俺は追い出されるだけ。
かといってもまだ子供の身体の俺が野生児のように山で生きていける筈がない。
となると残る手は大きな都市に行って何かのおこぼれを掴むしかない。
そう考えた俺は山を出ると予め把握していた方角を頼りに洛陽へと向かったのだ。
他の流民に紛れて無事に洛陽に入る事が出来た俺だったが現実は想像以上に厳しかった。
最初は丁稚扱いでどこかの商家に転がり込めないかと考えていたんだが生活が苦しいのは町に住んでいる民も変わらない。
当然のことながらツテも何もないガキの俺を商家が雇ってくれる筈がなく、俺は浮浪児へと身を窶した。
町の裏にある衛生環境もくそもないスラム街の隅に住みながらゴミを漁る日々。
そんな生活を送っていた俺だが、正直生活は毎日が綱渡りだった。
極限の環境を生きる浮浪児には、スリやかっぱらい等に手を染める者が多い。
逆に言えばそうでもしなければ生きていけない訳だが、俺はどうしてもそれに手を染める事が出来なかった。
それは人として堕ちるところまで堕ちたくはないというちっぽけな誇りとも呼べないような感傷によるものだが、そのちっぽけな感傷こそが俺を支えていたとも言える。
とはいえそんな感傷であの環境での生存競争を生き抜ける道理はなく、ゴミ漁りに加えて洛陽近くの川でタニシや小魚を捕る事でなんとか食いつないでいた俺の生活も、情勢の悪化と共に追い詰められていった。
宦官らによる政治は腐敗を極め、洛陽の近くにも賊が出没するようになると俺も気軽に川に行くことが出来なくなる。
そして流民も増え、スラム街の食料事情も悪化。
俺は一日中駆けずり回って何とかほんの少しの食べ物を得る事が出来るかどうかという有様だった。
その中で俺の転機となったのが今日見た夢の出来事……袁術こと美羽との出会いだ。
今思うとあの時の俺は半ば自棄になっていたのだろう。
いつ死ぬとも分からない、人として扱われないような生活の中で俺の存在を認めてくれる子……美羽と出会った。
それならその子の為に死ぬのも良いかもしれない。
そんな気持ちで動いただけだったが、結果としてその選択は思わぬ方向へ転んだ。
門前で追い返されるのが関の山と思いきや、袁家……正確には美羽の父親たる袁周陽様は美羽の希望通り孤児である俺を家人として屋敷に雇い入れたのだ。
それどころか家人としての俺の働きを気に入ってくれてらしい周陽様は、俺に教育まで施してくれた。
その御蔭で袁家の姫たる美羽の側役、楽就としての俺が今ここにいる。
本当に世の中というのは何が起こるか分からないものだ……。
さて、こうしていつまでも感慨に耽っているわけにもいかないな。
周陽様のご厚意で文武の教育を受けさせて貰っているが、それをどう生かすのかは俺次第。
徳に武術の方は日頃の修練に依るものが大きい。
今の時刻ならば朝食の頃まで一刻程時間がある筈だ。
……あの日、美羽に拾われた日から俺はこの人生を美羽の為に生きると決めた。
俺の知っている袁術と美羽が必ずしも同じ道を歩むとは限らないが、用心するのに越した事はない。
あの俺に手を差し伸べてくれた美羽に災いが降りかかるのを防ぐ為の力……少しでも蓄えておく必要がある。
俺は寝台から立ち上がり、身の周りを整えると得物を手に外へと向かうのだった。