風邪になった鹿目まどかが悪魔ほむらに看病されるだけ(完結) 作:曇天紫苑
スクリーンから光が消えて、劇場に明かりが戻ってきた。
上映が終わっても、わたしは少しの間放心状態だった。息が出来ないというか、驚いてる、というか。
その間も、頭の中でずっと、今見た事をちゃんと受け止めようと心が働いている。映画の中のストーリーなのに、何だか身近な人がそういう風になってしまった様な、そんな感じだった。
「まどか、行きましょう」
「う、うん」
必死で考えている間に、ほむらちゃんが手を伸ばしてくれる。
その手を掴みながら、すっかり元の調子に戻った顔を眺めた。最後のシーンに入った所から、ほむらちゃんは元気になっていった。今だって、少し驚いている感じはしたけど、それほど劇的な衝撃は受けてない。
劇場から出ると、すぐ目の前で係りの人がゴミを回収している。わたしは置いてあるゴミ箱に空っぽの紙コップを捨てて、ほむらちゃんと並んで歩いた。
ほむらちゃんは無言だったけど、わたしの手をそっと握り続けている。この絆の重さと強さを確かめながら、わたしは口を開く。
「凄いお話だったね……まさか、あの子があんな事をするなんて」
「そうね、驚いたわ。でも当然の帰結でも有ったのでしょうね」
「ああ、ほむらちゃんには分かるんだ。どうしてああなったのか……凄いね」
一回見ただけじゃ、理解し切れなさそうに見えたのに、ほむらちゃんは分かっていたみたいだ。
やっぱり、そういう所も頭が良いんだろうな、と、ほむらちゃんの姿が一層輝いて見える。
「それなりに分かったわ。まどかは?」
「もしかしたら、そうなんじゃないかなー、っていう予想は、有るよ」
前作が好きだったから、今度の続編の事は何とか分からなくも無かった。
きっと、わたしが登場人物だったら理解出来なかったと思う。難しかったけど、観る側、観客としてだから、予想を立てる事は出来た。
「予想、ね」
「当たってるかどうかは分からないけど……」
「きっと当たってるわ、きっと」
ほむらちゃんの声は、まるでそれを信じたいと願っている様だった。
自分の中の予想を話そうと思っていたけれど、ほむらちゃんの反応を見ていると、言わない方が良いんじゃないかって、思えてくる。
「少し不気味だったけど、綺麗な作品だったわね」
ほむらちゃんは目を細めていた。いや、瞑っていた。歩く方向は間違っていないし、姿勢も綺麗だ。
気づけば、わたしは何歩か後ろに居る。ほむらちゃんの颯爽とした、それでいて重苦しい空気の漂う背中を眺めていると、ほむらちゃんは小さく振り向き、首を傾げた。
「まどかは、どう?」
「……そうだね」
感想を求められて、わたしは少し口を閉じた。
面白かった。意外だった。ビックリした。凄かった。いろんな事が浮かんでくるけど、まず先に言いたかったのは。
「わたしは、凄く悲しいけど……うん、わたしも凄く綺麗だって思った、かな」
ほむらちゃんも言った通り、あの作品は綺麗だった。上手くは言えないけど、とにかく綺麗だったんだ。
「確かに、あのデザインは綺麗だったわね」
「そうじゃなくって、ほら、悪魔になる事とか……ね」
「……」
何か感じる所が有るみたいで、ほむらちゃんはわたしの言葉を聞いて、痛みを堪える様に目を閉じた。
身体の調子が悪いのかな、と思って声をかけようとしたけど、ほむらちゃんはそれより先に目を開けて、真剣そうな表情をしている。
「じゃあ、彼女の事。悪魔になった彼女の事は、どう、思う?」
「あー、そう、うー……難しいかなぁ」
尋ねられて、わたしは少しの間答えに詰まる。上手く言葉にする事が出来ない。
でも、ほむらちゃんに見つめられていて、どうしても答えなきゃいけない気がした。
「うん。凄い人だけど、悲しいな、って思ったかなぁ。あ、ごめんね。何か単語が少なくて……語彙が貧弱、って言えば良いのかな」
「大丈夫よ、ちゃんと伝わってるわ」
ほむらちゃんは微笑み、頷いてくれる。ちょっと空元気に見えるのは、映画に集中して疲れちゃったのかもしれない。
「でも、どうして悲しいの?」
「え。それは、ほら。だって、可哀想だから……あの子、最後のシーンも、ひとりぼっちで鼻歌と一緒に踊ってて、凄く寂しそうで」
「喋り方はもの凄く悪人臭くなったけどね」
「そう、それなの。何て言えば良いのかな……そういう、大切な人の為なら誰かを傷つけても良いっていう決意? それを決めさせちゃったのが、そもそも悲しいの」
話している内に、わたしはまるで自分の事の様に悲しい気持ちになっていた。
映画の中の出来事だって、分かっているのに。わたしはその中に自分が居た様な気になっている。言葉が自然と真剣になって、もっと深く、何か大きな物を観る様になっていく。
そうだ、わたしには分かる。分からなかったけど、分かるんだ。
「普通の子なんだよ。人を傷つけたり、苦しめたりなんて出来ない。本当はそんな人なのに……」
「そうでもないんじゃないかしら」
「ううん。絶対そう。ほむらちゃんは前作を見てないから、分からないと思うけど……」
ちょっとだけ我に返って、ほむらちゃんの顔を覗き込む。
表情を隠していて、よく見えない。でも、ほむらちゃんが目を瞑って口をしっかり閉じている姿は、何かとても苦しげだ。
そういえば、ほむらちゃんは前作を見てないんだった。わたしは前のを見ていたから面白かったし、最後は驚きもしたけど、ほむらちゃんにとっては、よく分からなかっただけなのかも。
やっぱり、他の作品にした方が良かったかなぁ。そう思っていると、ほむらちゃんは首を横へ振った。
「いえ、まどか。分からなくも無いのよ。実際、現実でああいう事をしようとしたら、何かしら無理とか、弱味が出てしまうのでしょうね」
自分の事を語っている風なほむらちゃんの口調に、わたしは疑問を抱かなかった。
だって、わたしも。作品の中の人達を、自分の事の様に身近な物だって、そう感じていたんだから。
「……あんなに頑張ったのに、これからもずっと苦しんで、頑張り続けるなんて、報われないなんて。そんなの、残酷すぎるって、そう思ったの」
綺麗だった。でも、とても悲しい終わり方だった。心を整理してみると、結論はそういう感じだった。
「わたしだったら、あの子がしてくれた事をちゃんと受け入れて、また二人で仲良くしたいよ、って、思うかも」
わたしが言葉を続けると、それを聞いたほむらちゃんが目を伏せた。わたしの位置だと絶対に目元が見えない様に、しっかりと。
さっきから、本当に様子がおかしい。心配になっていると、ほむらちゃんはまた顔を上げて、わたしへ身体を寄せる。
「でも、その選択自体は彼女の物よ。彼女が一人で納得して、一人で走った結果の事。その責任は、全て彼女自身に有る」
「そうかも、しれないけどさ……わたしは、ほら、主人公の子にも責任が有るって思うんだよね」
目を見開いて、ほむらちゃんがわたしの顔をまじまじを見つめた。
どうしてそんな事を言うの、って。そういう感じの顔だ。気持ちが何となく伝わってくる。
ほむらちゃんに観られている。そう思うと、自分の中の何かが、もっと深い所へもっと明るくて暗い所へ落ちていく様な、そういう感じがした。
「だってほら、あの子が記憶を持ってたのは、きっと私のワガママだったんだよ。せめて一人くらいは私の事を覚えていて欲しいなあ、って、そういう風に思ったばっかりに、あの子を傷つけて、そう……」
自分でも何を喋っているのかが、分からない。
でも、言わなきゃいけない気がする。ほむらちゃんに、言わないと。
「わたしは、なんて残酷な事を……」
「まどか」
そんな時、ほむらちゃんはわたしの肩を抱き寄せた。
身体がくっついて、良い香りがする。
「ひゃっ……!?」
「まどか、それ以上は駄目よ」
ほむらちゃんの声が耳元で聞こえる。
今まで喋っていた内容も忘れて、わたしの頭が熱を帯びた。風邪が再発したのかと思ったけど、そうじゃない。照れて、恥ずかしくて、何か大切な事を喋っていた気がするのに、色々と吹き飛んでしまった。
「彼女は貴女じゃない、でしょう?」
「……う、うん……あれ? 今、わたし何か言ってた?」
「……いいえ、何も」
目を逸らして、ほむらちゃんはわたしの頭を撫でた。優しい手つきのそれは、決して嫌じゃない。
よく分からないけど、何か変な事でも言っちゃったのかもしれない。思い出すべきじゃない、そんな風に感じて、わたしは自分の頭へ考えを巡らせるのを止める。
横を見てみると、映画を観終わった人達がグッズを買っていた。ほむらちゃんは、パンフレットに興味を持っている様だ。
「……面白い映画だったわね。当事者になったら笑えないと思うけど」
小さな呟きを聞いて、わたしは安心した。
「良かった。つまんないって言われちゃったらどうしようかと思ってたよ」
「ふふ、結構好きよ」
ほむらちゃんがニコリと笑う。
自然な笑顔は、とっても可愛く綺麗だった。
「また次が有ったら、見たいね」
「……ええ。まあ、私はあの終わり方で、続きは無い方が嬉しいけれど」
「あそこでおしまいの方が、何もかも丸く収まるのよ」と、ほむらちゃんは小さく続けた。それには何だか納得出来なくて、わたしは首を傾げる。
「えー、わたしはさ、今度こそあの二人が分かり合って、二人一緒に納得出来る終わり方になれば良いのに、って思うよ」
「……どうせなら、主人公の子が幸せになって、彼女はあの子の身代わりでみんなから忘れられて、消える。という終わり方が一番それらしいのではないかしらね」
「そ、それはちょっと残酷過ぎると思うよ……」
何だろう。ほむらちゃんは、あの悪魔になった人に凄く厳しい。冷酷な様に言い切る顔は、珍しいくらい熱意と冷たさが一緒になっている。
でも、同じくらい羨ましそうでもあった。何を羨ましがっているのかは、わたしには分からないけれど。
「……さあ、それは本当に残酷なのかしらね?」
ほむらちゃんの口振りは、まるで自分の事を語っている様だった。
「え?」
「こっちの話よ、こっちの」
そのまま、ほむらちゃんはわたしを連れて映画館に背を向ける。もう、さっきの映画の事なんて忘れてしまったかの様だ。
だけど、わたしの手を握る力は映画を観る前よりも強かった。
+----
まどかと私の二人で、夕日の中の川辺を歩く。
電線や、風力発電機が見える。どこまでも現代的な道の中で、この川と、仄かに光る夕焼けと、その中で輝くまどかの取り合わせが、私の目を焼かんばかりに強く入り込んでいる。
「今日は凄く楽しかったねー……」
わたしの手を握ったまま、まどかは微笑みかけてくれた。
こんなにも綺麗な、まどかの顔。出来る事ならいつまでだって見ていたい。ううん、この顔をずっと見ていたいから、わたしは此処に居るんだ。
色々なお店で買った品々を、私達は紙袋で半分ずつ持っている。本当は全部持って歩くつもりだったけど、まどかはとっても優しいから、それを認めてはくれなかった。
「今日はありがとう、まどか。とても楽しい一日だったわ」
「そうだね、ほ、本当のカップルみたい……」
「え、ええ」
真っ赤になったまどかから、唐突に告げられた言葉。それを耳にして、私は少なからず動揺した。
途中で、これがデートである事を忘れかける程に楽しかった。だから、改めて言われると照れてしまう。
「本当のカップルなら、この辺りでキスの一つでもする所なんじゃないかしら」
「へっ!? い、いや。それはまだ」
「冗談よ、本気にしちゃ駄目」
慌てているまどかも、素敵だった。
やっぱり、私の心はまどかに恋をする事が出来る。少なくともそういう物だと偽る事が出来る。まどかとの楽しい時間が、それを確信させてくれた。
「き、キスかぁ。ほむらちゃんは経験有るの?」
「無いわ」
少なくとも異性相手では一度も無い。
まどかは私の返事をどう受け取ったのか、あからさまに安堵の息を漏らす。
「だ、だよね。うん、安心した」
「あら、私のファーストキスが欲しいの?」
ちょっと悪戯心を乗せて尋ねると、彼女は目に見えて慌てた。
「えっ。う、あ、えっと。ほ、ほらっ。わたしも無いから、ほむらちゃんが経験有ったら、ちょっと焦るっていうか……その」
まどかは顔を赤くした。夕日と相まって、その表情はとても美しい。
これほどまでに、私に対して無防備な姿を晒す。そんな不用心さに心配を抱くが、それ以上に嬉しい。彼女の信頼を得られた事が、とても。
「大丈夫よ、異性相手のファーストキスはまだだから」
「そ、そうだよね。中学二年生はまだ早いよね!」
「という事は、何時かはしてみたいのね?」
「それは、その。大人になる前に一回くらいはしてみたいなぁ、なんて……」
可愛らしい願望だな、と。私は微笑ましい気分になった。それと同じくらい、まどかに魅力を感じない人間の目は一体どうなっているのかと、疑問に思う。
もしも私が男だったら、まどか程の素晴らしい女の子に出会えば、一目で恋に落ちても不思議ではないのに。
勿体無い事だ。どうやら、まどかの周囲の人々は、私を除けば節穴しか居ないらしい。
彼女は、こんなにも輝かしいのに。
「……そういえば」
夕焼けの光に照らされながら、まどかは小さく呟いた。
「?」
「仁美ちゃんは、もうキスしたのかなぁ」
気になっているのか、まどかは私に問いかけるのでもなく、ただ独り言として呟いている。
志筑仁美と上条恭介。私にとっては比較的興味の無い存在だ。私の敵になる危険性は殆ど無いが、美樹さやかの精神に大きな影響を与えるという意味では、色々と関係してくる相手である。
まどかが言うには、あの二人は今日、デートをしていたらしい。偶然、私達と同じ場所をデートコースに選んでいた様だ。
「したんじゃないかしら。それは、まあ。普通に考えれば」
「だよねー……」
あの二人がどういう関係かは知らないが、キスも済ませてないとは思えない。
まどかも同意見らしく、うんうんと頷いている。その顔が、何やら羨む様に遠くを見つめている。
「つまり……あの二人が羨ましいの?」
「あ、わ、分かっちゃう?」
「まどかの事なら、何でもね」
余程恥ずかしかったらしく、まどかは私から目を背けた。
「う、羨ましいって言うくらい羨ましい訳じゃないんだよ。わたしにはまだ、そういうのって早いと思うし、男の子で仲の良い相手って、そんなに居ないし」
「でも、まどか。大人になる前にキスはしたいのね」
「それは……えへへ。女の子として、ちょっと憧れちゃったりするよね」
そういうまどかの顔は、やっぱり輝きを増している。
衝動的に、手を握る力が強くなった。まどかの女の子らしい部分、それを目にすると、私は心の中を自動的に調整して、やるべき事を決めていた。
周りに誰も居ない事を確認してから、一歩まどかの先を歩く。そして振り向き、まどかの身体を引き寄せる。
「じゃあ……此処で、する?」
「え、えええっ……!?」
慌てたまどかの顔が、すぐ近くに有る。が、それほど強く拒絶されていない。
大丈夫そうだと判断して、身体をもう少しだけ強引に引き寄せる。こうする方が良いと、調べた情報には書かれていた。
「心配しなくても良いわ。私も初めてだから、上手く出来なくても気にしないで」
前置きをして、もっと近づいてみる。やっぱり、まどかは逃げない。気持ち悪がる様子も無い。
まどかと私の唇がすぐ近くに来ている。オレンジジュースの香りがした。きっと、この唇もオレンジジュースの味がするだろう。
「ま、まだ早いんじゃないかな……」
「あら、まどか。嫌なの?」
「い、嫌じゃないよ。ほむらちゃんなら、良いよ。でも、ほ、ほらっ。そういうのはもっとゆっくり進めていかないと……」
目を合わせない様に頑張っているけど、まどかは私を突き飛ばしたりはせず、むしろ抱き返してくる。
こんな夕日の差す中だ。雰囲気も悪くない。
私の中の気持ちを恋愛感情だと偽る作業は、もう終わっている。いや、例え素の私であっても、ファーストキスがまどかなら、別に嫌とは思わない。
まどかはどうだろう。私がその相手でも良いと、そう思ってくれるのだろうか。
「まどかは、私とキスがしたい? しても構わない?」
「……あ、あの、それは」
答え難い事を尋ねられたからか、まどかは目を泳がせる。
だけど、次の瞬間には何かを決めた表情で、わたしと目を合わせた。
「わたしはね。ほむらちゃん……」
夕日の中、切ない空気の中で、まどかが何かを語ろうとしている。一言一句聞き逃す事の無い様に、その、聴覚を蹂躙する程の美声に耳を傾けようとした。
「やっぱり止めておくわ」
しかし、何だろうか。私の中の何かが、彼女の言葉を聞くのを拒絶して、私は自然とまどかを離していた。
「わたしは……あ、あれ?」
「冗談よ」
私の言葉が少しの間理解できなかったのか、まどかは目を開けたまま、何も言わなくなった。
やがて飲み込んでくれたらしく、まどかは安心した様子で息を吐く。
「……な、なんだ。冗談なんだね。ビックリしちゃった」
「そうよ、でも」
一気に顔を近づけて、ニコリと笑って見せる。
「まどかがして欲しいなら、改めて、本当にしてあげる」
「っ……っっ」
まどかが一歩退いた。その顔は焦りと困惑と、何より照れに満ちている。良かった、怒りは見られない。怒らせた訳ではない様だ。
「も、もう。ほむらちゃん?」
「ふふ、まどか。慌てる所も素敵よ」
余裕を装いながらも、私は頭の端で考えていた。もしかして、まどかから致命的な一言を聞くのが怖いのか。私は。
だとすると、何という弱さだろうか。覚悟を決めているのに、まどかから明確な事を言われて、この関係がもっと別な物に、私の気持ちをもっと別な物に変質させる事に対して、おぞましい程の恐怖を覚えているのだ。
あの映画に出てきた私は、もっと余裕を持っていた様に見えた。もっと楽しく、もっと恐ろしい存在になっていた。多分、それは私の願望だったのだろう。
「は、話はっ! 変わるんだけどっ……!」
表面的に見せていた笑顔に、まどかは何を感じたのだろうか。何度も首を振ったかと思うと、大きめの声で話題を変えようとする。
「……なあに?」
「その、まだ一日は終わってないよ、これから、だよ」
「ああ……お泊まりが、残ってるわね」
まどかに言われて改めて、まだ終わりじゃない事を思い出す。
むしろ、ここからが本番だ。詢子さんには事前に許可を取った上での、お泊まり。まどかの家に泊まるのは初めてじゃないけど、いつだって緊張する。
「そ、そう。お、お泊まりなんだけど……その、どうする?」
「どうする、って。無理なら今度でも、まどかの都合が良い日でも」
まどかは大きく首を振った。
「ち、違うの。そうじゃなくて、ほむらちゃんは今からでも来れるのかな、なんて」
「勿論、大丈夫よ。というか、今日はお泊まりするんじゃなかったの?」
「そ、そうだけど……あはは、ちょっと、その、覚悟が決まらなくて。変な事聞いちゃった」
その気持ちがよく分かって、私は思わず小さく頷いてしまった。
何とか取り繕っているけど、私だって内心は結構慌てている。多分、まどかもそうだろう。慌てる所も可愛らしい。
「辛いなら良いのよ、本当に」
「いやっ、ううん。パパもママもほむらちゃんを待ってるし、無理なんかじゃないよ」
「まどかは、どうなの?」
「もちろん、わたしもほむらちゃんを大歓迎するよ!」
まどかは腕を広げて、笑いかけてくれた。
「なら、遠慮無くお邪魔させて貰うわ」
「うん、そうして。今日はほむらちゃんとお泊まりだから、色々と準備してたんだ」
「それは楽しみね」
嘘なんか欠片も含まれない、全面的なまどかからの好意が身に染みる。こうして二人で過ごせる時が、とてつもない価値を持った、それこそ黄金の様な輝きに感じられる。
夕日が川の水に写っていた。そこからの光りが、まどかと私の周りを照らしてくれる。
「ああ、暖かいわ」
「? 何が?」
「何もかもが。でも、強いて言うなら……まどかの指先が、暖かいのかしら」
繋いだままの指先が、とても暖かい。熱を帯びていて、ずっとこうしていたくなる。
お昼前から殆ど手を繋いでいるのに、離れようという気がまるでしない。まどかだって手に少しだけ汗を浮かべていたけど、決して離そうとはしてこない。
時間がゆったり流れていた。
夕日が落ちるのはまだ先で、まどかの家まではもう少しの距離が有るだろう。
車の音も、鳥の声も、今は遙か遠くに聞こえる。私の歩幅と、まどかの歩幅は大して変わらず、一歩一歩、踏み締めながら歩いていく。
不意に、まどかが微笑んだ。その表情があんまりにも美しくて、私は、思わず息を飲んだ。
「ね、ほむらちゃん。もう少し、ゆっくり歩こっか」
「……そうね」
まどかが言うよりも早く、私の足は自然と遅くなっていた。
もう少し、じっくりと。もう少しだけゆっくりと。そんな風に、歩いてみたくなっていた。急ぐ事は無い。まどかは今、私の手の中にいる。
いや、私が、まどかの手の中に居るのか。
どちらでも構わない。今はただ、まどかとの緩く遅い時間の流れを楽しみたい。
自分が悪魔である事も、いずれ敵になるかもしれない事も今は置いておき、ただ、まどかと二人きりで歩ける幸せを謳歌した。
不意に、風が吹く。それは突然の突風とも言えない、軽く吹くだけの物だ。
しかし、私の髪を乱す程度の風力は有った。髪が目の辺りで踊っていて、少し邪魔だ。私は、右手で髪を軽く掻き上げた。
そんな私の姿を見て、まどかが目を輝かせる。どうしたんだろうと首を傾げていると、彼女はにこやかに話してくれた。
「やっぱり、ほむらちゃんのそういう仕草って絵になるよね……カッコいいなぁ」
「それは、その。ありがとう」
自分の癖をそういう風に言われて、何だか恥ずかしくなった。
まどかの仕草の方が可愛くて、魅力が有って、素敵なのにな、という考えを振り切り、私は目を伏せた。まどかに内心を悟られるのは、ちょっと避けたい。
が、まどかは私の顔をじっと見つめて、一言。
「ほむらちゃん、照れてる?」
「……」
図星を突かれた私は、大人しく小さく頷いた。
認めた瞬間、心が沸騰しそうなくらいの羞恥心を覚えてしまう。無様な醜態を晒さない様に、精神を整えて落ち着かせているけど、まどかは私の心の壁を、たった一言で突き破ってくる。
「そっか、恥ずかしいんだね。ほむらちゃん」
まどかは私と腕を組んだまま、肩を寄せてくる。
一体、何をするつもりなんだろう。
私がまどかの顔を見ようとすると、ぐい、と。まどかが私の顔を引き寄せる。
頬に彼女の唇が当たりそうになる所まで来て、耳元で「ほむらちゃんは、かわいいね」と囁かれた。
「っ、っ!?」
「ほむらちゃん。顔、赤いよ」
悪戯っぽく笑う、まどかの顔。そこからは、小悪魔的な愛らしさを感じさせる。
からかわれたのだと分かって、私は少しだけ抗議をしようと思った。けど、まどかの顔を見ていて、気づく。
まどかの顔だって、とても赤い。夕日に照らされているからじゃない。彼女自身の顔が、羞恥心で確かな赤みを帯びているんだ。
表情も、悪戯っぽい笑顔で隠しているけど、やっぱり恥ずかしそうだった。
やっぱり、小悪魔だ。女神様だけど、小悪魔だ。
「……こあくまどか」
「え?」
「何でもないわ」
頭の中に浮かんできたくだらない言葉。それをつい口に出してしまって、少し慌てて考えを振り払う。
幸い、まどかには私のまるで駄目な発言は耳に届いていなかったらしく、きょとんとした表情のまま、首を傾げていた。
「気にしないで」
「んー。ほむらちゃんがそう言うなら……気にしない事にするよ」
まどかは素直に聞き入れてくれた。
ほっとして、私は慣れた澄まし顔を作る。落ち着いて、まどかに気づかれない程度に深呼吸をして。
「……」
また、静かになった。僅かばかり離れた所で、川の水が跳ねる音が聞こえた。そこに住む魚が、飛び跳ねた様だ。水の波紋が広がるのが、私の目で捉えられる。
こうしてそれなりに良い視力を得られたのは、魔法少女になったお陰だ。余裕が無かった頃は何も思わなかったけど、こうやって落ち着いて周りを見渡すと、私の視力がどれだけ良くなり、その為にどれだけ物が見易くなったのかを実感した。
「そういえば」
かつての視力はどんな物だったかと思いを馳せていると、まどかが思い出した風に話しかけてきた。
「ええ」
「そういえば、ほむらちゃんは苦手な食べ物とか有る?」
「私? そうね……特には無いわ」
「じゃあ、好きなのは?」
まどかの質問に、私は考え込んだ。昔は、色々と好き嫌いが有ったけど、今はどうだろう。
特には、頭に浮かんでこない。絶対に食べたくない物も無ければ、とても食べたい物も無い。
「それも……特には思いつかないわね。ああでも、強いて言うなら」
「言うなら?」
「……私は」
みんなで楽しく食べるご飯なら、何でも美味しいよ。
そう言いかけて、止める。そういうのを堂々と言うのは、少し恥ずかしかった。まして、相手はまどかだ。他の誰に言うより、照れてしまう。
「……いえ、止めておくわ」
「えー。そこで止めておくなんて、気になっちゃうよ」
「恥ずかしいから、内緒よ。でも、どうしてそんな事を?」
尋ねてみると、まどかは楽しげに答えてくれる。
「あのね、パパが夕ご飯を作ってくれるから、食べれない物とかは聞いておきたいなって、思ったの」
「そう……気遣い、嬉しいわ。でも大丈夫、まどかのお父様の料理なら、大抵は食べられると思うわ」
幾らかの世界でも、まどかのお父様の料理は安定した味を持っていたし、この私が作り変えた世界であっても、それは変わらない。
今日のご飯はなんだろう。まどかの家で、まどかのご家族と食事なんて、お粥の時を数えなければ、本当に久しぶりだ。まどかが楽しそうだったから、私まで愉快になってきた。
「……そういえば、まどかはクリームシチューとココアが好きだったわね」
「うん、あ、子供だって笑わないでね」
「笑わないわよ。まどかのお父様ならどちらも素晴らしい味になるのでしょう?」
二人でクスクスと笑いながら、道を歩く。手を繋いだまま、駆け出しもせず、単に歩きながら喋っているだけ。
他愛の無い会話だった。当たり前の様な日常の、ただ普通に存在しているだけの、何の変哲も無い歩み。
ああ、今、私は幸せなのだろう。デートの事も、恋の事も、今の私の中では小さな事に思えた。
すっきりした気分で町中を歩くのは、素晴らしい快感だった。
二人が見た叛逆の物語は、我々の知っている叛逆の物語とは大きく異なります。
何せ彼女達が見たのは、我々が一度も見た事の無い「絵コンテ段階のファーストテイク版」だからです。音声だけはBD限定版特典に入っていますが、上映版より凶悪な印象の悪魔ほむらだった絵コンテ版は観た事が有りませんし、見る事が出来ません。
どうして二人がそちらを見たかと言うと、これは「悪魔ほむら」の願望から来ているので、「こういう自分でいたかった」という想いが入り込んだからです。弱味を完全に捨て去った自分を望み憧れるのは、そんなに不思議な事でもありませんよね。そちらの方が世界を維持し易いなら、猶更。
そして、二人の感想はまどか的には「続編は最後に和解出来たら良いな」と、ほむら的には「続編は最後に私が消えてまどかの存在が安定してくれたら良いな、というか続編は無しでこのまま何事も無ければ良いな」という方向に行きました。これは、私の中の考えでもあります。暁美ほむらの信奉者としては後者、鹿目まどかに愛情を持つ者としては前者かな、と。
ところで、前回更新の際に推薦していただきました。その為か、凄い勢いでお気に入りが増えていく事に、私自身喜びと戸惑いを隠せません。つまり、悪魔ほむらと鹿目まどかが共に過ごすという事を望んでくださる人が沢山いるという事でもあって、それが一番に嬉しいです。