ラブコメ終了後の負けヒロインたちの後処理を請け負うことになってしまった   作:スポポポーイ

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変わらない日々と変わっていく日常

 

 いつだって日々は変わらない。

 

 明日は毎日やってきて、今日という日が終われば昨日になる。

 一年三六五日、稀に閏年でプラス一日。当たり前のように一日は過ぎ去って、いつになるのか知れない僕の寿命がまた一日削られていく。

 

 僕の意思とは関係なく、今日も世界は誰かのために廻り続ける。

 相も変わらず、年中無休が通常営業の平常運転だ。ブラック企業も真っ青な労働環境にもめげない世界さんには本気で頭が下がる。偶には無理せず休んでもいいんだよ。

 

 

 いや、本当に……さ、無理しないで休んで? なんなら週休五日とかでもいいから。 

 

 

「……」

「……」

「……」

「……」

「……」

 

 だってそうしないと、教室ちゃんの空気が重苦しくて息苦しくて死んじゃうの!

 

 もういい…! もう…休めっ…! もう…もうやめて! とっくに教室ちゃんのライフはゼロよ! やめたげてよお!

 

 

 ……とまぁ、そんな風にモノローグでボケてみたはいいものの、全くもって代わり映えのしない光景に嘆息する。

 今日も教室戦線異状なし。異常が日常に成り代われば、それもまた正常なのだ。……なんか格言っぽく言ってみたけど、なんの慰めにもならないね。完全にお手上げだい。

 

 そもそもさ、この夢王くんと涅さんを見送った後の沈黙って何の時間なの? 坐禅? それともテレパシーか何かで直接脳内でレスバでもやってるのかな? ファミチキください。

 

「ハムカツサンドと焼きそばパンください」

「はいよ。二つで三二〇円ね」

 

 今日も今日とて教室ちゃんの尊い犠牲に心の中で黙祷を捧げながら、僕は購買を経由して最後の楽園たる非常階段を目指して昇降口を後にする。

 未だ一月の冬空の下でお昼を食べようなんて物好きは少ないのか、枯れた桜の木が並ぶ中庭に人の気配はほとんど存在しない。誰に使われることもない野晒しなベンチの横をするすると通り抜けながら、厳重そうでいて不用心極まりない閂をあっさり外したらもうゴールしたも同然。逸る気持ち抑えながら背中を丸めてゆっくりと非常階段を上ると、ようやくいつもの指定席へと辿り着くことができた。

 

「……はぁ」

 

 最上階の非常扉に背中を預けて胡坐をかくと、珍しく寒凪な天井を見上げて僕は小さく息を吐く。

 目の前に広がる景色は、あの日の曇天とは似ても似つかぬ晴天だ。僕の吐いた白い息が、一瞬だけ雲一つない青い空に広がってはすぐに霧散する。

 

 いつだって、僕の日々は変わらない。

 

 朝起きたら家を出て、学校で時間を潰したら家に帰って寝る。

 最早ルーチンワークと言っても差し支えない毎日は、止まることも、早まることも、遅れることもなく一定のリズムで僕を明日へと連れていく。

 

 校内の喧騒すら届かない静かな非常階段の片隅で、無限に広がる空の下で、見慣れて見飽きた最早一周回って見覚えのない田舎でもなければ都会でもない町並みを眼下に望みながら、僕は購買で買ったいつもとは違うハムカツサンドを頬張った。

 

「……ハム薄っす」

 

 あまりの歯ごたえの無さに、思わず齧ったハムカツの断面をマジマジと見つめてしまう。

 えっ、ハムカツのハムってもっとこう……厚みがあるものなんじゃないの? これ、普通のスライスハムを二枚重ねただけじゃん。これをハムカツと称して許されるのだろうか。情け容赦のないコスト削減とパッケージ詐欺に心血を注ぐ某コンビニチェーンだってもう少し消費者の反応を慮って商品開発してるよ…………たぶん。

 

 あまりの残念さに『うわっ……うちの学校のハムカツ、薄すぎ……?』とSNSで拡散させようかと思ったけど、よくよく考えたら僕はSNSの類は何一つやっていないので、こんなしょうもないことのためにわざわざアカウント作るのとか至極面倒だなと僕の脳内会議によってこの案は即座に却下された。

 ……なるほど。きっと、こうやって消費者が面倒臭がって声を上げないから、資本主義社会の闇が日本経済にのさばり蔓延っていくのだろう。これが無関心社会の弊害だな、間違いない(違う)。

 

 そんな微妙な気分に浸りながら、僕はぺらっぺらのハムカツサンドを咀嚼しながら薄っぺらい思考の渦で陰鬱な溜息を呑み込んだ。

 

 毎日訪れる日々は変わらない。

 だから、変わっていくのはいつだって僕を取り巻く環境で、そんな移ろいやすい世界に取り残された僕の日常は、徐々に、端から蝕むようにゆっくりとその姿を変えていく。

 

 今日の日常は、明日の異常だ。

 昨日の異常は、今日の日常だ。

 

 委ねて、流されて、ふらふらユラユラ漂う僕の意識は今日も変わっていく日常を傍観する。

 

 

「ハムカツサンドは当たりかな?」

 

 

 なんら意味をなさない僕の御呪いは、なんの気休めにもならずに空気中へと薄れて瓦解した。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 あの日、僕と長谷川さんが二度目のお昼休みを過ごしてから、既に二週間の時が流れている。

 

 けれど、あの日聞いた謝罪の意味を僕はまだ知らない。知ろうとも思わない。

 

 きっとあの日の『ごめんなさい』には、長谷川さんの言葉にできない想いが込められていたのだろう。彼女の裡にある葛藤と、ひどく綯い交ぜになった感情から絞り出された謝罪だったのだと、そんなことは流石の僕でも察することができた。

 

 だが、それはそれ、これはこれである。

 

 確かにまったく気にならないと言えば嘘になるけれど、かと言って自らの平穏を崩してまで知りたいかと問われれば答えは否だ。

 人間、知らない方が幸せだったなんてことは往々にしてあることだし、それならば明らかに地雷だと思われる過去話なんて放置しておくに限るというもの。昔の人は言っていた。『好奇心は猫を殺す』『藪をつついて蛇を出す』『触らぬ神に祟りなし』────至言にして金言だと切に思う。

 

 それに、今日まで知らずに生きてきて問題ないのなら、別に無理して知る必要なんて無くない?

 ほら、お片付けのプロである某ミニマリストだって言ってるじゃないか。どんなに大事にとっておいたモノだって、一年間使わなかったのなら、この先もきっと使わないから捨てなさいって……。それと同じ、要は断捨離の精神である。

 

 だから、僕はあの日長谷川さんに何も訊かなかった。

 

 何も言わずに、非常階段から遠ざかっていく彼女の背中を見送って、それでゲームセンターで彼女を助けてから続いていた脇谷紅大と長谷川翠の奇妙な邂逅は何も始まることなく終わりを迎えたはずだ。

 

 だから、僕と長谷川さんの関係性は今も変わらない。

 

 付かず離れず、夢王くんを間に挟んだだけの繋がりでしかない、そんな背中合わせな距離感。

 それを友情と呼ぶには烏滸がましい。同情するような間柄では決してない。そこには愛情も慕情も欠片も存在しなくて、あるのはただ僕に対する悪感情と、僕が有する無感情で構築された惰性の果ての腐れ縁だ。

 

 だがしかし、そんな僕の内心を嘲笑うかのように、移ろいやすい世界はさらりとその彩を変える。

 

 昼休み───。あれからすっかり静けさを取り戻した一人っきりの非常階段に、招かれざるお客さんがふらっとやって来るようになった。

 狐につままれたような顔で呆然と彼女の背中を眺める僕と、そんな僕に背を向けて、どこか居心地悪そうにもだもだする長谷川さん。まるで抗いようのない現実から『お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな』とでも煽られている気分だった。解せぬぅ。

 

 彼女は数日に一度の頻度でやって来る。

 

 非常階段の最上段に腰掛けて、女の子らしい小さなお弁当を食べ終えると、長谷川さんは何をするでもなく静かに非常階段から広がる町並みをぼんやり眺めているようだった。それが途方に暮れているのか、感傷に浸っているのか、それとも何かに抗って立ち上がろうとしているのか、それは僕にはわからない。

 

 彼女の後ろ姿しか見ようとしない僕には、知る由もない事だ。

 

 ただ、時折覗く憑き物が落ちたような横顔から、長谷川さんは長谷川さんなりに、どうにか自分の中で折り合いをつけようとしているのかもしれない。

 未だ教室で夢王くんに対して見せる姿は委員長キャラで、彼の背中を見送る表情はひどく苦しげではあるけれど。それでも彼女は夢王くんの前から逃げ出すことはしなかった。それは単に、踏ん切りがつかずに諦めきれないだけなのかもしれないし、もしかしたら他に行き場が無くて仕方なくなのかもしれない。

 

 いずれにせよ、彼女は目の前の現実と向き合う道を選んだ。

 

 そして、それは燻ぶり続ける夢王くんへの想いだけじゃなく、これまで自分が蔑ろにしてきた現実(いま)に対しても同様だった。

 

 

 

 *  *  *

 

 

 

 ある日の昼休み、彼女が唐突に呟いた。

 

 

「私、図書委員会の皆に謝って来ようと思うの」

 

 

 背中越しに届いた微かに震える声音は、怖気の表れなのだろうか。

 

「……無駄だよ」

 

 きっとそれは、長谷川さんにとってのケジメなんだと思う。

 そんな彼女の心情を斟酌してあげることは出来るけれど、僕の口を衝いて出た言葉は真逆のような切り捨てるモノだった。

 

「勿論、ただ謝って済むような問題じゃないって事は……」

「違う。そういうことじゃないんだよ、長谷川さん」

 

 彼女の戸惑う気配を背中で感じながら、僕は小さく小さく息を吐く。

 

「いま図書委員として活動しているメンバーは別としても、それ以外の委員は君の謝罪なんて望んでいないんだ」

 

 キッカケは確かに長谷川さんなのだろう。彼女が恋愛に現を抜かして、委員長としての責務を放り投げたことが原因だ。

 けれど、どんな言い訳を並べようと、どれだけ大義を掲げても、彼らが長谷川さんを口実にして委員会活動を放棄した事実は変わらない。

 

「彼らだって、今更謝られても困るんだよ。長谷川さんが自らの過ちを認めて謝るってことは、それは遠回しに、今、委員会活動に参加していないメンバーたちを糾弾することに他ならない」

 

 サボタージュ、ボイコット、ストライキ。横文字でそれらしく言い立てれば聞こえは良いけれど、そんなものはただのお為ごかしだ。

 生きるか死ぬかの瀬戸際で、確固たる信念を持って労働争議に挑むなら話は別だろうけど、彼らのそれは面倒な委員会活動から体よく逃れるための手段でしかない。

 

「だから、どんなに長谷川さんが反省して、どれだけ本気で謝罪をしても、今サボっている委員たちは絶対に謝罪を受け入れないし、活動にも戻ってこないよ」

 

 最早、謝ったから許す許さないという次元の話ではないのだ。

 彼らにとって長谷川さんは、いつまでも愚かな図書委員長で居てもらわなければ困るのである。だってそうじゃなきゃ、自分たちが哀れな被害者のままで居られないのだから。

 

 大体さ、未経験者の委員長が早々に来なくなった程度で機能不全に陥る組織ってなに? どれだけ脆弱なの? 代役なんて幾らでも居るのだから、さっさと長谷川さんを罷免して新委員長を擁立すれば良いだけじゃん。

 

 だから彼女は悪くないとは言わない。僕に彼女を庇うつもりは毛頭ない。だって、やっぱり諸悪の根源は長谷川さんだし。

 しかし、だからと言って彼女をダシにして職務放棄した奴らの責任まで、長谷川さん一人に押し付けるつもりもまた無かった。

 

「どうせ、あと二ヶ月もしないうちに今年度も終わるんだから、今更蒸し返すような真似しなくてもいいんじゃないかな?」

 

 それが一番無難なやり方なんじゃないかと思う。

 人によっては卑怯だと罵って、不誠実だと非難するかもしれないけれど、周囲に波風立てずにやり過ごせるのなら、それに越したことはないんだから。まぁ、残りの高校生活はヒソヒソ陰口叩かれるだろうけど、それくらいは甘んじて受け入れて欲しい。

 

「それでも、もし長谷川さんがどうしても謝りたいって言うなら、それはこんな現状でも働いてくれている図書委員の四人にすれば良いと思うよ」

「四人……?」

「うん。一年生が二人に、三年生が二人で四人」

「…………そう」

 

 その時、ほんの少しだけ背後から感じる空気が揺らいだ気がした。

 彼女が何かを言い淀んで、逡巡して、結局は溜息と一緒に吐き出した熱が冬の風に流されて掻き消える。訝しんだ僕が後ろを振り返ってみれば、長谷川さんは顔を上に向けて、じっと空を眺めているようだった。

 

 その後ろ姿は、最近、僕がよく視ていた背中と似ている。

 けれど、どうしてか、僕はその既視感にしっくり来ない。

 

 だからだろうか、僕も彼女に釣られるようにして天を仰いだ。

 ふわふわと、綿飴のような積雲のひとつがふわりと浮かんでいるのが目に留まる。近くの大きな雲から切り離されて、当て所もなく漂いながら風に流される様は、どこか憂愁に満ちているように感じられた。

 

「……」 

「……」

 

 この非常階段を支配する静寂は、どちらの味方だろう。

 どちらにしても、既に言いたいことを言い終えて、語るべき言葉を持たない僕に沈黙以外の選択肢は存在しない。

 

「────私は」

 

 未だ春の到来を頑なに拒んでいた寒風がふと凪いで、凛とした声が僕の耳朶を打つ。

 

 

「それでも、全員に謝ることにするわ」

 

 

 彼女は、長谷川翠は、そうキッパリと明言してみせた。

 

「脇谷君の言うことは、きっとその通りなんだと思う。今さら私が謝罪しても、皆には迷惑がられるだけ」

 

 そこまで理解していて、なぜベストを尽くそうとするのか。

 確かに自省するべきだとは思うけど、やらかしたと言っても、所詮は高校生活での期間限定な委員会活動でのことである。別に生死を左右するような失錯だった訳でなし、精々が高校時代の評判と内申点を損なう程度のものだ。そんなもの、一〇年後にでもあの時は若気の至りだったと笑い飛ばせば良いじゃないか。

 

「私は強い人間じゃないから、ここで自分の罪から目を背けたら、この先もずっと逃げ続けるだけの人生になってしまう気がするの」

 

 逃げて何が悪いと言うのだ。逃げ続けたっていいじゃない。だって人間だもの。

 古代中国の偉人も言っていた。『三十六計逃げるに如かず』────戦略的撤退は兵法の基本だよ。

 

「……今、逃げて何が悪いって考えたかしら?」

「……ドキッ」

「…………オノマトペを口に出して動揺するって斬新な狼狽え方ね」

 

 そんなこと言ったってしょうがないじゃないか。そりゃ突然思考を読まれれば僕だって狼狽えもするよ。一瞬、実は自分がサトラレなんじゃないかって不安になっちゃったもん。こんとんじょのいこ。

 

 僕の意識が明後日の方向に迷走し始めたのを敏感に察知したのか、呆れ成分を多分に含ませた咳払いをした長谷川さんが話を元に戻す。サーセン。

 

「……きっとね。”退く”のと”逃げる”のとでは、行動は似通っていても、帰結する先は全然違う」

 

 それは、今しがたの僕の思考に対する苦言だろうか。

 

 

 それとも────、今までの僕の在り方を揶揄しているのだろうか。

 

 

「”撤退”は戻れる場所が、守るべき居場所が残っているけれど、”逃亡”の先には何も無いの。ただ逃げた先で、また逃げ出して、ずっとずっとずっと……在りもしない強迫観念に追いかけられて、視えない影に不必要に怯え続ける」

 

 長谷川さんが語る教訓めいた言辞は、実体験からくる戒めなのかもしれない。

 だとしたら、あの日、僕が大して美味しくもない焼きそばパンと一緒に呑み下して、非常階段に解け消えた六文字の言の葉は、彼女の逃げ続けた過去から発せられたSOSだったのだろう。

 

「どうしてかしらね……。逃げ出すときの一歩はあんなにも軽やかだったのに、立ち止まるにはその何倍もの労力が必要で、前に進むための一歩は途轍もなく重い」

 

 掠れた声音が、冷たく吹きすさぶ風に乗って冬枯れた町並みに消えていく。

 

「私は、まだ……ようやく立ち止まれただけだから」

 

 声が震えているのは、きっと冬の寒さの所為だけではない。

 

「自分が視ていたいものだけを見て、いくら目を背けていても、いつか必ず直視しなきゃいけない時がやって来る。私にとっては、それが今なんだと思うの」

 

 また一つ、僕の周りの日常が変わろうとしている。

 

「だから私は謝ることから始めようと思う。皆にはまた迷惑な想いをさせてしまって、申し訳ないとは思うけれど」

「……えらく勝手だね」

「ええ、そうね……。これは私の勝手な我が儘で、単なる押し付けよ」

「なにそれ、開き直り?」

 

 詫びようとしているのに開き直るとはこれ如何に。

 そんな僕の皮肉はしかし、大真面目な返答によって真正面から打ち返されてしまう。

 

「開き直り……そう捉えられても仕方ないのでしょうけど、個人的には少し違うわ。ただ、ちゃんと向き合おうって、そう思ったの。自分が犯してしまった過ちから逃げないで、きちんと筋を通さなきゃって」

 

 彼女の自罰的なその思想は、結局は自分勝手な自己解釈に基づく自己都合に満ちた自己満足の思惑でしかない。

 

「面倒事になるかもよ。長谷川さんの立場も今以上に悪くなるかもしれない」

「……そうかもしれないわね」

「いま長谷川さんに対する悪評が図書委員会の内部で収まっているのは、誰も事を荒立てたくないからだ」

 

 もし彼女の謝罪行脚によって図書委員会の実態が学校中に露見すれば、それは誰も幸せにならない結末を招くかもしれない。

 見て見ぬふりして問題を放置し続けた司書教諭や、これ幸いと仕事をサボっていた連中は言うに及ばず、今も活動してくれている藤堂さんたちだって、任期が残り僅かになった今になって騒がれてもいい迷惑だろう。

 

 そのあたりの憶測を説いた上で、僕は押し黙る彼女に問いかける。

 

「それでも、やるつもり?」

「…………うん」

「あ、そう」

 

 実に利己的なお返事だ。独善的で、他人の迷惑なんてちっとも考慮してくれやしない。

 あぁ、そもそも、そんな配慮が出来る人ならこんな事態に陥ってないって話ですね。こりゃ失敬。

 

「……夢王くんにバレて嫌われるかもよ」

「うっ……! そ、れ…は……っ……そう…なったら、その時は……、その結果を…す、素直に受け止めるわ」

 

 何とも苦渋に満ちたような、少し上擦った声音。

 そんな彼女の返答に呆れながら、僕はゆっくりと瞳を閉じてみた。

 

 

 目の前に広がるのはお馴染みの、真っ暗で、何もない、虚無のような世界だ。

 

 

 そこに僕は、いつかのように長谷川翠という少女を映し出す。

 

 

 長谷川さんは、とにかく間が悪い。

 空気も読めないし、機転も利かない、予習復習には強いけれど、何かと不器用で、突発的な事態に陥ると途端にポンコツ化する。

 

 

 長谷川さんは、大して強くない。

 夢王くんの前では背筋を伸ばして凛としているけれど、彼の目が無いところでは油断して猫背になっていることがある。

 

 

「……はぁ」

 

 

 思わずこぼれ落ちてしまった溜息と共に、僕は暗闇に浮かび上がる頼りない背中へ、これまで知らなかった新たな長谷川さん像を書き加えた。

 

 

 長谷川さんは、僕が思っているほど弱くもない。

 打たれ弱くて、臆病で、世渡り下手なくせに、へこたれないし、大胆で、変なところで能動的だ。

 

 

 

 

 そんな彼女の不可解なチグハグさが、ひどく人間的で、僕にはその背中が──────ほんの少しだけ眩しく映った。

 

 

 

 

 昼休みの終了を告げる予鈴が、随分と遠くから聴こえた気がする。

 

「……そろそろ戻りましょうか」

「ねぇ、長谷川さん」

 

 雲間から差し込む光芒に目を瞬かせながら、背後で腰を上げようとする彼女を呼び止めた。

 

「脇谷、くん……?」

「何をどうしようと長谷川さんの勝手だけど、せめて三年生に謝りに行くのは受験シーズンが終わってからが良いんじゃないかな。後になって長谷川さんの所為で受験に失敗したなんてイチャモンつけられても面倒だろうし」

「それは…そう、ね。うん、そうしておく。流石にそこまで迷惑は掛けられないもの」

 

 彼女から返ってきた噛み合わない答えに苦笑しながら、僕はよっこらせと立ち上がる。

 腰に両手を当ててググっと伸びをして、軽くほぐれた身体を捻って制服のスラックスに付いた汚れを叩いて落とす。そのとき、ふと目に入ったブレザーの裾に、僕は老婆心ながら長谷川さんにもう一つ忠告しておくことにした。

 

「あとさ、一年生……と言うより、藤堂さんに謝るときは覚悟しておいた方が良いよ。この間の件もあって、彼女、大分ご立腹だろうから」

「…………が、がんばる」

 

 どうやら先日の一件で、長谷川さんは藤堂さんの事が相当トラウマになってしまったらしい。

 若干涙声な反応にお気の毒さまと心の中で呟きながら、次に会ったときに彼女がトラウマを克服しているのか、それとも新たなトラウマを植え付けられているのかに思いを馳せてみた。……とりあえず、こっちにまで災いが飛び火しないように合掌しておこう。長谷川さんや、どうか成仏しておくれ。

 

 そうやって僕が長谷川さんのご冥福をお祈りしていると、どうにか精神を持ち直したらしい彼女がのそのそと立ち上がって、そして、ぽそりと呟いた。

 

「……その、ありがとう」

「藤堂さんのことなら、ただの自己保身の老婆心だよ」

「それもそうだけど、そうじゃなくて」

 

 そのもどかしそうな声音に僕は訝し気に後ろを振り向いて、そこで、いつの間にかこちらを見詰めていた長谷川さんと視線がぶつかる。

 

「……」

「……」

 

 はじめて交わる視線に、僕らは互いに目をパチクリと瞬かせて、どちらからともなくフイっと背を向け合った。

 颯々たる風の音色に耳を傾けながら、僕は顔を顰めてガシガシ頭を掻いて、彼女はまごまごした空気を誤魔化すように咳払いする。結局、どうにも僕たちはこの距離感が丁度良いらしい。

 

 数秒ほど居心地悪そうに沈黙したけれど、ゆっくりと深呼吸を繰り返した長谷川さんが、再び口を開いて訥々と言葉を紡ぐ。

 

 

「えっ…と、だから、あの、その……ありがとう。今日のことも、今日までのことも、今まで…ずっと…………ありがとう」

 

 

 僕と彼女、二人だけの非常階段の踊り場に響く謝意の言葉。あの日は六文字、今日は五文字、具体性のない感動詞にはどんな意味を込められているのか。

 おそらく、歩み寄ろうと足を踏み出しても距離が離れるだけな今の僕たちの関係性では、きっとその含意を汲むことは叶わないのだろう。

 

 

「……ねぇ、脇谷君」

 

 

 大して広くもないスペースだから、僕と彼女の距離はきっと一メートルも離れていない。

 それなのに、その僅かな距離は果てしなく遠いもののようにも感じられる。

 

 近いはずなのに、遠い。

 遠いはずなのに、近い。

 

 そんな矛盾するような心理と物理の距離感の狭間が、僕と彼女の昔ながらの立ち位置だ。

 

 

「いつか私がきちんと前に進めたら、そのときは────また私の話を聞いてくれる?」

 

 

 だから、僕の返事は決まっている。

 

 

「他ァ当たれ」

「……即答速攻大否定をどうもありがとう」

 

 

 当然のように即断即決でお断りをしてみたけれど、彼女は彼女で愉快に素敵に即応してみせた。まぁ、ヤケクソ気味に叫んではくれなかったけれど。

 いや、まさか元ネタで返されるとは思わなんだ。……と言うか、なんで知ってるの? 君、そういうキャラじゃなかったでしょ? いつの間に嗜んで…………そう言えば昔、教室で堂々と読んでましたね。主に夢王くんが。あっ、布教した犯人特定できたわ。

 

「先に行くわ」

「……うん」

 

 可笑しそうにくすりと笑い声を残して、長谷川さんは静かに階段を下りていく。

 僕は何も言わずに非常階段の上から遠ざかる彼女の背中を見送りながら、目まぐるしく変わり始めた日常に大きく息を吐いた。

 

「……」

 

 何とはなしに小さくなっていく背中を追いかけていた目線が、ふと誰もいなくなった中庭へと移ろいだ。そして、僕はそこで初めて、いつも寒々しくて寂れた場所だと思い込んでいた中庭の片隅に、白、赤、紫と色とりどりの花が咲いているのを知った。

 健気にも未だ寒さ厳しい冬に花弁を開かせるその花に興味を惹かれた僕は、教室への道すがら、中庭で足を止めて写真に撮る。後で暇なときにでも、それが何の花なのか調べてみようと思ったからだ。

 

 

 

 後日、その日見た花の名前が『プリムラ』で、僕はこの花について真に驚くべき事実を発見したけれど、それを受け入れるには僕の心の余白は狭すぎた。

 

 

 




更新間隔があいてしまって申し訳ございません。
何度も書いては消してを繰り返しているうちに、何だかしっちゃかめっちゃかになってしまいまして……。

一応補足しておくと、負けヒロインたちは全員が全員やらかしてる訳じゃないです。
人によって拗らせ度は異なりますが、たぶん一番影響範囲が大きい拗らせ方をしてしまったのが委員長だったってだけで……。

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