よつばと侍   作:天狗

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&トライアスロン

 八月の終わりの暑い日、茂は長袖のジャージ姿でランニングしていた。両腕の周りと両脚の周りが不自然に膨らんでおり、彼のランニング姿を見慣れていない人々はぎょっとして振り返る者が度々現れた。

 「シゲー!」

 茂の前方から白い帽子をかぶり、小さなリュックを担いだよつばが走ってきた。

 「よつばちゃん?」

 よつばは茂の元にたどり着くと、ジャンプして腕にしがみつき、よじ登る。ものの数秒で肩車の状態になり、パシパシと茂の頭を叩いた。

 「シゲ!シゲもうみいくぞ!」

 「海?」

 「あぁ、茂くん、ごめんねうちのよつばが。」

 「あ、小岩井さん。大丈夫ですよ。これから海ですか?」

 「そうなんだよ。風香ちゃんと恵那ちゃんも一緒に。」

 「シゲ兄、今日もストイックにランニング?」

 後から現れたのは小岩井、風香、恵那の三人だ。小岩井はよつばの行動を謝り、風香と恵那は茂に手を振っている。

 「ストイックってほどでもないよ。」

 「いや、君、真夏に長袖でランニングは十分ストイックだよ。ダイエット?」

 「あぁ、これは。」

 茂が袖をまくると、足首につけるタイプのおもりが四つ、巻き付いていた。さらに片足の裾をまくってみせると、そちらには膝まで五つのおもりがついている。

 「おもり丸出しで走るのもなんか恥ずかしいじゃないですか。」

 「…恥ずかしいとかそういう次元じゃないんじゃないかな?」

 言っていないが、重りは一つ五キロあり、合計で九十キロもある。今はよつばも肩車していて、さらに重いのだろうが、茂は表情一つ変えていない。

 「とーちゃん!シゲもうみいく!」

 「こら、茂くんは行くなんて言ってないだろ。」

 「シゲお兄ちゃんも行こうよ!」

 恵那が茂の手を取って引っ張ろうとしたが、重すぎたのだろうか、ぴくりとも動かない。彼女は「ん~。」と唸りながら引っ張り続けた。

 「俺も行っていいんですか?」

 「え?そりゃ来てくれたら嬉しいよ。子供三人に対して保護者一人じゃ大変だし。」

 「私は保護者側に入れていいんですよ。」

 風香が何やら主張していたが、二人は無視する事にした。

 「それじゃあ、お邪魔します。江田浦ですか?」

 「そうだよ。じゃあ、駅で待ち合わせようか。」

 「いえ、それじゃ遅くなりますから、先に行っててください。俺はチャリで向かいます。」

 「え?チャリ?江田浦だよ?」

 「小岩井さん、大丈夫ですよ。シゲ兄は体力もあるし、自転車乗るとすっごく早いんですから。」

 なぜか風香が自慢げに話した。この街から江田浦までは乗り換えもあり、とても自転車で行ける距離ではない。小岩井が疑問に思うのも当然なのだが、茂と付き合いのある者は彼の身体能力を当たり前のように受け入れてしまっている。

 「風香の言う通り、問題ないです。なんなら、先に着くぐらいの事はしますよ。裏道知ってますし。」

 茂は力こぶを作って見せた。腕に巻いた重りがはじけ、ドサドサと重そうな音を立てて落ちたのを見た小岩井は、問答無用に納得させられてしまった。

 「そ、そう。じゃあ現地集合で。」

 「うっす。」

 よつばを軽々と持ちあげて下ろした茂は、外れた重りを拾うと家に向かって駆け出して行くのだった。

 

 「あ、シゲだ!」

 電車の車窓から見えたおばちゃんに手を振っていたよつばは、そのおばちゃんを猛スピードで追い越して行く茂を発見した。

 「ホントだ!」

 風香、恵那、小岩井も外を見ると、確かにいた。茂は線路沿いの農道をデイパックを背負い、半袖半ズボンでボロボロのママチャリを立ちこぎをしている。その速度は電車と同じどころではなく、徐々によつば達の位置よりも前に出ている。

 「いや、速過ぎだろ…。エンジンでも積んでんの?」

 「本当に早いですよねー。あさぎ姉ちゃんはあの自転車をフェラーリって呼んでました。」

 「へらーりってなんだ?」

 「フェラーリ。超速い車。」

 「あははは!たしかにシゲはちょーはやいな!」

 談笑している間に、茂の姿は背中しか見えなくなっていた。

 「…あれ、オリンピック狙えるんじゃないの?」

 「えー、さすがにそれは無理じゃないですか?きっとオリンピックの選手はきっともっと速いんですよ。」

 「そうかなぁ。…あっ!」

 何かにつまづいたのか、茂が派手に前方に飛んで行った。自転車の前輪が外れ、大破した自転車のハンドルを持ったまま、背中から地面に着地するのがスローモーションに見えた。そうかと思うと、あっと言う間に電車に抜かれ、その姿は消えていった。

 「だ、だだ大丈夫か!?アレ完全に事故じゃないか!?」

 「あはは、シゲ兄ならあれぐらいよくある事ですよー。」

 「そうだね。他の人なら心配するけど、シゲお兄ちゃんならね。」

 慌てている小岩井の態度とは正反対に、風香と恵那は朗らかに笑っていた。

 「シゲはつよいからな!でもシゲにかったよつばはもっとつよいな!」

 「あれ?俺が間違ってるのかな?」

 自分の常識に影が差し、しばし煩悶する小岩井であった。

 

 ダン!と縁石に足をかけたのは浮き輪を持ったよつばだ。その隣に小岩井が、さらにその隣に風香。その隣に遅れて来た恵那が並んだ。そして最後に並んだのが、バラバラになった自転車を担いだ無傷の茂であった。

 「え!?シゲ兄自転車担いで来たの!?」

 「問題そこじゃないだろ!途中から自転車担いで来たのに、いくらなんでも早過ぎだろ!?」

 「自分、それだけが取り柄なんで。」

 「いや、意味わかんないから。ってちょっと待てよつば!」

 目の前に広がる青い海に我慢できなくなったのか、駆け出して行ったよつばを追って小岩井も走り出した。

 「シゲお兄ちゃん、途中で自転車捨てるとこなかったの?」

 「うーん、どこで捨てられるか分からなかったし。何か、捨てるとなると不思議と手放したくなくなる。」

 「でも随分長い事乗ってるんでしょ?もう寿命だったんだよ。」

 「そうだな。…自分でも気が付かなかったが、俺は意外とこいつに愛着持っていたらしい。」

 茂はそう言うと、愛おしそうにもげたハンドルを眺めた。

 「…俺は夏の終わりが近づく度にこいつとの別れを思い出すのかな。」

 その言葉を聞いた風香がキッと茂を睨みつけた。

 「ちょっと待って。シゲ兄は聞いてないよね?」

 「何を?」

 「わからないならいい。頼むから聞かないで。」

 なぜか風香のテンションが急に下がり、茂と恵那は顔を見合わせて首を傾げた。

 

 「シゲ!なげてなげてー!」

 全員で海に入ってしばらく遊んだ後のことだ。浮き輪をつけてスイスイと泳いでいるよつばが、期待を込めた目で茂の元へやって来た。

 「投げるって?」

 「前プールでジャンボがやってくれたやつか。」

 「あー、思いっきり放り投げたアレ?でも海だよ。」

 「そうだなぁ…。」

 「遠くに投げるんですか?」

 よつばに海パンを握っておねだりされ、茂はずりおろされないよう、必死で掴んでいた。

 「あぁ、どうもよつばはアレにはまってるみたいでな。でも海じゃちょっと危ないよな。」

 「…それじゃあ、小岩井さんが足の届くとこまで浮き輪持って行って、俺がその辺に投げるってのはどうでしょう?」

 茂の提案を、小岩井は顎に手を当てて吟味しているようだ。

 「小岩井さんだけじゃ心配なら私もそっちに行きましょうか?」

 「それなら。あぁ、それと、ライフジャケットを借りて来よう。」

 「いいのか!?」

 「あぁ、でも、あんまり甘え過ぎちゃだめだぞ。」

 「あー、あれな。えんりょ。」

 「難しい言葉知ってるな。この子。」

 

 ライフジャケットを装備したよつばを、茂は肩車していた。

 「行きますよー!」

 「あはは!いくぞー!」

 「はいよー!」

 少し離れて立っている小岩井と風香が手を挙げたのを確認すると、茂はサッカーのスローインの要領でよつばの脇の下に手を入れ、放り投げた。この時、風香と恵那だけではなく、茂自身も忘れていた。彼が不器用で名を馳せた男だという事を。よつばは小岩井と風香の遥か頭上を越えて、沖に着水した。

 「ぎゃーっ!よつばちゃん!」

 叫んだのは風香だ。彼女と小岩井は浮き輪を装備すると、急いでよつばを追いかけた。その二人の間を駆け抜ける大柄な影が一つ。茂だ。彼は海を割るのではないか、という勢いで走り、そのまま水中へ沈んでいった。

 「ぎゃーっ!シゲ兄が沈んだ!」

 「あははは!」

 笑っているのはライフジャケットでぷかぷかと波に乗って帰ってきたよつばだった。それにほっとしたのも一瞬、今度は沈んだままの茂が心配になる。

 「ライフセーバーに!ライフセーバー呼ばないと!」

 一生懸命バタ足をする小岩井と風香だったが、泳ぎを苦手としている二人はなかなか前に進まない。そんな時、彼らの浮き輪を水中から伸びてきた手が掴んだ。

 「ぎゃーっ!海坊主!」

 海中の手に浮き輪を引っ張られ、二人はそのまま浜の方へ移動できた。そのままゆっくりと前に進み、浮き輪と浮き輪の間に、だんだんと頭が出てきた。海坊主の正体は茂だったのだ。彼は海中からよつばが浜に戻ったのを確認すると、背伸びして二人の浮き輪を掴み、海底を浅瀬まで歩いてきたのだ。これができたのは茂の超人的な肺活量と、浮かない体のおかげである。そもそも泳げれば何の問題もなかったのだが。

 「あはは!シゲ!もういっかい!もういっかい!」

 「…いや、もう無理だ。」

 浜に辿り着いた三人にもうはしゃぐ気力は残っていなかった。茂は、もう二度とこんな遊びはするまい、と心に固く誓うのであった。

 

 「シゲ、あんたその自転車どうしたの?…自転車よね?」

 「ぶっ壊れた。あさぎ、余ってる自転車あったらくれ。」

 「ないわよ。商店街に自転車の専門店あったわよね。買ってくれば?」

 「あぁ、坂田さんのとこか。あの人高いの勧めてくるんだよな。」

 「いいじゃない。どうせバイト代まだ残ってるんでしょ?カッコいいの買えば?」

 「そうだな。虎子が詳しそうだし、相談してみるか。」

 


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