さすがの茂も寒さを感じる季節になったのか、彼はその日珍しく上着を着ていた。黒の革ジャンを着ている彼は、その筋肉量も相まって未来から来た殺人ロボットにそっくりである。
「サングラスかけなよ。」
「何でだよ。別に
彼と並んで歩いているのはあさぎだ。茂が彼女に借りていた小説を返すために綾瀬家に向かっていたところ、コンビニ帰りのあさぎにたまたま会ったのだ。その時によつばがいるからと家に呼ばれ、彼はお邪魔する事にした。
「髪も金色に染めなよ。」
「だから何でだよ。お前は俺を何にしようとしてるんだ。」
いつものように遊びに来たよつばに、菓子の一つでも出そうかと家探ししたのだが、残念な事に何も見つからなかった。そこで彼女に留守番を任せ、あさぎはコンビニに買い出しに出たという事らしい。本日は虎子と出かける予定があったのだが、よつばが家にいる為、変更になるかもしれない。もともと大した用事ではないから予定変更に何の
「え!?気づいてなかったの?ってか狙ってやってたんじゃないの?」
「何をだよ。なんか変なとこあんの?気になるんだけど。」
そうこうしている内に綾瀬家へ着き、あさぎは玄関のドアを開けた。
あさぎと茂の到着前に綾瀬家へ着いていた虎子は、留守番をしていたよつばと会い、家にあげてもらった。子供の扱いが苦手である彼女は、よつばにちょうちょ結びのやり方を教える事で時間を潰していた。手間はかかったがよつばも徐々に出来るようになり、段々と虎子もこの時間を楽しく感じるようになった。
「ただいまー。」
「なぁ、俺なんか変かな?無視するなよ。」
玄関の戸を開ける音がし、あさぎが帰って来た。ついでに来る予定のなかった茂までいるようだ。
「あら、かわいい。」
あさぎがリビングに入ってまず見たのは、頭に大きな水玉模様のリボンを結んだ虎子だ。彼女は普段からボーイッシュなファッションを好むため、女の子らしい格好やアクセサリーを身につけている姿を見られる事はまずない。リボンをつけた虎子を見ると、美形はどんなファッションでも似合う、と実感する。
「ん、何が…。」
遅れてのっそりとリビングに入ってきた茂は虎子を見て硬直した。彼は彼女を凝視したまま口をぽかんと開けている。
「シゲ?どうしたの?」
茂の様子を見て、あさぎが
どっくん、とポンプの詰りが取れ、勢いよく水の流れだすような音が聞こえた。
「お?なんのおとだ?」
よつばが音の出所を探してきょろきょろと室内を見回す。まさか今の音が茂の心音だとは思うまい。すぐ隣に立っていたあさぎは茂が音源であると気づいたようだ。しかし、その音があまりにも大きく、何の音であったかのかは理解していない。
「ちょっとシゲ…。」
とあさぎが茂の腕を叩いたのと同時に、彼は鼻から勢いよく血液を噴き出した。
「ぎゃー!」
「何してんの!?」
「おいおい…。」
よつばは叫びながらトイカメラで写真を撮り、あさぎは洗面所へタオルを取りに行き、虎子はリビングに置いてあったティッシュを取って茂の鼻や服に当てた。
「ちょっと屈んでくれ。」
未だ呆然自失状態の茂は唯々諾々と虎子に従い、腰を
「うわっ!」
「ぎゃー!」
最早地獄絵図である。何枚もティッシュを取り、茂の鼻に当てた。彼女の手は彼の鼻血で真っ赤に染まってしまっている。
「鼻すするなよ。血は止まるまで流しっぱなしにしとけ。」
「お、おう。」
ようやく意識を取り戻したのか、茂は虎子からティッシュを受け取った。その時に彼女の手に触れ、また鼻血の量が増える。
「ちょっと、虎子さん。離れていただいてもよろしいですか?」
「は?」
言いながら茂は虎子から離れるように
「虎子の事見過ぎ。」
あさぎにタオルで頭をはたかれると、茂はようやく虎子から目を離した。
「掃除するから、洗面所に行きなさい。」
「はい。」
茂は素直に応じると、リビングを出て行った。後に残されたのはカーペットに残された大量の血痕である。事情を知らない人が見たら殺人現場だと勘違いするほどの出血量である。
「…救急車呼ばなくても大丈夫か?」
「おみまいいかなきゃか?」
虎子が心配そうに言い、よつばはおろおろしている。さすがのよつばもこの惨状に動揺しているようだ。
「大丈夫でしょ。普通に歩いてたし。」
「そうか。そうだな。でもなんで急に鼻血なんか。あいつから血が出るとこなんて初めて見たぞ。」
「私もよ。…それにしてもすごい量ね。体がでかいからかしら。」
虎子があさぎから雑巾を受け取り、二人でカーペットについた血を拭き始めた。
「よつばもてつだう!」
「よつばちゃんは…そうねぇ。血塗れになると小岩井さんが心配しちゃうだろうし。あ、シゲの様子見てあげてよ。」
「わかった!」
よつばは敬礼すると、元気よく出て行った。
「しかし、どうしたんだ?あいつ、体調悪かったりしたのか?」
「いや、そんな事ないと思うな。って言うか、なんとなく原因は分かるんだけど、リアクションが常軌を逸してて確信持てない。」
「原因って何?」
虎子が顔を上げた拍子に揺れるリボンを見て、あさぎはニヤリと笑った。
「だいじょうぶか?ち、いっぱいでたな。」
「あぁ、大丈夫。ありがとう、よつばちゃん。」
よつばは洗面台の下に置いてある踏み台に乗り、茂の背中を優しく撫で続けている。この踏み台は昔、恵那が使っていたものを引っ張り出した物だ。しょっちゅう綾瀬家に遊びに来るよつばには必須であった。背中を撫でているのは、自分の体調が悪い時に小岩井にやってもらっているのを真似たものだろうか。
「あー、鼻血なんて生まれて初めてだ。」
「チョコたべすぎたのか?」
「いや、チョコは食べてないな。」
虎子が視界からいなくなるのと同時に茂の鼻血は止まった。洗面所では濡らしたタオルで体についた血を
「そっかー。よつばな、チョコいっぱいたべたいんだけど、とーちゃんがはなぢでるからだめだって。」
「辛いけど、我慢しなきゃな。」
「そうだなー。せちがらいよのなかだ。」
最早、よつばはなぜ自分がここにいるのか憶えていないのだろう。
「は?シゲが私に惚れたかもって?あり得ないだろ。」
あさぎから鼻血の原因の予想を聞かされて、虎子は戸惑っていた。普段、冷静な虎子にしては珍しく動揺しているのか、鼻血噴出事件から今までリボンを外す事も忘れている。
「そう?私は十分あり得ると思うけどな。鼻血出したのだって虎子を見てからだし、私が指摘するまでずっと虎子の事見てたんでしょ?それに、ちょっと離れてくれって言ってたじゃない。」
「それにしても、今までずっと一緒にいて突然鼻血吹き出すほど惚れるって事あるか?不自然にも程があるだろ。」
言いながら虎子は手に着いた血をタオルで拭う。血は固まり始めていて、綺麗には取れない。
「それが今日の虎子はいつもと違うんだな。」
そう言ってあさぎは虎子の頭を指さした。それでようやくリボンを巻いたままなのに気づいた彼女は、慌ててリボンを外す。あまり見られない虎子の様子に、あさぎはくすくすと笑って話を続けた。
「今まで普通に接してた異性の友達に恋心を抱く、なんて恋愛のパターンだからよく見るよね。でも、あんな反応する奴初めて見た。」
「だろ。だから今回のは勘違いじゃないか?」
虎子はどうしても認めたくないのか、
「だからさ、ちょっと実験しよう。」
「実験?」
「そ。まず虎子が洗面所に手を洗いに行く。その時にシゲが虎子と会ってどんな反応するか見てみるの。それだけ。」
こちらから会いに行かなければ、茂はこのままリビングを素通りして逃亡してしまう恐れがある。あさぎの提案を聞いて、虎子は深くため息をついた。
「わかった。行ってくるよ。多分、何もないと思うけど。」
「はい、行ってらっしゃい。」
あさぎは笑顔で虎子を見送った。
茂は血塗れの革ジャンを脱ぎ、洗面台に張った水につけてタオルでごしごしと
「なかなか落ちないな。っていうか、洗い方これでいいのか?」
「めせんくださーい!」
こんこん、と開いたままの洗面所のドアをノックする音がした。茂が振り返ると、そこに立っているのは片手に汚れた雑巾を持ち、実に不機嫌そうな顔をした虎子だ。
「おう、虎子。さっきはすまんな。手、洗いに来たのか?」
表情が引きつっており、その台詞はややぶつ切りではあるが、普段の茂の言動の範疇と言えるだろう。彼の反応を見てほっとしたのか、虎子は表情を緩めた。
「なんだ、普通じゃないか。やっぱりあさぎの勘違い…。」
と、
「ぎゃー!」
写真を撮るために離れていたよつばは無事だったが、綾瀬家に新たな事件現場が誕生した。
「お前ふざけんな!」
虎子は持っていた雑巾を茂の顔面に投げつけた。
「ただいまー!」
「おかえりー。迷惑かけなかったか?」
「うん!おてつだいしてきた!とーちゃん、しゃしん!」
「あぁ、また撮って来たのか。…何だコレ?茂くん?大丈夫か?」
「あーそれなー。…とーちゃん、よつばチョコたべたい。」
「え!?なんでこのタイミングで!?」