その少女と出会ったのは、土曜の昼前であった。
板張りの道場には平日とは違い、多くの社会人道場生が稽古に励んでいる。道場生たちは気合の入った掛け声をかけ、乱取りを行っていた。それ故だろう、少女に気づいたのが彼だけだったのは。何も彼が稽古に集中していなかったから気づいたのではない。彼は道場主の一人息子として稽古を監督する立場にあったのだ。故に彼は道場の端から端まで目を光らせており、そんな中、目立つ緑髪の少女を見つけたのだ。
少女は壁下の窓から道場内を覗いており、掛け声や竹刀のぶつかりあう音にいちいち目を丸くして驚いていた。彼が父に少女の存在を伝えると、父は彼に少女を連れてくるよう命じた。
父は剣道の師範をしていながら、侍魂など鼻くそ程度に考えており、金が大好きなのであった。隙あらば門下生を増やし、月謝を取り立てる機会をうかがっている。嫌いな言葉は「武士は食わねど高楊枝」である。
つまり、少女が剣道に興味を持てば親を説得し、少女だけでなく家族や友達も入門させればより月末が楽しみになるのだ。
父への反発心などとうの昔になくしてしまった彼は剣道着に胴防具をつけただけの姿で少女のもとへ赴いた。
「こんにちは。」
「…こ、こんにちは。」
少女は見慣れぬ衣装に戸惑っているようだが、挨拶を返した。
「剣道、興味あるの?」
「けんどー?」
「そう、剣道。中でやってるやつ。」
「はー、なるほどなー。」
何か納得したのか、少女はうんうんと頷いている。
「さむらいだな?」
「ん、あーまぁ、そうだな。侍だ。」
「おっちゃんはつよいのか?」
「おっちゃん…。大学生で一番強いよ。」
「いちばんか!くじらよりもつよいのか!?」
「多分、陸上なら勝てる。」
「すげーな!」
最初の警戒心はどこへ行ったのか、少女は彼に満面の笑顔を見せている。
その時、彼は父の睨みつけるような視線に気づいた。恐らく、さっさと少女を連れて来いという意思を込めているのだろう。ナンパ師か犯罪者の思考である。
「…中で見学していく?」
「いいのか!?」
「もちろん。あ、そういえば君の名前は?」
「よつばはよつばだ!こいわいよつば!」
「よつばちゃんか。俺は伊藤茂。よろしく。」
茂は満開の向日葵を連想させる笑顔のよつばを連れて道場内に入っていった。
人相の悪い父が睨むように見つめる中、茂とよつばは唯一畳の敷いてある上座へ向かった。茂は父の隣に正座すると、よつばに座布団を進めた。道場内の熱気に委縮したのか、よつばはそろそろと座布団の上に正座する。掛け声が聞こえるたびにそちらの方を向き、目を丸くして驚いている。
「なー、なんでみんなさけんでるんだ?」
よつばは父ではなく、茂に訊いた。
「あれはな、相手に負けないって気持ちを声に出してるんだ。」
ちなみによつばが来てからこちら、父は一言も発していない。金に汚い男には珍しく人見知りをするタイプなのだ。よって、見学者や入門したての者の相手をするのは専ら茂の仕事である。茂は父のその性格を面倒に思っていたが、小学校にも入学していないような幼児が相手でもこの状態であると、哀れにも思えてくる。
「そうだな。きもちはだいじだな。」
「乱取りやめぇい!整列!」
突然父が声を張り上げた。その指示に応え、道場生たちは道場の両側に正座して並び、面をはずす。片側十人ずつで、合計二十名の男女だ。全員が高校生以上で、小学生中学生の子供たちは平日の放課後に来ている。そのため、道場内にいる唯一の子供はよつばだけなのだが、道場生たちに疑問に思う様子はない。近所の子供たちが伊藤親子の毒牙にかかる事はよくあるのだろう。それでも、緑色の髪の外国人の子供を珍しそうに見ているが。
「模擬試合を始める。茂、準備しろ。」
「はい。」
茂は返事をすると、慣れた様子で手拭いを巻き、試合の準備を始めた。
ちなみに本日の練習メニューに模擬試合は入っていない。見学者のよつばがいるので、剣道の格好良いところを見せようと父の一存で決まったことだ。これもよくある事である。
「おっちゃんがたかたうのか?」
「そう、俺がたたかうんだよ。応援してくれ。」
「わかった!」
楽しそうに返事をしてよつばは笑った。驚いたり笑ったり、表情のよく変わる子だ。悩み通しだった自身の少年時代に対し、今この瞬間を全力で楽しんでいるよつばを羨ましく思うが、思考とは裏腹に口角は上がってしまう。
不思議な子供だ。
茂は防具を身に着け終えると左手に竹刀を持ち、道場の真中へ進んでいった。
茂はそれから二十連戦し、全勝した。厳しい鍛錬の結果と若さを兼ね備えた茂から一本とれる実力のある者は全国でも両手で数えられる程しかいない。見学者であるよつばを楽しませるために様々な技と型を見せ、最終的には二刀流まで使ってみせた。完全に稽古をうっちゃっているが、道場生たちも普段ならば見られない技を体感できるとあって、楽しみにしているものだ。
よつばは食い入るように茂の試合を見つめ、応援した。よつばが「そこだ!」「今だ!」と叫んだタイミングで一本取ってみせるなどした、茂の腕のおかげだろう。そう、普段地味で無口、更に不器用キャラな茂は、剣道という限られたフィールドでは何者にも勝るエンターテイナーになれるのだ。
そして伊藤親子の狙い通り、よつばは「よつばもやりたい!」と騒ぎ出した。
午前中の練習の締めとして、父の号令に合わせて道場生たちは素振りを始めた。常ならば茂が一人一人の型を見て回るのだが、今回はよつばの相手をするため、別の古株の道場生が指導して回っている。
道場の端で防具をつけてもらったよつばはどこか誇らしげにしていた。剣道着はないため、用具室から持ってきた子供用の防具を身に着けている。それでも小さなよつばには少し大きめだった。
「とりあえず俺の真似して。」
竹刀を納刀の状態で持ち、神棚に向かって立つ。
「神前に礼!」
茂は号令をかけ、神棚に礼をした。よつばは顔を茂の方に向けたまま真似をして頭を下げる。頭を上げた茂はよつばの方を向く。それを見たよつばは茂に背を向けた。
「逆、逆。こっち向いて。」
「おー。」
素直に振り返るよつば。茂は吹き出しそうなのを堪えながらも次の礼に移る。
「互いに礼!」
向かい合って互いに頭を下げる。そして竹刀を抜いて
「あははー、かえるみたいだな!」
「そうそう、蛙のポーズな。では、始め!」
茂が立ち上がるのに合わせてよつばも立ち上がり、「ぎゃー!」と掛け声をかけた。初めての剣道で立派に声を出したよつばに茂は感心した。年齢問わず、恥ずかしがって声を出さない者がほとんどなのだ。
茂も掛け声を返すと、よつばは肩に担ぐように竹刀を振りかぶり、全速力で向かって来た。どこからでも掛かって来い、と茂は正眼に竹刀を構えた。初心者を相手にする時は受けに徹する。これは父が決めた本道場でのマナーだ。
胸元までしか届かない上段からの一振りを、茂は竹刀で受けた。よつばは闘志を剥き出しにして何度も竹刀を振り下ろしてくるが、茂は受け、かわし、一本たりともその体に届かせない。
「ちょあーっ!」
焦らされたよつばは奇策に打って出た。その身体能力を生かして高く飛び上がり、振り上げた竹刀を今まで届かなかった茂の面に思いっきり振り下ろしたのだ。だが、それは茂にとって大した手段ではない。重力を味方に付けたその上段切りは一見、高威力に見えるが、地に足のついていないそれに、茂の竹刀を弾くほどの重さはない。茂は竹刀を横向きにして受けの姿勢になった。
だが、茂の予想に反して竹刀に衝撃を受けなかった。そう、よつばは空振りしたのだ。茂はその超人的な動体視力によって、よつばが姿勢を崩しているのを確認した。このままでは顔から床に落ちてしまうかもしれない。咄嗟によつばを受け止めようと茂は前に出たが、それがいけなかった。竹刀はまだ振り下ろされている途中であり、その切っ先が茂の右足の中指に突き刺さる。常人ならば悶絶もののダメージだが、茂の十五年に渡る鍛錬の結果であるその精神力と、頑強な肉体によって動きを止めるだけに留めた。
「はーっ!」
よつばの行動は更に茂の予想を裏切った。彼女は猫のようにしなやかに着地すると、低い姿勢のまま竹刀を振り上げたのだ。通常の剣道ではあり得ない切り上げである。よつばの振るった竹刀は茂の前垂れを跳ね上げ、そのまま彼の急所に直撃した。
「だっはいあ!」
悶絶して股間を抑え、倒れこんだ茂。彼の十五年に渡る鍛錬にも鍛えられない部位はあったようだ。
「かったーっ!」
竹刀を高々とかざし、よつばは勝利宣言を行った。道場生たちは学生チャンピオンである茂が倒れている姿を目撃して驚愕してしまい、素振りをやめてしまっている。茂が見学者に一本取らせる事は恒例だが、悶絶して倒れている姿を見せる事はない。というか、素人でも滅多にない。父はにやにやと笑みを浮かべていた。一部始終を見ていたようだ。
「よつばのほうがつよいな!さいきょーだな!」
「…お前が…さいきょーだ。」
床に倒れ伏したままの茂は久々の敗北を味わった。
「ただいまー!」
「おかえりー。もう昼飯の時間か。」
「とーちゃん!よつばはついにさいきょーになったぞ!」
「んー、そうかそうか。すごいな。…ってクサ!お前部室みたいな臭いするぞ!」
「くさいか!?…くさいな!」
「飯の前に風呂入れ!風呂!全く、何して来たんだ。一体。」
「よつばな!もうくじらにもかてるぞ!」
「嘘だー。鯨はさすがに無理だろー。」
「かてるの!よつばはさいきょーのさむらいなんだぞ!」