紅の剣士と水の巫女   作:ドラ麦茶

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5・悪人

「本当にお世話になりました、シスター。この恩は、決して忘れませんぜ」

 

 教会の扉の前に立つエンテに、ヤーザムは深々と頭を下げた。エンテはそれに微笑み返す。「いえ、私は何もしていません。みんな、ジュリアさんのおかげですから」

 

「もちろん、あの方にも感謝しています。しかし、やはりシスターの看病があってからこそ」

 

 そう言って、ヤーザムは先刻から何度も何度も頭を下げている。一見するとほほえましい光景だ。しかし、それを見つめるジュリアの胸中は複雑だった。

 

 このままあの男――ヤーザムを山へ帰して、本当に良いのだろうか?

 

 何度も自問する。あの男は山に帰り、山賊団を解散させると言っている。しかし、いかに首領の命令とは言え、あの荒くれ者の集団がすぐに真面目に働くだろうか? 疑問だった。それ以前に、あの男が本当に改心したかどうかも怪しいのだ。現に、今エンテに礼を言った時も、口元の不快な笑みは消えていなかった。あの男は何か企んでいる。このまま山に帰してはいけない。しかし、だからと言ってこの村に留めておくこともできないであろう。エンテも村人も、ヤーザムが改心したと信じている。そうだとすれば、この先山賊に脅えて暮らすこともなくなるのだ。ジュリアとしても、そうなる方が良いに決まっている。改心したと信じたい。信じたいが……やはり疑ってしまう。

 

「じゃあ、私が途中までおくります。」

 

 ふいに耳に入ってきたエンテの言葉で、ジュリアは我に返った。思わず耳を疑う。彼女は今、「途中までおくる」と言ったのだろうか? それは別に不思議なことではない。むしろ彼女ならば当然の事であろう。彼女にしてみれば特別問題のあることではない。しかしそれは、ヤーザムが本当に改心していればの話だ。もし改心していなかったとすれば……。あまりにも危険だ、とジュリアは思った。しかし、ヤーザムのことを信じているエンテを引き止めることなどできない。だからジュリアは、

 

「じゃあ、あたしも行きます」

 

と言うしかなかった。

 

 3人はすぐに村を発ち、トーラス山へ向かった。

 

 先頭を歩くのはヤーザム。彼は、当然の事ながらトーラス山の道に詳しかった。彼について歩けば、少なくとも道に迷うことはないだろう。ヤーザムの後を少し離れてエンテが続く。エンテは意外にも旅慣れており、多少険しい道でも苦にした風もなく、時折ヤーザムやジュリアに話し掛けながら、笑顔で歩いていた。

 

 最後尾を歩くジュリアは、2人の後ろ姿を見ながら、これからどうするべきか考えていた。エンテは、どこまでヤーザムを送るつもりだろう。まさか、山賊の隠れ家までいくつもりではないだろうか? そう考え、ジュリアは少し焦った。あまりにも危険だ。それだけは避けなければならない。適当なところで、2人で引き返さねば。

 

 だが、遅かった。

 

 山の中腹辺りまで登っただろうか。道はかなり険しくなっている。道端に生えている草木の背丈も高く、人が十分身を隠せる程になっていた。嫌な予感がする、と、ジュリアは思った。そして、その予感はすぐに的中した。

 

 茂みの中から3人の男が現れた。3人とも背が高く、屈強な身体付きだ。薄汚れた服に身を包み、剣や斧と言った武器を手に持ち、あるいは腰に下げている。ヤーザムと同じような格好だ。一目で山賊だと判る。ジュリアは、失意の表情で3人の山賊の姿を見つめる。

 

 ――間に合わなかったか。

 

 己の考えの浅はかさを呪わずにはいられない。もう少し早く、エンテと共に村に引き返すべきだった。いやそれ以前に、最初からエンテを引き止めておくべきだったのだ。後悔の念に駆られるが、今更そんなことを考えても遅い。

 

 これからどうすべきか。考えた。戦って勝てるとは思えなかった。相手は3人。しかも、今のジュリアは武器を持っていない。仮に持っていたとしても、1ヶ月前の事を考えると、到底戦えるとは思えなかった。ならば、逃げるしかない。幸い、まだ囲まれていない。逃げ出すのは容易だ。ジュリアは、油断なく辺りを見回した。

 

「お頭(かしら)じゃないですか」真ん中の山賊が言った。ヤーザムの顔を見て、驚いたようだ。

 

「しばらく姿を見なくて、アジトの方じゃ大騒ぎですぜ」右の男が続く。

 

「心配かけたな」ヤーザムが笑う。「ちょっと病気になっちまってな。養生してたんだ」

 

「病気? お頭らしくもねぇ」左の男が笑った。つられて、残りの2人も笑う。ヤーザムも、同じように笑っていた。

 

「で、そっちの美人は何です?」右の男が、下品な笑みを浮かべ、寒気がする目でエンテを見た。

 

「ああ。俺を看病してくれたシスター・エンテだ」ヤーザムも、同じ目でエンテを見た。「いい女だろう? 今日から俺の女にするぜ」そして、口元にあの不快な笑みを浮かべた。

 

 ジュリアは確信した。やはり、この男は改心などしていない。

 

 エンテの顔から、笑顔が消えていた。ヤーザムの今の言葉を聞いて、何かがおかしい、と、気がついたのだろう。

 

「シスター。逃げましょう」ジュリアが、エンテの耳元でささやいた。

 

「でも……」

 

「もう気がついたでしょう。あの男は、心を入れ替えてなんか、いないのです」

 

「…………」

 

 エンテは、信じられないという表情で、ヤーザムを見ていた。

 

 その視線に、ヤーザムが気づいた。「どうしたんだシスター? 何か不満か?」

 

「ヤーザムさん……あなた、もう悪いことはしないって……心を入れ替えるって、言ったじゃないですか……」か細い、訴えかけるような声。

 

「ああ、言ったな。ああでも言っておかねぇと、村の連中にどんな目に合わされるか判らなかったからな」ヤーザムは悪びれた風もなく、笑いながら答えた。

 

「――――」

 

 エンテは言葉を失う。失望が、顔に現れていた。彼女は、ずっと信じていたのだろう。ヤーザムが改心したことを。山賊団を解散させてくれることを。心の底から信じ、全く疑っていなかったのだ。裏切られた彼女の気持ちは、想像もできない。ジュリアはそんな彼女の悲しげな顔を見、心を痛めた。同時に、彼女を裏切った山賊に対し怒りを覚えたが、それを解放する勇気はなかった。今は、一刻も早く逃げなければ。

 

 己を失っているエンテの手を取り、振り返って走り出そうとした。しかし――。

 

「おっと、そうはいかねぇ」振り返った目の前で声がした。ジュリアは驚いて足を止める。先程まで彼女の目の前にいた山賊の1人――一番左の男が、そこに立っていたのだ。いつの間に回り込まれたのだろう? 全く、気がつかなかった。

 

「こんな上玉、逃がすわけにはいかねぇ」山賊は、値踏みでもするかのように、ジュリアを見る。舐めまわすようなその視線に、悪寒が走った。まるで、獲物を見つけた飢えた獣のような目だ。

 

「そこをどきなさい!」

 

 叫び、身構えるジュリア。身構えるとは言っても、武器を持っていないので、単に体勢を低くしただけだった。それを見た山賊は、笑うだけだった。

 

「そう怒るなよ、ねえちゃん。おとなしくしていれば、いい思いさせてやるからよ」と、どこかで聞いた言葉。どこで聞いたのか、すぐに思い出す。1ヶ月前の、山賊に襲われた時だ。おぞましい事に、あの時の山賊と同じ事を口にしたのだ。汚らわしい。そんなことしか考えられないのだろうか?

 

「さあ、来な」男が、ジュリアの腕をつかもうとする。

 

「触らないで!」ジュリアは手を振り払い、駆け出そうとした。その瞬間に襟を捕まれる。

 

「放せ!」

 

 叫びながら、何とか逃れようと見をよじる。しかし、無駄だった。山賊の腕は太く、力でジュリアが勝てるはずはなかった。力任せに引き寄せられる。ちょうど、羽交い締めのような格好になった。

 

「へへ、シスターもこっちにに来な」ヤーザムの汚い手が、エンテの細く白い腕を掴む。

 

「やめろ!シスターに手を――」出すな!と言いかけて、ジュリアは言葉を失う。山賊の剣が、ジュリアの無防備な腹に突き刺さったのだ。息がつまり、激しく咳き込む。

 

「ジュリアさん!」叫ぶエンテ。と、エンテは一瞬の隙をつき、ヤーザムの手を振りほどいた。不意をつかれて茫然とするヤーザム。エンテはその華奢な身体にあるすべての力を使い、ジュリアを捕まえている山賊に体当りをした。山賊は体勢を崩し、ジュリアと共に地面に倒れる。勢いで腰に下げていた剣が外れ、ジュリアの目の前に転がった。山賊はそれに気づかない。

 

「この女!」すぐに起き上がり、エンテにつかみかかる。怒りに任せ、拳を降り上げた。

 

「やめろ! それは俺の女だぞ!」ヤーザムの怒声が辺りに響き渡った。山賊は一瞬、体を強ばらせる。そして、すまなさそうな顔でヤーザムを見、拳を降ろした。

 

 その時、ジュリアが目の前に転がる剣を手に取った。立ち上がりながら、鞘から引き抜く。

 

「シスターを放しなさい!」切っ先を山賊に向け、力の限り叫んだ。

 

 それを見たヤーザム。目つきが変わった。ぎらぎらした光が宿っている。

 

「上等だ。そんな物をこの俺に向けて、生きて帰れると思うなよ」恐い声で言った。そして、手下の山賊が下げている剣を引き抜く。

 

 対峙するふたり。

 

 と――。

 

 ジュリアの心の中に、あの時の記憶が蘇る。

 

 山賊に負けたあの日 。

 

 思い出すべきではなかった。大きく首を振る。そうすることで、忌まわしい記憶を頭の中から追い払うかのように。しかし、一度頭に浮かんだものは、そう簡単に捨てられない。捨てられるはずがない。

 

 ヤーザムが近づいてくる。その姿が、あの時の男と重なった。ゴメス――名前まで思い出してしまった。同時に蘇る恐怖。

 

 ――あたしの剣は、通用しない。

 

 そう考えてしまった。どんなに素早く剣を繰り出しても、どこを狙っても、簡単に受けとめられる。決して相手を傷つけることのない剣。思い出してしまった。自分の弱さ、不甲斐なさ、そして、死の恐怖を。

 

 ヤーザムが、さらに近づいてくる。

 

 どうしよう……。心の中に、迷いが生じる。このまま戦って、勝てるだろうか? 無理だろう、と思った。相手は、あたしと戦うことに、あたしを殺すことに、何のためらいも持たないだろう。それに対して、あたしは戦うことに恐怖を感じている。人を斬ることが――命を奪うことが恐い。自分の剣が、相手の運命を大きく変えてしまうことが、恐い。そしてもちろん 自分自身が死ぬことが恐かった。

 

 ヤーザムが、さらに近づいてくる。

 

 決断を迫られる。戦うか、逃げるか。逃げれば、助かるかもしれない。前は逃げることで助かった。しかし、今は逃げるわけにはいかない。エンテが捕まっているから。彼女をおいて逃げるなんてできない。彼女は命の恩人なのだ。いや、たとえ赤の他人であったとしても、放って逃げることなど、できるはずがない。だからと言って、戦うことへの恐怖が消えることはない。

 

 どうしよう……。

 

 どうしよう……。

 

 迷っている間も、ヤーザムは近づいてくる。逃げられない。戦うしかない。しかし、戦うことは、死ぬこと。死が近づいてくる。沸き上がる恐怖を、抑えることができなくなった。剣を持つ手が震えている。いや、手だけではない。全身が震えていた。それは、死を恐れている証。だめだ。自分の弱さを相手に知られるだけだ。震えるな。自分に言い聞かす。しかし、それは自分の意志で操れるようなものではない。震えは止まらない。むしろ、大きくなっていく。死にたくない 身体が、そう言っている。

 

 それを、山賊に悟られた。

 

「どうした、ねえちゃん? 震えてるぞ」

 

「あんまり強がらないほうがいいぜ」

 

「女はおしとやかなのが一番だ」

 

 口々に言い、笑った。その笑い声が、癇に触る。恥ずかしかった。自分の弱さを自分から見せてしまっていることが、情けなかった。視線を大地に落とし、屈辱に耐える。その間も、震えは止まらない。

 

 そんなジュリアの哀れな姿を見かねたエンテが、叫ぶ。

 

「ジュリアさん! 逃げてください!」

 

 はっと顔をあげるジュリア。一瞬、何を言われたのか判らなかった。じっと、エンテの顔を見る。

 

「私のことは構いません!ジュリアさんだけでも逃げてください!」

 

 今度は、はっきりと聞こえた。彼女は、あたしに逃げろと言っている。あたしが震えているのを見て、あたしが戦うことを恐がっていると知って、逃げろと言っているのだ。

 

 しかし――しかし、だからと言って本当に逃げるなんてできなかった。逃げることはすなわち、エンテを見捨てる事。それはだめだ。それはできない。しかし――しかし、震えは止まらない。戦うことが恐い。今の自分に戦うことなどできない。エンテを救わなければならないという思いと、戦うことへの恐怖。ふたつの思いが、心の中で交錯する。

 

「どうするんだ、ねえちゃん?」ヤーザムが楽しそうに笑った。「シスターを見捨てて逃げるか、俺と戦って死ぬか、どちらかだな」

 

 剣がジュリアに向けられた。死を予感するジュリア。どうすることもできない。剣を構えることもできず、ただ、ヤーザムを見つめる。震えは止まらない。

 

 ――と。

 

 視線の向こうで、エンテが走るのが見えた。

 

 次の瞬間、ヤーザムが地面に倒れる。

 

 エンテが、ヤーザムに体当りしたのだ。

 

「早く逃げて!」

 

 叫ぶエンテ。

 

 結果、ジュリアは……。

 

 自分でも気づかぬうちに、駆け出していた。

 

 山賊達に、そして、エンテにも背を向けて。

 

 剣はすぐに捨てた。そんな物持っていたところで、邪魔になるだけだと判っていたから。ただ走る。逃げる。

 

 山賊達は追ってこなかった。手下達は追おうとしたが、ヤーザムが止めたのだ。この女さえいればいい、と。

 

 そのことに気がついても 山賊が追ってこないことに気がついても、ジュリアは走るのをやめなかった。走り続けた。すぐに息が乱れた。心臓が激しく脈打つ。肺が新鮮な空気を求める。しかし、それでも立ち止まらない。走り続ける。まるで、走る事で全てを忘れるかのように。エンテを見捨てたという現実から逃げている――あるいはそういうことなのかもしれない。

 

 走り続けるジュリア。だがそれも長くは続かない。世界の果てまで走り続けたいと思っても、身体がそれを許さない。足が重くなる。前に出そうとしても、彼女の足はそれを拒否する。何かにつまずいた。激しく大地に転がる。すぐに起き上がろうとしたが、できなかった。身体が動かない。もう、走ることはできなかった。

 

 ジュリアはしばらく、土の大地を見つめていた。やがてそれが、涙で歪む。

 

 気がついてしまったのだ。自分のしたことに。

 

 エンテを見捨て、自分だけ逃げた。

 

 今更ながら、そのことを後悔する。

 

「あたしは……あたしは……」

 

 流れ出す涙は、もう止められなかった。

 

 死を恐れる自分。

 

 戦うことができない自分。

 

 情けない 自分は、なんて情けない人間なんだろう。エンテは、あたしの命の恩人だというのに……そんな人を見捨てて、自分だけ逃げるなんて!

 

 ジュリアは、拳を地面に叩きつけた。何度も、何度も。狂ったように殴りつける。皮膚が裂け、肉が斬れ血が流れ出す。それでもジュリアは、拳を叩きつける。やがて大地に、血と、涙の染みが広がっていく。

 

 ジュリアの泣き叫ぶ声が、澄み切った青空に響き渡った。

 

 

 

 


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