ジュリアがエンテに助けられて1ヶ月ほど経ったある日 。
「こんにちはぁ」
教会内に響く子供の声。ユベルだった。彼は毎日同じ時間に、教会に祈りを捧げに来る。しかし教会にエンテの姿は無く、ジュリアと、ユベルと同じように教会に祈りを捧げにきた村人が数人いるだけだった。
ユベルがジュリアに駆け寄った。「ねえ、エンテさまは?」
「今、ちょっと出かけてるの。でもすぐに帰ってくるわ」
聞いてユベルは少しがっかりしたような顔になったが、すぐに笑い、マルス神像の前に行き、祈りを捧げた。その光景をみて、ジュリアも微笑む。
ジュリアの怪我はもうほとんど治り、今では教会の仕事を手伝うようになっていた。もちろんエンテが望んだことではなく、世話になっているお礼にジュリアが自分から始めたことだった。とは言え、これまで神とか信仰とかいうものとは無縁だったため、掃除や洗濯、留守番といった雑用を手伝うくらいしかできなかったのだが。
と、その時、教会の扉が勢いよく開いた。中にいた人の視線が、一斉に向けられる。入ってきたのはエンテだった。ひとりではなかった。彼女の肩に髭ずらの男が捕まっていた。赤い顔をし、体中から汗が吹き出していた。時折苦しそうなうめき声をあげている。一目見て、高熱にうなされているとわかった。
「ジュリアさん、タオルと水を!早く!」
シスターが叫んだ。普段の温厚な彼女からは想像もできないような声だった。それだけ、男の容体は緊急を要するのであろう。ジュリアは慌てて、教会の奥からタオルと水を汲んで戻って来る。エンテは男をベッドに寝かせ、水で濡らしたタオルを額に置いた。ジュリアはその男の顔を見て驚いた。顔から手足に至るまで、赤黒い小さな斑点が現れている。
死班病だ!
この病にかかった者は、身体中に赤黒い斑点ができ、3日ほど高熱におかされたあげく、ほぼ確実に死ぬと言われている、恐ろしい病気だった。
しかし、ジュリアが驚いた理由は、それだけではなかった。男は薄汚れた革鎧を身に付け、腰には立派な長剣を下げていた。身体は鍛えぬかれた筋肉質。顔は初めて見るが、そこに染み着いた雰囲気は、到底善人のものとは思えなかった。
「なあ、そいつ、山賊じゃないのか?」
エンテの周りに集まった村人のひとりが言った。
山賊――その言葉を聞いて、教会の中がざわめく。
山賊とはもちろん、悪名高いトーラス山賊のことである。この小さな村も、数多くの山賊被害にあっていた。直接村が襲撃されることこそまだなかったが、村からよその街に向かう者や、逆に街からこの村に来る者が、何人も襲われていた。金目の物を奪われるくらいならばまだ良いほうで、妻や娘を連れ去られたり、命を奪われた人も多い。村人は、誰しも山賊に恨みを抱いていた。だから、エンテの行動を疑った。彼女は、山賊を看病しているのだ。放っておけば自然に死ぬ病におかされたこの男を、助けようとしているのだ! 信じられなかった。多くの人間の命を奪った山賊を、なぜ助けなければならないのだろう。理解できない
「エンテ様、そんな奴を助ける必要なんてないですよ!」我慢しきれなくなったひとりの男が言った。村人は、一斉にその男の方を見る。エンテの手も止まった。重苦しい沈黙。それを破ったのは、男の意見に賛同する、村人達の声だった。山賊なんて死んでしまえばいい。助ける必要はない。言い方は違えど、皆、同じようなことを口にする。黙ってはいるが、ジュリアでさえそう思っていた。彼女自身も山賊に襲われたのだから、そう思うのも無理はなかった。今、目の前にいる山賊は彼女を襲った男ではないが、同じ山賊であることには変わりない。助けることはない。そう思った。しかし――。
「やめてください!」
叫びに近い声が、教会内に響きわたる。ざわめきが、一瞬で収まった。言ったのはエンテだった。きつい目で、村人達を見る。その目には、怒りにも似た感情が宿っていた。村人達にはそれが信じられなかった。これまでシスターが何かに対して怒ることなど、一度もなかったのだから。教会内を再び静寂が満たす。誰も言葉を発しようとしない。音をたてるのが罪と思えるほど、重苦しい空気が流れた。
「みなさんの言いたいことは……わかります」沈黙を破ったのはエンテだった。「でも、この人は本当に危ないのです。こんなに苦しんでいるのに……こんなにつらそうなのに、放っておくなんて、私にはできません」先程の、怒りの感情は消えていた。今度は、悲しみを秘めた声。この山賊のために、泣いているようにも見えた。「私はこの人を助けたいのです。わかってください。」
再び沈黙、シスターからの心からの訴え。それを聞いて、それでもなお、「山賊など死んでしまえばいい」と言う者はいなかった。それでこそ、シスターだと思ったからだ。もし彼女が、山賊だから見捨てるような人であったなら、村人はこれほど彼女を慕いはしなかったであろう。
「しかし、そいつは死班病だ。助かるのかい?」
村人のひとりが、恐る恐る言った。エンテの看病の手が止まる。死班病のことは、当然エンテも知っていた。発病したら最期、決して治ることのない病 。
「死班病が不治の病だったのは、もう昔のことです」ジュリアが静かに口を開いた。皆が、一斉に彼女を見る。「数年前に、特効薬が開発されたんです。北の本土では、もうかなり出回ってます」
「それがあれば、この人は助かるのですね?」
エンテの目に希望が宿っていた。
「でも、本土に行って戻るには1ヶ月はかかるぞ。この男を連れていくにしても、2週間はかかる。とても間に合わない」村人のひとりが言った。彼の言う通りだった。エンテの目から再び希望が消えていく。
「いえ……あたし、その薬持っています」と、ジュリア。「旅に出る前に念のため買っておいたんです」そう言って部屋に戻り、自分の荷物の中から紙に包まれた小さな丸薬を取り出し、エンテに渡した。
「ああ ジュリアさん! ありがとうございます!」
エンテは喜びのあまり、思わずジュリアに抱きついた。突然のことに、ジュリアは戸惑う。ふと、エンテの顔を見た。その頬に、光る物が見えた。涙だった。彼女は、泣いていた。無論、悲しみの涙ではない。喜びの涙だ。この男が助かるのが、本当に嬉しいのであろう。ジュリアは、他人のことでここまで親身になれるエンテを、敬服せずはいられなかった。しかし同時に、自分は彼女から感謝される資格はない、とも思った。
――山賊なんて助けることはない。
さっきまで、自分はそう思っていたのだ。軽蔑せずにはいられない。
しかし、そんな彼女の思いとは裏腹に、エンテは、何度も何度も、「ありがとう」と呟いていた。
ジュリアの持っていた薬はたちどころに効果を現した。陽が暮れるころには熱は下がり、翌朝になると、山賊は意識を取り戻した。それを見たエンテは、本当に嬉しそうだった。
山賊はヤーザムと名乗った。驚いたことに、トーラス山賊を仕切る首領だと言う。それを聞き、人々は戸惑いを隠せなかった。とんでもない男を助けてしまったのではないだろうか? やはり、見殺しにした方が、村のためになったのではないか、と。ヤーザムは、そんな村人の不安を知ってか知らずか、ある日、エンテに言った。
「こんな俺の命を救ってくれて、なんとお礼を言っていいかわからない。もう悪いことはしない。これからは心を入れ替え、真面目に働きたいと思う。もちろん、山賊は解散させる。しかし、俺達は今まで数え切れないほどの悪事を働いた。それでも、許してもらえるだろうか?」
それを聞いたエンテは、ヤーザムの肩に手を置き、優しく言った。
「生まれながらの悪人はいません。己の犯した罪を過ちと認め、悔やみ、償いたいのであれば、人のために働いてください。そうすれば、神はいつかあなた方を許され、罪は洗い流されます」
それを聞いたヤーザムは、嬉しそうに笑った。村の人々も、これで山賊の脅威から解放されると、心の底から喜び、これもエンテ様のおかげだ、と、山賊を助けた彼女の慈悲深さを称えた。
しかし、ジュリアだけは、ヤーザムの言葉を疑わずにはいられなかった。もちろん、エンテのしたことは立派なことだと思うし、彼女の心に触れれば、多くの者は心を洗われるだろう。しかし、この男だけは例外だと思った。なぜなら、ジュリアにはヤーザムの表情が、心を入れ替えた人間のものには見えなかったからだ。常に、見る者を不快にさせる笑みを、口元に浮かべている。エンテに懺悔をしたときもそうだった。その笑みは、1ヶ月前にジュリアを襲った山賊ゴメス――ああ、忌まわしいことに、今でもその名を覚えている――のものと全く同じであった。
しかし、ジュリアはそのことをエンテに言ったりはしなかった。言っても、無闇に人を疑うのはよくない、とたしなめられるだけだろうし、ジュリア自身も、素直に人を信じられない自分のことを少なからず恥じていた。しかし――しかし、どうしても、あの男を信じることはできなかった。
やがて、病の完治したヤーザムが、山へ帰る日がやってきた。