紅の剣士と水の巫女   作:ドラ麦茶

3 / 8
3・女神

 小鳥の鳴き声がする。

 

 美しい響きだった。歌うような声。聞いているだけで心が満たされていく、そんな気がした。どこから聞こえてくるのだろう? そう思い、ジュリアは目を開けた。

 

 朝だった。小さな窓から差し込む陽の光が、彼女の身体を暖めている。窓の外を見ると、大きな樹が見えた。小鳥のさえずりは、そこから聞こえてくる。しばらく小鳥は歌っていたが、やがてそれにも飽きたのか、澄み切った青空へ飛んでいった。視線を窓から外す。そう言えば、ここはどこだろう? 辺りを見回した。どうやら、小さな部屋のベッドの上で眠っていたようだ。それ以上のことは判らない。まだはっきりしない頭で考える。だが、思考は空転するばかり。どうもまだ夢の中をさまよっているような気分だ。

 

「あ、目、覚めた?」

 

 部屋の入口の方で、子供の声がした。ジュリアは横になったままで声の方を見る。5、6歳くらいだろうか、小さな男の子が、水差しとコップを乗せたトレーを持って立っていた。ジュリアと目が合うと、にっこりと微笑んだ。

 

「エンテさま」男の子は廊下の方を見た。「おねえちゃん、目が覚めたみたいだよ」

 

 続いて入ってきた少女の姿を見て、ジュリアは、はっと息を飲んだ。

 

 美しい少女だった。歳は16、7くらいであろうか。まだ幼さが残るが、同じ女性のジュリアですら溜息を洩らすほどの、整った顔立ち。透き通るほどに白い肌。そして、清流の流れを思わせる、青く美しい髪 。

 

 少女はジュリアの顔を見、安堵の表情を浮かべる。「よかった……」小さく呟いた。美しい声だった。神話に登場する女神とは、おそらくこのような存在なのだろう。なんとなく、ジュリアはそう思った。じっと、その少女を見つめる。突き刺さるようなその視線に、少女は戸惑い、目を伏せた。それを見て、ようやくジュリアは我に返った。

 

「あ……ごめんなさい!」あわてて飛び起きる。その瞬間、右肩に鋭い痛みが走り、ジュリアは短く悲鳴を上げた。

 

「――大丈夫ですか?」少女が駆け寄る。「傷はそれほど深くないですが、まだ無理はしないでください」そう言って、再びジュリアをベッドの上に寝かせた。

 

「あの……ここは 」まだ自分の置かれている状況が理解できないジュリアは、少女に訊く。

 

「ここはトーラス村――トーラス山の麓の、小さな村です」

 

 トーラス山。それを聞いて、ジュリアはすべてを思い出す。「そうだ、あたしは川に落ちて――」

 

「すごかったんだよ!」男の子がジュリアのそばに駆け寄ってくる。「ものすごい川の流れだったのに、エンテさまが飛び込んで、おねえちゃんを助けたんだ!」

 

「ユベル――」余計なことは言わないの、というような目で、少女は男の子を見た。

 

「そうですか、あなたが――。なんとお礼を言っていいか」

 

 ジュリアはまた起き上がり、深々と頭を下げた。

 

「いえ、お礼なんて、そんな――」少女は困ったように言う。「すべてはマルス神のお導き。私は、マルス神の教えに従っただけですから」そう言って、祈るような仕草をした。

 

 マルス神――風と水を司る神だ。確か、ウエルト王国の西に、大きな神殿があると聞いている。その歴史は古く、ウエルト王国の建国前からこの地に存在したらしい。遠く離れたジュリアの故郷でも、その名を聞くことがあるほど、高名な神だった。

 

 ――そうか、彼女はマルス神殿の巫女なのか。

 

 ジュリアはそう思った。マルス神殿の巫女は、年に数回各地を巡り、立ち寄った街や村で、病気の者を看護したり、人々に神の教えを説いたりといった奉仕活動をしていると聞いたことがある。

 

「ねえ、おねえちゃんって、戦士なんでしょう?」先程エンテにユベルと呼ばれた少年が、興奮したような口調で言った。

 

「え……」ジュリアは思わず言葉に詰まる。少年は、目を輝かせてジュリアを見ている。汚れのない純粋な眼差しだった。しかし、ジュリアにはそれが眩しく感じられ、思わず目を逸らしてしまった。

 

「あの、あなたの持ち物ですが 」そう言って、エンテはベッドの下からジュリアの荷物を取り出した。身に付けていた鎧、旅の道具が入った小袋、そして――剣の刺さっていない鞘。

 

「辺りを探してみたのですが、剣は見つかりませんでした」鞘を差し出しながら、エンテが言った

 

「そう……ですか」力なく答える。

 

 見つかるはずがなかった。剣は川の中で落としたのではない。山の中で山賊に襲われた時、捨ててきたのだから。剣を捨てるなど、剣士にあるまじき行為だ。今更ながら、自分のしたことを恥じた。

 

「でもすごいよね! 女の人なのに、戦士なんてさ!」ユベルが身をのりだす。「ヴェルジェに行くんでしょ? 領主様が、山賊退治するっていってたもん。おねえちゃん、あんなやつら、みんなやっつけちゃってね!」そう言って、屈託のない笑顔。

 

 ――やめて!

 

 ジュリアは心の中で叫んだ。もう少しで本当に叫んでしまうところだった。山賊退治――。嫌な記憶が、頭の中を駆け巡る。思い出したくない。忘れたい。しかし、忘れられるはずはない。あたしは、あの山賊に負けた。勝てると思っていたのに。自分にはそれだけの力があると思っていたのに。負けた。何もできなかった。逃げ出すしかなかった。情けない――。

 

 そんなジュリアの気持ちを察したのか、エンテが言った。「ユベル、あまり騒いじゃ駄目よ」ジュリアの方を見る。「怪我が直るまで、ゆっくりしていってくださいね。えっと――」そこで言葉につまる。そう言えば、まだ名乗っていなかった。

 

「あ……ジュリア、です。北の大陸から、海を渡ってきました」

 

「私はエンテです。ジュリアさん、用があれば、何でも言ってください」

 

 そう言って、少女は微笑む。そして、まだ何か話をしたそうなユベルを連れ、部屋を出た。

 

 ひとりになった部屋で、ジュリアは、ベッドの横に立て掛けられた鞘を、じっと見つめた。主を失った鞘は、どこか物悲しく、ジュリアを見つめている。そんな気がした。剣を失った傭兵がこれからどうやって生きて行くのだろう。ふと考えた。答えはそう簡単に見つかるはずはなかった。

 

「いいさ……好きで傭兵になったわけじゃない……」

 

 そう思った。なるようになるしかない。

 

 やがてジュリアは、再び眠りの世界へと落ちていった。

 

 

 

 ジュリアの怪我は思ったよりも重かったが、エンテとユベルの手厚い看病によって、徐々によくなっていった。

 

 エンテとユベルは姉弟のように仲がよく、最初はジュリアも姉弟かと思っていたが、ふたりの話を聞いているうちに、そうでないと知った。ユベルはこの近くの家に住んでいる男の子で、エンテを慕ってよく彼女の手伝いをしているらしい。

 

 この家は、村によく立ち寄るエンテに対し、村人達が善意で建ててくれた、小さな教会だった。教会とは言っても、お世辞にも豪華とか壮麗とか言えないような小さな小屋の広間に、小さなマルス神の像が置かれているだけであった。それでも、この教会に祈りを捧げに来る人は多かった。それも、すべてシスター・エンテの人柄によるものだろう。見ず知らずのジュリアを助けるために、危険をおかして川に飛び込むほどなのだ。ジュリアと同じように命を助けられたり、世話になった人は多いことであろう。そして、そんな人々に対して、彼女は一切の見返りを求めず、言うのであった。

 

「私はただ、マルス神の教えに従っただけですから」

 

 立派な人だと、ジュリアを始め、村中の人たちが思っていた。自分は一切の見返りを求めず、人につくすのを当然と考える――聖職者の鑑であった。

 

 しかし、そんな彼女の人柄が、彼女自身と、村と、そしてジュリアに、思わぬ災いを招くことになる。

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。