7月の終わりごろ、俺は第3新東京市を遠く離れて某県の深い山の中、木で出来た小屋のような収監施設にやって来た。
ハイキングコースでもあれば峠の茶屋として繁盛するのだろうが、ここはそんな風情のある場所ではない。
周囲には有刺鉄線が十重二十重に張り巡らされ、唯一の山道には監視カメラと哨所が一定距離おきに設けられている。
道中の看板には『警告』と書かれたものが何枚もあって文面にはただならぬものを感じさせる。
『警告 これより先は日本国政府の所有地であり、許可なく立ち入った場合処罰されます』
山道で何度も停められて引率者共々武装した哨兵にチェックを受ける。
三回の身体検査を受けてようやくログハウスのような外観の建物に入った。
刑務所という感じではなく、どちらかと言うと老人ホームに近いような感じで温かみのある配色が施されている。
その一室にかつて特務機関ネルフの司令をしていた彼は居る。
「碇さん、入ります」
「ああ」
施設の職員に案内されて、面会室というプレートが張られた部屋に入る。
透明なポリカーボネート板とカウンターテーブルが部屋を二分し、向こう側の椅子に一人の男が座っていた。
ネルフ最後の日からおおよそ4か月ぶりに対面した彼は雰囲気が違っていた。
薄い水色の室内着に身を包み、四角い眼鏡を掛けて髭も剃っていたから一瞬誰だかわからなくなったが、よく見ると碇ゲンドウだった。
「よく来たな、シンジ」
「お久しぶりです」
「ああ」
ネルフ司令の黒い制服に身を包んでいた体は痩せ、館内着から伸びる手足は枝のように見えた。
右手はアダムの切除手術が行われたようで、手首から先は包帯に覆われている。
「実は伝えないといけないことがあって、ここに来ました」
「なんだ」
「僕はあなたのご子息である碇シンジではありません。4年前の彼とは中身は別人なんです」
「……知っていた、お前が
「申し訳ございません。実際は28歳の大人なんです」
「かまわん、こんな私にどうこう言う資格はない……」
愛する人に遺されてしまったあげく、ふたりの一人息子は中身が別人なんて悲しすぎるだろ。
「いいや、あなたは碇ユイとの間の息子であるシンジ君に憑いた俺を非難する資格は十分にあるはずだ」
「責めたところでどうしようもない」
それはさておき、わざわざゲンドウに面会にしに来たのだ。
原作知識であるが、エヴァの中で対話したというていで原作シンジ君が聞けなかったことを聞いてみることにした。
「エヴァの中でいろいろ経験したんで、伝えたいことがあるんですがよろしいでしょうか」
「どうした、早く言え」
「碇司令……いやゲンドウさん、教えてくれ。あなたの中のシンジ君はどんな子でしたか」
「よく泣く子だ、生まれてからずっと。あとユイの腕の中でしか眠れない子だ」
「最後に会ったのは、墓参りですか」
「そうだ、あの時もあいつは泣き出してしまった。私はいつだってシンジを傷つけてしまう」
「それなら、何もしないほうがいい。そう考えたんですか?」
「……ああ、私は人に嫌われるのには慣れているからな」
「幼い時のやつは嫌いとかじゃなくて、母親以外を怖がってただけじゃないんですかね」
「そうかもしれないが、私が抱き上げると毎回ひどく泣く。結局ユイが居ないとどうにもならない」
幼い息子に毎回泣かれて父親としての自信を無くした上に、妻の実験失敗。
不器用で忙しい男ひとりで子育てなんかできるわけないよな。
「そこでシンジ君を“先生”のところに?」
「ユイのように夜泣きをあやすことも、保育所への送り迎えも出来なかったからな」
「男手一人で幼児の面倒を見るのは大変なのはわかるけれど、どうして会いに行かなかった?」
「事故の件でマスコミが常に張っていたから、奴らの興味が冷めるまで待っているつもりだった」
__父さんは僕のこと、いらないんじゃなかったの!
アニメ第1話のシンジ君の声が頭をよぎる。
「シンジ君は自分が
「私は、シンジにどう会っていいかわからなかった。いっそ、私を忘れてくれればいいとさえ思った」
「会いづらくて
「シンジは私を嫌っているはずだ」
「僕がシンジ君に憑依したのは小田原駅に来てからですけど、本当に嫌いなだけであればわざわざ電車に乗ってまで来ませんよ」
「ヤツは居場所を求めていた、だから応じたまでにすぎん」
「シンジ君の考えてたことがうっすらと分かるんです、シンジ君は今まで寂しい思いをしてきた、だから父親に必要とされることに期待してきたんだ」
「どうして、そう言い切れる」
「僕なら『来い』と書かれた手紙で、長い間会ってない親父の所に行きませんよ。『ふざけんなクソ親父、誰が行くかよバーカ』と吐き捨てて終わりですよ」
俺は鞄の中から、破ってまた貼り直した黒塗りの書類コピーを出す。
「シンジ君は一度破り捨てたけど、わざわざテープ貼ってまでやって来たんです」
ゲンドウは何も言わず、俺の出した手紙を眺める。
『来い』の文字を塗りつぶし、破ったものをセロハンテープで継ぎ合わせていた。
「ま、どういうわけか憑依した僕が代わりにエヴァに乗ることになったんですけど」
「それで、お前は何処までシンジのことを知っている?」
「第15使徒が過去の記憶を掘り出してくれたから、俺の中のシンジ君の事を知ることができたんです」
「シンジに同情しているのか」
「そうかもしれませんね。同時にこれがユイさんの見せたかった『明るい未来』かよって思いましたね」
「ユイ……」
「ホントに、家族を置いていくなよな……でも、動かせるエヴァがあったおかげで、使徒との戦いに勝てたんだ」
「そんなものは、もうどうでもいい……俺はユイが居てくれるだけで良かった」
そこにネルフにいた時の迫力はなくて、ただ目つきの悪い
たった一人の妻と再会するため、すべてはその為だけに。
綾波、赤木母娘、冬月……その他大勢を巻き込み、ゼーレすら利用して叶えようとした一縷の望みを粉砕してしまったんだ。
その件に関して俺はゲンドウに謝る気はさらさらない。
__サードインパクトを起こしてでもユイさんに会いたかったゲンドウと冬月先生。
__我が国、俺の周りの人々の生活と安全のために戦った俺達。
お互いに目指すものが違ったから、しょうがない。
人類や綾波を巻き添えにしない方法であれば「どうぞご勝手に」と言えたんだけどな。
「……ところで話は変わりますけど、リツコさんと綾波って今も一緒に暮らしてるんですよ」
「ああ」
「猫を飼って、あの二人仲良くやってますよ……写真、見ます?」
綾波とリツコさんが撮影した10枚の写真をゲンドウに見えるよう机に並べる。
猫と戯れる綾波に、微笑んでいるリツコさん、自転車に乗っている綾波、冷麺をすする綾波とエプロン姿のアスカ、最終日に戦自の隊舎をバックにチルドレンと隊員たちで撮った記念写真とここ数カ月の写真だ。
ゲンドウは仕切り越しに写真を見る。
原作のイメージなら「くだらん」と一言で切り捨てそうだったが、写真の中の綾波を目で追っていた。
そして、ゲンドウは斜め上を向いて独り言のように言う。
「レイと赤木君には悪いことをした、許してくれとは言わない」
「リツコさんからの伝言ですけど、『あなたって本当に、ひどい人』だそうで」
「そうか」
「綾波からは、『ありがとう、お世話になりました』って」
綾波からの言葉を伝えたところ、眼鏡に右手をやった。
そこで包帯が巻かれていたことに気づいて手を宙に彷徨わせる。
「レイ……」
「たとえどんな理由だったとしても、あなたが居なければ彼女もいなかったんです」
ユイさんの姿に似せた“リリスの器”だったのだが、今や小説と写真が好きな女の子だ。
これはもう、シンジ君の腹違いの妹と言っていいかもしれない。
それからしばらく、ゲンドウは写真を眺めていた。
何分か経ったころ監視役の職員が面会時間の終わりが近いことを告げる。
最後に俺がシンジ君の代わりに聞かなきゃいけないことを聞いておく。
「本当の所、シンジ君の事をどう思ってたんです?」
「……私はユイに愛されるシンジが妬ましく感じた。それでいて愛するにもどうしていいのか分からなかった」
「それをもっと早くに言ってればな……」
「過ぎた時計の針は戻らない、それはお前もわかっているだろう」
「だからあなたも俺もこれからの人生を生きて行かなきゃならないんだ」
「シンジ、お前に私の気持ちはわからないだろう」
「そうですね。まだ愛する妻に遺されるって経験が無いもんで。憑依前も」
「いつかはお前も通る道だ、覚悟しておけ」
「そうしますよ……じゃあ、お元気で。ゲンドウさん」
「ああ……シンジ、レイを頼む」
「了解」
ゲンドウは頷くと、そばにいた職員に連れられて面会室を出て行った。
ひとり面会室に遺された俺は机の上の写真を片付けると、案内に従って収監施設を出る。
曲がりくねった山道を下っていく車の中で左右に揺られながらぼんやりと考える。
この世にいる限り、仏教でいうところの八苦、生・老・病・死の四苦に加えて
愛する者と別れてしまう苦しみ、嫌いなことや嫌いな奴に会ってしまう苦しみ、求めるモノが得られない苦しみ、生きていること自体が執着などでそれこそ苦だ……という。
ゲンドウも、俺も、ゼーレの爺様も生きるものはみなこの苦しみを持っているのだ。
人類補完計画は考えようによっては八苦からの解放、すなわち
日本に息づく大乗仏教的な価値観で考えたら“
大多数の人は苦しくともヤバい宗教団体による衆生救済なんか望んじゃいない、そんなに悟りが開きたきゃお釈迦様みたいに菩提樹の下で明けの明星が見えるまで座禅でも組んでくれってね。
ま、永遠の命であるエヴァの中にいるユイさんはひとり、このさだめから離れてしまったんだけどな。
じゃあ、ゲンドウは出家したシッダッダ太子に置いて行かれたヤソーダラー妃で、シンジ君は息子の
オカルト混じりの科学で解脱した碇ユイにしろ、修行の後に悟りを開いた仏陀にしろ実現してしまう宗教家の家庭って大変だな。
大学の一般教養の宗教学で学んだことを思い出し、『仏教版エヴァンゲリオン』なんかがあったらこういう仏教用語がポンポン飛び出てきたんだろうななんて考えた。
ところで……この世界、ゼーレ以外にそういう宗教結社あったりしないよな?
今から“
富士の裾野とかに“国家転覆の
このアニメ的世界ならそういった“悪の組織”が出てきても驚かないぞ。
ゼーレを筆頭にカルト教団はやばいから、出動とかなかったら良いよなあ。
車がコンフォートマンションの前で停まり、俺は引率の戦自士官と運転手を見送って部屋に入る。
「おかえり、早かったじゃない」
「ただいま。思ったより高速が空いててね」
玄関からダイニングキッチンに入ると部屋着姿のアスカが出迎えてくれた。
ついさっきまで洞木さんと買い物に行ってたらしく、リビングにはショッピングセンターの袋があった。
「コーヒー作るけど、味どうすんの」
「普通で。お土産の温泉まんじゅう買って来たから食べよう」
「温泉まんじゅう?もっとオシャレなやつってなかったわけ?」
「最近流行りのフロランタンとかロールケーキとかの方がよかった?」
「別に、嫌いじゃないわよ。まんじゅう」
俺はトイレ休憩で立ち寄ったパーキングエリアで買った土産物のまんじゅうをテーブルに広げる。
アスカがコーヒーを淹れてくれたので、ふたりでまんじゅうを食べながら面会の話をする。
うん、甘い……コーヒーの苦さがちょうどよく感じる。
砂糖一杯ミルク入りの“普通”って言ってたけどこれを見越して、砂糖なしで作ってくれたんだなアスカ。
「シンジ、司令どうだったの?」
「随分弱ってたよ、ずっとユイさんの事追いかけてたからな」
「エヴァのサルベージってしないのかしらね、シンジのママは身体ごと行ったんでしょ」
「やったところで帰って来るかどうかわからないんだよな」
「どうして?」
「自分からエヴァに残ってる可能性が高いから」
「なんでよ、使徒も倒したしお役御免って言ったら出てくるんじゃないの?」
アスカはネルフ解体時からずっと言われているエヴァのサルベージによる脱魂作業にふれる。
結局、莫大な費用が掛かるというのと、組織の新編に伴う諸作業でそれどころじゃないということで見送られていた。
劇場版の描写などから推測するに、やったところでユイさんは初号機から出てこないんじゃなかろうか。
「魂の入ったエヴァなら太陽、月、地球が無くなっても
「でも、ずっと一人じゃないそんなの」
「寂しくても生きてさえいれば、どこだって天国になるわって考えの人だったんだって」
「いろいろぶっ飛んでんのねシンジのママ」
「そんな人に惚れたオヤジも、遺されたシンジ君も災難だよな」
「ところでシンジ、『もし、アタシがどっか行っちゃったら、追いかけてきてくれる?』」
「唐突だなぁ」
「いいから」
「……できる範囲でなら」
「そこは、『いつまでも、ずっと』っていう所でしょうが!」
俺の言葉を聞いたアスカは昨晩見たドラマのセリフを言う。
ああ、ラブロマンス物みたいなセリフ言われたかったんだなアスカ。
「わかった。……サードインパクトを起こしてでも、ずっと」
「それはドン引き。そんなの言われたらぶん殴るわ」
冗談めかして言ったら割とガチなトーンで返された。
「そんなノリの大人が近くに二人くらいいるんだよな」
「誰それ」
「親父と冬月副司令」
「えっ、副司令、あのお爺ちゃんが?」
「うん、冬月先生の元教え子で好きな人だからユイさん。オヤジにとられちゃったけど」
ゲンドウ、冬月、ユイの関係を知ったアスカはウゲッというような顔をした。
「まあ、人に歴史ありってやつだ」
「シンジ、アンタどっからそんな話聞きつけてくんのよ」
「最近の綾波を見て『ますますユイ君に似てきた』なんて言ってりゃ嫌でも分かるだろ」
エヴァ2の冬月シナリオではわざわざシンジ君を女装させるレベルだから、実は一番ネルフでヤバい人なのかもしれない。
こっちの世界では毎回私服姿、研究者スタイルの綾波をまじまじ見ながら呟いてるんだから、弁護のしようもなかった。
「で、副司令に面会はしたの?」
「今は面会したくないんだってさ、部屋からも出てこないらしい」
「ちょっと、それ大丈夫なの?」
「さあなぁ高齢だし、セカンドインパクト以降ずっと働き詰めで疲れたんだろう」
ゲンドウに雑務押し付けられてばっかりの十数年だったからな、あげく徒労に終わったんだから燃え尽きもするだろうよ。
ゆっくり休んでくれって言いたいところだけど、収監施設から出る前に冬月先生お亡くなりになりそうで怖いよな……。
「シンジ、アンタもいろいろやってるみたいじゃない」
「俺に出来る事なんてそんなにないよ。みんな人任せってね」
そう、使徒戦後の処理なんてチルドレンの顔つなぎ程度でどうにかなるもんじゃない。
殉職隊員、殉職職員家族にも弔慰金を出さないといけないし、旧作戦課だけでも退職者の
その中で俺がやったことは広報部の人間について回って国連軍や戦自所属の近隣部隊を訪問して、使徒戦中の協力に対して感謝の気持ちを伝えることくらいだ。
エヴァンゲリオンパイロット、現在収監中の碇司令の実子という肩書もあって歓迎されていたけれど、それが何の役に立ったんだろうか。
「でも、今の生活もアンタや加持さんのおかげなんでしょ?」
「加持さんが内調の人だったのと、制服組からの協力があったから上手くいっただけだよ」
「しばらく予定入れるの禁止! せっかくの休みなんだからアンタも休むのよ!」
「了解、来週は海だよな」
「そうよ、そのためにおニューの水着買ったんだから!」
「へぇ、どんなの?」
「それは行ってからのお楽しみよ!」
ゲンドウとの面会で7月の予定はすべて終わった。
来週から夏休みに入り、俺達は青くて広い海に行くのだ。
行こう行こうと言って早2か月、ようやくみんなの予定が合ったんだから、晴れたらいいな。
シンジ君がゲンドウと話をするだけの回
ビジュアルがネルフ誕生の頃のゲンドウで、立木さんボイスで再生できるかどうか考えながら書いたわけですが、書いてるうちに銀魂のマダオがちょくちょく表れて苦労しました。
なお、事情聴取の進み具合により、数年で二人は釈放となります。
ネハンゲリオン(仮)の妄想に登場した巨大兵器を持った仏教系カルト教団はおそらく登場しません。
元ネタ解説
仏陀:ブッダ、お釈迦様とも呼ばれ、本名はゴータマ・シッダッタでマガダ国の王子。城の4つの門から外に出た際に死人の葬送や病人、老人の姿を見て生老病死の“四苦”について考えるようになりある晩出家、苦行の後、村娘スジャータの施しの乳粥を食べて気力復活、菩提樹の下で悟りを開き仏教教団を作った後様々な出来事を経て、村の青年チュンダの施しのキノコ料理を食べて食中毒で死んでしまった。(異説あり)
ラーフラ:シッダッタ太子とヤソーダラー妃の間の子。
そして生まれた子供に求道のための妨げになる……ラーフラ(障害)と名付けて、ある夜にいきなり出家してしまうシッダッタ太子。後にこの置いて行かれた妻子も追いかけて仏教教団に入ります。
涅槃:涅槃(ねはん)輪廻の輪から外れて、一切の苦悩や束縛から脱した悟りの境地