ふたりで海へ
ザザーン……。
ザザーン……。
強い日差し、はるか遠くの青い水平線、波の音、潮の香り。
新熱海駅を降りて、俺とアスカは造成地の旅館街を抜けて海岸にやって来た。
旅行雑誌で見るような遠浅の白い砂浜ではないけれど、なだらかに整地された海岸だ。
昔は伊豆山という山の上で、新幹線の駅ももっと南の田原本町にあったらしい。
しかし元の熱海の海岸、駅舎はとうに海の底だ。
尾崎紅葉の小説『金色夜叉』で主人公の
セカンドインパクトは日本の海沿いの風景をガラリと一変させてしまった。
第三東京小田原線に乗って小田原駅まで行き、そこから新熱海まで特急電車に乗ったけれども、何度も大きく曲がって山を貫くトンネルも多い。
途中、新根府川駅で停車する。
新根府川の駅舎の向こうは護岸道路を挟んですぐ海だ。
そこで、去年担任をされていた老教師の話を思い出した。
先生はセカンドインパクト当時に根府川に住んでおられて、セカンドインパクト直後の潮位の急上昇で家と町を失ったそうだ。
あっという間に水面は堤防を越え、街を黒々とした波が覆っていく。
命からがら逃げだせた奥様と二人で移住先を探して、動乱の時代に色々な仕事をしながら食いつないで、ようやくたどり着いたのが第三新東京市の中学校の教師だったとか。
その記憶が心に焼き付いていて、事あるごとに追憶の世界に入ってしまうんで生徒たちからは「根府川の先生」とか「日本昔話」とか、果ては「睡眠学習タイム」なんて言われている。
セカンドインパクトを経験していない俺は、東日本大震災のテレビ中継画像を思い出しながら色々発災直後の話を聞いていたから、結構先生の話が頭に残っているのだ。
海に行くのは若い世代ばっかりです、それは私達が海に多くのものを
碇くん、私はね、これ以上教え子を海で失いたくはないんです、これを持って行きなさい。
「ちょっとシンジ! 海に行くんだから、楽しそうにしなさいよ!」
「悪い、先生の話を思い出してた」
「“お爺ちゃん”の昔話マジメに聞いてんのアンタくらいよ」
「先生に海行くっていったら浮き輪くれるとは思わなかったなあ……」
下見という事もあって俺もアスカも鞄ひとつなんだが、アスカの肩掛け鞄の中には日焼け止めとか、先生から貰った紅白のビニール浮き輪、足踏みポンプが入っている。
「よかったじゃない、溺れたら投げ込んであげる」
「勘弁してよ。“水漬く屍と潔く、命を君に捧げんの~”なんてシャレにならんわ」
「もう、そこまでアタシのこと好きなの?」
「君っていうのは……、まあいいや」
「でも、アンタせっかく生き残ったのに、死んだら承知しないからね!」
「おう」
なんてシリアスぶった会話をしたのも、はや1時間前。
熱海の駅を降りた時から、アスカはあっちこっちへと歩いていく。
デート気分でこのままウィンドウショッピングでも良いのだが、肝心の下見の時間が無くなってしまうのでビーチに向かう。
多少の気温差はあるとはいえ年がら年中夏だと、ビーチのありがたみも薄れるというもので人はまばらだった。
そんな中に下見前に新しく買った、黄色のワンピースのアスカがいる。
目を引くような紅茶色の髪に白い肌、勝気そうで、それでいて愛嬌のある笑顔。
マンガみたいに白昼堂々と衆人環視の前で強引なナンパをするような不届き者こそ居ないけれど彼女はとても目を惹くようで、洋上、陸上問わずいろんな方向から視線を感じる。
そういう俺も目を奪われてるんだから、同類だよな。
アスカは砂浜に出ると海を見るのもそこそこに、こっちを見た。
「夏の海っていったら海の家よね、あれじゃない?」
「『海が好き』店名が何とも直球だな」
木で出来た白い小屋に大きな看板が掲げられ、ラジオが流れている昔ながらの海の家に入る。
色黒のサーファーのお兄ちゃんやら、大学生カップル、親子連れなど、まあまあ人が入っておりオレンジのシャツの店員さんは忙しそうだ。
店内席とパラソルの立ったテラス席があって、開放感のあるテラス席はサーファーで埋まり、ボードを眺めて各々のグループで談笑している。
室内という事で少し薄暗く、ちょっと狭く感じる店内席に座ることにした。
「かき氷、焼きそば、焼きトウモロコシ! どれにしようか迷っちゃうわ!」
「アスカ、ちょっと割高だから今日は1つだけだぞ」
「わかってる、うーん、どれにしようかな」
俺の向かい側に座ったアスカは早速メニュー表を片手に何を食べようかと考え始めたようで、店の奥から漂う醤油やソースの良い匂いに心揺さぶられているようだ。
泳いだ後なら塩辛いものが食べたくなって、俺ならフライドポテトやら焼きトウモロコシを頼むだろうな。
ようやく、決心がついたようでアスカは焼きそばとコーラを頼むことにしたようだ。
「シンジはかき氷なの? アンタって甘いの好きよね」
「アスカもいる? 一人で全部食うとなると頭痛くなりそうだ」
「じゃあ仕方ないわね、半分アタシが食べてあげるわよ」
俺は壁のポスターのイチゴかき氷を頼んで、ふたりで分け合うことにする。
コカ・コーラの紙コップに入ってやって来たウーロン茶を飲みながら、海を眺める。
アスカは解放感のある夏のビーチの雰囲気に当てられたのか、ニコニコして楽しそうだ。
下見ということでグループ席があるかどうかとか、シャワーとか更衣室のある店がどこかとか探すつもりでいたけれど、アスカと一緒なら最初の一軒目で満足してしまいそうになる。
__これ、デートになってないか。
なんて野暮なことを考えたりもしたけど、まあ、アスカが楽しそうならいいか。
今までの人生がハードだったんだ、これからの人生はうんと楽しんでもいいじゃないか。
彼女はパックに入った焼きそばを食べながら、学校や仲間の話をする。
「かき氷に焼きそばに、ホントに日本の夏って感じだよな」
「日本は
「昔は四季があって冬は寒かったし、夏は暑かったんだよな」
「へぇ、ドイツは今でも四季があるのよ」
「ドイツの冬って黒々とした針葉樹林にこう、雪が積もってるようなイメージだな」
「森の中はそんなもんよ、日本だって来る前はこう、タケの林がウワーってなってるもんだと思ってたわ」
アスカが言っているのは京都の
嵐山の観光名所であり、訪日外国人向けのパンフレットには高確率で載っているスポットだ。
中学校の校外学習で行ったことがあり、繁るに任せた家の近所の茶色く薄汚い竹藪とは違って手入れをされた竹は瑞々しい青でこんなにも綺麗なのかと感動した覚えがある。
俺のドイツの冬イメージは雪深くて黒々とした針葉樹と泥が広がり、その中を白い水性塗料や石灰で冬季迷彩を施した戦車や迷彩スモックを着た歩兵が歩いていく独ソ戦の映像だ。
行進する兵士たちが口ずさむ『親衛隊は敵地を進む』が聞こえてきそうだ。
「シンジ、あんたなんかヘンな想像してない?」
「“ヴェスターヴァルト・リート”のイメージよ、『おお美しいヴェスターヴァルトの森』ってね」
「なにそれ?」
「昔のドイツ語の曲、大戦中に流行った曲らしい」
「やっぱり! ……一度、ドイツに来なさいよ」
3ヶ月の戦自生活を終えて収容施設を出た俺達はネルフの解散と共に散り散りになるところだった。
アスカとカヲル君はドイツに帰国、綾波はリツコさんに引き取られ、俺はゲンドウの逮捕で長野の“先生”の家に送還、なんて話も出たらしい。
しかしアスカもカヲル君も残留の意を示し、俺も先生の事を知らないので強制送還になったらどうしようかと思っていたわけだが……。
そんな折、ミサトさんが保護者役をしてくれるという事になって第三東京に残ることができたのだ。
俺らが戦自の保護下にある間にネルフは内務省所管の独立行政法人“特殊災害研究機構”として再編されていた。
旧ネルフ職員の身分は国家公務員となり、チルドレンも戦自の少年兵と同じ『特別職国家公務員』となった。
作戦課、技術部も特機運用部、運用支援1部、2部と名前を変えて存続している。
国連軍自衛隊からの出向職員の多くは原隊に帰って行ったので、文民職員と戦自から派遣されてきた人が中心だ。
代表も戦自から派遣されてきた将官が務め、ミサトさんは運用部長という役職についている。
三機のエヴァはあの日以降、厳重な封印を施されて“特災研”本部の最深部に眠っている。
エヴァの起動には内閣総理大臣と国会の承認を経る必要があるので、本部に通って体力錬成、月一のテストプラグ試験で即応性を維持するのが俺達の主な通常業務だ。
要はゼーレの残党がエヴァシリーズのような兵器を投入してきた際の切り札なのだ。
運用部以外の部署はというとほとんど戦後処理のための部署で、旧ネルフが支払う補償金の支払いや各種資産の売却などをやっているらしい。
クラスメイトの保護者の多くが引き続き特災研の職員になって勤務しているものだから、3年A組のメンバーは去年とほぼ同じだ。
使徒襲来に備えた即応態勢から解放された元チルドレンと、いつものメンバーは思い思いの休みを過ごしている。
綾波は釈放されたリツコさんと二人で少し遠くに住んでいるお婆ちゃんの家に行っている。
二人が拘束されている間、飼い猫のシロの面倒を見てもらっていたらしい。
約4カ月ぶりの再会だから、子猫だったシロもだいぶ大きくなってんだろうな。
カヲル君は日本国籍を取得して学校に転入してきたわけだが、アルビノの神秘的なルックスに対して独特のキャラだから瞬く間に面白イケメン外国人枠に収まってしまった。
今日はケンスケやアニメ・漫画の影響からか、芦ノ湖のほとりでソロキャンをしているようだ。
ネルフの解体で一般人に戻った宮下さんは進学に悩む普通の女子中学生で、俺達の拘束中に受験勉強に入ったらしい。
後遺症で当初考えていた体育系の学校が受けられなくなって進路変更したからだろう。
あと、トウジと洞木さんは付き合ってるんじゃないかな……知らんけどな。
本人らが照れて話してくれないし。
まあ、学校での様子を見るに仲良くやってるみたいだから、良いんじゃないか。
ケンスケは今日、御殿場市の防災フェスタ2016に行ってる。
屋外展示に特殊消防車やら最新の高規格救急車のほかに、戦自の
今頃、戦自や陸自の装備品にかぶりつきで写真を撮りまくっているんだろう。
ちなみに特災研(旧ネルフ)からは、“早期避難指示伝達システム”や“高度制振装置”などが研究展示されているようで、迎撃要塞都市のスピンオフ技術だ。
霧島さんは“チルドレンの獲得”という任務を終えると戦自情報科から特災研の“特機運用部・運用情報室”に
新しいクラスではミリタリーオタクっぽい女の子という認識であって男子からの人気も高いが、この間二人の同期とシャバで再会したらしいしどうなる事やら……。
ふと、かき氷の容器を見るととうに空で、アスカはおしぼりで口を拭いていた。
「シンジ、次、どうすんの」
「海も見たし、そろそろ帰ろうか」
「そうね、でも、一度行きたいところがあるのよ」
アスカに手を引かれて行ったところは、ビーチから少し行ったところにある海鮮丼の店だ。
『熱海の若大将』という店名、そして大漁旗を模した
漁港も近く、ランチメニューもある地元の店って感じの雰囲気で期待できそう。
“商い中”の看板の脇の引き戸を開けると、活気のある声が俺達を出迎える。
店員さんの案内でカウンター席に座ったが、お座敷もあって結構人がいる。
“夏の海鮮丼、始めました”
“店長の自信作! アオサの味噌汁”
味のある壁の手書きポスターや手元のお品書きを見て注文を決めるのだけど、価格帯が凄いな。
物価の高い第三東京で食べたら1900円近くするだろうなってお造り単品がなんと、900円で食べられるのだ。
しかも、今注文しようと思ってるランチの海鮮丼が900円だ。
セカンドインパクト後の海鮮料理屋とは思えないほどの価格で、めちゃくちゃお得だ。
グルメ本『ぴあ』片手に俺を連れてきてくれたアスカでさえ、この価格帯には驚いている。
気付けばアスカと俺はランチメニューの海鮮丼、みそ汁付きを頼んでいた。
大きく切られたマグロ、ハマチ、そしてイカ、刻み海苔にイクラ。
どれも照り艶がよく、醤油タレの甘辛い匂いと輝く酢飯の匂いがたまらない。
しっとりしたマグロの風味にタレの味、酢飯がよく合っていて、一緒にやってきた豆腐の味噌汁が味で飽和した口中を整え、次の一口をアシストする。
白地にタレが茶色く輝くイカの切り身は弾力のある歯ごたえで、鮮度の良さがよく分かり、イカの甘い風味が効いている。
隣のアスカはさっきまで焼きそばを食べていたとは思えない勢いで海鮮丼を食べている。
ドイツに帰らないのかと聞くと、アスカは「あっちには醤油と寿司が無いから」と冗談めかして言って笑っていたけど、この様子じゃ信憑性が高まって来るよね。
価格に対していい物を食べたと幸せになった俺達は、ふたりで海鮮丼の店を出たあと商店街をぶらり散策する。
お互いに気分がよくなってるから財布の紐も緩くなろうもので、温泉饅頭とか真っ赤な手ぬぐいとかいろいろ土産物を買う。
新熱海から小田原行の電車に乗る頃には、夕焼け空が広がっていた。
大きな夕陽に照らされて、電車の窓の外は赤い海だ。
隣に座るアスカは疲れたのか、お土産の入った紙袋を抱きしめて俺の肩に頭を乗せて眠っている。
波の音、赤い海を見て、旧劇場版のラストを思い出すことも少なくなってきた。
今は、ふたりきりの世界じゃないのだ、日々の暮らしが待っている日常なんだ。
ところで、ちょっとした下見のつもりだったけど、海鮮丼とか買い物でまあまあ使っちゃったな。
財布の中に9枚入っていた千円札は今や3枚に減り、箱根までの電車賃であと2枚消えてしまう。
そうなると万札を崩さないといけない。
外出中の緊急事態に備えて、帰隊できるだけの
そのため、自衛官時代から最低1万円は財布に入れているわけだが、それに手をつけるのか……。
つい近所の感覚でアスカと買い物デートしてしまった自分の見積もりの甘さに反省する帰り道だった。
海の下見に行く話、根府川と言えば先生のイメージで先生の話を聞きたければ図書館に行くと聞けます(鋼鉄2)あるいは授業シーンの後ろで。
軍歌ネタはニコニコかYOUTUBEで視聴していただければ、ニュアンスがわかると思います。
小ネタ解説
ザザーン:波の音、EOE逆行モノ二次創作の冒頭でよく見た表現。赤い海、白い砂浜、「気持ち悪い」の三点セットはサードインパクトの絶望感と共に、逆行シンジ君に「今度こそ防ぐ」と決意をさせるには十分なロケーション。
水漬く屍と潔く、命を君に捧げんの:ラブソング……ではなく軍歌『艦船勤務』の一節、ここで歌われている“君”は大君、すなわち天皇の事である。
冬季迷彩:ドイツは対ソ戦争において本格的な冬季戦を考慮しておらず、冬季迷彩用の塗料が無い前線ではあり合わせの材料を使って応急迷彩が施され、物資が足りないソ連軍でも塗料が足りなくなると接着剤と石灰を混ぜたものやら岩塩やらで応急迷彩を作ったのである。なお、冬季迷彩はシーズンオフと共に取りやすいように、水性塗料などが用いられる。
『親衛隊は敵地を進む』:武装親衛隊の隊歌、「悪魔があざ笑う、ハ、ハ、ハ、ハ」という歌詞が印象的だが、ナチス関連という事もあってドイツ本国では歌唱することができない。
ヴェスターヴァルト:ドイツ西南部、ラインラント州にある地域。『ヴェスターヴァルトの歌』は軽快な行進曲であり、森の中でハンスとグレーテルという男女が踊り、踊りが終わると大抵殴り合いになる、それを嫌がるのは根性が無いと陰口をたたかれる……という不思議な歌詞。どうして殴り合いになるのかはわからない。そういう文化でもあったのだろうか。
財布の一万円:外出する営内士に対して行われる指導。電車などが止まって“帰隊遅延”がありうる場合や、非常呼集などでただちに帰隊しないといけない場合にタクシーを使えるように最低1万円は財布に入れておくようにと指導され、教育隊ではその確認もあった。
なお、山の駐屯地などではもっと必要であり、タクシー帰隊に3万円くらい必要な地域もある。
そのため、退職後も緊急事態に備え財布に最低1万円~2万円は入れておく習慣が残っている者もいる。これも物心両面の準備である。