朧気に揺れる意識の中、囁きが聞こえる。
―――起―て、―きて
蜂蜜を溶かしこんだような甘ったるい声が彼女の意識を再び微睡みの泥濘へと導く。
ぼやけた意識と催眠効果を発揮する囁き。
再び惰眠を貪るべく意識が再び遮断される間際、彼女の、アリサの体が軽く揺さぶられた。
「……起きて、アリサ」
この数分だけで幾度も繰り返された言葉はようやくアリサの耳に届いた。
声の正体を正確に把握したアリサは一瞬開きかけた瞼を自らの力で再び閉じた。
まだまだ肌寒い季節。
厚めに掛けられている毛布を頭から被り、アリサは体を丸めた。
「……起きてくれないと、サクラは困ってしまう」
相も変わらず抑揚のない声。
しかし、アリサにはサクラが心底困っていることが分かってしまう。
むしろ近頃はサクラ困らせることに意義を感じ始めたアリサ。
――もはや完全に引き返せない境地に辿り着いてしまっている。
ただでさえ最近放置され気味なのだから多少困らせる位で丁度いいのだとアリサは自らに言い聞かせる。
アリサは顔までを覆い隠す毛布でその笑みを隠し、サクラの反応を待つ。
ゆさゆさと先程までアリサの肩を揺さぶっていたサクラが唐突にその手を止める。
「……よく考えたら、アリサが起きなくても、サクラは余り困らない気がしてきた」
確かにアリサの記憶が間違っていなければ今日は日曜日。
いくら朝からだらだらしていても問題はないし、時間的な余裕は有り余っている。
しかし、今更よね。
そう突っ込みたい気持ちを押さえてアリサは狸寝入りを継続する。
「……ごめんなさい。もう少しだけ、おやすみなさい」
無意識か否か囁くように呟いたサクラはベッドに乗せていた両膝を降ろし、その場から去るべくベッドの外に乗り出す。
同時にそれを阻止すべくアリサの掌がサクラの着ていたパジャマの袖を掴んだ。
掴まれた袖のせいでサクラはつんのめるように再びベッドに沈む。
当然のようにアリサは狸寝入りの知らんぷり。
要するに「アタシは寝ててこれは無意識の行動だから全く悪くない」のだ。
アリサが体のどこかを引っ掴んだ状態ならば仮に転移をしてもアリサを巻き込んで、寝ているアリサを起こしてしまう。
そんなことをサクラが出来るはずもないし、当然避けるはずだ。
日曜の朝から無駄に頭の回転を発揮して他人を困らせる少女の姿があった。
実際の所、この行動も"サクラならば困らせても良い"というアリサの親愛表現の一種なのだが、果てしなく分かりにくいし伝わりもしない。
しかも当の本人も無意識である。本当にどうしようもない。
「……出られなくなってしまった」
サクラは僅かに首を傾げた。
特別なにかに困る訳ではないが、なんとなく落ち着かない。
現在充電率100%のサクラは二度寝の必要も感じなかった。
困り果ててしまったサクラは袖を掴む指先を一本ずつ丁寧に外しに掛かる。
爆弾解体もかくやという無駄に丁寧な仕事を終えたサクラは「ほぅ」と小さな溜息を吐き立ち上がろうとする。
それと同時に再び閃いた掌がサクラのパジャマの袖をひっ捕まえた。
立ち上がろうとしていたサクラはバランスを崩して再びベッドの上へ崩れ落ちる。
悪戯に興じるアリサの毛布で隠された表情はニンマリと笑んでいた。
「……あぅ。また―――」
繰り返すこと合計七回。
流石に可哀想になってきたアリサはようやく悪戯を止めた。
そして、サクラが寝室の扉を閉める音がアリサの耳に届く。
普段はぼんやりとして見えるがサクラは日曜といえど掃除洗濯朝食の準備とやることには事欠かないのだ。
アリサは横たわったまま自らの枕に顔を押し付け右へ左へと転がり出す。
傍目から見れば怪しいことこの上ない。
「―――やっぱりアタシのサクラが一番可愛い!んふ……んふ……んふふふ♪」
右へ、左へ。
枕で自らの視界を塞ぎながら転げ回り、「んふんふ」とどこぞのなめこのような奇怪な声を上げて転がる少女の姿がそこにあった。
◇
くしゃっと乱れた金色の髪の少女。その目は一人の人物に訝しげな視線を向けていた。
「―――やっぱりアタシのサクラが一番可愛い!んふ……んふ……んふふふ♪」
目の前で悶え、枕で口元を隠しながら「んふんふ」と言いながら転げまわる少女。
誰だコイツ!
寝起きからトンでもないものを見せられたアリシアは早くも意識を彼方へと飛ばしそうになった。
アリシアの記憶によるとこの目の前で転げまわる怪しい少女はアリサ・バニングスのはずだ。多分。恐らく。
それがなにがあれば日曜朝から「んふんふ」と悶え転がり回る事態になるのか。
正直な話、普段とのギャップが酷すぎてちょっと気持ち悪い。
アリシアは助けを求めるべく、桜色の髪を探す為に視線を部屋中に巡らせた。
しかし、見つかるはずもない。
普段から無駄にだだっ広いキングサイズのベッドにアリサ、アリシア、サクラが三人で眠るのは常のこと。
恐らくは今のアリサはアリシアが目覚めていることに気づいていない。
でなければこんな醜態を晒すはずがないのだ。
ここは見てみぬふりをしてあげるべきなのではないか。こう、お姉ちゃんポジションとして。
むしろこの姿を見られているとアリサが気づいてしまったらマズイ。
せっかくのセカンドライフすら半年も経たずに強制終了させられてしまいかねない。
「ふぅ」
しかし、現実は非情だった。
アリシアが決意を固める前に転げまわる芋虫が顔に押し付けていた枕を外すほうが早かったのだ。
満足したかのような溜息。外される視界を隠していた枕。
同時にだらしない笑みが張り付いたままのアリサの顔が挙動不審なアリシアの視線とカチ合った。
一瞬で周囲の空間を絶対零度の空気が包んだ。
アリサの浮かべていた笑みが一瞬で無表情に変わる。同時にアリサの頬が上気し、数瞬後にそれが収まる。
「―――見た?」
人が殺せそうなギラつく瞳でそれだけをアリサは問うた。
既にその目だけで悪霊時代のアリシアよりも人を恐怖へと誘えそうだった。
気づけばアリシアの肩はその威圧に震えていた。
「み、見てないよ?」
辛うじてそれだけを吐き出すアリシア。
この威圧の中、よく答えられたとアリシアは自分を褒め称えたいぐらいだった。
「……ねぇ」
「な、なにかな」
「見たか見てないか聞かれたら普通なにを見てないのかを聞くと思わない?」
――早速ドジ踏んだ!
アリシアはこの場で叫びだしたい衝動に駆られた。
「いやぁ。こんな清々しい朝は久しぶりだね!走り出したくなってくるよ!」
大分無理のある会話へと方向転換を試みるアリシア。
そして、勢い任せにベッドから飛び降り、逃走を試みる。
「まぁまぁ。休日だからこそ女の子同士相互理解を試みるのもいいと思わない?」
それよりも素早くアリシアの襟首を掴んだアリサは綺麗な笑みを浮かべて笑う。
しかし、当のアリシアからは笑うというより嗤っていたというべきか、少なくともロクなことにはならないことだけは確信出来た。
「朝からんふんふ言いながら転げまわるサクラ依存症の方と相互理解はちょっと――」
サクラ依存症。
アリシアは口に出してみてえらくしっくりと来たのを感じ取った。
そもそもの話、アリシアは自分は全く悪くない気がした。むしろ気を遣っていた方なのだ。
そうだ、大体転げまわっていたこのサクラ依存症が悪いのだ。
「それにサクラもアリサを甘やかしてばっかいるのが悪いんだよ!アリサはツンツンしようとしてヘタれるツンヘタだし!」
「誰もヘタれてないでしょうが!しかもアンタも他人のこと言えないし!」
「そ、そんなことないし、ガワだけツンデレめ!」
「その海外製のパチモンみたいな扱いやめなさいよ!」
ギャーギャーともはや罵倒にすらなっていない言葉を交わし続ける二人。
そして、結局日曜の半分を論争だけで潰して二人して激しく後悔する羽目になるのだ。
なんかこう……アリサが……アリサェ……